ソシュールの入門書などを読むと、以下のように言っているように思えます。

<< この世界は、言語によって切り取られるまでは、混沌とした一体であって、個々の「もの」は存在しない。>>

もし、それが正しいとすると、「リンゴ」という言葉がないと、「リンゴ」という「もの」は存在しないということになりますが、それは、おかしいと思うのですが。もちろん、「リンゴ」という言葉を知らなければ、目の前にある「リンゴ」を「これはリンゴだ」とは言えないのは確かです。でも、だからと言って、「リンゴ」と名づけられるはずの「もの」そのものが存在しないということはならないと思います。

ソシュールはどういう意味で、上記のようなことを言ったのでしょうか?

 

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A 回答 (77件中61~70件)

どうもです



なるほど、これもうソシュールとラコンを少し説明する必要がありますね。でも心配しないで下さい、ラコンはソシュールの影響を受けているpsychologistです。それから僕はこの”心”という抽象概念がいまいち掴みきれてないんですよね。”心”というのは、意識、なんでしょうか、それとも無意識なんでしょうか、実は僕にはわかりません。

>人は言語でこの世界を切り取る前に、既に、「心」でこの世界を切り取っている。言語はその「心」で切り取った部分を指し示す音声映像として生み出されたものである。

これは答えるのは難しいですね、”「心」でこの世界を切り取っている”とはどういことなのでしょうか?とりあえず、赤ん坊の話しを少しさせてくださいね。”赤ん坊は、お母さんのお乳を飲んだり、お父さんの指を掴んだりします”についてですが、ここで一つの疑問が生じます。これは母親が望んで赤ん坊にミルクを与えるのか、それとも赤ん坊がミルクが欲しがっているのかです。赤ん坊が胸に吸い付いてミルクを飲むのは、まずは生きるための手段だと思いますが、何も胸からのミルクでなくても良いと思います。自然界では赤ん坊は自らお母さんの乳房を探し、摂取しますが、人間の赤ん坊はどうなのでしょう。おそらく母親が率先して子供に母乳を与えます。この時、赤ん坊はこれがなんであるか理解しているとは思えませんが、彼らは乳を吸うという行動を教えられずに行います。これは彼らはの生きるための本能なのですかね?? 前に一度、大学の友達とこの議論をしたことがありましたが、意見は割れ、結局棚上げ状態になりました。今でも僕はわかりません。でもここで重要なのは、乳を吸うことは生きるための赤ん坊の行為なのか、それとも一度、母乳を与えられたことによって、赤ん坊に欲望が生まれたのか、とうことです。ただしこの段階で言えることは、赤ん坊にこの世界(現象/物質)が理解できているとは思えないということです。それは言語の世界にまだ介入していないからです。

ラコンにthe mirror stage/the imaginary/the symbolというのがあります。子供はある時期に自分の鏡で見た時、これが自分だと分るそうです。しかしこの段階では、彼らには自分の母親と自分の区別がついてはいません。ここでthe symbol、父親の存在が重要になってきます。父親は社会コードの代わりです。ここでのキーワードPhallus/ペニスが重要になってくるんです。ここで男/女 社会の秩序などを、子供達は言語を通して学んで行きます。(あんまり深く書きませんね)僕がここで言いたいことは、自分と他人との差異への理解は言語が密接に関係していることだと思うんです。

質問者さん言うように、”心」でこの世界を切り取っている”後に”言語はその「心」で切り取った部分を指し示す音声映像”生まれてくるようなものではないと思います。子供は、おそらく言語を文字としてではなく、音で理解していくのだと思いますが、ソシュールはその音にも差異があると言っています。例えば"pig","big"という記号ですが、これは頭のp,b が違いだけで違う記号になりますし、p,b 自体にも差異が生じています。この理由から幼い子供は音の差異とそれに付随するイメージで言語を理解しているのではないのでしょうか。そこでsignifier/signifiedですが、この二つは常に二つで一つです。後から自由に決められるものではありません、この二つは恣意的につながっているんです。例えば、pig と単語見たり、聞いたりしたら it triggers off the image conception of pignessって英語でいいます。pig のイメージが頭に浮かぶと思います。ここで興味深いのは、豚(ブタ)とpigとは全く違う言語ですが、僕たちがイメージする物は同じなんです。ただし、これはpigがブタであることを僕たち日本人は知っているからなんでしょうね。(英語圏のブタのイメージは我々とは違うかもしれません。) 親は子供にあれはブタさんだよ、とか、これはイヌさんだよ、というように言葉の音とイメージを同時に子供教え、その中で差異を教えているのだと思います。しかしそれ以前に、幼い子供言葉の差異を教えても、はっきりと動物を区別できているかどうか疑問です。この間、街を歩いていたら小さな子供連れの親子の会話を耳にしました。子供は”mummy,, puppy! puppy! ”と言いながら、猫を指差していました。幼い子供の段階では言語は未発達ですし、差異も見えていないんでしょうね。しかしこれは成長と共に言語を通し、しっかりと輪郭のある差異になって行くんだと思います。

こんな所でどうでしょうか?

参考まででした。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

>それから僕はこの”心”という抽象概念がいまいち掴みきれてないんですよね。”心”というのは、意識、なんでしょうか、それとも無意識なんでしょうか、実は僕にはわかりません。

おもしろい疑問ですね。私は「心」というものをこの世界で唯一「具体的なもの」と考えていました。というのは、目を開けると、目の前にこの世界が見えます。この見える世界は「これ以上具体的なものはないというほど具体的です」。しかし、その具体的世界は、「心に映った世界」であって、心の外に客観的にある世界ではないということです。従って、我々が通常言う「もの」は、正確に言うと、心の外にある世界の「もの」ではなく、我々の心に写った世界の「もの」だと思います。

そして、私が言いたかったのは、この心に写った世界の「もの」は、言語があろうがなかろうが、「はっきりと区別して見える」ということです。例えば、ソシュール言語学の説明によく出てくる例として、虹は7色か4色かは言語が決めているというような話がありますが、それは、虹を直接観察しない人についての話でしかないと思います。虹を直接見れば、それが、7色とか4色とか自然数で割り切れるようなものでないことは明らかだと思います。

ということで、この世界は、目で見れば、様々な異なった「もの」で出来ていることは明らかで、「もの」の区別が明らかだからこそ、それらに、名前を付けることが出来るのではないでしょうか? これは、まさに、「言語名称目録観」であり、ソシュールが「それは、間違いだ」と言っているものですが、何故、間違いなのでしょうか?

>ただしこの段階で言えることは、赤ん坊にこの世界(現象/物質)が理解できているとは思えないということです。それは言語の世界にまだ介入していないからです。

今度は、私の方が抽象的でわからなくなってしまうのですが、「理解できている」とはどういうことでしょうか? 人の心の中は直接わかりません。ましてや、言葉を話せない赤ん坊の心の中はわからないのではないでしょうか? しかし、我々は、一般に「赤ん坊が行動する様子を見て、赤ん坊が何を見分けているか」を判断するのではないでしょうか? 赤ん坊がお母さんのお腹の上を自力で這い上がって、おっぱいのあるところまで口を近づけてお乳を吸うという行動を見れば(先日、TVで出産間もない赤ん坊の行動をドキュメントでやってました)、赤ちゃんが、おっぱいを何らかの形で見分けていることは確かではないでしょうか?

