ソシュールの入門書などを読むと、以下のように言っているように思えます。

<< この世界は、言語によって切り取られるまでは、混沌とした一体であって、個々の「もの」は存在しない。>>

もし、それが正しいとすると、「リンゴ」という言葉がないと、「リンゴ」という「もの」は存在しないということになりますが、それは、おかしいと思うのですが。もちろん、「リンゴ」という言葉を知らなければ、目の前にある「リンゴ」を「これはリンゴだ」とは言えないのは確かです。でも、だからと言って、「リンゴ」と名づけられるはずの「もの」そのものが存在しないということはならないと思います。

ソシュールはどういう意味で、上記のようなことを言ったのでしょうか?

 

このQ&Aに関連する最新のQ&A

英語 視覚」に関するQ&A: 視覚障害者のことを英語でなんと言いますか?

A 回答 (77件中71~77件)

参考までに



今、全ての文献を大学に返してしまったので、引用するのは少しむずかしいですが、大雑把にですが僕の説明できる範囲で説明したいと思います。(ソシュールのsemioticsの説明になるので、phenomenology, ontologyに関してはふれません)それと日本語の専門用語が僕は分らないので英単語が混ざりまがご勘弁を。

まず、西洋哲学の流れを少し書きますね。ソクラテス/プラトンの時代から、2項対立(binary opposition/dichotomy) の図式がありました。これはspeech/writingという2項対立の中で、speech有利という考えがあったんです。"Plato defines: thought (of which is supposed to be the pure expression) as kind of "writing inscribed in the soul" (Gutting, 2001, P.293). スピーチは常に現在(present)起こる現象で、文章はその見えない陰(absent)にあるもとして考えられてきました。

ソシュールはこの2項対立を差異として考えて行きます。差異とは互いが互いを必要とするということです。(しかしソシュールもこの2項対立の中でspeech(parole), signifier(sensory impression)有利の姿勢はくずしてはいません)。つまり一つの記号(言葉)は片方をを単に消したりするのではなく、-他の言葉との共存- 他を必要とするということを言っています。(ひょっとしたらこれはデリダよりの意見になってしまっているかもしれません)

そこで質問者さんのリンゴを例に挙げます。リンゴという単語、それ一つの記号としてだけでは僕たちはそれがなんであるのか理解できません。バナナがあって、メロンがあって、そしてリンゴはバナナとは違うし、メロンとも違う、こうした違いによって僕らはリンゴがなんであるか理解します。もっと深く言えば、リンゴは赤色、球体、 バナナは黄色、長形状、メロンは緑色、球体 これら全ては記号の差異としてその関係をお互いに支え合っているのです。こうした違いの中、リンゴという単語が消えれば、かつてリンゴと呼ばれていた物体は言葉の差異から消え、差異の外へその存在を消えてしてしまうのです。

確かに、質問者さんの言う通りリンゴという単語が消えても物体は残ります。でもソシュールは物体の存在が実際に消えるだとか、そういうことを言っているのではありません。そしてここでいう”この世界は、言語によって切り取られるまでは、混沌とした一体であって、個々の「もの」は存在しない”は差異について述べているのだと思います。

僕は実際にソシュールの文献にふれたことはありませんが、特にラカンとデリダ、フーコーを通して今はソシュールを考察しています。また分らないことがあれば、質問にお答えします。でもきっと、僕よりももっと良い回答を貰えると思いますよ。

参考まででした
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ていねいなご回答ありがとうございました。

今、リンゴ、バナナ、メロン、ナシという言葉の中から、リンゴという言葉が消えても、かって「リンゴと呼ばれていたもの」と「バナナ」と呼ばれているものの差異が消滅するということはないのではないでしょうか。すなわち、「リンゴ」と呼ばれる「もの1」と「バナナ」と呼ばれる「もの2」の間の差異は、「リンゴ」、「バナナ」という言葉があってもなくても、厳然と存在すると思うのですが。どう思われますか?

お礼日時:2007/07/22 19:22

オッカムの言語哲学


http://www.sal.tohoku.ac.jp/~shimizu/medieval/oc …
3 〈記号1〉から〈記号2〉へ / 規約による記号から自然的記号へ
上項、後段辺り、「アリストテレスとオッカムとの食い違いについて」を参考に。

いずれにしても、実像と心像とを区別しています。

ソシュールの思考は、オッカムに近いものかもしれません。


**訂正**
#5において、「実在」と「実像」と書いていますが、「実像」と「心像」の誤りです。すみません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

済みません。アリストテレスとオッカムについては、背景を知らないので、教えていただいたURLだけ見た判断に過ぎないのですが、いずれの場合も、既に「もの」ありき、であって、その既にある「もの」と記号の関係を論じているように感じました(間違っているかも知れませんが)。

もし、そうだとすると、ソシュールの立場とは違うように思います。ソシュールの場合は、その「もの」自体が、言語で切り取られるまでは混沌として分明でないと言っているように思います。

