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海外十数カ国に行ってみて分かりましたが、日本人はとても「可愛いもの」を大切にしますね。

たとえばタマちゃんとか、がけっぷち犬とか、とても対処が優しいと思います。これは少なくとも他の国では感じたことがない光景です。

中国や東南アジアに行くとネコを飼っていますが、「この子の名前は?」と聞くと「ないよ。猫は猫だから」とか言います。「ネズミが出るから」とか言って、完全に実用目的です。日本における、動物を飼う=ペット(愛玩)という常識が覆され、けっこう衝撃を受けました。

ところで日本では、店の看板やトラックのロゴなどに、漫画みたいな二次元の動物キャラを描くことが多いですね。これも日本以外ではあまり目にしない光景です。じっさい他の国の人が描くキャラは日本のマネだったりして、あまり可愛くないのが事実です。

なぜ日本人はこうした小動物や、マンガ的な小さいキャラが好きなのでしょうか? こうした傾向はどうも戦前からあるような気がするので、手塚治虫だけの責任とは思えません。

補足:なおイギリスもかなりの動物愛護大国ですが、キリスト教のボランティア精神に立脚していると感じます。つまり上に述べたような日本人の愛玩嗜好とは若干色合いが異なる気がしました。

A 回答 (7件)

こんにちは。


やはり日本では古来より「八百万の神がおわす」と言われてきたように、何ものにも「魂」が宿ると考えられてきたことの影響が大きいのではないかと思います。
「神」と言っても日本のそれは一神教(ユダヤ・キリスト・イスラム教)のように絶対的なものではなく、向こうでいう「精霊」のような存在です。
勿論中には大きな力を持った神もありますが、本当に人々の周囲にある小さな自然や使い古した日用品に至るまで、日本人は霊的なものが宿ると考えてきました。
もう今ではそういう考え方も廃れてきているような感もありますが、やはり潜在的にそのようにものを見ているからこそ、そのようにペットやキャラクターに「まるで人格を持つものを相手にしているかのように」愛着をもって接することが出来るのではないでしょうか。
「何ものにも魂が宿る」とする原始的なアニミズムは、西洋社会などでも元々は見られたものですが、一神教の普及に伴い急速に廃れていきました。
西洋社会でもその残滓を求めることが出来る部分がまったくない訳ではありませんが、日本のようにそういったものに「親しみを持つ」というのとはやはり異なります。
一神教の造物主は塵などからあらゆる生命を生み出しましたが、「神の似姿」を模した人とそれ以外とでは乗り越えがたい隔たりがあります。
そのような世界では「人は等しく平等」という考えは生まれても、動植物を人と同列に考えることはありません。
家畜は財産として大切にするものではあっても、「まるで人格を持つものであるかのように」接することはまずないでしょうし、それをキャラクターとして擬人化してもそこから抜け切ることはないのではないでしょうか。
そういう訳で例え「大切にすべきもの」であるとしても、質問者さんのご指摘の通り根本的なところで考え方が違うのだと思います。
儒教の世界はまた一神教のそれとは異なりますが、非常に「身分」に厳しい社会です。
下のものが上と同じ行いをするどころか、上のものが下と同じ行いをすること(例えば率先して掃除を行うなど)もしてはならない訳です。
そのような身分を重んじる社会では人の間ですら越えがたい壁がある訳ですから、例え人のように描かれたキャラクターであっても人と同様に見られることはないでしょうし、そもそも擬人化すらされないかもしれません。
中国などでは以前に比べたら儒教の影響力は表面的には小さくなっているかもしれませんが、日本人もまたそうであるように千年単位で身体に刻み込まれたものをそう簡単に拭い切れるものではないでしょう。
日本人はよくアスファルトの間から頑張って咲いている花などを愛おしく思ったり、時には「頑張れ」と心の中でエールを送ったりすることもあります。
もしその花が心無い誰かに踏みにじられてしまったりしたら、「可哀想に」とか「何て酷いことを」などと思ったりするかもしれません。
自然にそのように思うということは、そのようなものに対しても「魂の宿るもの」と感じるなどして擬人化しているということではないでしょうか。
もっと言えばそれは生きものに留まらないかもしれません。
例えば学校や会社などで、皆が帰ったあと傘立てに一本傘が置き忘れてあったとします。
一日目には「おや?」と思うだけかもしれませんが、何日も置きっぱなしになっていたりすれば、何だか忘れられていることが無性に可哀想になったりするのではないでしょうか。
年配のご婦人などであれば「一人だけ忘れられて可哀想に」とか「お前も持ち主のもとに帰りたいだろう」などと思わず声をかけるようなことすらあるかもしれません。
そういったことは我々にとっては、例え自分でそう感じなかったとしても「さもあろう」という許容範囲(?)ではないかと思うのですが、世界の常識に照らし合わせた時果たしてそれが通用するものなのかというところは非常に難しいように思います(日本人はつい人間皆同じように考えるだろうと思いがちですが)。
一神教の世界では「人とその他の生命」以上に「造物主の造られたものと人間の造ったもの」とは区別しなければならないものでしょう。
日本人も常に動物やものを人間と同等に考えているという訳ではないでしょうが、非常にその境は曖昧で、時には越してしまうことすらあっても構わないと無意識のうちに思っているような気がします。
そのような素養が「どんなものにでも愛着を抱くこと」を可能にしているのではないでしょうか。
それは特に「自分より弱いもの(弱いと感じるもの)=庇護すべきもの」を対象にした場合、より顕著にあらわれるのだと思います。
勿論それがすべてなどというつもりはありませんが、そのような側面もあるのではないでしょうか。
質問者さんがお求めの回答とは違うかもしれませんが。
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>動物の愛玩について