「理解できていないのは、言語の世界にまだ介入していなからです」とのことですが、それは、「言語化できない理解は、理解とは言わない」と定義しているだけではないでしょうか。

>質問者さん言うように、”心」でこの世界を切り取っている”後に”言語はその「心」で切り取った部分を指し示す音声映像”生まれてくるようなものではないと思います。子供は、おそらく言語を文字としてではなく、音で理解していくのだと思いますが....

「音声映像」というのは、ソシュールのシニフィアン(signifier)の日本語意訳です。ですから、文字ではないです。ちょっと変な意訳ですけどね。でも、よく、入門書に出てきます。signifier/signifiedの話はよくわかります。ただ、signifier/signifiedが紙の表裏のように一体で切り離せないというソシュールの考え方は理解できませんけど。

>子供は”mummy,, puppy! puppy! ”と言いながら、猫を指差していました。幼い子供の段階では言語は未発達ですし、差異も見えていないんでしょうね。

済みません。英語が不得意なもので、意味がよくわかりません。「ママ、パパ、パパ」と言いながら猫を指したのではないのですか?

子どもについては、別の興味があります。それは、大人と子どもの違いがどこにあるのかということです。大人だって、知らない言葉は山ほどあります。知らない言葉を聞いたとき、それが、何を意味するかが、はじめ、はっきりわからないのは、大人も子ども同じではないかと思います。だから、「もの」が先か「言葉」が先かを考えるとき、子どもを例に挙げるのではなく、大人を例に挙げても良いはずだと思うのですが。そして、大人の場合を考えれば、ある「もの」の名前を知らないからと言って、その「もの」の存在を他のものから明確に区別できないということはない。それは、明らかだと思います。もちろん、「民主主義」とか「精神」とか抽象度が高いものは、「言葉による説明」を聞かないと、初めから明確ということはないです。今、問題にしているのは、抽象概念ではなく、五感で捕らえられる具体物の話です。

補足日時:2007/07/23 15:34
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すみません。

 哲学書を読んだことのない(ソクラテス アリストテレス
プラトン パスカルとかの名前とかその有名な言葉とかは学生時代に学校で習った程度は覚えていますが)者ですし、長い間ほとんど肉体労働で生きてきました者ですが、このQ&Aに参加を始めたことからこのような哲学と関連するのだろうQ&Aのカテゴリーもまだ少しですが見始めるようになりました。 そういう人間からの回答なのですが、たまには、新鮮ではあるかもしれません。

実は 哲学者という人たち(職業なのか啓蒙的は教育者なのかそういう地位をさすのかもよく解らないでいるので、「人たち」と書いています。)に対して、 そんなに物事を深く明晰に考えていると思われている方々ならなんで、現実に苦しんでる人たちがたった今の今もこの歴史から消えていないというのにそれをすこしでも助けられるようなコンセンサスをその哲学で創っていけないのか? なんでそのコンセンサスの見通しを我々(一般人)に示してくれないのか?   もしかしたら難しい言葉で物事を定義することにオタクみたいに夢中になってしまって、むしろ頭がこんがらがってる人たちなのかもしれない。  深い体験や経験からの時にはその前にもがきのたうちまわるような思いで物事を考えてきた、そんな知恵から「ではどうすれば、すこしでも 人間がより幸せになれるのか」という切実な問題の見通しをさぐる頭脳明晰な専門家たちが哲学者なのではないのではないか? という疑いがありました。  

もちろん知的興味自体の価値をなんら否定していませんし、現に上記の疑いを前提にしてですが、質問者様の明晰性に触れこれから知的分野への私なりの回答を書こうとしているわけです。

 たぶんですが、というよりここでは推理で考えられる解釈のひとつというべきなのでしょうが、ソシュールっつう人は「神」の概念を問題にしたかったんじゃないですか?

物体があってきびしい生活があって サルの能力が(「自己や人間を見つめ反省し進歩できる存在」である人間という生物に どのような突然変異とかでそうなったのかは別の論議であるとして)言語を持つ生物になったのだとしても、  人間の五感をたよりとした認識(知る)能力は、音楽にしても大自然の美しさにしてもその心がどのように人と人の心を結びつけるかを知ることへの感動にしても、そこから「深いとしか言いようのない意味」の存在を、そして、そういう言葉を 事の端のいったんとして認識できるような可能性をもっています。 
(こんなふうな書き方や言い方は普段しませんので、みなさんよりもかえって難しい言い方となってしまってるのかもしれませんね。 でも ともかく書きたい強い衝動のまま書いていってみます。)

するとそこに「神」という概念がうまれ始まるというふうに私は そんなふうに「神」とう概念のはじまりを捕らえています。

 最初は純粋無垢な心と頭脳から生まれたのがその概念だったはずだ というふうにです。

 その「意味」という存在は 人間という頭脳生物がこのだだっぴろいなんてもんじない荒涼とした(?)しすぎるにほどがある宇宙に生まれるまでは存在しなかった。 「もの」の意味も存在しなかった。 したがって
意味にとって者は存在しないに等しかった。
 という要はあたりまえの事を言いたかったのに、めちゃくちゃに複雑な定義群の中で西洋人として「だから神は存在する」という結論を表現したくて
だからみずからこんなふうな解りにくい非論理的でさへある物事の説明となってしまったのでは という推理が こういう文に接するとその本とかを読む前に働いてしまうんです。

でもkobareroさん。 あなたは こういう中途半端のままとなってしまいがちな知性の論議を通して何かを啓蒙しようとされているようにも見えます。 命題ですか? ともかく大事な議論題材を「神」の問題も「存在」の問題もすぐには、明日の世界のための論議の場やそれによって世界をすこしでも良くしてゆくことに繋がらないにしても、これを理論明晰な形で表現したり考えあったり、よりわかりやすいその「命題」の表現をそこに求め続けたりする作業はとても大事なことと感じます。

 この回答文をひねくれもののおもろい知性の参入と受け取ってお楽しみになるのもけっこうですが、わたしは真剣です。 それよりは楽しむならばせめてドンキホーテがここに出現したと思ってもらいたいです。

 言いたいことは、「もしかしたらそちらはわざと「意味」という存在を抜きにした質問をなんらかの理由からでっちあげたというふうに思える」ということと「ソシュールについては、やはり「神」の概念をともかくもつたえたかったんじゃないかというふうに推理されてしかたがない」という文になるかと思いますが、  これ(言いたいこと)解っていただけますでしょうか? 

 こめんなさい 長すぎましたね。

 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>ソシュールっつう人は「神」の概念を問題にしたかったんじゃないですか?

