はじめての親子ハイキングに挑戦!! >>

ローマ帝国が崩壊した政治・経済・宗教上の理由ってなんですか??

教えて下さい。。。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (6件)

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。



政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或いは自然災害や飢餓等で一々首都ローマの皇帝に指示を貰って動いていたら今の日本のお役所仕事よりも状況は悪化します。なので担当者を派遣して急場は彼らが処理して根本的な対処(立法や公的資金の注入。軍の配置等)は事後報告を受けた皇帝が担当することになりました。
しかし皇帝が後継者を残さずに死んだりネロ等の様に住民や元老院に見放された皇帝が出てきたらついムラムラっと支配欲に燃える人も多かったりします。それが上り坂の時代ならば多少は許容されるのですが下り坂で蛮族の侵入が重なったりしたら内乱に乗じられたりする訳です。

経済的には政治的な内容と重なりますが内乱と蛮族の侵入が重なるとどうなると思いますか?
ここでは北アフリカを挙げたいと思います。内乱等で軍隊が指揮官の皇帝即位の為に他のライバルを武力討伐する為に他の地域へ移動すると周辺民族が侵入してきます。彼らは簡単に言うと銀行強盗の群れだったので街や村を略奪して回ります。そうすると住民は暴力を嫌って難民となり他所へ流れて行くことになります。基本的に経済は農作物や鉱山からの収益或いは貿易で成り立ちますし農業はそれらの基本です。そして農地は常に人が手入れしないと荒れる物です。信じられないかもしれませんが当時の北アフリカは砂漠では無く穀倉地帯だったんです。で荒れるに任せて砂漠化しました。これは他の地域では荒地になったり森林になったりして収穫は激減していったのです。
しかも強盗は略奪する物が無ければ支配して搾り取る方法にして居座り続ける事を始めたので二重の意味でダメージになりました。

宗教的には色々ありますが政治的・経済的行き詰りとキリスト教の普及が重なった事が大きいでしょう。ローマ古来の神々は我々を見捨ててしまった。そんな思いに駆られたローマ人の心のスキマにキリスト教は漬け込んだんです。曰く、今の状況は真の神を蔑ろにしたローマ人の所業のツケである。曰く、しかし真の神に帰依すれば救済されるとでも言ったのでしょう。ここで最後の審判で救われると言うのがミソです。来るかどうかも分からない最後があると言って置きながらそんなものは20世紀が終わってもありはしなかったのですからね。まぁこれは今だから言える事ですし当事者はパニックで冷静に考える余地が無かったのですけど。
それからカトリック教会とローマ法王という形で国家内にもう一つの国家を作り上げて寄生されたのも痛かったですね。飢饉で神父やシスターが難民にパンを配る・・・美しい光景ですが何の解決にもなっていません。解決するには行政サイドが動くしか無いのですがガタガタの帝国にはそんな力は残されていなかった。これでは教会に入る人が増えるし帝国に見切りをつける人が増えるのは止め様がありません。


最後に追加ですが戦争のやり方が変ったのも重要です。かつては重装歩兵が主力を担っていたのが騎兵に取って代わりました。単純に考えて甲冑と槍で済んでいたのが追加で馬が加わります。これがクセモノでして俗に牛飲馬食と言う言葉がありますがこれは飲み食い意が激しいのを牛馬に例えた言葉ですが馬を飼うには餌場を順々に回る遊牧生活か金で買って入手するしか方法がありません。しかも手綱や鞍を付けないと乗れませんし牧場や厩舎を作ったり練習の為の馬場も必要です。
これは何故かと言うと大陸の東のモンゴルとかの遊牧民が食い詰めてヨーロッパ方面に移動しました。と書くと穏やかですが戦争しながら原住民を土地から追い出して居座ると言う形で成されました。それでゲルマン人も食い詰めてローマに・・・と言うわけです。なので力関係では負けてるので弱ってるローマで略奪や居座りして新生活を始めよう・・・とそういう次第なんです。



纏まりが無く内容が重複した文章ですがそう私には見受けました。
    • good
    • 23
この回答へのお礼

imp-dscさん
回答ありがとうございます。
項目ごとでわかりやすかったです、
長文ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/09 00:06

他の方が言われているとおり、一冊の本が出来るくらい難しい問題ですが、試みに幾つかの要因を簡単に挙げてみたいとおもいます。



1、政治的理由
古代ローマは、
王政→貴族制(共和政)→帝政→東西分裂→西ローマ滅亡→東ローマ滅亡

というのが、大きな流れとなります。
で、王政と共和政の時期に領土をどんどん拡大していきます。
そして、共和制の末期にユリウス・カエサル(英語名シーザー)が、これ以上帝国は大きくなる必要はなく、防衛線を確定した後は防衛に徹するべしという方針を打ち出します。
そして、アウグストゥスが初代皇帝となり帝政へと移行します。(ただし、彼自身は皇帝とは名乗っていません)
で、この方針が歴代皇帝へと受け継がれていくことになります。

