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イエスが律法学者やファリサイ人に憎まれていた理由を教えてください。できれば詳しくお願いします。

A 回答 (4件)

>イエスが律法学者やファリサイ人に憎まれていた理由



1.まず、当時のユダヤの宗教指導者層として、大祭司・祭司・サドカイ派、律法学者、ファリサイ派と
  大まかにありました。この内、大祭司・祭司・サドカイ派は、神殿に属するもしくは近い人々で、
  どちらかと言えば、上流階級の人々と近かったと言われております。また、ファリサイ派は、
  庶民階級の中にいた人々です。あと、エッセネ派という派もあるのですが、これは独自に共同体を
  作り、活動していたため、聖書では触れられていません。洗礼者ヨハネはこのエッセネ派に属して
  いたと言う説があります。

2.当時のユダヤでは、「律法を守る」ことが何よりも大切であるとされていました。そのため、
  「律法を守ることのできない」もしくは「守ろうとしない」人々は、神の救いの外にあると考え
  られていました。そのような人々は、「地の民(アム・ハアーレツ)」と呼ばれ、一説によると
  当時のユダヤに住む人々のほとんどがそうであったとも言われています。

3.そのような中、イエス・キリストが来られました。イエス・キリストは「救いの外に置かれている」
  とされている人々に向かって、「神の救いは開かれている、悔い改めて福音を信じなさい」と語り、
  宣教活動を開始されます。そして、その活動の中において、安息日理解、律法理解を通して、
  ユダヤの宗教指導者層と対立して行きます。その中で決定的な出来事は、イエス・キリストが自らを
  「神の子」と言ったことです。これは、十戒の第一の戒め「あなたは、わたしの他に何ものをも
  神としてはならない」という言葉に明確に違反していると、ファリサイ派の人々は受け取りました。
  また、神殿崩壊の予言など、ユダヤの宗教指導者たちの逆鱗に触れることをイエス・キリストは
  臆することなく語っていました。

4.イエス・キリストが、全ての人に神の救いを告げ知らせる、また、行く先々で奇跡を行うという
  ことによって、ユダヤの宗教指導者たちは、自分たちの権威が危機に晒されるという思いを
  抱いていました。ヨハネ福音書12章19節で「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男に
  ついて行ったではないか」とファリサイ派の人々は言っています。

5.当時のユダヤを取り巻く状況も無関係ではありません。当時のユダヤは、ヘロデ大王の死後、
  後継者(民族統治者…王ではない)となったアルケラオスが無能かつ暴君だったため、
  ローマ帝国によって廃され、総督による直接統治となります。
  ヘロデ大王は「半ユダヤ人(ユダヤ人とイドマヤ人のハーフ)」だったため、民衆からの支持は
  それほどでもありませんでしたが、ハスモン朝から続くユダヤの独立が失われたために、民衆は
  不満を抱いていました。「熱心党(ゼロータイ)」や「ヘロデ党」というのは、そういう人々が
  組んだ党派でした。そして、イエス・キリストの弟子たちにもそこに属する人々がいまいた。
  ユダヤの宗教指導者層は、ローマとの全面的な対決をこの時点で望んでいませんでしたから、
  イエス・キリストを担ぎ上げて、ローマに反乱を起こし、結果としてユダヤが滅びることを
  恐れたのです。そのため、イエス・キリストを排除、即ち処刑することを企んだのです。

色々と書きましたが、教えを語る対象から始まって、律法理解、「神の子」の問題、自分たちの権威の
失墜の恐れ、当時の社会状況等々によって、ユダヤの宗教指導者たちの多くは、イエス・キリストを
憎悪して行ったのです。中でも、イエス・キリスト処刑の口実となった「神の子を自称した」、「自らを
神と等しい者とした」というのは、イエス・キリストが彼らに憎まれる決定的な出来事であったと
言えるでしょう。 
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クムラン教団というのが2000年ほど前存在しました。


彼らは厳格なユダヤ教徒でした。
拠点は砂漠の中にありました。

イスラエル建国の前日だったかその頃に、砂漠の中の洞窟から巻物が発見されました。
死海文書と呼ばれることになる巻物です。
ほとんどの旧約聖書の内容が書かれており、現代に伝わっている内容とそんなに違わないことから、カトリック教会はほっと胸をなでおろしたと思います。