そうかも知れませんね。

「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。....万物は言によって成った。成ったもので、言によらず成ったものは何一つなかった。」と聖書に書いてありますから、まさに、言語で切り取る前は、混沌であったということになりますね。

お礼日時:2007/07/22 22:46

kaitara1です。

なかなかうまく説明しにくいのですがちょっと書いてみます。虫も猿もリンゴをリンゴと認識しているというのはそれでもよいとしても(私としてはそのように考えるとその先をうまく考えて行かれなくなると思っています)虫も猿もそのリンゴと一体化してしまって又バナナに対しても同じことが起こり同一の虫でも猿でもなくなってしまいます。自分が不変でなければ認識の主体にはなれません。つまり自分とリンゴやバナナを切り離せない虫や猿は(人間のようには)認識できないということです。人間も言葉を使わなければ自分に張り付いたリンゴやバナナから自由になれません。あまりうまく書けませんでした。ごまかすつもりはありませんからどうぞご自由に疑問の点をお示しください。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>虫も猿もそのリンゴと一体化してしまって

ここでおっしゃっている「一体化」の意味が、どうしてもわかりません。猿がリンゴを食べるとき、なぜ、猿がリンゴと一体化するのでしょうか?猿はリンゴを自分とは切り離された独立のものであることを当然知っているからリンゴを食べるのではないでしょうか?

多分、私の理解がkaitara1さんに全く追いついてないためと思いますが、正直なところ、全くチンプンカンプンです。 

お礼日時:2007/07/22 21:35

さらに、どうもです。



まずソシュールは言語学者です、ちょっと猿とは関係ないと思いますが、僕なりに書いてみます。

猿にまず言語がないとは、言い切れないのではないのでしょうか。これは推測ですけど。彼らはもちろん、僕らの言うリンゴと呼ばれる記号を持ち合わせてはいないでしょう。でもひょっとしたら”キッキー”がリンゴかもしれませんが。冗談はこのくらいにして、彼らがその赤い物が食べられるもだと認識するのは、経験からでしょうね。これは僕ら人間にしても同じことではないでしょうかね。ロック/ヒュームというイギリスの経験主義者達は人の知識は経験にあると述べています。それがなんであるのか、経験を通して認知していくわけです。でも僕は思うんですけど、経験は言語を通してやはり、知識をつくっていくのではないのでしょうか。例えばぶつかれば、痛い!っていいますし、猿だって痛たければわめくと思います。でも言語体系が猿より複雑/豊かな人間のほうがやはり理解力があり、推測したりする能力を保有しています。それはやはり言語を通して差異がよめるからではないのでしょうか。

経験に関しても、 甘い、酸っぱい、辛い、食べられる、食べられないなど差異は存在します。ただし猿が人間と同じ味覚を有しているかどうかは僕にはわかりませんし、彼らは、一度食べてまずければ、食べないだろうし、おいしければ、それを学習してまた同じ物を見た時に、食べる行為に繋がっていくのだと思います。でもそれが、形で彼らは見ているのか、匂いなのか、色なのか僕にはわかりません。僕は動物学を学んでいないので、このへんで勘弁して下さい。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

いや、別にサルでなくてもいいですよ。人間の赤ん坊でも同じことです。

人間の赤ん坊は生まれたときは、言語を習得してないと思います。でも、赤ん坊は、お母さんのお乳を飲んだり、お父さんの指を掴んだりします。すなわち、言語を知らない赤ん坊にとっても、世界は混沌ではなく、既に、いくつかの対象に区切られた差異を見出しているのだと思います。

私の当初の質問が混乱を招いているかもしれませんので、以下のように別の質問に置き換えさせていただきます。

<質問>
私は、以下のように考えます。

人は言語でこの世界を切り取る前に、既に、「心」でこの世界を切り取っている。言語はその「心」で切り取った部分を指し示す音声映像として生み出されたものである。

しかし、ソシュールは、言語が生まれる前に、「心」がこの世界を切り取っていることを否定しているのではないでしょうか? いや、そんなことはない、ソシュールの考えは、私の上述の考えと同じだというのなら、私の疑問はキャンセルします。

お礼日時:2007/07/22 21:29

#10です。



>動物にとっては、「この世界」と言われても、それが何を意味するかはわからない
:ご質問の内容はソシュールという人が考える「この世界」というものに対する視点の取り方の問題だと思うのです。
言語化されて切り取られることによって「この世界」が混沌から「(思考対象としての)個々のもの」の集合として認識できるようになる。
思考における言語の重要な役割を述べている箇所なのではないでしょうか。
おっしゃるとおり、思考のないところには「この世界」という認識自体が存在しないわけで、その場合、あえて「世界という言葉で表現されるもの」を想定する意味はないという考え方なのではないかと思ったわけです。
 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/08/06 23:02

>アメリカ人にとって、appleはあるけれど、リンゴはないというのと同じことになりますが、ソシュールは、わざわざ、そういうことを言いたかったのでしょうか。



ソシュール的に言えば混純という存在(シニフィエ)が先にあって
その後リンゴというものが出来たと言いたいのだと思います。
リンゴその物を見ても動物からしてみたら「あリンゴだ」と思って
食べてるわけではないです。
感覚情報的にえさを食べている、もしくはそのほかの用途として存在
しているに過ぎずそのことをソシュールは混純とした一体としてと
らえているのでそこで言葉(シニフィアン)である存在を表すことに
よって「物」として表すことが出来ると言いたいのだと思います。
シニフィエがシニフィアン化される事によって「物」が発生すると
いう表現方法です。(たぶん・・・・)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

全く、おっしゃるとおりですが、ソシュールはそのようには言っていないと思います。ソシュールは、シニフィアンとシニフィエは紙の表裏の関係であって、切り離せない結合体(シーニュ)であると言っていると思います。だから、シニフィエが先にあって、それに、名前を付けるがごとくにシニフィアンを結ぶ付けるというようなことを否定していると思います。

この点が、私が理解できないことであり、質問していることと密接に関連している点です。

お礼日時:2007/07/22 20:27

どうもです、回答欄読ませていただきました。

まず、前の書き込みに誤字、脱字があったことをお詫びします。

ちょっと、果物から離れて考えてみましょうか。そうですね、例えば男と女という言葉の存在。この内、女という記号を完全に消し去って、更に記号(女)を説明する必要な記号も消してしまいましょう。そうして記号(男)を説明できますか?おそらく無理でしょうね。記号(男/女)はその差異によって意味を増やし、また他の記号を借りて男/女を表象しています。そうして今度は、両方の記号を失ったとしましょう。たしかにかつて男と女と呼ばれた物体は、そこにはありますし、物体のつくりの違いから違う物体であることは、おそらく理解できるでしょうね。でも違いが分るということは、すでに何かと比べると言う動作を要求されます。じゃ、何がどう違うのか、これは記号の差異、それに伴う表象において物体の違いを理解するということなのでしょうね。つまり差異を示唆した時点で、言語の切り分けをすでに行っているということではないでしょうか(ちょっと乱暴な書き方ですけど)。