しかし、帝政初期こそその政治制度は機能していたのですが、徐々に動脈硬化という形で機能を低下させていきます。
そして、ついには次々と皇帝が変る政変が当たり前の時代がやってきます。
当然、そんな内紛を繰り返していては外の敵を押し返すなんて出来ません。
(因みに外の敵の多くはゲルマン諸部族)
で、ついにテオドシウス1世が帝国を東西に分け、息子に分け与えてからは、再び一つに戻ることはありませんでした。
テオドシウス1世自身は、東西に分裂させる意図はなく先例に習ったに過ぎませんが、結局、権力争いから再び帝国が一つに戻ることはありませんでした。

西ローマは、弱体し続ける一方であり、ゲルマン民族が次々と侵入して定着し自分たちの国を建てたり滅ぼされたりしながら好き勝手やられるという感じで、自然消滅していきました。
まぁ、歴史上では一応476年ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによってロムルス・アウグストゥルスが廃位されたのをもって滅亡となっています。

東ローマは、元々裕福な地方でしたので(古代世界は西ヨーロッパは未開、東ヨーロッパが先進国でした)皇帝の中央集権化が進み、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)として1453年4月にオスマン帝国第7代スルタンのメフメト2世に滅ぼされるまで続くことになります。

つまり、政治的には時代にそぐわず、カエサルのようなそれ(時代性)に対する有効な手が打てなかったのが原因かとおもわれます。


2宗教的理由

ローマの宗教は、もともと多神教でした。ギリシアの宗教(神様)を取り入れるといった感じでしたし、また支配した民族の宗教もみとめていました。
しかし、ユダヤ教は一神教であり故にローマ人を邪教の徒として忌み嫌っていました。
そんな中に、イエス・キリストが現れます。
彼によって、ユダヤ教がユダヤ人以外にも布教されるという形でキリスト教が形成されていきます。(厳密には少し違いますが)
つまり、一神教がギリシア人やローマ人にも布教されていくのです。
一神教なのだから、ギリシア・ローマの神様を否定します。
その結果、キリスト教一色となってしまいます。
この事が、ローマ人からローマ人らしさを亡くした原因だとする人もいます。
また、ギリシア・ローマの神様は「救い」を全面に押し出しませんが、キリスト教の神様は「救い」を全面に押し出してきます。
この事が、混乱期にあったローマにキリスト教が広まった原因とも考えられます。

3経済
ローマは一部の富めるモノと多くの貧民に分かれていったという指摘もあります。
そして、富めるモノは堕落し貧民はそんな支配者階級に嫌気がさしていった。それが、後の皇帝交代劇の底に流れている。
結果、帝国が混乱・弱体化し、そこを移住を余儀なくされたゲルマン諸部族に付け入れられた原因となったようです。

と、まぁ簡単に書くとこんな感じでしょうか。
長文失礼しました。
    • good
    • 16
この回答へのお礼

tyr134さん
すべての項目を書いてくださってありがとうございます。
わかりやすいです。
こんなにも長くありがとうございました。

お礼日時:2007/07/08 23:49

こんばんは。

ローマ帝国が滅亡した理由は研究する人の数だけあるといわれています、よってその原因はひとつだけにまとめることはできないでしょう。
僕の個人的な意見では、ローマのなかに共和制や帝政初期にあったローマらしさが失われたからだと思います。
歴史的に言えばゲルマン民族の侵入を食い止めることができなくなったから滅亡した、ということになります。ただ蛮族の侵入は帝政期以前の共和制時代にもありましたし、ピュロス王やハンニバルの軍隊に何度もローマは大敗を喫してきました。にもかかわらず、ローマ人は不屈の精神でそうした外敵を退け最後には勝利してきました。しかし帝政末期のローマ人にはそのような不屈の精神を感じることができません。社会構成もローマ初期には農業を営む健全な中産階級が存在し、軍事力を担っていましたが末期には中産階級は消滅し自由のない農奴になっていました。また指導者の元老院もハンニバルとの戦争では指揮官として最前線で戦い死んだものですが、やがてそうした質実剛健さも失われ、ただの既得権益を守る集団と化し、以前のようにローマの危機に応じて率先して危険に身をさらすこともなくなりました。帝政後期のローマには社会のほとんどの面で、同じローマでも共和制ローマの頃とは変質しており、そうした中で帝国は他民族の侵入や中央政府への反乱の繰り返しの中で次第に分裂していきました。
    • good
    • 8
この回答へのお礼

vlaskoさん
…ローマ帝国が滅亡した理由は研究する人の数だけある…
そうなんですか…
私は理解できそうにないですね。困りました。
回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/07/08 22:52

これは専門家が書くと、一冊の本になってしまう大問題です。


私の知識の限りで書きます。

ローマは共和制の小都市から、地中海全てを支配する国家となり、その間、共和制から帝政に移行しました。帝政時代には愚帝もいましたが、当初はおおむね国家は安定してました。しかし、巨大化した軍隊や官僚機構にコストがかかりすぎて、重税や貨幣の改鋳を行ったので、商業は衰えました。地方は事実上ローマから独立した地主層が、伝統的な奴隷制とは異なる形で小作農階層を作り出していきました。最後には、東西ローマの分裂後、西ローマは、ゲルマン人の侵入で滅びます。