お礼日時:2007/07/22 19:05

ソシュールについてはわかりませんが、、、



・「実在」と「実像」
・「物」と「思考」

それらの組み合わせを考えると、私に実存する「モノ」は、「思考の中の存在」だけということになります。

ここで、実際に存在している「物」と「思考の中の存在」とを比べると、「実像」とは「実在」の『虚像』に他なりません。

「我思う、ゆえにわれあり」

だから、存在しないのではないでしょうか。

ルネ・デカルト - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8D% …
上掲サイト中段辺り、「形而上学」以下、方法的懐疑・コギト・エルゴ・スムを参考に。

哲学の諸問題 バートランド・ラッセル
http://www.geocities.jp/mickindex/russell/rsl_PP …
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

デカルトが光についての物理的知識をどこまで持っていたのかわかりませんが、少なくとも、現代科学の視点からは、「赤いリンゴはリンゴ自身が赤いわけではない」ことは明らかです。従って、我々が見ている「現象としてのリンゴ」と「リンゴの実在(実体)」が別のものであることは確かだと思います。

ただ、ソシュールが言っているのは、あくまで「現象としてのリンゴ」と「言語:リンゴ」の関係であって、「リンゴの実在(実体)」と「言語:リンゴ」の関係ではないように思います。

というのは、「リンゴの実在(実体)」については、「リンゴ」という言語ができたからと言って、それが明らかになることはないと思うからです。

お礼日時:2007/07/22 18:53

たとえばリンゴと指せばリンゴ化されるのですが


リンゴという文字が無ければ赤くて丸くて甘い食べ物
でしかなくリンゴではないということが言いたいのだと
おもいます
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

そうだとすると、アメリカ人にとって、appleはあるけれど、リンゴはないというのと同じことになりますが、ソシュールは、わざわざ、そういうことを言いたかったのでしょうか。

お礼日時:2007/07/22 18:30

こんばんは、kobareroさん。




●この世界は、言語で切り取られるまでは、混沌とした一体であって、個々の「もの」は存在しない。


うーん、と、

◎この世界=混沌とした一体

◎個々の「もの」=言語で切りとられたもの


とが、それぞれ等価とすると何が残ったか?

●「存在しない」

存在しないと等価になりそうなのは何だろう?


う…ん…


時間だ!時間が抜け落ちてる。時制、現在.過去.未来とみていくと変化してる。
等価であったものが時制により等価ではなくなり別の名により等価となる。入れ替わる。


何かを得ることで、何かを失う…等価交換


【ヤドガリの成長】
http://www.chiba-muse.or.jp/UMIHAKU/kikaku/14mar …
    • good
    • 0

「人の見方こそが事物を事物たらしめている」



私、ソシュールの入門書読んでおりませんので御質問者様が仰る

>以下のように言っているように思えます。
<<この世界は、言語によって切り取られるまでは、混沌とした一体であって、個々の「もの」は存在しない。>>

これのみ信用して申し上げますネ。


>だからと言って、「リンゴ」と名づけられるはずの「もの」そのものが存在しないと


だからと言って?
ソシュールは本当に、だから「もの」そのものが存在しない、と言っているんでしょうか。
「切り取られるまでは」
「個々の「もの」は存在しない」
とソシュールは言っているんですね?

でっちあげということとは違うのなら、そもそもないものを、どうやって「切り取る」のでしょうね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>「個々の「もの」は存在しない」とソシュールは言っているんですね?

入門書を読んだレベルなので、私もよくわからなくて質問させていただいております。

お礼日時:2007/07/21 23:01

直接回答するよりも、質問者が考える手助けになりそうなリストを示してアドバイスとしたいとおもいます。

次のような「もの」は言葉より先に存在するでしょうか?

A リンゴ 果物 樹木 植物 生物

B 指先 手先 手 手首 ひじ 二の腕 腕 人体

C 川 川の流れ 川の水 川の水の色 川の水の冷たさ 川の水の味

さて、どうでしょう? 
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

言葉より前に存在すると思われるのは「具体物」だけですね。上の例で言うと、「リンゴ一般」ではなく、「目の前のリンゴ」は存在する。「果物一般」ではなく、「目の前のリンゴやバナナやミカンやナシなど」は存在する。同様に、「ひじ一般」ではなく、「自分の腕の折れ曲がった部分」は存在する。「川の水の色一般」ではなく、「目の前の川の水の色」は存在する。

ということだと思います。

言葉を知らなければ、その言葉が何を意味しているかはわからないわけですから、それが存在しているかどうかは判断しようがないわけです。でも、だからといって、目の前に厳然と存在する「具体物」が存在していないということにはならないと思います。すなわち、言葉がなければ、この世界は混沌だということはないと思います。

お礼日時:2007/07/21 22:57

このQ&Aに関連する人気のQ&A

  • ADHD(注意欠如多動性障害)|症状、診断基準、特徴、行動、接し方

    注意欠如多動性障害(ADHD)とはどんな病気か  注意欠如多動性障害(ADHD)は、多動性・衝動性(しょうどうせい)と注意力の障害を特徴とする行動の障害です。これは米国精神医学会の「精神疾患の診断・統計マニュアル第4版(DSM‐IV)」において採用された障害名で、WHO(世界保健機関)の「国際疾病分類第10版(ICD‐10)」では多動性障害という名称が用いられています。  学童期では出現率が3〜5%、男児に多く、男女比は3〜5対1です。 原因は何か  多動と衝動性を特徴とする行動の障害については、脳障害説(のうしょうがいせつ)と環境因説(かんきょういんせつ)との間で議論が繰り返されていましたが、現在では、画...続きを読む

←前の回答 3  4  5  6  7  8

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

QToronto PC no kanji henkan no koto!

ima toshokan no PC de kaiteimasu.
tomodati ni mail wo okurunoni kanji henkan sitainodesuga
dekimasen.
PC ga toshokan no mono deari,kaigai de kounyuu sitakara
yahari kanji henkan ha dekinainode shouka.

mosi kanji henkan suru houhou wo donataka sitteiamsitara
osietekudasai.