そうしてもう一つ大切なことは記号の中には、イメージを伴わない物もあるということです。(god, love, freedom) これらは、signifierだけで、signified (image conception)を欠いています。でも私たち、それがおおよそなんであるかは理解できると思います。それはやはり他の記号との差異によって、意味が生まれているからなんですよ。つまり、漠然と二つの物体があって、差異が分らなければ、やはり僕たちはそれがなんであるのか、理解できないんです。

また、物体という単語もまた他の記号に支えられた一つの記号にしか過ぎません。

ソシュールを読む上で大切なことは、彼がstructurelist/linguistであることを念頭にいれて読むことです。彼はphenomenologistではありません。

言語で世界を切り分けるとは、物体に差異を作り出し、カテゴライズすることにより、物体は言語によって表象されるということだと思います。

最後に、もしソシュールの細かい部分で分らないことがあれば、おつきあいします。僕も勉強になるので。

参考まででした。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>でも違いが分るということは、すでに何かと比べると言う動作を要求されます。じゃ、何がどう違うのか、これは記号の差異、それに伴う表象において物体の違いを理解するということなのでしょうね。つまり差異を示唆した時点で、言語の切り分けをすでに行っているということではないでしょうか(ちょっと乱暴な書き方ですけど)。

「対象に差異を見出すこと」=「言語能力」と定義すれば、おっしゃるとおりだと思いますが、通常は、「言語能力」をそこまで拡大して考えないのではないでしょうか。

例えば、サルがリンゴを掴んで食べる行為を見ると、サルは「リンゴ」と「リンゴ以外のもの」の差異を感じ取っていることは確かだと思いますが、でも、だからと言って、サルは「言語能力」を持っているとは、通常、言わないと思います。

お礼日時:2007/07/22 20:19

ソシュールさんという方は知らないのであて推量で考えてみます。


自我に目覚める前の赤ん坊にとっての世界は「混沌とした一体」であるだけで十分、ということにもなるのでしょうか。
快をもたらすものか不快なものかだけで十分納得していると思います。

「言葉によって切り取る」という行為は「個々のもの」を認識する欲求に駆られるからで、また、それが言葉が必要とされる理由でもある。
りんごという言葉が無くてもりんごは存在するが、たとえば食べられるものかそうでないものか、だけの区別より必要とされない場合、言語としての「りんご」は不要である、といったような意味かと感じました。

>「リンゴ」と名づけられるはずの「もの」そのものが存在しないということにはならない
:というより、その実がりんごと名づけられていなければ、バナナと名づけられるものもないはずで、さらに果物という言語もないでしょうし、「植物」もなく、「当初の位置を動かないもの」「食べられるもの」といったような感覚でしか捉えられないでしょう。
ですから動物にとっての「この世界」は無いということになるように思います。
人間が「この世界」という認識を持つのは、すでに言語による「個々のもの」の切り取り作業がある程度進んだからこそ、といったようなことになるのか、とも思いました。
 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>ですから動物にとっての「この世界」は無いということになるように思います。

確かに動物にとっては、「この世界」と言われても、それが何を意味するかはわからないわけですから、我々が言っている「この世界」はないと言えないこともないですが、だからと言って、動物にとって、目の前の森や、自分を襲ってくる敵や、雷の音や、風や、川の水がないと言うことにはならないと思います。動物は、それらを総称して「この世界」と呼んだりはしないというだけのこではないでしょうか。

お礼日時:2007/07/22 20:03

「実在」と「実存」


「実在」と「実像」
「実像」と「心像」
「姿」(figure)と「形」(shape)

を考察した上で、
真理と虚偽の本性について B・ラッセル
http://www.geocities.jp/mickindex/russell/rsl_oN …
バートランド・ラッセル
http://www.geocities.jp/mickindex/russell/idx_ru …
を読んでみてください。(1900年代に記したものなので、非常にまとまっていると思います。)
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この回答へのお礼

私の質問との関連からは、少し離れてしまっているように思いますが、参考にさせていただきたいと思います。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/22 19:34

リンゴを食べる虫の事を考えると、この虫はわれわれから見ると確かにリンゴを認識しているように見えます。

しかし虫はリンゴと一体となっていて時々刻々虫自体も変化していきます。つまりわれわれが虫に成り代わってリンゴを認識しているに過ぎません。つまり虫はりんごあっての虫であって主体的に存在しているのではないということです。人間は脳が発達した為にリンゴと一体化して時々刻々変わらない言語を作り出したということではないでしょうか。人間がリンゴをかじっても虫が食べるときと同じようにリンゴは時々刻々変わっていきます。体から考えると人間も虫と同じです。こういう状態を混沌といえると思います。言葉はこのような混沌という液体を保存する容器のようなものと考えると言葉のほうが後でよいのではないかと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

済みません。虫とリンゴの関係についてのお考えは、何をおっしゃろうとしているのかよく理解できませんでした。多分、私にとって、虫の心は理解の範囲を超えているためだと思います。

もう少し身近な例で、例えば、サルの場合はどうでしょうか。

サルは、リンゴもバナナも食べます。ある種のサルは、芋を水で洗って食べます。これは、サルとって、リンゴ、バナナ、芋、水は、言葉で区別はできなくても、心で区別しているということではないかと思います。ということは、この世界を言葉で切り取るまでは、世界は混沌としているとは言えないと思うのですが。

お礼日時:2007/07/22 19:31

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参考
http://internet.watch.impress.co.jp/www/article/980327/ieime.htm

尚、図書館のパソコンとの事ですが、勝手にアプリケーションをインストールしたり出来ないと思うので、基本的には無理ですね。
自分のパソコンなら手段はありますが。

Qソシュールの《言語記号の恣意性》は 神話である。

 ソシュールの《言語記号の恣意性》については まだ或る程度の《定説性》が残っていますが これが ただの神話であることを次のように証明します。当否・成否を問います。


 まづ先にその例証となる言語現象をかかげます。

  / nVgV /という形態素を取り上げます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。これは 子音の / n / や / g / が同じというようにシニフィアン(≒音素)が同じなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。
 すなわり この / nVgV /という語の形態においては いづれの場合も《障害や邪魔の除去》という意味を帯びて 共通であるという例です。

 (1) / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ

  すなわち 《 nagi=薙ぎ》は 伐り払うべきものが障害・邪魔と見なされている。
  《 nagi=凪ぎ》は 波風が同じくそう見なされている。
  《 nagi=和ぎ》は 心の動揺などがそう見なされている。
  そうして その障害ないし邪魔と見做されたものを 除去する。またはそれらが除去される・消滅する というシニフィエとなっている。


  ちなみにここで例証の中身を示すならば ソシュール(ないし丸山圭三郎)の仮説では ここで言えば子音の / n / や / g / は それとしての意味はまったく無く 恣意的に / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎといった語として成ったと言っています。

  / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった語例において 子音の n や g といったシニフィアンと 語義の《薙ぎ・凪ぎ・和ぎ》とのあいだに 何ら自然でかつ論理的なきづなは無いという説なのです。