東ローマは西ローマよりずっと長く生き延びました。ただし、ローマを名乗っていても東ローマの領内に、イタリアのあのローマの都市はなく、東ローマ帝国は実質的にギリシア帝国になっていきます。公用語がラテン語からギリシア語に変わったのが良い例です。東ローマはゲルマン人から奪われた土地を取り戻し、最盛期を迎えます。宗教的には、西のカトリックとは別に、東方正教会と呼ばれるキリスト教の別宗門が成立し、東欧などで大きな影響をふるいました。しかし、東ローマも、やがて、ゲルマン人、スラブ人などに土地を奪われ勢力を縮小、イスラム圏との戦争が始まると、西ローマの伝統を継ぐカトリック教会に援助を求め、十字軍が結成されるのですが、十字軍は行く先々で略奪行為等を行い、東ローマを守ることにはほとんど興味を持っていませんでした。最後には、東ローマの首都コンスタンチノープルはオスマントルコによって制圧され、イスタンブールと改名されます。これをもってローマ帝国の時代は終わるのですが、東方正教会は今でも、ギリシアや東欧諸国で大きな影響力を持っています。
    • good
    • 5
この回答へのお礼

harepandaさん
回答ありがとうございます。
本になるほどの大問題なんですか。。。
まとめてくださってありがとうございます。

お礼日時:2007/07/08 22:27

ローマ帝国では鉛製の鍋や食器を使っていたので、


慢性的な鉛中毒に罹っていた!という説もありますね。

http://www.shigaku.or.jp/World/namari1.htm
    • good
    • 2
この回答へのお礼

nemosanさん
回答ありがとうございます。
ではもう政治・経済・宗教何にも関係はないってことでしょうか?

お礼日時:2007/07/08 22:02

西ローマはイスラムに滅ぼされましたね。



東ローマはゲルマン民族の流入が原因ではなかったでしょうか。
    • good
    • 6
この回答へのお礼

whoooooooさん
回答ありがとうございます。
それって政治上になるんですか?
経済ですか?宗教ですか?
すみませんよくわからないです。。。

お礼日時:2007/07/08 21:59

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Qエルサレムに、なぜ3宗教の聖地が在るのですか?

エルサレムでは、紛争が延々続いていますね。
あんなに狭い所に、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という3宗教が聖地を持っているから、トラブルが起きるのは当たり前だとは、とは思います。その3つの宗教は、ユダヤ教、それから発生したキリスト教、そしてそれらと影響のあるイスラム教、という関連のある宗教ですね。
世俗的には、エレサレムの街自体は、たとえば交通の要所とかではなく、たいして重要な街とは思えません。
それなのに、、なぜ3宗教は、エルサレムに聖地を持っているのですか?
たまたまエルサレムに3聖地が混在するだけなのですか? あるいは、歴史上や宗教上で、何か慨依性を持っているのですか?

Aベストアンサー

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ(イスラエル)の地にやってきて、神様は「よーしお前ら、ここをお前たちに与える」と畏れ多くもありがたくおっしゃいました。しかしそこは当然先住民がおりまして、「なんか、先に住んでる人がいますけどこれはどうすればいいですか?」と伺いましたところ、「お前たちに与えたから殺しちゃってオッケーよ」とおっしゃいました(本当)。かくして彼らはそこにユダヤ人国家を作りました。ユダヤ人がイスラエルを「約束の地」と呼ぶのはそういうことです。
そんなこんなの経緯は旧約聖書に書かれています。

さて、ユダヤ教徒はエルサレムに神様を祭る壮大な神殿を作りました。その頃がユダヤ教とユダヤ王国の絶頂だったといえるでしょう。その後神殿は破壊されてしまい、その一部が残るのみとなりました。その遺跡が「嘆きの壁」と呼ばれるところで、そこでは常に敬虔なユダヤ教徒が祈りをささげていますが、そのお祈りの内容は、「神様、あの栄光の日々がまた訪れますように」というものです。その「また訪れてほしい栄光の日々」とは3000年くらい前の話なんですけどね。

ユダヤ人の国は、あんなこんながイロイロとありまして分裂したりして、やがてローマ帝国の属州となりました。ローマ帝国ってところは実は非常に寛大な帝国で、帝国に従うなら信教の自由も認められていました。日本人レベルでいえば、「それならいいじゃん」というものですが、「この世で神様とお呼びしていいのはおひとりだけ」と信じる彼らにとって異教徒がウロウロしているのが非常に気に障って障ってしょうがないのです。イスラエルでは、ローマ帝国に対するテロ活動が盛んでした。
ユダヤ教徒の歴史では、そういう「ユダヤ人受難のとき」にはエリヤとか神様の言葉を預かる「預言者」が登場して人々を導きました。ユダヤ教徒たちは、そういう「救世主」が出てくることを待ち望んでいたのです。

