ソシュールの入門書などを読むと、以下のように言っているように思えます。

<< この世界は、言語によって切り取られるまでは、混沌とした一体であって、個々の「もの」は存在しない。>>

もし、それが正しいとすると、「リンゴ」という言葉がないと、「リンゴ」という「もの」は存在しないということになりますが、それは、おかしいと思うのですが。もちろん、「リンゴ」という言葉を知らなければ、目の前にある「リンゴ」を「これはリンゴだ」とは言えないのは確かです。でも、だからと言って、「リンゴ」と名づけられるはずの「もの」そのものが存在しないということはならないと思います。

ソシュールはどういう意味で、上記のようなことを言ったのでしょうか?

 

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A 回答 (77件中61~70件)

どうもです



なるほど、これもうソシュールとラコンを少し説明する必要がありますね。でも心配しないで下さい、ラコンはソシュールの影響を受けているpsychologistです。それから僕はこの”心”という抽象概念がいまいち掴みきれてないんですよね。”心”というのは、意識、なんでしょうか、それとも無意識なんでしょうか、実は僕にはわかりません。

>人は言語でこの世界を切り取る前に、既に、「心」でこの世界を切り取っている。言語はその「心」で切り取った部分を指し示す音声映像として生み出されたものである。

これは答えるのは難しいですね、”「心」でこの世界を切り取っている”とはどういことなのでしょうか?とりあえず、赤ん坊の話しを少しさせてくださいね。”赤ん坊は、お母さんのお乳を飲んだり、お父さんの指を掴んだりします”についてですが、ここで一つの疑問が生じます。これは母親が望んで赤ん坊にミルクを与えるのか、それとも赤ん坊がミルクが欲しがっているのかです。赤ん坊が胸に吸い付いてミルクを飲むのは、まずは生きるための手段だと思いますが、何も胸からのミルクでなくても良いと思います。自然界では赤ん坊は自らお母さんの乳房を探し、摂取しますが、人間の赤ん坊はどうなのでしょう。おそらく母親が率先して子供に母乳を与えます。この時、赤ん坊はこれがなんであるか理解しているとは思えませんが、彼らは乳を吸うという行動を教えられずに行います。これは彼らはの生きるための本能なのですかね?? 前に一度、大学の友達とこの議論をしたことがありましたが、意見は割れ、結局棚上げ状態になりました。今でも僕はわかりません。でもここで重要なのは、乳を吸うことは生きるための赤ん坊の行為なのか、それとも一度、母乳を与えられたことによって、赤ん坊に欲望が生まれたのか、とうことです。ただしこの段階で言えることは、赤ん坊にこの世界(現象/物質)が理解できているとは思えないということです。それは言語の世界にまだ介入していないからです。

ラコンにthe mirror stage/the imaginary/the symbolというのがあります。子供はある時期に自分の鏡で見た時、これが自分だと分るそうです。しかしこの段階では、彼らには自分の母親と自分の区別がついてはいません。ここでthe symbol、父親の存在が重要になってきます。父親は社会コードの代わりです。ここでのキーワードPhallus/ペニスが重要になってくるんです。ここで男/女 社会の秩序などを、子供達は言語を通して学んで行きます。(あんまり深く書きませんね)僕がここで言いたいことは、自分と他人との差異への理解は言語が密接に関係していることだと思うんです。