 (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれています。けれども ここでも  / nVgV / というシニフィアンには いづれの語でも同じシニフィエ(≒意味)が見られます。《障害の除去・邪魔の消滅》というシニフィエが共通です。ソシュールの説では そんなことはあり得ないというものです。

  nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)
  naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)
  naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く) 
  naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)


 さらに語例を伸ばします。
 (3) 《和ぎ nagi 》関連で 母音の交替をも加えて この / nVgV / なる音素には 共通の意義素が潜んでいるという語例です。

  nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)
  nago-mu   和む     (障害が消滅していく)
  nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)
  negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)
  nega-u   願う      (障害の消滅を希求)

   *

 どうでしょう。言語記号の恣意性なる仮説によれば こんな現象はあり得ないことになります。
 
 ちなみにその仮説によれば 例外なる事態は 次のようだと言います。

 オノマトペつまり擬音語や擬態語では 音素(シニフィアン)と意義素(シニフィエ)とのあいだにつながり(きづな)があると言います。

 郭公は その / k / の音素を鳴き声に合わせてどの言語でもというほどに同じ音素から成る語として持たれているようです。
 
 日本語で 光がピカッとかがやくという様態に合わせて ひかり・光るという語が得られています。

 あるいは例外としては いわゆる派生語の場合が挙げられます。これは 同じひとつの語根から派生するのであるからには 当然だと考えられます。

 つまり

  nagi 和ぎ
  nago-ya-ka 和やか   
  nago-mu   和む

 これらは じつは派生語として / nVgV / なるシニフィアンに同じ共通のシニフィエがあっても 恣意性の説の反証にはなりません。という考察は すでに成されています。
 (ナグサメ=慰めも 派生語であるかも知れませんね)。






 例外を別とすれば じんるいが言語を獲得したのは その語彙の全体を――その時点で―― 一気に得たのだと言います。個々の語は互いにその語としての差異によってのみ 関係しあいつつ 使い分けされているというものです。(語としてというのは 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》とが一体となったそれぞれの語としてです)。

 あとで造語される語を別として 或る時点で語彙の全体を ひとつの体系として 得ることになったのだと説いています。

 そうであるにせよ無いにせよ 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》として成る語には その関係性(つまり ∽ として示したそのつながり方)が 自然で論理的なきづなを持つと例証によれば考えられます。


 さらにくわしい議論をおぎなわなければならないのですが こういった問題が ソシュール≒丸山圭三郎の理論にはあると言ってよいと考えます。


 * おぎなうべき議論の一端として:

   音素・・・・=・・・・意義素
   _______________
  / n /  = 同定相・否定相
  / g /  = 反出相;反定相・疑問相・変化相

 といった仮説を前提としています。
 いま

  / n /=否定相 + / g / =変化相(変化ゆえ 過程相・移行相)

 といった複合によって

  / nVgV /なる音韻(シニフィアン)
    =《障害の除去・邪魔の消滅》なる意義(シニフィエ)

 といったじっさいの語例が作られているという見方を 例証(反証)として提出しました。



 ただしここで 否定相の子音 / n / が 薙ぎにおいてはなぜ《伐採すべき草や木》を内容とする《障害・邪魔》として認定したか? それは 分かりません。恣意的に決められたとしか言いようがありません。

 つまり 凪ぎや和ぎにおいてはそれぞれ《波風》や《心の不安》を 何故ほかにも数ある障害や邪魔の中からえらんだのか? それは 分かりません。



 

 * すでに問うたことがあります。けれども ジョウシキが間違っているなら 何度でも問うべきかと考えます。
 【Q:《言語記号の恣意性》は 神話である。】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5664705.html

 ソシュールの《言語記号の恣意性》については まだ或る程度の《定説性》が残っていますが これが ただの神話であることを次のように証明します。当否・成否を問います。


 まづ先にその例証となる言語現象をかかげます。

  / nVgV /という形態素を取り上げます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。これは 子音の / n / や / g / が同じというようにシニフィアン(≒音素)が同じなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。
 すなわり この / nVgV...続きを読む

Aベストアンサー

「お礼」への書き込みをありがとうございます。

> ☆ なかい702さんは 大局的に・言語学の王道をあるく視点をとうとび 議論をしておられるようですが やはりいまの議論というのは 論点がしぼられています。
⇒つまり、こういう理解でよろしいでしょうか。「言語構造内のいろいろな場面に恣意性が認められるが、ここでの議論では狭義の恣意性、即ち、ソシュールの記号理論でいう第一の恣意性・シニフィアンとシニフィエの相互関係と、第二の恣意性・意味価値の相関関係のみを扱うものとする」という解釈です。もしそうでしたら、部分的ですが納得できます。

> 第一の恣意性は 記号(シーニュ)内部のシニフィアンとシニフィエの関係において見い出されるものである。つまりシーニュの担っている概念 x とそれを表現する聴覚映像 y との間にはいささかも自然的かつ論理的絆がないという事実の指摘であって具体的にはchien なる概念が/(シアンという発音記号)/という音のイメージで表現されねばならないという自然な内在的絆は存在しないということである。
⇒フランス語圏では[ʃj~?]という音を聞きいて脳内にその聴覚映像を結んだら人は「犬」を了解するが、それは[ʃj~?]という音と「犬」とが直結しているからではありませんよね。それは単に、フランス語での語義に関する社会的慣習に過ぎません。その証拠に、例えばアメリカでは人の名前だと思うかも知れないし、日本では赤塚不二夫の漫画に出てくるズッコケ表現だと思うかも知れません!
 ということで、[ʃj~?]というシニフィアンと、「犬」というシニフィエとの対応関係は、一重に、フランス語における「恣意的な約束」である…と、こういうことになりますよね。

> これに対して第二の恣意性は 一言語体系内の記号(シーニュ)同士の横の関係(←→)に見い出されるもので 個々の辞項のもつ価値がその体系内に共存する他の辞項との対立関係からのみ決定されるという恣意性のことである。
> 具体的に言えば 英語の mutton の価値がフランス語の mouton の価値とは異なる その異なり方の問題で その言語の形相次第で現実の連続体がいかに非連続化されていくかという その区切り方自体に見られる恣意性にほかならない。
⇒意味価値の相関関係は常に蠢いていますね。これは任意のどの言語でも当てはまります。もし、変動も何もなく安定しているような言語があるとすれば、それはすでに話し手のいなくなった「死語」でしかあり得ません。このような意味価値の相関関係の変動ぶりは、その言語における2つの異なった時期の共時態を比べてみれば一目瞭然です。そして、その間の通時態を時系列に沿って追ってみれば、その経過のほども分かります。
 ところで、その意味価値内の相関関係の変動は、何によって引き起こされるでしょうか。一方には「言語構造のひずみ」という誘因があり、他方には「そのひずみを何らかの方法で是正したい」という使用者側の動因があります。そして、その運動の遂行を決定づけるのは後者すなわち人間の側(の動因)であり、まさにそこに件の恣意性が関わってくる…と、こういう仕儀ですよね。