そういったタイミングに登場したのが、ナザレ生まれのイエスでした。イエスはユダヤ教史上、というか宗教史上において革命的な言葉を発しました。「ベイベー、愛だぜ」と。彼は、あの神様のことを「父ちゃん(アバ)」と呼びました。後になんだかんだでイエスは神の子となりました。マリア様が処女のまま神の子を受胎したお話はご存知でしょ?
それがどれだけ革命的であったのはまた別の機会に譲るとして、「憎みあうより、愛し合おうぜ」と言い出したイエスは人々からローマ帝国を排除する指導者となることを熱望されましたが、「だから俺は憎みあうのは嫌なんだよ。愛し合おうぜ」といって人々を失望させ、エルサレムからすぐ外に出たところのゴルゴタの丘で十字架にかけられてしまいました。
その後、実は一度もイエスと会ったことがないパウロが「イエスは救世主(キリスト)だったー!」と言い出してキリスト教が誕生します。なお、旧約聖書では「救世主はベツレヘムに生まれるよ」と書いてあったので、イエスはベツレヘムで生まれたことになりました。
当然のことながら、キリスト教にとってエルサレムは「イエスが十字架にかけられた場所」ですので極めて重要な聖地であります。

そのイエスが十字架にかけられて50年くらい経ったとき、「もう我慢ならねえ、ローマ人は出ていけ!」とユダヤ人は反乱を起こしました。それ以上にブチ切れたのはローマ人です。「人が下手にでてりゃあ属州のくせにでけえ態度をしやがって。ローマ帝国の恐ろしさを骨の髄まで教えたるわ」と本気で怒り、反乱を鎮めただけではなく、何かとややこしい神殿を破壊し、「ややこしい神を信じてるお前らはこの辺りに住むんじゃねえ」とユダヤ人をパレスチナから追放しました。
これがディアスポラです。以来約2000年、ユダヤ人はイスラエルの地に再びユダヤ人の国を再興することを願いながら世界中でお金を稼ぐこととなります。

時代はずーっと下りまして、メッカの洞窟で、青年ムハンマド(マホメット)の前に大天使ガブリエルが現れて「君が預言者だよーん」と告げました。イスラム教の誕生です。ムハンマドの元にガブリエルを派遣したのはあの、例の、何かとややこしい「神様」でいらっしゃいます。そういや、マリア様の前に「あなたは神様の子を宿したよ。おめでとう」と告げに来たのもガブリエルでした。ガブリエルさんはどうもややこしいお仕事を何度もされているようです。
ムハンマドのあまりに偉大な足跡に関していちゃもんをつけると冗談抜きでアルカイダから死刑宣告されてしまいますので、それについては割愛します。
イスラム教にとって最も重要な聖地は、ムハンマドが神の啓示をうけたメッカです。しかしムハンマドは一神教教徒なわけですから、「死ぬまでに偉大な神殿があったエルサレムで死にたいなあ」と当然といえば当然で、ややっこしくなることを願います。
そして、そのエルサレムの地で天に旅立ってしまったのです。エルサレムはイスラム教にとっても「教祖様が入滅された場所」となってしまったのです。

かくして、エルサレムの地はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が俺の場所だ、いいや俺の場所だと大変にややこしい場所となってしまいました。

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ...続きを読む

Qモンゴル帝国の滅亡について

チンギスハンが興したモンゴル帝国はなぜあんな大きな帝国ができたのですか。その当時の国はどうして対抗できず滅んだのですか。また、これは教科書にもなかったのですが、なぜあんな巨大帝国が後に滅んだのですか。滅んだ過程がわかる方ぜひともお願いしますむ。中学や高校の教科書で断片的な知識しかなく、ぜひともお願いします。

Aベストアンサー

それは、やはりモンゴルが遊牧騎馬民族であることが大きいです。

歴史的に見ていくと、古代~中世世界において遊牧騎馬民族というのは反則的に強いのです。フン族に襲われ大混乱になったヨーロッパしかり、万里の長城を作って必至に防ごうとしたにもかかわらず北方を幾度となく奪われた中国など、敗北例は山ほどあります。

基本的に兵は全部騎馬(普通、農耕民の軍隊でこれはまずありえません)で、しかもほかの民族には難しい騎射(馬の上で弓を撃つ)という戦法をすべての騎馬が可能(他の国はこれができるのは精鋭くらいなもので、精鋭であっても錬度の面で馬上で生まれ馬上で死ぬ遊牧騎馬民族にはとてもかなわない)です。
また、都市という概念がないので食料とかもすべて(生きた状態で)持って移動していますから、「補給」という軍隊において最も重要で最も面倒くさく最も維持しにくいものを維持する必要がないため、桁外れの機動力を持ち合わせていました。
また、その機動力を余すことなく使用する戦術(代表的なものは偽装撤退。城攻めの必勝戦術でもありまして、相手に撤退すると見せかけて追い討ちさせ、それを迎え撃つという戦法です)を保有していました。
そのため、どんな強国でも優秀な指揮のもとで統制された遊牧騎馬民族にはかなわず、ホラズム(この国はモンゴル帝国の侵攻直前まで領土を拡張し続けており、決して弱い国ではないのです)や金も、敗北しています。ちなみに、この強弱関係がひっくり返るのは火器が積極的に導入されてからです。