質問者さん言うように、”心」でこの世界を切り取っている”後に”言語はその「心」で切り取った部分を指し示す音声映像”生まれてくるようなものではないと思います。子供は、おそらく言語を文字としてではなく、音で理解していくのだと思いますが、ソシュールはその音にも差異があると言っています。例えば"pig","big"という記号ですが、これは頭のp,b が違いだけで違う記号になりますし、p,b 自体にも差異が生じています。この理由から幼い子供は音の差異とそれに付随するイメージで言語を理解しているのではないのでしょうか。そこでsignifier/signifiedですが、この二つは常に二つで一つです。後から自由に決められるものではありません、この二つは恣意的につながっているんです。例えば、pig と単語見たり、聞いたりしたら it triggers off the image conception of pignessって英語でいいます。pig のイメージが頭に浮かぶと思います。ここで興味深いのは、豚(ブタ)とpigとは全く違う言語ですが、僕たちがイメージする物は同じなんです。ただし、これはpigがブタであることを僕たち日本人は知っているからなんでしょうね。(英語圏のブタのイメージは我々とは違うかもしれません。) 親は子供にあれはブタさんだよ、とか、これはイヌさんだよ、というように言葉の音とイメージを同時に子供教え、その中で差異を教えているのだと思います。しかしそれ以前に、幼い子供言葉の差異を教えても、はっきりと動物を区別できているかどうか疑問です。この間、街を歩いていたら小さな子供連れの親子の会話を耳にしました。子供は”mummy,, puppy! puppy! ”と言いながら、猫を指差していました。幼い子供の段階では言語は未発達ですし、差異も見えていないんでしょうね。しかしこれは成長と共に言語を通し、しっかりと輪郭のある差異になって行くんだと思います。

こんな所でどうでしょうか?

参考まででした。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

>それから僕はこの”心”という抽象概念がいまいち掴みきれてないんですよね。”心”というのは、意識、なんでしょうか、それとも無意識なんでしょうか、実は僕にはわかりません。

おもしろい疑問ですね。私は「心」というものをこの世界で唯一「具体的なもの」と考えていました。というのは、目を開けると、目の前にこの世界が見えます。この見える世界は「これ以上具体的なものはないというほど具体的です」。しかし、その具体的世界は、「心に映った世界」であって、心の外に客観的にある世界ではないということです。従って、我々が通常言う「もの」は、正確に言うと、心の外にある世界の「もの」ではなく、我々の心に写った世界の「もの」だと思います。

そして、私が言いたかったのは、この心に写った世界の「もの」は、言語があろうがなかろうが、「はっきりと区別して見える」ということです。例えば、ソシュール言語学の説明によく出てくる例として、虹は7色か4色かは言語が決めているというような話がありますが、それは、虹を直接観察しない人についての話でしかないと思います。虹を直接見れば、それが、7色とか4色とか自然数で割り切れるようなものでないことは明らかだと思います。

ということで、この世界は、目で見れば、様々な異なった「もの」で出来ていることは明らかで、「もの」の区別が明らかだからこそ、それらに、名前を付けることが出来るのではないでしょうか? これは、まさに、「言語名称目録観」であり、ソシュールが「それは、間違いだ」と言っているものですが、何故、間違いなのでしょうか?

>ただしこの段階で言えることは、赤ん坊にこの世界(現象/物質)が理解できているとは思えないということです。それは言語の世界にまだ介入していないからです。

今度は、私の方が抽象的でわからなくなってしまうのですが、「理解できている」とはどういうことでしょうか? 人の心の中は直接わかりません。ましてや、言葉を話せない赤ん坊の心の中はわからないのではないでしょうか? しかし、我々は、一般に「赤ん坊が行動する様子を見て、赤ん坊が何を見分けているか」を判断するのではないでしょうか? 赤ん坊がお母さんのお腹の上を自力で這い上がって、おっぱいのあるところまで口を近づけてお乳を吸うという行動を見れば(先日、TVで出産間もない赤ん坊の行動をドキュメントでやってました)、赤ちゃんが、おっぱいを何らかの形で見分けていることは確かではないでしょうか?

「理解できていないのは、言語の世界にまだ介入していなからです」とのことですが、それは、「言語化できない理解は、理解とは言わない」と定義しているだけではないでしょうか。

>質問者さん言うように、”心」でこの世界を切り取っている”後に”言語はその「心」で切り取った部分を指し示す音声映像”生まれてくるようなものではないと思います。子供は、おそらく言語を文字としてではなく、音で理解していくのだと思いますが....

「音声映像」というのは、ソシュールのシニフィアン(signifier)の日本語意訳です。ですから、文字ではないです。ちょっと変な意訳ですけどね。でも、よく、入門書に出てきます。signifier/signifiedの話はよくわかります。ただ、signifier/signifiedが紙の表裏のように一体で切り離せないというソシュールの考え方は理解できませんけど。

>子供は”mummy,, puppy! puppy! ”と言いながら、猫を指差していました。幼い子供の段階では言語は未発達ですし、差異も見えていないんでしょうね。

済みません。英語が不得意なもので、意味がよくわかりません。「ママ、パパ、パパ」と言いながら猫を指したのではないのですか?