まず、一つに言えることは、日本人一般が経済的余裕があることが一つあげられます。かつて、日本もやはり犬や猫を買う理由はもっと実用的なところにありました。番犬、狩猟犬とかねずみよけの猫とか。稲作をする地域ではやはりねずみは大敵であり、猫により排除をねらうことが大きな理由として挙げられます。現在では、そういう需要は少なく、むしろ家族としての動物ということで日本人も犬猫を愛玩しているのだと思います。これはある程度経済発展を遂げた国では共通して見られるのではないでしょうか?

また、小動物を昔から愛していたと言うのはたしかに日本では各所で見られます。徳川綱吉の生類憐みの令とか戦国時代に来たキリスト教宣教師の記述ですと「日本人は非常に動物を愛する人種であるが人はすぐに殺す」などの記述からも読み取れます。まあno.1様の記述にもありましたが、伝統的な部分に立脚するところも大きいとおもいます。

>動物キャラクターについて

これも別に日本独特と言い切るのは、ちょっと無理があります。ディズニーキャラクターや欧米でも人気のあるかわいいキャラクターはたくさんいます。会社や商品のイメージキャラクター等も別に日本に特化したものとは思えませんが、日本の商品には確かに外国に比べ多いです。これは言えます。ただ戦前や戦後の手塚治虫のマンガでもキャラクターとして定着し愛されたのは余り多くはありません。

まず、このことに注目したいとおもいます。

日本人、特に戦後の日本人は経済発展の中、すさまじいストレスにさらされてきました。それは、子供の間でも受験戦争加熱とかでそうだったようです。今でもそうかもしれませんが…。

そのうち子供たちは、癒しを求め始めました。特に女子を中心に(男子はやはり強いものにあこがれる傾向がそのときもあったから)。その中で登場した有名なキャラクターとしてキティちゃんがあります。これは日本国内で最もキャラクターのブランド化に成功したものです。