Aベストアンサー

参考
http://internet.watch.impress.co.jp/www/article/980327/ieime.htm

尚、図書館のパソコンとの事ですが、勝手にアプリケーションをインストールしたり出来ないと思うので、基本的には無理ですね。
自分のパソコンなら手段はありますが。

Qソシュールの《言語記号の恣意性》は 神話である。

 ソシュールの《言語記号の恣意性》については まだ或る程度の《定説性》が残っていますが これが ただの神話であることを次のように証明します。当否・成否を問います。


 まづ先にその例証となる言語現象をかかげます。

  / nVgV /という形態素を取り上げます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。これは 子音の / n / や / g / が同じというようにシニフィアン(≒音素)が同じなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。
 すなわり この / nVgV /という語の形態においては いづれの場合も《障害や邪魔の除去》という意味を帯びて 共通であるという例です。

 (1) / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ

  すなわち 《 nagi=薙ぎ》は 伐り払うべきものが障害・邪魔と見なされている。
  《 nagi=凪ぎ》は 波風が同じくそう見なされている。
  《 nagi=和ぎ》は 心の動揺などがそう見なされている。
  そうして その障害ないし邪魔と見做されたものを 除去する。またはそれらが除去される・消滅する というシニフィエとなっている。


  ちなみにここで例証の中身を示すならば ソシュール(ないし丸山圭三郎)の仮説では ここで言えば子音の / n / や / g / は それとしての意味はまったく無く 恣意的に / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎといった語として成ったと言っています。

  / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった語例において 子音の n や g といったシニフィアンと 語義の《薙ぎ・凪ぎ・和ぎ》とのあいだに 何ら自然でかつ論理的なきづなは無いという説なのです。


 (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれています。けれども ここでも  / nVgV / というシニフィアンには いづれの語でも同じシニフィエ(≒意味)が見られます。《障害の除去・邪魔の消滅》というシニフィエが共通です。ソシュールの説では そんなことはあり得ないというものです。

  nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)
  naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)
  naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く) 
  naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)


 さらに語例を伸ばします。
 (3) 《和ぎ nagi 》関連で 母音の交替をも加えて この / nVgV / なる音素には 共通の意義素が潜んでいるという語例です。

  nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)
  nago-mu   和む     (障害が消滅していく)
  nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)
  negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)
  nega-u   願う      (障害の消滅を希求)

   *

 どうでしょう。言語記号の恣意性なる仮説によれば こんな現象はあり得ないことになります。
 
 ちなみにその仮説によれば 例外なる事態は 次のようだと言います。

 オノマトペつまり擬音語や擬態語では 音素(シニフィアン)と意義素(シニフィエ)とのあいだにつながり(きづな)があると言います。

 郭公は その / k / の音素を鳴き声に合わせてどの言語でもというほどに同じ音素から成る語として持たれているようです。
 
 日本語で 光がピカッとかがやくという様態に合わせて ひかり・光るという語が得られています。

 あるいは例外としては いわゆる派生語の場合が挙げられます。これは 同じひとつの語根から派生するのであるからには 当然だと考えられます。

 つまり

  nagi 和ぎ
  nago-ya-ka 和やか   
  nago-mu   和む

 これらは じつは派生語として / nVgV / なるシニフィアンに同じ共通のシニフィエがあっても 恣意性の説の反証にはなりません。という考察は すでに成されています。
 (ナグサメ=慰めも 派生語であるかも知れませんね)。






 例外を別とすれば じんるいが言語を獲得したのは その語彙の全体を――その時点で―― 一気に得たのだと言います。個々の語は互いにその語としての差異によってのみ 関係しあいつつ 使い分けされているというものです。(語としてというのは 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》とが一体となったそれぞれの語としてです)。

 あとで造語される語を別として 或る時点で語彙の全体を ひとつの体系として 得ることになったのだと説いています。

 そうであるにせよ無いにせよ 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》として成る語には その関係性(つまり ∽ として示したそのつながり方)が 自然で論理的なきづなを持つと例証によれば考えられます。


 さらにくわしい議論をおぎなわなければならないのですが こういった問題が ソシュール≒丸山圭三郎の理論にはあると言ってよいと考えます。


 * おぎなうべき議論の一端として:

   音素・・・・=・・・・意義素
   _______________
  / n /  = 同定相・否定相
  / g /  = 反出相;反定相・疑問相・変化相

 といった仮説を前提としています。
 いま

  / n /=否定相 + / g / =変化相(変化ゆえ 過程相・移行相)