子どもについては、別の興味があります。それは、大人と子どもの違いがどこにあるのかということです。大人だって、知らない言葉は山ほどあります。知らない言葉を聞いたとき、それが、何を意味するかが、はじめ、はっきりわからないのは、大人も子ども同じではないかと思います。だから、「もの」が先か「言葉」が先かを考えるとき、子どもを例に挙げるのではなく、大人を例に挙げても良いはずだと思うのですが。そして、大人の場合を考えれば、ある「もの」の名前を知らないからと言って、その「もの」の存在を他のものから明確に区別できないということはない。それは、明らかだと思います。もちろん、「民主主義」とか「精神」とか抽象度が高いものは、「言葉による説明」を聞かないと、初めから明確ということはないです。今、問題にしているのは、抽象概念ではなく、五感で捕らえられる具体物の話です。

補足日時:2007/07/23 15:34
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すみません。

 哲学書を読んだことのない(ソクラテス アリストテレス
プラトン パスカルとかの名前とかその有名な言葉とかは学生時代に学校で習った程度は覚えていますが)者ですし、長い間ほとんど肉体労働で生きてきました者ですが、このQ&Aに参加を始めたことからこのような哲学と関連するのだろうQ&Aのカテゴリーもまだ少しですが見始めるようになりました。 そういう人間からの回答なのですが、たまには、新鮮ではあるかもしれません。

実は 哲学者という人たち(職業なのか啓蒙的は教育者なのかそういう地位をさすのかもよく解らないでいるので、「人たち」と書いています。)に対して、 そんなに物事を深く明晰に考えていると思われている方々ならなんで、現実に苦しんでる人たちがたった今の今もこの歴史から消えていないというのにそれをすこしでも助けられるようなコンセンサスをその哲学で創っていけないのか? なんでそのコンセンサスの見通しを我々(一般人)に示してくれないのか?   もしかしたら難しい言葉で物事を定義することにオタクみたいに夢中になってしまって、むしろ頭がこんがらがってる人たちなのかもしれない。  深い体験や経験からの時にはその前にもがきのたうちまわるような思いで物事を考えてきた、そんな知恵から「ではどうすれば、すこしでも 人間がより幸せになれるのか」という切実な問題の見通しをさぐる頭脳明晰な専門家たちが哲学者なのではないのではないか? という疑いがありました。  

もちろん知的興味自体の価値をなんら否定していませんし、現に上記の疑いを前提にしてですが、質問者様の明晰性に触れこれから知的分野への私なりの回答を書こうとしているわけです。

 たぶんですが、というよりここでは推理で考えられる解釈のひとつというべきなのでしょうが、ソシュールっつう人は「神」の概念を問題にしたかったんじゃないですか?

物体があってきびしい生活があって サルの能力が(「自己や人間を見つめ反省し進歩できる存在」である人間という生物に どのような突然変異とかでそうなったのかは別の論議であるとして)言語を持つ生物になったのだとしても、  人間の五感をたよりとした認識(知る)能力は、音楽にしても大自然の美しさにしてもその心がどのように人と人の心を結びつけるかを知ることへの感動にしても、そこから「深いとしか言いようのない意味」の存在を、そして、そういう言葉を 事の端のいったんとして認識できるような可能性をもっています。 
(こんなふうな書き方や言い方は普段しませんので、みなさんよりもかえって難しい言い方となってしまってるのかもしれませんね。 でも ともかく書きたい強い衝動のまま書いていってみます。)