しかし、滅びたのもまた遊牧騎馬民族である面が大きい、ともいえます。
遊牧騎馬民族というのは、都市の概念がないですから、そもそも「国」という概念が希薄です。
それをかなり変えたのはやはりチンギスなのですが、それでもモンゴルの伝統である末子相続(つまり末っ子が遺産を引き継ぐ)、そして後継はクリルタイという族長会議で決定(ただ、このクリルタイ、モンゴル帝国では2年くらいかかるんです・・・なにせ、あの広い領地から集まってくる上、このクリルタイも半分宴会みたいなものでして・・)というのがありました。
そのため、チンギスは生前に嫡子4人に領地を分配します。長男であるジュチ家(後のキプチャクハン国)、次男であるチャガタイ家、三男であるオゴタイ家、そして四男であり、モンゴル高原を直接的に保有するトゥルイ家です
そして、三男のオゴタイが継ぎました。しかし、その次が問題でして、グユクというのは酒癖も悪く評判が悪かったのですが、母親の根回しもありハーンとなりました。しかし、これを一番嫌ったのが長男家の当主で一族の長老であったバトゥ(また、四男家も、譲歩したとはいえ面白くはなかったようです。逆にグユクの側にいたのが次男家)。グユクは彼に暗殺されたとも言われています。
その後、トゥルイ家のモンケが継ぐのですが、これが面白くなかったのがチャガタイ家とオゴタイ家。このあたりから兄弟家の間での不和が表面化します。
そして、日本でも有名なフビライの代で分裂は決定的になります。彼は、いままでの方針を破って、全族を集めないで(支持者だけを集めて)クリルタイを行った上で即位、また即位を宣言した弟を倒して、ハーンとなりました。これが気に食わなかったのが長男、次男、三男の家。とくに三男の家当主であるハイドゥとは軍事衝突に発展しています。
そうなると、もうあとは各地の地方政権ですから、ほかの歴史上の国と同様、隣国、兄弟家同士でたたきあったり(オゴタイハン国はチャガタイハン国に叩かれて消滅)、支配民族が反乱を起こしたり、ほかの異民族に倒されたりで、消滅していきました。

また、モンゴルの政権といってもほとんどその妻は現地人のため、代を重ねるにつれどんどんモンゴル人から離れていって、しまいにはハーンがイスラム教徒になってハーン位を捨てたり、はてまたキリスト教に染まったり・・
そういう具合に、自然とその地に溶け込んで、消滅していったのです。

それは、やはりモンゴルが遊牧騎馬民族であることが大きいです。

歴史的に見ていくと、古代~中世世界において遊牧騎馬民族というのは反則的に強いのです。フン族に襲われ大混乱になったヨーロッパしかり、万里の長城を作って必至に防ごうとしたにもかかわらず北方を幾度となく奪われた中国など、敗北例は山ほどあります。

基本的に兵は全部騎馬(普通、農耕民の軍隊でこれはまずありえません)で、しかもほかの民族には難しい騎射(馬の上で弓を撃つ)という戦法をすべての騎馬が可能(他の国はこれができ...続きを読む

Qローマ帝国ってなんで東西に分裂したのですか?

ローマ帝国ってなんで東西に分裂したのですか?
わかりやすく解説していただけると助かります。

Aベストアンサー

簡単に言えば帝国が巨大になり過ぎた。
広大すぎる領土では速度で誇った帝国の通信技術すら役立たなくなり、1人の皇帝で帝国の版図を治めることができなかったので最初は皇帝と副皇帝を置いたけど、それが時が経過すると共に西と東に別れました。経済(貿易)や文化の中心がイタリア半島ではなくてトルコの方が潤っていたという原因もありますけど、旧帝都(ローマ)と新帝都(コンスタンティノープル)の確執もあります。

Qギリシアとローマの関係について

高校レベルの世界史もよく把握していないのですが…
古代ギリシアとローマの関係がよくわからないのです。

・ギリシアとローマは戦争していたこともあり、別個の支配体制ですよね?
・それなのに同じ12神を信奉していますし、使用するアルファベットも似ています
・ローマは土木工事等の実学には長けていたが、ギリシアのような哲学や数学は発達しなかったと聞きます。文化面でもだいぶ隔たりがあるように見えます。

結局この2つはどんな関係で、お互いにどんな相手だと見ていたのでしょうか?