キティちゃんの特徴は子供の頃かわいいと言うだけでなく、実は大人向けにまでという戦略が練られていました。最初は芳しくなかったのですが、変化が見られたのは1990年代からです。だいたいキティちゃんの登場は1970年代でちょうど1990年代は子供の頃、キティちゃんに触れていた年頃の世代が大人になったときでした、1990年代はバブル経済からバブル崩壊と日本としては大きなうねりがあった時期です。またこの頃は女性の社会進出として、男性に負けるなという意識が女性の中でスローガンのように謳われていた時期でもありました。しかし、このような混乱を目の当たりにした女性は多くのストレスを感じ始め、癒しを求めました。その一つが子供の頃かわいがったキティちゃんでした。その頃を期に、かわいいブランドの大人への定着化が日本で始まったようです。これは実は大きな変化で、いままで女性は男性とすべてにおいて対等にと考えてた意識まで変化させ、女性は女性らしくていいんだ、かわいいものが好きでいいんだという変化をもたらしました(仕事は仕事、好きなものには関係ないでしょという意識)。これは日本が世界に先駆けて変化を示しました。

昔は、子供っぽいものを持つことは大人ではタブーみたいな暗黙の了解があったものをこの時代に一気に崩されたのです。そして物への購買意欲の高い女性を意識し、このころから商品にもかわいいキャラクターを使ってイメージアップを各企業が取り始めたのです。

以上の現象は最近になって外国でも見られるようになりました。しかし、それでも外国発のかわいいキャラクターが余り出てこないのは、やはり日本のマンガ文化が少なからず影響しているように思います。キャラクターデザインはこういう文化を背景に日本が一歩先に出ていたと思えます。
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それは日本に「かわいい」という概念があり、それを言葉にしているからではないかと思います。

まるで禅問答のようですが、日本以外で「かわいい」という言葉に当てはまる単語が(おそらくですが)ありません。留学生にいくら説明しても理解されませんし、通訳をしている友人に聞いても「説明しても伝わらないから無駄」といわれました。つまり・・と説明するのが難しいですが、言葉があるから概念があるのか、概念があるから言葉があるのかわかりませんが、そういった文化なんですとしかいえない気がします。回答にはなっていませんけどね。

同じような理由で「もったいない」も伝わらない概念・言葉として有名ですね。
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大分前の質問なので見ておられるか分かりませんが通りすがったのでコメントします。



どっかで読んだ受け売りですが、
・偶像崇拝の文化が根付いている。
・モンゴロイドはネオテニー傾向が強い。

の2つの理由も考えられるかもしれません。

大阪など関西では特にお店の店頭にキャラクターの像が看板と共に立っているのが良く見られます(食い倒れ人形などが有名)。他にも、古くはペコちゃんやSATOちゃんもそれにあたるでしょうか。
こういったキャラクター像を飾りたがるのは、偶像崇拝の延長である、というような話をどこかで読んだことがあります(出典忘れましたすみません)。

フィギアや人形、ぬいぐるみなどに人格を感じるのは、お地蔵さんを拝む事が普通の日本人には、自然な事なのかもしれませんね。
一方キリスト教など他宗教でかつ偶像崇拝が禁止されている地方では、石像を見てもそのキャラクターを感じることはなく、あくまでも情景として見ているのかもしれません。

2つめの話。

※Wikipedia引用
>1920年にL・ボルクが、「人類ネオテニー説」を提唱した。チンパンジーの幼形が人類と似ている点が多いため、ヒトはチンパンジーのネオテニーだという説である。幼体が、例えば突然変異などで発育不全に陥り、何らかの理由によって性的に成熟できたものの中で進化したのが人類だと主張する。チンパンジーがウイルスに感染し、遺伝子が組み替えられたことによる進化ではないかとする学者もいる。デズモンド・モリスは、男性は精神的に、女性は肉体的に、より強くネオテニーの特徴が見られると主張している。

モンゴロイドは特に一般的な西洋人よりも、幼く見られるというのは良く言われますね。モンゴロイドはニグロイド、コーカソイドに比べ特にネオテニー傾向が強いと言われます。遺伝的に、より幼系の特徴が顕著な人に魅力を感じ、惹かれる傾向があるのかもしれません。