するとそこに「神」という概念がうまれ始まるというふうに私は そんなふうに「神」とう概念のはじまりを捕らえています。

 最初は純粋無垢な心と頭脳から生まれたのがその概念だったはずだ というふうにです。

 その「意味」という存在は 人間という頭脳生物がこのだだっぴろいなんてもんじない荒涼とした(?)しすぎるにほどがある宇宙に生まれるまでは存在しなかった。 「もの」の意味も存在しなかった。 したがって
意味にとって者は存在しないに等しかった。
 という要はあたりまえの事を言いたかったのに、めちゃくちゃに複雑な定義群の中で西洋人として「だから神は存在する」という結論を表現したくて
だからみずからこんなふうな解りにくい非論理的でさへある物事の説明となってしまったのでは という推理が こういう文に接するとその本とかを読む前に働いてしまうんです。

でもkobareroさん。 あなたは こういう中途半端のままとなってしまいがちな知性の論議を通して何かを啓蒙しようとされているようにも見えます。 命題ですか? ともかく大事な議論題材を「神」の問題も「存在」の問題もすぐには、明日の世界のための論議の場やそれによって世界をすこしでも良くしてゆくことに繋がらないにしても、これを理論明晰な形で表現したり考えあったり、よりわかりやすいその「命題」の表現をそこに求め続けたりする作業はとても大事なことと感じます。

 この回答文をひねくれもののおもろい知性の参入と受け取ってお楽しみになるのもけっこうですが、わたしは真剣です。 それよりは楽しむならばせめてドンキホーテがここに出現したと思ってもらいたいです。

 言いたいことは、「もしかしたらそちらはわざと「意味」という存在を抜きにした質問をなんらかの理由からでっちあげたというふうに思える」ということと「ソシュールについては、やはり「神」の概念をともかくもつたえたかったんじゃないかというふうに推理されてしかたがない」という文になるかと思いますが、  これ(言いたいこと)解っていただけますでしょうか? 

 こめんなさい 長すぎましたね。

 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>ソシュールっつう人は「神」の概念を問題にしたかったんじゃないですか?

そうかも知れませんね。

「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。....万物は言によって成った。成ったもので、言によらず成ったものは何一つなかった。」と聖書に書いてありますから、まさに、言語で切り取る前は、混沌であったということになりますね。

お礼日時:2007/07/22 22:46

kaitara1です。

なかなかうまく説明しにくいのですがちょっと書いてみます。虫も猿もリンゴをリンゴと認識しているというのはそれでもよいとしても(私としてはそのように考えるとその先をうまく考えて行かれなくなると思っています)虫も猿もそのリンゴと一体化してしまって又バナナに対しても同じことが起こり同一の虫でも猿でもなくなってしまいます。自分が不変でなければ認識の主体にはなれません。つまり自分とリンゴやバナナを切り離せない虫や猿は(人間のようには)認識できないということです。人間も言葉を使わなければ自分に張り付いたリンゴやバナナから自由になれません。あまりうまく書けませんでした。ごまかすつもりはありませんからどうぞご自由に疑問の点をお示しください。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>虫も猿もそのリンゴと一体化してしまって

ここでおっしゃっている「一体化」の意味が、どうしてもわかりません。猿がリンゴを食べるとき、なぜ、猿がリンゴと一体化するのでしょうか?猿はリンゴを自分とは切り離された独立のものであることを当然知っているからリンゴを食べるのではないでしょうか?

多分、私の理解がkaitara1さんに全く追いついてないためと思いますが、正直なところ、全くチンプンカンプンです。 

お礼日時:2007/07/22 21:35

さらに、どうもです。



まずソシュールは言語学者です、ちょっと猿とは関係ないと思いますが、僕なりに書いてみます。

猿にまず言語がないとは、言い切れないのではないのでしょうか。これは推測ですけど。彼らはもちろん、僕らの言うリンゴと呼ばれる記号を持ち合わせてはいないでしょう。でもひょっとしたら”キッキー”がリンゴかもしれませんが。冗談はこのくらいにして、彼らがその赤い物が食べられるもだと認識するのは、経験からでしょうね。これは僕ら人間にしても同じことではないでしょうかね。ロック/ヒュームというイギリスの経験主義者達は人の知識は経験にあると述べています。それがなんであるのか、経験を通して認知していくわけです。でも僕は思うんですけど、経験は言語を通してやはり、知識をつくっていくのではないのでしょうか。例えばぶつかれば、痛い!っていいますし、猿だって痛たければわめくと思います。でも言語体系が猿より複雑/豊かな人間のほうがやはり理解力があり、推測したりする能力を保有しています。それはやはり言語を通して差異がよめるからではないのでしょうか。