Aベストアンサー

 古代ギリシアは都市国家の集まりです。何度か、都市国家連合としての統一国家になろうとしましたが成功しませんでした。その理由は、おそらくは文明・文化の発達でしょう。自立と自由があって、初めて文明・文化が発達します。そして、それを手放してまで、国力だけのために統一国家となることは受け入れにくいのです。

 古代ローマは、文明・文化の発達が遅かったので、早くから統一国家、しかも都市国家連合という緩い結びつきの国ではなく、全域を中央政権が支配する領土国家にまりました。そして、文明・文化は近隣で発展していたギリシア(とりわけ学問先進国のアテネ)に学んだわけです。

 ギリシアの文明に学び、しかも全域が統一されているローマの国力は急速に伸びて行きました。やがて、国力としては劣り、しかも統一できていないギリシアの都市国家を次々と従わせ、ローマの地方都市として、やがてギリシア全域をローマの領土に組み入れることとなります。

 しかし、ローマはギリシアの文明・文化を超えるような独自なことはできませんでした。巨大な建築はできたけど、基本はギリシアのものです。それだけ、ギリシアの文明・文化は発達していたわけです。宗教も、ローマ独自のものはあったのでしょうが、ギリシアの神々と同じものだとしてしまいました。

 キリスト教が広まり、公認されるようになると、ようやくキリスト教由来を加えて、ローマ独自文明・文化が発達し始めました。ローマ帝国が東西に分裂し、西ローマ帝国が滅びても、東ローマ帝国は長く保ち、首都コンスタンティノープルではヨーロッパ有数の文明・文化先進地域であり続けました。

 そういう例は、古代中国にもありました。殷や周は都市国家連合です。一番国力があり、他の都市国家のリーダーととして取りまとめていたのが、殷や周という大きい都市国家でした。その地域を中原(ちゅうげん)と呼んでいて、そこでは早くから文明・文化が発達しました。

 その周の力が衰えていく一方、地方では楚といった文明・文化は遅れていて、中原の都市国家に学んだ国が、早くから領土的にも統一した国家として台頭して行きました。

 周が衰えて、他の国家が力を得て行った春秋時代は、中原ではまだ都市国家連合がひとまとまりとなった国家が多く、非常に多数の小国が乱立していました。小国とはいえ、文明・文化が発達しているので、その周辺地域の領土的に統一された国家から尊敬を受けていました。

 しかし、続く戦国時代となると、ほとんど国家が領土的に統一された国家となります。都市国家は単なる都市となりました。それでも、小国となっても周とその近辺の小国は、秦が中国全土を領土的に統一するまで、長く尊敬を受け続けていました。

 古代ギリシアは都市国家の集まりです。何度か、都市国家連合としての統一国家になろうとしましたが成功しませんでした。その理由は、おそらくは文明・文化の発達でしょう。自立と自由があって、初めて文明・文化が発達します。そして、それを手放してまで、国力だけのために統一国家となることは受け入れにくいのです。

 古代ローマは、文明・文化の発達が遅かったので、早くから統一国家、しかも都市国家連合という緩い結びつきの国ではなく、全域を中央政権が支配する領土国家にまりました。そして、文明・...続きを読む

Qローマ帝国とキリスト教の関係

キリスト教とローマ帝国との関係ですが、ローマというのはイタリアにありますが、これとは違うんでしょうか?
また簡単でよいのですが、ローマ帝国はキリスト教にどう関係するのでしょうか?
すみません、教えてください。

Aベストアンサー

今月3日夜6:30~TBSで放映された「新春超歴史ミステリー 古代ローマ1000年史!! 空前の巨大帝国全解明スペシャル」
http://www.tbs.co.jp/program/rekishi_20080103.html
という番組の中で説明されていたことの転載(?)になってしまいますが…。

>ローマというのはイタリアにありますが、これとは違うんでしょうか?

既に回答されてらっしゃる方のおっしゃる通り、ローマ帝国と都市としてのローマ(市)とはイコールではありませんから、国家としてイタリア半島の中だけにあったわけではありません。ですからその意味では違います。しかしながら、バティカン市国がローマ市内にあり、そこに堂々とローマン・カソリックの総本山たるサン・ピエトロ大聖堂があるという「宗教的な」意味においては非常に密接なつながりがあります。どういう関係にあったかは後にご説明します。

>ローマ帝国はキリスト教にどう関係するのでしょうか?

ローマ帝国における宗教はもともと多神教でした。ちょうど日本の神道が「八百万の神々」を崇拝していたのと同様に。ローマにはもともと、ユピテル(英語名:ジュピター)、ユノー(英語名:ジュノー)とあともう1人(名前は忘れました)の神様がいましたが、ローマが版図を拡大し、植民地(属州)を増やしていく過程で、実に巧みに植民地経営を行っていきました。

古代ローマの伝統的な価値観に「寛容」(ラテン語:Clementia)の精神というのがあります。簡単に言ってしまえば、被征服者たる異民族の異質性を認めた上で、自らの価値観=宗教を押し付けることなく、異民族の宗教・信仰の自由を認めるということをやってのけたのです。また、ユリウス・カエサルの征服したガリアにおいては、ガリアの土着の神とローマの神を結び付けるということもしました。こうした“Clementia”の精神こそまさに古代ローマ帝国が1,000年もの長きに渡って繁栄し存続し得た要因だったわけです。

ところでキリスト教は一神教で、ローマ帝国内でも信者の数が増していきます。ローマ市民は当初、一神教であるキリスト教徒に対しては白眼視していました。

そこに目をつけたのが、あの悪名高き暴君ネロです。ある日、ローマで大火災が発生しました。ネロは自ら先頭に立って消火活動に務めます。都市計画にも非常に積極的だったネロはまた、芸術好きでもありました。最初のうちは積極的な消火活動や焼け跡の復興を好意的に受け止めていたローマ市民でしたが、ネロが黄金宮殿の建設を計画していることを知ると、あれはネロの放火の仕業でないかと噂するようになります。