> ☆ 《結果的産物》としての第一の恣意性が成り立っていないということが明らかになれば どうなるでしょうか? つまりここでの反論は《第一の恣意性》が事実ではないと示して反駁するものです。これだけで反証は成し得たと考えています。
⇒さあ、それだけで反証を成し得たとするには無理があると思いますよ。前にも言及したとおり、どの言語内にもシニフィアンとシニフィエとの間に何らかの有縁性があることはソシュール自身も認めています:「(発話の際)能記の選択は必ずしも常に恣意的ということでなく、時に有縁的である」、「特に、擬音語と間投詞においてそのことが言える」、と。ただし、それに続いて「擬音語と間投詞は決して言語体系の組織的要素ではない」し、「我々の説を脅かすものではない」とも断言しています。つまり、「第一の恣意性」と矛盾する現象は僅かにあるけれども、それは「言語構造論にとっては周辺的なこと」であるとして、深入りしなかっただけなのです。ということは、有縁性の例をいくら集めてみせても、それだけで「言語記号の恣意性」を否定することはできないでしょう。

> ☆ 趣旨説明欄において ちらっと丸山に触れているだけですが 実際問題としては 丸山理論に対する批判である。こうはっきり申し述べておくべきだったことでもあります。丸山理論が 孫ではなく 本人だという意味です。
⇒「丸山理論が孫ではなく、本人だ」というのはある種詭弁のようにも聞こえますが、まあそれはそれとして、それならなお、「ソシュールの《言語記号の恣意性》は神話である」というタイトルとの間に少なからぬ齟齬があると思いますよ。
 なお、時々僭越にも辛辣なことを申しますが、決してbragelonne様を非難するためではありません。むしろ逆に、bragelonne様の学究心にはいつもながら敬服申しあげています。これは一重に、共同して真理への肉迫をしたいとの願望からに他なりません。どうかこの件、ご了解賜わりますように。

> ☆ すなわち この反証によって 《第一の恣意性》は 中身が事実に反すると明らかになったと考えています。
⇒いやいや、「音素(子音)がそのままで意義素をおびており、そのことが語の生成にもつながりを持ったかたちで影響している」場合があることを示したところで、「第一の恣意性は、中身が事実に反すると明らかになった」などとは言えないと思いますよ。
 例えば、フランス語圏以外の地域で、[ʃj~?]と同じ聴覚映像か、少なくともそれとの有縁性を持つ聴覚映像で「犬」を想起せしめる状況(人間に共通する普遍性)がなければ、この語に関するシニフィアンとシニフィエとの相関関係、必然的有縁性を示したことにはならないでしょう。例えば、『鶏の泣き声のシニフィアンが多くの言語で[k]音を含む」というように、「地球上の人間の大多数が」[ʃj~?]と聞いて「犬」を想起するという事例に類する有縁性を突きつけない限り恣意性説は崩せないと思います。

> おそらくきちんとした語例を三つほど示して《音素=意義素》なる理論が例証できれば――つまりは ひとつの言語内だけでそう証明できれば――言語記号の恣意性なる理論は全滅である。こう見ざるを得ないと考えます。
⇒bragelonne様がよく研究されていることは敬服するところですが、今回の提示材料は通時語彙論・意味論であって、それはいわば文献学の範疇であるのに対し、ソシュールのそれは言語体系の構造論でしょう。つまり、philologyでlinguistics 批判をしようという、お門違いを犯していることになります。ですから、今回のbragelonne様の議論は、実態的には「通時語彙論に見る恣意性の原理の破れ」くらいの論題に過ぎないと思います。もし、この内容を「ソシュールの《言語記号の恣意性》は神話である」という論題で、例えば「日本言語学会」で発表するようなことがあれば、失礼ながら、一笑に付されることでしょう。

> ・ / nVk(g)V / なる語例
> ・ / h /=順出相;順定相と/ k /=反出相;反定相との対照
> ・ 完了相の助動詞で ツ(/ t(d) /)とヌ(/ n /)との対照
> の三つについて説明し得たと考えるものです。どうでしょう。
⇒シニフィアンとシニフィエとの相関関係、必然的有縁性は、多かれ少なかれどの言語にも見られますが、その有縁性の強さには差があり、フランス語などの屈折語ではそれが比較的弱く、日本語のような膠着語系はそれより強い傾向にあります。アフリカのスワヒリ語はそれが最も強い言語の1つで、例えば「のっしのっし」や「しゃなりしゃなり」等に当る「歩き方を形容する表現」が数十通りもあって、それを聞くだけで何歳くらいの人がどんな風に歩いているのか、もちろん男女の区別も含めて、分かるのだそうです。
 ソシュールは、このような言語を(シニフィアンとシニフィエとの有縁性に関して)「文法的な言語」と呼んでいます。「シニフィアンとシニフィエとの相関関係が、文法の範疇に入り込んでいる」という意味でしょう。ことほどさように、単独の言語に見る限りこのような有縁性は必ず見出されますが、他方非同系言語間では、("kennel"と「犬[ケン]寝る」のような!)ダジャレ的な偶然の一致を除いて、まず見出されません。
 bragelonne様の最初の質問文や補足の中の例は、相対的に「文法的な言語」からの例であって、したがってその研究のタイトルを再考するとすれば、「ソシュール『言語学原論』が手を抜いていたシニフィアンとシニフィエとの有縁性に関する考察」と題するにいいものであると思います。しつこくてすみませんが、決して「言語記号の恣意性」の原理を覆せるようなものではないでしょう。この筋からアプローチする限り、それはアリが象の足に噛みつくのにも似て、「原理」は微動だにしないでしょう。

 以上、碩学のbragelonne様に失礼とは思いましたが、偽らざる感想を述べさせて頂きました。ただし、本件に関してのみの感想でして、他のテーマについては常々敬服申しあげておりますこと、前述のとおりです。

「お礼」への書き込みをありがとうございます。

> ☆ なかい702さんは 大局的に・言語学の王道をあるく視点をとうとび 議論をしておられるようですが やはりいまの議論というのは 論点がしぼられています。
⇒つまり、こういう理解でよろしいでしょうか。「言語構造内のいろいろな場面に恣意性が認められるが、ここでの議論では狭義の恣意性、即ち、ソシュールの記号理論でいう第一の恣意性・シニフィアンとシニフィエの相互関係と、第二の恣意性・意味価値の相関関係のみを扱うものとする」という解釈で...続きを読む

QAs examples, he cites the KANJI cha

As examples, he cites the KANJI characters for the " League of Nation " and " United Nation " and such catchy creations an gorin (KANJI meaning " five circles ") to convey the concept of the Olympics.


例えば、「連盟」や「連合」といったものや「五輪」(これは「5つの輪」を意味する漢字である)といった覚えやすい造語の例をあげた。

これってどういう意味ですか?
訳あっていますか?

Aベストアンサー

”League of Nations" の正式な日本語訳は下記のように「国際連盟」ですから、それを使います。
 http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%80%A3%E7%9B%9F/

 「彼は、例として「国際連盟」や「国際連合」の漢字、またよく知られているオリンピックの概念を伝える五輪(五つの輪を意味する漢字)を、挙げている。」

Qウイゲントシュタインの「言語の限界」は「世界の限界」とは?