経験に関しても、 甘い、酸っぱい、辛い、食べられる、食べられないなど差異は存在します。ただし猿が人間と同じ味覚を有しているかどうかは僕にはわかりませんし、彼らは、一度食べてまずければ、食べないだろうし、おいしければ、それを学習してまた同じ物を見た時に、食べる行為に繋がっていくのだと思います。でもそれが、形で彼らは見ているのか、匂いなのか、色なのか僕にはわかりません。僕は動物学を学んでいないので、このへんで勘弁して下さい。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

いや、別にサルでなくてもいいですよ。人間の赤ん坊でも同じことです。

人間の赤ん坊は生まれたときは、言語を習得してないと思います。でも、赤ん坊は、お母さんのお乳を飲んだり、お父さんの指を掴んだりします。すなわち、言語を知らない赤ん坊にとっても、世界は混沌ではなく、既に、いくつかの対象に区切られた差異を見出しているのだと思います。

私の当初の質問が混乱を招いているかもしれませんので、以下のように別の質問に置き換えさせていただきます。

<質問>
私は、以下のように考えます。

人は言語でこの世界を切り取る前に、既に、「心」でこの世界を切り取っている。言語はその「心」で切り取った部分を指し示す音声映像として生み出されたものである。

しかし、ソシュールは、言語が生まれる前に、「心」がこの世界を切り取っていることを否定しているのではないでしょうか? いや、そんなことはない、ソシュールの考えは、私の上述の考えと同じだというのなら、私の疑問はキャンセルします。

お礼日時:2007/07/22 21:29

#10です。



>動物にとっては、「この世界」と言われても、それが何を意味するかはわからない
:ご質問の内容はソシュールという人が考える「この世界」というものに対する視点の取り方の問題だと思うのです。
言語化されて切り取られることによって「この世界」が混沌から「(思考対象としての)個々のもの」の集合として認識できるようになる。
思考における言語の重要な役割を述べている箇所なのではないでしょうか。
おっしゃるとおり、思考のないところには「この世界」という認識自体が存在しないわけで、その場合、あえて「世界という言葉で表現されるもの」を想定する意味はないという考え方なのではないかと思ったわけです。
 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/08/06 23:02

>アメリカ人にとって、appleはあるけれど、リンゴはないというのと同じことになりますが、ソシュールは、わざわざ、そういうことを言いたかったのでしょうか。



ソシュール的に言えば混純という存在(シニフィエ)が先にあって
その後リンゴというものが出来たと言いたいのだと思います。
リンゴその物を見ても動物からしてみたら「あリンゴだ」と思って
食べてるわけではないです。
感覚情報的にえさを食べている、もしくはそのほかの用途として存在
しているに過ぎずそのことをソシュールは混純とした一体としてと
らえているのでそこで言葉(シニフィアン)である存在を表すことに
よって「物」として表すことが出来ると言いたいのだと思います。
シニフィエがシニフィアン化される事によって「物」が発生すると
いう表現方法です。(たぶん・・・・)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

全く、おっしゃるとおりですが、ソシュールはそのようには言っていないと思います。ソシュールは、シニフィアンとシニフィエは紙の表裏の関係であって、切り離せない結合体(シーニュ)であると言っていると思います。だから、シニフィエが先にあって、それに、名前を付けるがごとくにシニフィアンを結ぶ付けるというようなことを否定していると思います。

この点が、私が理解できないことであり、質問していることと密接に関連している点です。

お礼日時:2007/07/22 20:27

どうもです、回答欄読ませていただきました。

まず、前の書き込みに誤字、脱字があったことをお詫びします。

ちょっと、果物から離れて考えてみましょうか。そうですね、例えば男と女という言葉の存在。この内、女という記号を完全に消し去って、更に記号(女)を説明する必要な記号も消してしまいましょう。そうして記号(男)を説明できますか?おそらく無理でしょうね。記号(男/女)はその差異によって意味を増やし、また他の記号を借りて男/女を表象しています。そうして今度は、両方の記号を失ったとしましょう。たしかにかつて男と女と呼ばれた物体は、そこにはありますし、物体のつくりの違いから違う物体であることは、おそらく理解できるでしょうね。でも違いが分るということは、すでに何かと比べると言う動作を要求されます。じゃ、何がどう違うのか、これは記号の差異、それに伴う表象において物体の違いを理解するということなのでしょうね。つまり差異を示唆した時点で、言語の切り分けをすでに行っているということではないでしょうか(ちょっと乱暴な書き方ですけど)。