この集団は旧約聖書のほとんどの巻物を持っていただけではなく、自分たち独自の宗教規約も持っており、それも発見された。
その文章の中で、クムランはパリサイ派のこと「すべらかなるもの」と呼んでいた。
「口で言うことは立派だけど、実際自分が言っていることをやっていない人」といいう意味。
口はすべるように饒舌だけど、実際は口だけで、、、って意味。


厳格で律法を守ってきたクムランから「律法を守れ」と律法主義を自称するパリサイ派をみると、へそが茶を沸かす状態なわけです。

イエスという人は実在しませんでしたが、イエス物語を書いた人は、自分や自分の仲間以外を重箱の隅をつつくように「律法違反だ」と摘発する聖職者は律法学者に辟易していたのだと思います。

律法は人を過ちから守るために活用するのであって、人を罪人にするために存在しているのでは無い。
そういうことを作家は言いたかったのだと思います。


世の中の人はイエスが実在したと思っており、すごく人気者だったので、律法学者やパリサイ派はそれを妬み地位が危うくなると思いイエスを落としいれよとしたと解釈しているようですが、イエスは実在の人物ではなく、5000年以上前の神話のコピーのコピーのコピーの。。。とそういう複製を元にさらに作られた架空の人物である以上、その解釈は間違い。

しかし、イエス物語を書いた人の主張は理解できます。
それほど、法律・法律 って人を縛る聖職者や律法学者が多く、神の心から人をどんどん離れさせ堕落させる人達が権力の座についていた時代だったってことですね。

そりゃ 物語を書いて摘発したくなるわと思いました。
要するに風刺画みたいなもの。
風刺画ってよく政治家などがこっけな姿で描かれて、笑を取る絵柄になっていますよね。
あれと同じ。
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律法学者やファリサイ人が、富を我が物にしようと企んでいたのを邪魔するような行為であったからです。

キリストの動きが。


あ、これは推測です。間違っていたらすいません。
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こんにちは、



旧約聖書の”出エジプト紀”のすぐ後に”レヴィ紀”があります。

これはモーゼが十戒を授かってからユダヤの民がまだシナイ半島をさまよっていた時期に神から与えられた生活指導書です。

大きく五つの内容に分けられます。

     生け贄・供え物の方法;礼拝の方法;衛生上の注意;ユダヤの生活方法;司祭の心得

レヴィ紀はBC1240年までには成立していたと思われます。その後千年に渡って律法学者は事細かに分析し解釈し、この親切な指導書を律法として規定します。

”こうすると神様はうれしいよ、こうすると病気にならないよ”という意味で与えられたものが”これに反すると罰せられる”法律に作りかえられます。趣旨がぜんぜん違いますよね?

律法学者もファリサイもユダヤ社会ではエリート中のエリートです。”われわれこそ神の意思を体現するもの”という誇りに満ちて、自信を持って他のユダヤ人たちを律法違反と弾劾するのがお仕事です。

そこに”神の子”であるイエスキリストがやってこの矛盾を提示します。

休息日だというのにイエスは病人を治し、弟子たちは麦を収穫します。ファリサイ人は休息日は仕事は休んで神に感謝を捧げるものでこうした労働は律法に反すると主張します。(Mark2:23-27)

たぶん売春婦であろう女性がイエスを礼拝し彼の足に接吻をします。食事をともにしていたファリサイ人には罪人に平気で触れるイエスの気が知れません。あろう事かそこでイエスは女の罪を許します。これはファリサイ人の常識では彼らの愛する神への冒涜です。(Luke44-50)

律法は人間のためにあるので、人は律法のために生きるのではない。イエスキリストは何度も繰り返しますが、当時の人には誰もわからなかったのでしょう。彼らが期待していた救世主とはローマ帝国からイスラエルを開放してくれる強力な武力的指導者であって、苦しんでいる人々や病人に祝福を与えるイエスのような人ではなかったようです。

イエスとファリサイ人の接触は他にも:

Matthew5:20,9:11-12,9:34,12:1-2,12:10-12,12:24、12:38-40,16:1、
      16:1,15:1-2,21:23-27
Mark3:6,8:11,7:8-9、12:38-40
Luke6:1-2,7:44,11:41,14:1-6,15:32,16:14,18:11-14
などに見られます。

お勉強頑張ってください。
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この回答へのお礼

本当にありがとうございます。
ものすごくためになりました。
勉強頑張ります。

お礼日時:2010/07/09 15:12

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