ウイゲントシュタインの「言語の限界」は「世界の限界」とはいったいどのような意味なのか、説明できる方がいらっしゃいましたらぜひお願いします。

Aベストアンサー

こんばんは。。

 西洋哲学に関しては門外漢なのですけど、言語学・言語哲学関連の本を読んでいると、ウィトゲンシュタインはよく取り上げられますね。
 ウィトゲンシュタイン関連著作を数冊執筆されている黒崎宏氏はご存知でしょうか。
 著作の中で、著者は自説を大まかにまとめる形で記している箇所なのですが、(ご存知でしたらごめんなさい。)
 「ウィトゲンシュタインの『言語ゲーム論』の核心は、すべてのもの一切を、心的なものも物的なものもおしなべて、言語的存在とみなす、ということである。すなわち言語を離れたもの-言語以前に実体としてあるもの-なるものは一切存在しない、というのである。言い換えれば、一切は言語的存在なのであり、意味的存在なのである。」
 黒崎宏『ウィトゲンシュタインから龍樹へ』哲学書房より

 この一文は、「言語ゲーム」=世界と考えていた(←と投稿者が思っている)ウィトゲンシュタインの考え方を端的にまとめてあると思いますし、こういう固定し不変な物事の「実体」を想定しない考え方を打ち出したがために、彼が「哲学を殺した」といわれるのだと思っています。
 「言語ゲーム」=世界であれば、「言語の限界」は、おのずと「世界の限界」になると思います。
 個人的には、ウィトゲンシュタインのこういう考え方は形而上学否定であり、哲学の否定なんだと思っているのですが、こういう解釈が正しいのかどうかはわかりません。
 だいいち、自分は概説書などに引用されている部分を除いてはウィトゲンシュタインの原典を知らないので、これ以上はもうものが言えません・・・(ボロが出た)ごめんください。では。

こんばんは。。

 西洋哲学に関しては門外漢なのですけど、言語学・言語哲学関連の本を読んでいると、ウィトゲンシュタインはよく取り上げられますね。
 ウィトゲンシュタイン関連著作を数冊執筆されている黒崎宏氏はご存知でしょうか。
 著作の中で、著者は自説を大まかにまとめる形で記している箇所なのですが、(ご存知でしたらごめんなさい。)
 「ウィトゲンシュタインの『言語ゲーム論』の核心は、すべてのもの一切を、心的なものも物的なものもおしなべて、言語的存在とみなす、ということである...続きを読む

QHow do I spell my name Chris in kanji?追加質問

「How do I spell my name Chris in kanji?
は第何文型ですか」という質問に対する回答への追加質問ですが、これがHowが副詞だからChrisは名詞が副詞化したものと考えていいのでしょうか。tomorrowが副詞としても使われるようにこの場合もそうででしょうか。そうすると第3文型というのが納得できます。

Aベストアンサー

こんにちは。
>How do I spell my name Chris in kanji?
この答えは、You spell [your name Chris] 駆栗鼠 in Kanji.となりますよね。この文だとSVOCとなりCに当たるのが駆栗鼠です。

従って、your name Chris は目的語の同格と捉えるのが自然だと思われます。
My friend, Chris is a clever girl.ですとMy friend と Chrisが主語で同格ですよね。これと同じように目的語となった場合にも考えればスッキリするのではないでしょうか。結論はSVOで in Kanjiのみが副詞です。

蛇足ですが、spellは本来アルファベットを綴る意味合いが強いので間違いではありませんが、How do I write my name in Kanji? の方がしっくりくるような気がします。
説明になっていれば幸いです。

Q「聞く」「考える」「カンガエル」「考える」「発話」

言葉を通して考える事について。

「聞く」
誰かの発話を空気の振動を経由し聴覚神経を経て
(あるいは何かの本を読んで)
「考える」
発話された意味を言葉に翻訳して理解する、
「カンガエル」
発話による刺激と、脳の中の記憶により、信号に変換
01.01.01.・・・又は、同じ、違う、同じ、違う・・・
この繰り返しの結果
「考える」
脳の中の信号の結果を、言葉に再度翻訳して、
「発話」
『言語のない世界に生きた男』の話は本当ですか?

大変大雑把な図式ですが、
質問は、「カンガエル」と言う部分が、
カントの言葉を借りれば「物自体」にあたり、
感性的な理解は不可能であり、結果として、
思考に言語が必要かどうかを問う事は、断念せざるを得ない。

皆さん、どう思われますか。

Aベストアンサー

関係ない話ですみません。
だって意味がよくわからないものですから。(;;)

でも犬を飼っていると、このあたりの事情がなんとなくわかります。
ノンバーバルコミュニケーションというか、動物との意思疎通というのは
なんとなくありそうな気がします。

犬は考えていないかというと、結構考えているのです。
行動を選択しその結果を喜んだり、落胆したりします。

主人の行動を観察して、「散歩かな?散歩に連れていってくれるかな?」
と目をきょろきょろ、おちつかないそぶりを見せます。
台所でカンッという、皿のふれあう音がすれば「条件反射」で駆け寄って
餌を催促するように吠え続けます。

この条件反射なるものが、実は「カンガエル」の原型であるかのように
思うのです。
記号論的に言えば、意味作用とでもいうのでしょうか、
事象やモノに意味を付与する(意味を選択する)行為が、
「思考」の実体であると思えます。

次に記憶ということがあげられます。
学習といいかえてもいいです。
条件反射は記憶による学習ですが、そこに言語は介在しません。
嗅覚と音などがおりなす気配が、次のおこりうる事象を予感させる
から、犬は吠えたり、そわそわしたりします。

ただ、そこに、いわゆる人間の言語は介在しないのは間違いない
けど、犬は犬なりに一連の気配を、グーとがガルルとか◎$)(’&%$
とか名前はないにしろ感性的に識別してる可能性はあるかもしれない

しかし、一方でそういう行動を観察する人間が「ゴン太。ごはんよ」
とか「ポチ。散歩だよ」と「発話」することで、音を聞き取って、この
僥倖は「ごはん」という発話でもって確定するという学習をしている
という可能性があります。
おそらく、感性的な思考はあると思います。
記憶と密接にむすびついていて瞬間的に一定の結論を導きだします。
それが未来の記憶(デジャヴュや潜在意識)であったりするから
不思議で楽しいのでしょうね。

なんか的外れで恥ずかしいなぁ(^^;

関係ない話ですみません。
だって意味がよくわからないものですから。(;;)

でも犬を飼っていると、このあたりの事情がなんとなくわかります。
ノンバーバルコミュニケーションというか、動物との意思疎通というのは
なんとなくありそうな気がします。

犬は考えていないかというと、結構考えているのです。
行動を選択しその結果を喜んだり、落胆したりします。

主人の行動を観察して、「散歩かな?散歩に連れていってくれるかな?」
と目をきょろきょろ、おちつかないそぶりを見せます。
台所...続きを読む

QCould you help me in recognising kanjis?