そこでネロはキリスト教徒をスケープ・ゴートにすることを思い立ちます。彼は無実のキリスト教徒を磔にし火で焼き殺してしまったのです。しかしその後キリスト教徒が無実であることが分かると、今度はネロを糾弾する動きが起こり、ネロは海外への亡命を余儀なくされましたが、自害してしまいます。

その後ローマ帝国内のキリスト教徒の数は増えていきます。それでもパックス・ロマーナと呼ばれた最盛期になり五賢帝の時代を迎えても、キリスト教徒への迫害は続きました。

キリスト教が公認されるのは313年の皇帝コンスタンティヌス1世がミラノ勅令を発してからで、さらに国教となるのは後のテオドシウス帝の時(380年)でした。

コンスタンティヌス1世は、それまで皇帝はローマ市民から統治権限を委託されるという、非常に民主的というか、後の立憲君主制のような政治体制を改め、皇帝は神すなわちキリストから君主たる地位を授けられたとする、後の絶対王政期における王権神授説のごとき主張を行い、自らの地位を絶対的なものとするために宗教を利用しました。

それまでのローマ皇帝は、いわばローマ市民から統治を委任された存在で、たとえ皇帝であってもローマ市民から皇帝不適格の烙印を押されると退位しなければなりませんでした。ネロの時代もそうでした。しかし、市民ではなく神から統治権限を与えられたとすれば、たとえどのような悪政を行おうともローマ市民から皇帝の地位を剥奪されるようなことはなくなります。

こうしてローマ帝国で公認の宗教となったキリスト教は、ローマ市内の中心部に総本山たるサン・ピエトロ大聖堂を建設しました。「サン・ピエトロ」とは「聖ペテロ」の意味で、コンスタンティヌス1世がキリストの使徒の1人であるペテロの墓を参拝するために設けた殉教者祈念教会堂として建設したものでした。

今月3日夜6:30~TBSで放映された「新春超歴史ミステリー 古代ローマ1000年史!! 空前の巨大帝国全解明スペシャル」
http://www.tbs.co.jp/program/rekishi_20080103.html
という番組の中で説明されていたことの転載(?)になってしまいますが…。

>ローマというのはイタリアにありますが、これとは違うんでしょうか?

既に回答されてらっしゃる方のおっしゃる通り、ローマ帝国と都市としてのローマ(市)とはイコールではありませんから、国家としてイタリア半島の中だけにあったわけではありません。で...続きを読む

Qゲルマン民族の大移動となったフン族はなぜ・・

歴史の勉強していくと何故?何故?と疑問がわいてきます。またそれを知った時
すっきりします。ゲルマン民族が移動することによって、ヨーロッパに変化が起きましたが、ではそのフン族がいきなり西方へ移動してきたのは何故でしょうか?
いろいろ調べてみましたが・・ゲルマン民族大移動の原因で出てくる程度、しかも
それまでおとなしくしていたのに、いきなり移動したようなニュアンスです・・
どなたか、ご存知のかた教えてください。

Aベストアンサー

フン族についてはアジア系遊牧騎馬民族という位の情報しか正確なものが乏しい民族です。

「きょう奴」が分裂して一部が西進し中央アジアキルギス高原に達して定着した部族の子孫という説があり彼らは多数の家畜を抱え遊牧し、乗馬に巧みで当然騎射に長けていました。
農耕を知らなかったので自然に生える草を家畜の餌にし殆ど生の獣肉などを食べていたといいます。
従って草がなくなれば当然移動して新しい草原を探さねばなりません。
東方は彼らが既に同様な生活習慣で暮らしてきたので草はないことを知っていますから西進するしかなかったのです。  こうしてヴォルガ川にたっし、さらに西進しました。  これには気候の変化説、疫病説など諸説もありますが正確なところは不明です。  この時代の移動速度は緩やかなものでした。

そこには既に東ゴート族が居住していましたから彼らを略奪、抵抗する者を殺しました。
この情報はすぐに東、西ゴート族に伝わり、かれらフン族の残酷さ、騎馬戦術の脅威が過大に誇張されて伝わったため、パニックが起こりゴート族の西方への大移動が起こって次々とゲルマン民族などの大移動が伝播したのです。  この頃は草原の確保より略奪が目的に変化していてフン族の移動は迅速で警報が間に合わない事もよく起こりました。

アッチラというフン族の王が出現し部族をまとめてから、その攻撃力はすさまじいものとなり現在のフランス、イタリアまで侵略された位です。

フン族についてはアジア系遊牧騎馬民族という位の情報しか正確なものが乏しい民族です。

「きょう奴」が分裂して一部が西進し中央アジアキルギス高原に達して定着した部族の子孫という説があり彼らは多数の家畜を抱え遊牧し、乗馬に巧みで当然騎射に長けていました。
農耕を知らなかったので自然に生える草を家畜の餌にし殆ど生の獣肉などを食べていたといいます。
従って草がなくなれば当然移動して新しい草原を探さねばなりません。
東方は彼らが既に同様な生活習慣で暮らしてきたので草はないことを知っ...続きを読む

Q紀元前と紀元後をなぜ分けるの?