 といった複合によって

  / nVgV /なる音韻(シニフィアン)
    =《障害の除去・邪魔の消滅》なる意義(シニフィエ)

 といったじっさいの語例が作られているという見方を 例証(反証)として提出しました。



 ただしここで 否定相の子音 / n / が 薙ぎにおいてはなぜ《伐採すべき草や木》を内容とする《障害・邪魔》として認定したか? それは 分かりません。恣意的に決められたとしか言いようがありません。

 つまり 凪ぎや和ぎにおいてはそれぞれ《波風》や《心の不安》を 何故ほかにも数ある障害や邪魔の中からえらんだのか? それは 分かりません。



 

 * すでに問うたことがあります。けれども ジョウシキが間違っているなら 何度でも問うべきかと考えます。
 【Q:《言語記号の恣意性》は 神話である。】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5664705.html

 ソシュールの《言語記号の恣意性》については まだ或る程度の《定説性》が残っていますが これが ただの神話であることを次のように証明します。当否・成否を問います。


 まづ先にその例証となる言語現象をかかげます。

  / nVgV /という形態素を取り上げます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。これは 子音の / n / や / g / が同じというようにシニフィアン(≒音素)が同じなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。
 すなわり この / nVgV...続きを読む

Aベストアンサー

「お礼」への書き込みをありがとうございます。

> ☆ なかい702さんは 大局的に・言語学の王道をあるく視点をとうとび 議論をしておられるようですが やはりいまの議論というのは 論点がしぼられています。
⇒つまり、こういう理解でよろしいでしょうか。「言語構造内のいろいろな場面に恣意性が認められるが、ここでの議論では狭義の恣意性、即ち、ソシュールの記号理論でいう第一の恣意性・シニフィアンとシニフィエの相互関係と、第二の恣意性・意味価値の相関関係のみを扱うものとする」という解釈です。もしそうでしたら、部分的ですが納得できます。

> 第一の恣意性は 記号(シーニュ)内部のシニフィアンとシニフィエの関係において見い出されるものである。つまりシーニュの担っている概念 x とそれを表現する聴覚映像 y との間にはいささかも自然的かつ論理的絆がないという事実の指摘であって具体的にはchien なる概念が/(シアンという発音記号)/という音のイメージで表現されねばならないという自然な内在的絆は存在しないということである。
⇒フランス語圏では[ʃj~?]という音を聞きいて脳内にその聴覚映像を結んだら人は「犬」を了解するが、それは[ʃj~?]という音と「犬」とが直結しているからではありませんよね。それは単に、フランス語での語義に関する社会的慣習に過ぎません。その証拠に、例えばアメリカでは人の名前だと思うかも知れないし、日本では赤塚不二夫の漫画に出てくるズッコケ表現だと思うかも知れません!
 ということで、[ʃj~?]というシニフィアンと、「犬」というシニフィエとの対応関係は、一重に、フランス語における「恣意的な約束」である…と、こういうことになりますよね。

> これに対して第二の恣意性は 一言語体系内の記号(シーニュ)同士の横の関係(←→)に見い出されるもので 個々の辞項のもつ価値がその体系内に共存する他の辞項との対立関係からのみ決定されるという恣意性のことである。
> 具体的に言えば 英語の mutton の価値がフランス語の mouton の価値とは異なる その異なり方の問題で その言語の形相次第で現実の連続体がいかに非連続化されていくかという その区切り方自体に見られる恣意性にほかならない。
⇒意味価値の相関関係は常に蠢いていますね。これは任意のどの言語でも当てはまります。もし、変動も何もなく安定しているような言語があるとすれば、それはすでに話し手のいなくなった「死語」でしかあり得ません。このような意味価値の相関関係の変動ぶりは、その言語における2つの異なった時期の共時態を比べてみれば一目瞭然です。そして、その間の通時態を時系列に沿って追ってみれば、その経過のほども分かります。
 ところで、その意味価値内の相関関係の変動は、何によって引き起こされるでしょうか。一方には「言語構造のひずみ」という誘因があり、他方には「そのひずみを何らかの方法で是正したい」という使用者側の動因があります。そして、その運動の遂行を決定づけるのは後者すなわち人間の側(の動因)であり、まさにそこに件の恣意性が関わってくる…と、こういう仕儀ですよね。

> ☆ 《結果的産物》としての第一の恣意性が成り立っていないということが明らかになれば どうなるでしょうか? つまりここでの反論は《第一の恣意性》が事実ではないと示して反駁するものです。これだけで反証は成し得たと考えています。
⇒さあ、それだけで反証を成し得たとするには無理があると思いますよ。前にも言及したとおり、どの言語内にもシニフィアンとシニフィエとの間に何らかの有縁性があることはソシュール自身も認めています:「(発話の際)能記の選択は必ずしも常に恣意的ということでなく、時に有縁的である」、「特に、擬音語と間投詞においてそのことが言える」、と。ただし、それに続いて「擬音語と間投詞は決して言語体系の組織的要素ではない」し、「我々の説を脅かすものではない」とも断言しています。つまり、「第一の恣意性」と矛盾する現象は僅かにあるけれども、それは「言語構造論にとっては周辺的なこと」であるとして、深入りしなかっただけなのです。ということは、有縁性の例をいくら集めてみせても、それだけで「言語記号の恣意性」を否定することはできないでしょう。