こんばんは。I'm a graphic designer from Hungary and I'm working on a logo for a karate club. I can't speak japanese. I have to keep the text on the logo, but I only have a picture in bad resolution. Could you help me in recognising kanjis and paste it for me in the answer? I attached the image below.

Aベストアンサー

Won't you let me explain 國際空手道(KOKUSAI KARATE-DOU) to you a little bit.

國際(KOKUSAI) means "international".
空手(KARATE) means "Karate". It is one of Japanese traditional martial arts.
道(DOU) means some "moral principles".

In short, KARATE-DOU is not mere sports. People training in Karate learn also "moral principles".

By the way, please make Mr. No.1's answer a reference about 國際武道アカデミー(KOKUSAI BUDOU AKADEMII).

Q「ツァラトゥストラかく語りき」の中の「ラクダ」「獅子」「幼子」とは?

ニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」の中に、「三段の変化」という項目があります。「ラクダ」「獅子」「幼子」と、精神が三段に変化を遂げるようすを詳述してあるものですが、いくら読んでも、具体的にどう言う心境の変化を述べたものなのか理解できません。ニーチェは、やはりラクダと幼子を肯定的にとらえ、獅子を否定的に扱っているのでしょうか。
私は哲学はからっきし無学ですので、可能であれば具体的な事例を挙げてお教え下さい。

Aベストアンサー

幸い(?)私も哲学オンチなので、哲学色はヌキにしてお話させてくださいな。

■精神の三段の変化とは

1)ラクダ段階:神にひざまずき、重い荷を背負いたいと願う、服従と勤勉の精神
 俺は傲慢だ、知ったかぶりだ、俺はバカだ。
 そうであることの重荷に耐えられるほど、俺は嬉しい。
 どうか俺の背中に一番重い荷物を乗せてくれ神様。
 俺はどんな辛さにも耐えるから。

2)獅子段階:新しい創造を目指す権利を得る、自由意志発揮の破壊精神
 神とやらが俺に押し付けていた「義務」はもうどうだっていい。
 だって俺はこんなに強いもん。
 俺はきゅうくつな修行から逃れて、そして何者にも縛られない自由を手に入れるぞ。
 俺はもっとすごいことがしたいんだ。邪魔するやつは容赦しない。

3)幼子段階:新しい創造ができる力を得る
 (敬虔であったラクダ時代を忘れ、暴虐だった獅子時代も忘れ、
 すべてを真っ白な新しい気持ちで受け入れ、遊びながら、
 どんどん新しい価値を生み出していく存在。)

途中で「神様」という語が出てくるけれど、
ニーチェの名台詞はご存知「神は死んだ」。
つまりこの書は、キリスト教の価値観でガチガチに固められた世界観をブッ壊して、
それに代わる新しい価値観や新しい人間像を、
ゾロアスター教の神様(ツァラトゥストラ=ゾロアスター)にかこつけて語らせてみているわけです。

神様の教えに従順に従っている段階がラクダ。
それにおかしいと気づき、ぶっ壊そうとあがき暴れまくっているのが獅子。
(獅子でなければ古い価値観をブッ壊すことはできない)
そして新しい価値観を生み出すには、幼子のように無垢でなければいけない。

…とはいえ、「ツァラトゥストラ~」は「福音書」のパロディらしくて、
「幼子」とはイエスその人を指してるみたい。(「幼な子のようになりなさい」っていう聖書の言葉から)
つまり元に戻るだけで、新しい価値は誰も生み出せないという…
恐ろしいオチです。

>具体的な事例を挙げて
夏目漱石の「坊ちゃん」から「三段の変化」を説明しているサイトを見つけました。ご参考になさってください。おもしろかったです。(^^)
ラクダ…うらなり
獅子…山嵐
幼子…坊ちゃん

参考URL:http://www.geocities.co.jp/Bookend/4208/unpublished/enfant.html

幸い(?)私も哲学オンチなので、哲学色はヌキにしてお話させてくださいな。

■精神の三段の変化とは

1)ラクダ段階:神にひざまずき、重い荷を背負いたいと願う、服従と勤勉の精神
 俺は傲慢だ、知ったかぶりだ、俺はバカだ。
 そうであることの重荷に耐えられるほど、俺は嬉しい。
 どうか俺の背中に一番重い荷物を乗せてくれ神様。
 俺はどんな辛さにも耐えるから。

2)獅子段階:新しい創造を目指す権利を得る、自由意志発揮の破壊精神
 神とやらが俺に押し付けていた「義務」はもうどう...続きを読む

QMost of Japanese kanjis can be pronounced in some

Most of Japanese kanjis can be pronounced in some ways. For example, we pronounce "本" hon and moto. Similarly, "東" which is a character contained by our city's name is pronounced higashi, azuma, and to.
は『多くの日本の漢字には複数の読み方があり、例えば「本」はホン、モトと読みます。同様に、この市の名にある「東」はヒガシ、アズマ、トウとも読まれます。』という意味で通じますか?

Aベストアンサー

some →several もしくはmultiple などのほうが良いと思います。
細かいことを言うと、which is a character contained by our city's name は前後にカンマを入れたいところです。

Q「草陰」、「草葉」、「葉隠れ」、或いは「物陰」

 「草陰」、「草葉」、「葉隠れ」、或いは「物陰」ということばや表現に私たちはせっしてきましたし、時には自分でもつかうこともあります。
 質問者は、「草あるいは草葉」、「陰」、「隠れる」、或いは「物陰」という表現が何か共通の感覚や意識、思い方、或いは心性みたいなものががあるのではないかと、ずぅっと気にしているのです。
 このことについて、何でもお教えや参考事項や思われることがありましたら、どうかご投稿くださいますよう、お願い申しあげます。
 美人でえらい皇后陛下が、美しい物だって、時とともに醜く朽ちていくことを知ってもらうために、死体を野ざらしになさったというお話も仄聞した経験がりますし、何か昔は野辺送りは、本当に草の野辺においてきたのだというお話しも伺ったことがあります。
 どんなことでもどうか、お教えください。関係が遠いという判断はどうか為さらないで、衝動でご投稿ください。
 どんな文章でも、漢字変換ミスも読解しますので。

Aベストアンサー

海ゆかば 水漬く屍
山ゆかば 草むす屍

「海ゆかば」を思い出しました。元は古いものなんですね。↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E3%82%86%E3%81%8B%E3%81%B0

>美人でえらい皇后陛下が、美しい物だって、時とともに醜く朽ちていくことを知ってもらうために、死体を野ざらしになさった・・・。

それが、本来の死に方だと思います。
焼き場(火葬場)で、祖母が焼かれようとしているのを見た小さな孫が、「おばあちゃんを焼いちゃダメ、よけい死ぬう!」と泣き叫んでいました。
われわれ、大人は火葬は普通のことと思ってしまっていますが、子供にしてみれば残酷だと思ったのでしょう。

難しいことはわかりませんので、こんなところでご勘弁ください。


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