そうしてもう一つ大切なことは記号の中には、イメージを伴わない物もあるということです。(god, love, freedom) これらは、signifierだけで、signified (image conception)を欠いています。でも私たち、それがおおよそなんであるかは理解できると思います。それはやはり他の記号との差異によって、意味が生まれているからなんですよ。つまり、漠然と二つの物体があって、差異が分らなければ、やはり僕たちはそれがなんであるのか、理解できないんです。

また、物体という単語もまた他の記号に支えられた一つの記号にしか過ぎません。

ソシュールを読む上で大切なことは、彼がstructurelist/linguistであることを念頭にいれて読むことです。彼はphenomenologistではありません。

言語で世界を切り分けるとは、物体に差異を作り出し、カテゴライズすることにより、物体は言語によって表象されるということだと思います。

最後に、もしソシュールの細かい部分で分らないことがあれば、おつきあいします。僕も勉強になるので。

参考まででした。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>でも違いが分るということは、すでに何かと比べると言う動作を要求されます。じゃ、何がどう違うのか、これは記号の差異、それに伴う表象において物体の違いを理解するということなのでしょうね。つまり差異を示唆した時点で、言語の切り分けをすでに行っているということではないでしょうか(ちょっと乱暴な書き方ですけど)。

「対象に差異を見出すこと」=「言語能力」と定義すれば、おっしゃるとおりだと思いますが、通常は、「言語能力」をそこまで拡大して考えないのではないでしょうか。

例えば、サルがリンゴを掴んで食べる行為を見ると、サルは「リンゴ」と「リンゴ以外のもの」の差異を感じ取っていることは確かだと思いますが、でも、だからと言って、サルは「言語能力」を持っているとは、通常、言わないと思います。

お礼日時:2007/07/22 20:19

ソシュールさんという方は知らないのであて推量で考えてみます。


自我に目覚める前の赤ん坊にとっての世界は「混沌とした一体」であるだけで十分、ということにもなるのでしょうか。
快をもたらすものか不快なものかだけで十分納得していると思います。

「言葉によって切り取る」という行為は「個々のもの」を認識する欲求に駆られるからで、また、それが言葉が必要とされる理由でもある。
りんごという言葉が無くてもりんごは存在するが、たとえば食べられるものかそうでないものか、だけの区別より必要とされない場合、言語としての「りんご」は不要である、といったような意味かと感じました。

>「リンゴ」と名づけられるはずの「もの」そのものが存在しないということにはならない
:というより、その実がりんごと名づけられていなければ、バナナと名づけられるものもないはずで、さらに果物という言語もないでしょうし、「植物」もなく、「当初の位置を動かないもの」「食べられるもの」といったような感覚でしか捉えられないでしょう。
ですから動物にとっての「この世界」は無いということになるように思います。
人間が「この世界」という認識を持つのは、すでに言語による「個々のもの」の切り取り作業がある程度進んだからこそ、といったようなことになるのか、とも思いました。
 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>ですから動物にとっての「この世界」は無いということになるように思います。

確かに動物にとっては、「この世界」と言われても、それが何を意味するかはわからないわけですから、我々が言っている「この世界」はないと言えないこともないですが、だからと言って、動物にとって、目の前の森や、自分を襲ってくる敵や、雷の音や、風や、川の水がないと言うことにはならないと思います。動物は、それらを総称して「この世界」と呼んだりはしないというだけのこではないでしょうか。

お礼日時:2007/07/22 20:03

「実在」と「実存」


「実在」と「実像」
「実像」と「心像」
「姿」(figure)と「形」(shape)