> ☆ 趣旨説明欄において ちらっと丸山に触れているだけですが 実際問題としては 丸山理論に対する批判である。こうはっきり申し述べておくべきだったことでもあります。丸山理論が 孫ではなく 本人だという意味です。
⇒「丸山理論が孫ではなく、本人だ」というのはある種詭弁のようにも聞こえますが、まあそれはそれとして、それならなお、「ソシュールの《言語記号の恣意性》は神話である」というタイトルとの間に少なからぬ齟齬があると思いますよ。
 なお、時々僭越にも辛辣なことを申しますが、決してbragelonne様を非難するためではありません。むしろ逆に、bragelonne様の学究心にはいつもながら敬服申しあげています。これは一重に、共同して真理への肉迫をしたいとの願望からに他なりません。どうかこの件、ご了解賜わりますように。

> ☆ すなわち この反証によって 《第一の恣意性》は 中身が事実に反すると明らかになったと考えています。
⇒いやいや、「音素(子音)がそのままで意義素をおびており、そのことが語の生成にもつながりを持ったかたちで影響している」場合があることを示したところで、「第一の恣意性は、中身が事実に反すると明らかになった」などとは言えないと思いますよ。
 例えば、フランス語圏以外の地域で、[ʃj~?]と同じ聴覚映像か、少なくともそれとの有縁性を持つ聴覚映像で「犬」を想起せしめる状況(人間に共通する普遍性)がなければ、この語に関するシニフィアンとシニフィエとの相関関係、必然的有縁性を示したことにはならないでしょう。例えば、『鶏の泣き声のシニフィアンが多くの言語で[k]音を含む」というように、「地球上の人間の大多数が」[ʃj~?]と聞いて「犬」を想起するという事例に類する有縁性を突きつけない限り恣意性説は崩せないと思います。

> おそらくきちんとした語例を三つほど示して《音素=意義素》なる理論が例証できれば――つまりは ひとつの言語内だけでそう証明できれば――言語記号の恣意性なる理論は全滅である。こう見ざるを得ないと考えます。
⇒bragelonne様がよく研究されていることは敬服するところですが、今回の提示材料は通時語彙論・意味論であって、それはいわば文献学の範疇であるのに対し、ソシュールのそれは言語体系の構造論でしょう。つまり、philologyでlinguistics 批判をしようという、お門違いを犯していることになります。ですから、今回のbragelonne様の議論は、実態的には「通時語彙論に見る恣意性の原理の破れ」くらいの論題に過ぎないと思います。もし、この内容を「ソシュールの《言語記号の恣意性》は神話である」という論題で、例えば「日本言語学会」で発表するようなことがあれば、失礼ながら、一笑に付されることでしょう。

> ・ / nVk(g)V / なる語例
> ・ / h /=順出相;順定相と/ k /=反出相;反定相との対照
> ・ 完了相の助動詞で ツ(/ t(d) /)とヌ(/ n /)との対照
> の三つについて説明し得たと考えるものです。どうでしょう。
⇒シニフィアンとシニフィエとの相関関係、必然的有縁性は、多かれ少なかれどの言語にも見られますが、その有縁性の強さには差があり、フランス語などの屈折語ではそれが比較的弱く、日本語のような膠着語系はそれより強い傾向にあります。アフリカのスワヒリ語はそれが最も強い言語の1つで、例えば「のっしのっし」や「しゃなりしゃなり」等に当る「歩き方を形容する表現」が数十通りもあって、それを聞くだけで何歳くらいの人がどんな風に歩いているのか、もちろん男女の区別も含めて、分かるのだそうです。
 ソシュールは、このような言語を(シニフィアンとシニフィエとの有縁性に関して)「文法的な言語」と呼んでいます。「シニフィアンとシニフィエとの相関関係が、文法の範疇に入り込んでいる」という意味でしょう。ことほどさように、単独の言語に見る限りこのような有縁性は必ず見出されますが、他方非同系言語間では、("kennel"と「犬[ケン]寝る」のような!)ダジャレ的な偶然の一致を除いて、まず見出されません。
 bragelonne様の最初の質問文や補足の中の例は、相対的に「文法的な言語」からの例であって、したがってその研究のタイトルを再考するとすれば、「ソシュール『言語学原論』が手を抜いていたシニフィアンとシニフィエとの有縁性に関する考察」と題するにいいものであると思います。しつこくてすみませんが、決して「言語記号の恣意性」の原理を覆せるようなものではないでしょう。この筋からアプローチする限り、それはアリが象の足に噛みつくのにも似て、「原理」は微動だにしないでしょう。

 以上、碩学のbragelonne様に失礼とは思いましたが、偽らざる感想を述べさせて頂きました。ただし、本件に関してのみの感想でして、他のテーマについては常々敬服申しあげておりますこと、前述のとおりです。

「お礼」への書き込みをありがとうございます。

> ☆ なかい702さんは 大局的に・言語学の王道をあるく視点をとうとび 議論をしておられるようですが やはりいまの議論というのは 論点がしぼられています。
⇒つまり、こういう理解でよろしいでしょうか。「言語構造内のいろいろな場面に恣意性が認められるが、ここでの議論では狭義の恣意性、即ち、ソシュールの記号理論でいう第一の恣意性・シニフィアンとシニフィエの相互関係と、第二の恣意性・意味価値の相関関係のみを扱うものとする」という解釈で...続きを読む

QAs examples, he cites the KANJI cha

As examples, he cites the KANJI characters for the " League of Nation " and " United Nation " and such catchy creations an gorin (KANJI meaning " five circles ") to convey the concept of the Olympics.