キャラクターを「カワイイ」と感じる顔にはある法則がある事が知られています。
・目の位置が顔の下の方にある。
・目が大きく、少し離れている。
etc,これらは全て、赤ちゃんの特徴と共通しています。

私達が幼いものをカワイイ、と感じ惹かれる事には、そういう遺伝的なものが関係しているのかもしれません。
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そこには、わたしたち日本人自身のアイデンティティの持ち様が、関わっていると思います。



わたしたち日本人は、自意識として西洋人に憧れる部分と、西洋人にはかなわないという意識の両方を持っています。

我々がなぜモノを愛するのかということについて、それは自己の拡張つまり自己の反映=望ましい自己へのナルシシズム的自己愛としてモノを愛でるのだ、という仮説があります。

我々日本人のモノへの愛着はひとつは、漫画やアニメ、スーパーマーケットの名前から歯磨き粉に至るまでみられる、西洋風のカタカナ名で象徴される「西洋的なるもの」(かっこいい・スマートな)への憧れに基づくもので構成されています。

しかしいっぽうで、そういった「西洋的なるもの」(かっこいい・スマートな)ものを自己に重ね合わせることへの、限界も意識されています。そのような中でオルタナティブな肯定的アイデンティティとして「かわいい」が選択されているのではないでしょうか。

西洋におけるに日本的可愛さの受容は、その日本的な異常な洗練が彼等をして「かわいいもの」を文脈なしで、それ自体として享受可能ならしめたからでしょう。日本国内でも文脈なしで享受している人は大勢いるでしょう。しかし、「リラックマ」などといったものが、定期的に再生産されるのは、日本だけです。

私たち日本人は、「かわいいモノ」を肯定的な自己イメージを補給するものとして、必要としているのです。
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失礼致します。

日本に興味をお持ちいただき有難うございます。私も事情で飼えない方より頼まれて子猫を育てています。私達の家族の一員ですし、躾などもきちんと丁寧にし、人間として出来るだけの愛情をかけております。私達も小さな家族に癒されております。皆様おっしゃられますように、日本には天皇様に代表されます大変長く美しい歴史があり、小さいもの、か弱い物を愛で守る可愛いの精神があります。源氏物語や和歌など昔よりの文学などにもか弱いものを愛でる優しい精神を感じる事が出来ます。その平和な日本の精神を現して下さったのは沢山の可愛い物を世に広めて下さった内藤ルネさんなどがおります。そのような日本の人々は古来よりの(弱肉強食では決してなく)可愛いものか弱いものを大切にする平和な精神性を感じております。道に咲く小さな野の花や命にも懸命に咲く無限の命を感じ、毎年美しく咲いては散っていく桜の花吹雪にこそ感謝と美しさを感じる繊細で美しい愛に私は日本に産まれて大変幸せです。普通の主婦ですが、ご参考になりましたら嬉しいです。
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日本は同情社会だからです。



相手が自然だろうと動物だろうと、同じ目線で同情できる民族なのです。
だから道端のお地蔵様に笠をかぶせてあげるし、しおれた花を見つけたら水を差してやります。

雨でずぶ濡れになっている状態の自転車を見て「可哀想」と思ったりする人もいます。
パソコンに名前を付けて「今日は機嫌悪いのね?」とか言う人もいます(ちょっと怖いですが)。

そういう同情心=Personalization on inhuman formsは、日本人だけの特性と言えるでしょう。

また、これは宗教観とも関連していて、海外の一神教のように
自然や動物を「人間が克服するもの」として相対してきたのとは違い、
八百万の神を信奉する日本人は、どこにでも神や精霊としての人格を見出すからです。

だから木や虫がしゃべったりするのを想像するし、その中の精霊を人間のように扱います。
漫画やキャラクターなどに転嫁するのはその延長でしょう。
ルーツとしては鳥獣戯画・百鬼夜行に萌芽が見られます。

歴史の長い中国やヨーロッパでも、このように自然物や動物に個別に人格が与えられることは稀です。
ただし、天地創造の神(女渦やアトラス等)には人格があります。
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