タイトル通りの疑問なのです。当たり前すぎなことなのかもしれませんが、教えてくださいお願いします。どういういきさつで分ける必要になったのでしょうか?
またいつから分ける様になったのですか?

Aベストアンサー

つまりは、西暦に関するご質問ですね?

いま現在、我々が使っている西暦は、イエス・キリストが生まれた年を紀元(はじまり。すなわち西暦1年)としています。(ところが後日、実際には何年か違うらしいことがわかった。)
この西暦を考え出したのは、数学と天文学に通じていたローマの修道院長、ディオニシウスで、6世紀半ばのことです。
それまでは、日本の元号のように、何皇帝の何年というような呼び方をしていました。
しかし、それでは年数の計算が不便なので、ディオニシウスは、キリストが生まれた年を紀元とすることにしました。
これが、現在我々が使っている西暦の始まりです。
何故西暦0年が存在しないかと言うと、西暦が作られた6世紀半ばのヨーロッパは、まだ数学が発達していなかったためか、「0」の概念が無かったのです。
そのため、「西暦0年」ではなく、「西暦1年」から始まったのです。これは平成0年がないのと同じですね。
だから、紀元1年より前の年をあらわすには、0がないので当然ながらマイナスを使えず、「紀元前」とするしかないわけです。
この西暦は、まず教会で用いられ、それがヨーロッパの一般人に定着するのはそれから数世紀経ってからで、 実際に世界的に使われるようになったのは、18世紀になってからです。
日本に至っては、明治以降、つまり19世紀に入ってから、やっと使い始めました。

つまりは、西暦に関するご質問ですね?

いま現在、我々が使っている西暦は、イエス・キリストが生まれた年を紀元(はじまり。すなわち西暦1年)としています。(ところが後日、実際には何年か違うらしいことがわかった。)
この西暦を考え出したのは、数学と天文学に通じていたローマの修道院長、ディオニシウスで、6世紀半ばのことです。
それまでは、日本の元号のように、何皇帝の何年というような呼び方をしていました。
しかし、それでは年数の計算が不便なので、ディオニシウスは、キリストが生まれ...続きを読む

Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共...続きを読む

Qパンとサーカス

「パンとサーカス」とは誰の言葉でしょうか
またどういう意味なのでしょう

ご存知の方お教え願います

Aベストアンサー

誰の言葉かは存じ上げないのですが、これは、ローマ帝国時代の政治のあり方について言われた言葉です。

史上初の、福祉的政策を実現したローマ帝国は、ヨーロッパ史上類を見ない、膨大な領土を持つ大帝国へと発展していきました。その福祉的政策の状態のことを言います。

ローマの為政者は、国民の願いをかなえる人が選ばれます。国民が楽な暮らしをしていけるような政策を掲げる人でないと、政治家には選ばれないのです。(選挙ならば当たり前のことなのですが)

その結果、生活に必要な食料が支給されたり、休日を与えてもらったりする、当時としては実に快適な生活が、国民に保障されるようになってきました。国は栄えます。

しかし、国民の欲求はとどまるところを知りません。
「もっと豊かな食料を」→これが、「パン」にあたります。
「もっと休日を」

と、人々は、より働かず、より豊かな食料を与えてくれる人を求め、それをかなえてくれる人を為政者として選び続けました。国の財政はあっという間に破綻に向かいます。働かず、収入を増やさせているのですから当然です。

しかし、生活が保障されて休日などが増えると、人々は、次の欲求を持ちます。
「暇で仕方がない。何か面白いことはないか。」→これがサーカスにあたります。

ローマでは、「サーカス」は、確か、戦車での競技のようなものを見世物にしていたと思います。(映画の記憶より)まあつまり、生活をより高いレベルで保障し、退屈な国民に過剰なまでにサービスを提供し続ける、この状態を「パンとサーカス」と呼びます。

ローマが滅んだ理由はさまざまですが、私は、「パンとサーカス」状態が、じわりじわりと長い年月をかけて破綻に追いやった、大きな原因のひとつに間違いないと考えています。

そしてこの状態が、現在の日本と、コピーしたといってよいほど似ていること、わかりますよね。

誰の言葉かは存じ上げないのですが、これは、ローマ帝国時代の政治のあり方について言われた言葉です。

史上初の、福祉的政策を実現したローマ帝国は、ヨーロッパ史上類を見ない、膨大な領土を持つ大帝国へと発展していきました。その福祉的政策の状態のことを言います。

ローマの為政者は、国民の願いをかなえる人が選ばれます。国民が楽な暮らしをしていけるような政策を掲げる人でないと、政治家には選ばれないのです。(選挙ならば当たり前のことなのですが)

その結果、生活に必要な食料が支給され...続きを読む

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む


人気Q&Aランキング