例えば、「連盟」や「連合」といったものや「五輪」(これは「5つの輪」を意味する漢字である)といった覚えやすい造語の例をあげた。

これってどういう意味ですか?
訳あっていますか?

Aベストアンサー

”League of Nations" の正式な日本語訳は下記のように「国際連盟」ですから、それを使います。
 http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%80%A3%E7%9B%9F/

 「彼は、例として「国際連盟」や「国際連合」の漢字、またよく知られているオリンピックの概念を伝える五輪(五つの輪を意味する漢字)を、挙げている。」

Qウイゲントシュタインの「言語の限界」は「世界の限界」とは?

ウイゲントシュタインの「言語の限界」は「世界の限界」とはいったいどのような意味なのか、説明できる方がいらっしゃいましたらぜひお願いします。

Aベストアンサー

こんばんは。。

 西洋哲学に関しては門外漢なのですけど、言語学・言語哲学関連の本を読んでいると、ウィトゲンシュタインはよく取り上げられますね。
 ウィトゲンシュタイン関連著作を数冊執筆されている黒崎宏氏はご存知でしょうか。
 著作の中で、著者は自説を大まかにまとめる形で記している箇所なのですが、(ご存知でしたらごめんなさい。)
 「ウィトゲンシュタインの『言語ゲーム論』の核心は、すべてのもの一切を、心的なものも物的なものもおしなべて、言語的存在とみなす、ということである。すなわち言語を離れたもの-言語以前に実体としてあるもの-なるものは一切存在しない、というのである。言い換えれば、一切は言語的存在なのであり、意味的存在なのである。」
 黒崎宏『ウィトゲンシュタインから龍樹へ』哲学書房より

 この一文は、「言語ゲーム」=世界と考えていた(←と投稿者が思っている)ウィトゲンシュタインの考え方を端的にまとめてあると思いますし、こういう固定し不変な物事の「実体」を想定しない考え方を打ち出したがために、彼が「哲学を殺した」といわれるのだと思っています。
 「言語ゲーム」=世界であれば、「言語の限界」は、おのずと「世界の限界」になると思います。
 個人的には、ウィトゲンシュタインのこういう考え方は形而上学否定であり、哲学の否定なんだと思っているのですが、こういう解釈が正しいのかどうかはわかりません。
 だいいち、自分は概説書などに引用されている部分を除いてはウィトゲンシュタインの原典を知らないので、これ以上はもうものが言えません・・・(ボロが出た)ごめんください。では。

こんばんは。。

 西洋哲学に関しては門外漢なのですけど、言語学・言語哲学関連の本を読んでいると、ウィトゲンシュタインはよく取り上げられますね。
 ウィトゲンシュタイン関連著作を数冊執筆されている黒崎宏氏はご存知でしょうか。
 著作の中で、著者は自説を大まかにまとめる形で記している箇所なのですが、(ご存知でしたらごめんなさい。)
 「ウィトゲンシュタインの『言語ゲーム論』の核心は、すべてのもの一切を、心的なものも物的なものもおしなべて、言語的存在とみなす、ということである...続きを読む

QHow do I spell my name Chris in kanji?追加質問

「How do I spell my name Chris in kanji?
は第何文型ですか」という質問に対する回答への追加質問ですが、これがHowが副詞だからChrisは名詞が副詞化したものと考えていいのでしょうか。tomorrowが副詞としても使われるようにこの場合もそうででしょうか。そうすると第3文型というのが納得できます。

Aベストアンサー

こんにちは。
>How do I spell my name Chris in kanji?
この答えは、You spell [your name Chris] 駆栗鼠 in Kanji.となりますよね。この文だとSVOCとなりCに当たるのが駆栗鼠です。

従って、your name Chris は目的語の同格と捉えるのが自然だと思われます。
My friend, Chris is a clever girl.ですとMy friend と Chrisが主語で同格ですよね。これと同じように目的語となった場合にも考えればスッキリするのではないでしょうか。結論はSVOで in Kanjiのみが副詞です。

蛇足ですが、spellは本来アルファベットを綴る意味合いが強いので間違いではありませんが、How do I write my name in Kanji? の方がしっくりくるような気がします。
説明になっていれば幸いです。

Q「聞く」「考える」「カンガエル」「考える」「発話」

言葉を通して考える事について。

「聞く」
誰かの発話を空気の振動を経由し聴覚神経を経て
(あるいは何かの本を読んで)
「考える」
発話された意味を言葉に翻訳して理解する、
「カンガエル」
発話による刺激と、脳の中の記憶により、信号に変換
01.01.01.・・・又は、同じ、違う、同じ、違う・・・
この繰り返しの結果
「考える」
脳の中の信号の結果を、言葉に再度翻訳して、
「発話」
『言語のない世界に生きた男』の話は本当ですか?

大変大雑把な図式ですが、
質問は、「カンガエル」と言う部分が、
カントの言葉を借りれば「物自体」にあたり、
感性的な理解は不可能であり、結果として、
思考に言語が必要かどうかを問う事は、断念せざるを得ない。

皆さん、どう思われますか。

Aベストアンサー

関係ない話ですみません。
だって意味がよくわからないものですから。(;;)

でも犬を飼っていると、このあたりの事情がなんとなくわかります。
ノンバーバルコミュニケーションというか、動物との意思疎通というのは
なんとなくありそうな気がします。

犬は考えていないかというと、結構考えているのです。
行動を選択しその結果を喜んだり、落胆したりします。

主人の行動を観察して、「散歩かな?散歩に連れていってくれるかな?」
と目をきょろきょろ、おちつかないそぶりを見せます。
台所でカンッという、皿のふれあう音がすれば「条件反射」で駆け寄って
餌を催促するように吠え続けます。

この条件反射なるものが、実は「カンガエル」の原型であるかのように
思うのです。
記号論的に言えば、意味作用とでもいうのでしょうか、
事象やモノに意味を付与する(意味を選択する)行為が、
「思考」の実体であると思えます。

次に記憶ということがあげられます。
学習といいかえてもいいです。
条件反射は記憶による学習ですが、そこに言語は介在しません。
嗅覚と音などがおりなす気配が、次のおこりうる事象を予感させる
から、犬は吠えたり、そわそわしたりします。

ただ、そこに、いわゆる人間の言語は介在しないのは間違いない
けど、犬は犬なりに一連の気配を、グーとがガルルとか◎$)(’&%$
とか名前はないにしろ感性的に識別してる可能性はあるかもしれない

しかし、一方でそういう行動を観察する人間が「ゴン太。ごはんよ」
とか「ポチ。散歩だよ」と「発話」することで、音を聞き取って、この
僥倖は「ごはん」という発話でもって確定するという学習をしている
という可能性があります。
おそらく、感性的な思考はあると思います。
記憶と密接にむすびついていて瞬間的に一定の結論を導きだします。
それが未来の記憶(デジャヴュや潜在意識)であったりするから
不思議で楽しいのでしょうね。

なんか的外れで恥ずかしいなぁ(^^;

関係ない話ですみません。
だって意味がよくわからないものですから。(;;)

でも犬を飼っていると、このあたりの事情がなんとなくわかります。
ノンバーバルコミュニケーションというか、動物との意思疎通というのは
なんとなくありそうな気がします。

犬は考えていないかというと、結構考えているのです。
行動を選択しその結果を喜んだり、落胆したりします。

主人の行動を観察して、「散歩かな?散歩に連れていってくれるかな?」
と目をきょろきょろ、おちつかないそぶりを見せます。
台所...続きを読む

QCould you help me in recognising kanjis?

こんばんは。I'm a graphic designer from Hungary and I'm working on a logo for a karate club. I can't speak japanese. I have to keep the text on the logo, but I only have a picture in bad resolution. Could you help me in recognising kanjis and paste it for me in the answer? I attached the image below.

Aベストアンサー

Won't you let me explain 國際空手道(KOKUSAI KARATE-DOU) to you a little bit.

國際(KOKUSAI) means "international".
空手(KARATE) means "Karate". It is one of Japanese traditional martial arts.
道(DOU) means some "moral principles".

In short, KARATE-DOU is not mere sports. People training in Karate learn also "moral principles".

By the way, please make Mr. No.1's answer a reference about 國際武道アカデミー(KOKUSAI BUDOU AKADEMII).

Q「ツァラトゥストラかく語りき」の中の「ラクダ」「獅子」「幼子」とは?

ニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」の中に、「三段の変化」という項目があります。「ラクダ」「獅子」「幼子」と、精神が三段に変化を遂げるようすを詳述してあるものですが、いくら読んでも、具体的にどう言う心境の変化を述べたものなのか理解できません。ニーチェは、やはりラクダと幼子を肯定的にとらえ、獅子を否定的に扱っているのでしょうか。
私は哲学はからっきし無学ですので、可能であれば具体的な事例を挙げてお教え下さい。

Aベストアンサー

幸い(?)私も哲学オンチなので、哲学色はヌキにしてお話させてくださいな。

■精神の三段の変化とは

1)ラクダ段階:神にひざまずき、重い荷を背負いたいと願う、服従と勤勉の精神
 俺は傲慢だ、知ったかぶりだ、俺はバカだ。
 そうであることの重荷に耐えられるほど、俺は嬉しい。
 どうか俺の背中に一番重い荷物を乗せてくれ神様。
 俺はどんな辛さにも耐えるから。

2)獅子段階:新しい創造を目指す権利を得る、自由意志発揮の破壊精神
 神とやらが俺に押し付けていた「義務」はもうどうだっていい。
 だって俺はこんなに強いもん。
 俺はきゅうくつな修行から逃れて、そして何者にも縛られない自由を手に入れるぞ。
 俺はもっとすごいことがしたいんだ。邪魔するやつは容赦しない。

3)幼子段階:新しい創造ができる力を得る
 (敬虔であったラクダ時代を忘れ、暴虐だった獅子時代も忘れ、
 すべてを真っ白な新しい気持ちで受け入れ、遊びながら、
 どんどん新しい価値を生み出していく存在。)

途中で「神様」という語が出てくるけれど、
ニーチェの名台詞はご存知「神は死んだ」。
つまりこの書は、キリスト教の価値観でガチガチに固められた世界観をブッ壊して、
それに代わる新しい価値観や新しい人間像を、
ゾロアスター教の神様(ツァラトゥストラ=ゾロアスター)にかこつけて語らせてみているわけです。

神様の教えに従順に従っている段階がラクダ。
それにおかしいと気づき、ぶっ壊そうとあがき暴れまくっているのが獅子。
(獅子でなければ古い価値観をブッ壊すことはできない)
そして新しい価値観を生み出すには、幼子のように無垢でなければいけない。

…とはいえ、「ツァラトゥストラ~」は「福音書」のパロディらしくて、
「幼子」とはイエスその人を指してるみたい。(「幼な子のようになりなさい」っていう聖書の言葉から)
つまり元に戻るだけで、新しい価値は誰も生み出せないという…
恐ろしいオチです。

>具体的な事例を挙げて
夏目漱石の「坊ちゃん」から「三段の変化」を説明しているサイトを見つけました。ご参考になさってください。おもしろかったです。(^^)
ラクダ…うらなり
獅子…山嵐
幼子…坊ちゃん

参考URL:http://www.geocities.co.jp/Bookend/4208/unpublished/enfant.html

幸い(?)私も哲学オンチなので、哲学色はヌキにしてお話させてくださいな。

■精神の三段の変化とは

1)ラクダ段階:神にひざまずき、重い荷を背負いたいと願う、服従と勤勉の精神
 俺は傲慢だ、知ったかぶりだ、俺はバカだ。
 そうであることの重荷に耐えられるほど、俺は嬉しい。
 どうか俺の背中に一番重い荷物を乗せてくれ神様。
 俺はどんな辛さにも耐えるから。

2)獅子段階:新しい創造を目指す権利を得る、自由意志発揮の破壊精神
 神とやらが俺に押し付けていた「義務」はもうどう...続きを読む

QMost of Japanese kanjis can be pronounced in some

Most of Japanese kanjis can be pronounced in some ways. For example, we pronounce "本" hon and moto. Similarly, "東" which is a character contained by our city's name is pronounced higashi, azuma, and to.
は『多くの日本の漢字には複数の読み方があり、例えば「本」はホン、モトと読みます。同様に、この市の名にある「東」はヒガシ、アズマ、トウとも読まれます。』という意味で通じますか?

Aベストアンサー

some →several もしくはmultiple などのほうが良いと思います。
細かいことを言うと、which is a character contained by our city's name は前後にカンマを入れたいところです。

Q「草陰」、「草葉」、「葉隠れ」、或いは「物陰」

 「草陰」、「草葉」、「葉隠れ」、或いは「物陰」ということばや表現に私たちはせっしてきましたし、時には自分でもつかうこともあります。
 質問者は、「草あるいは草葉」、「陰」、「隠れる」、或いは「物陰」という表現が何か共通の感覚や意識、思い方、或いは心性みたいなものががあるのではないかと、ずぅっと気にしているのです。
 このことについて、何でもお教えや参考事項や思われることがありましたら、どうかご投稿くださいますよう、お願い申しあげます。
 美人でえらい皇后陛下が、美しい物だって、時とともに醜く朽ちていくことを知ってもらうために、死体を野ざらしになさったというお話も仄聞した経験がりますし、何か昔は野辺送りは、本当に草の野辺においてきたのだというお話しも伺ったことがあります。
 どんなことでもどうか、お教えください。関係が遠いという判断はどうか為さらないで、衝動でご投稿ください。
 どんな文章でも、漢字変換ミスも読解しますので。

Aベストアンサー

海ゆかば 水漬く屍
山ゆかば 草むす屍

「海ゆかば」を思い出しました。元は古いものなんですね。↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E3%82%86%E3%81%8B%E3%81%B0

>美人でえらい皇后陛下が、美しい物だって、時とともに醜く朽ちていくことを知ってもらうために、死体を野ざらしになさった・・・。

それが、本来の死に方だと思います。
焼き場(火葬場)で、祖母が焼かれようとしているのを見た小さな孫が、「おばあちゃんを焼いちゃダメ、よけい死ぬう!」と泣き叫んでいました。
われわれ、大人は火葬は普通のことと思ってしまっていますが、子供にしてみれば残酷だと思ったのでしょう。

難しいことはわかりませんので、こんなところでご勘弁ください。


人気Q&Aランキング

おすすめ情報