を考察した上で、
真理と虚偽の本性について B・ラッセル
http://www.geocities.jp/mickindex/russell/rsl_oN …
バートランド・ラッセル
http://www.geocities.jp/mickindex/russell/idx_ru …
を読んでみてください。(1900年代に記したものなので、非常にまとまっていると思います。)
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この回答へのお礼

私の質問との関連からは、少し離れてしまっているように思いますが、参考にさせていただきたいと思います。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/22 19:34

リンゴを食べる虫の事を考えると、この虫はわれわれから見ると確かにリンゴを認識しているように見えます。

しかし虫はリンゴと一体となっていて時々刻々虫自体も変化していきます。つまりわれわれが虫に成り代わってリンゴを認識しているに過ぎません。つまり虫はりんごあっての虫であって主体的に存在しているのではないということです。人間は脳が発達した為にリンゴと一体化して時々刻々変わらない言語を作り出したということではないでしょうか。人間がリンゴをかじっても虫が食べるときと同じようにリンゴは時々刻々変わっていきます。体から考えると人間も虫と同じです。こういう状態を混沌といえると思います。言葉はこのような混沌という液体を保存する容器のようなものと考えると言葉のほうが後でよいのではないかと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

済みません。虫とリンゴの関係についてのお考えは、何をおっしゃろうとしているのかよく理解できませんでした。多分、私にとって、虫の心は理解の範囲を超えているためだと思います。

もう少し身近な例で、例えば、サルの場合はどうでしょうか。

サルは、リンゴもバナナも食べます。ある種のサルは、芋を水で洗って食べます。これは、サルとって、リンゴ、バナナ、芋、水は、言葉で区別はできなくても、心で区別しているということではないかと思います。ということは、この世界を言葉で切り取るまでは、世界は混沌としているとは言えないと思うのですが。

お礼日時:2007/07/22 19:31

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時と場合によるのでしょうか?それとも同時ですか?

Aベストアンサー

こんにちは。

これは難しい質問ですね。

概念は実在するという概念実在論やイデア論的な考え方に立てば、
概念や意味が言葉に先行する、
となります。
そして、
言葉は概念や意味などを音声や文字などによって表わしたもの、指し示すもの、となるのでしょう。
非常の素朴な考え方ですけれど、説得力があります。

人が何か新しい言葉を作るとき、その言葉で指し示されるもの、そのものの性質、意味などは、すでに心や頭の中にあります。そして、新しい言葉が生まれます。
何かを他人(ひと)に伝えたい、しかし、それを表現する言葉が生まれない、ということも、よく経験するところです。

ところで、「猫」という漢字があります。この漢字・言葉の持つおおよその意味は決まっています。そこにわたしが誰も考えたことのない新しい、これまで存在したことのない意味を加えたとします。この時、「猫」という言葉・漢字、記号にこの新しい意味は先行していたと言えるのか?
概念実在論やイデア論的な立場に立てば、
その新しい意味は最初からあったのだ、その意味を発見しただけにすぎない、となるのでしょう。
ただ、これは大いに疑わしいですよね。
他の人がその新しい意味を認めるかどうかとは関係なく、
わたしは、「猫」という漢字にあたらしい意味を創造し、そして、意味を付加したのかもしれません。そして、この場合には「猫」という漢字・言葉が先行しています。この時、言葉の方が意味に先行していると言えるのではないでしょうか。

また、言葉にすることによって、それまで漠然としていた心の中のイメージがはじめて明確なものになるという機能・役割も言葉は持っています。そして、その言葉によって、言葉にすることによって、意味がハッキリと定まる。哲学的に言うと、外延や内包が定まる。こうした機能を、言葉は持っているようにも思います。言葉がその意味をかたどる、そうした機能を同時に、言葉は、単に意味を指し示す、表わすだけではなく、持っているのではないでしょうか。

ところで、
わたしがこの世に存在しないもの、「猫ミミズ」なる新しい単語を作ったとします。「猫ミミズ」なんて生き物をわたしは知りませんし、このような生き物がいるとは考えられません。心の中に浮かんだ「猫」と「ミミズ」という言葉を組み合わせただけなので、この「猫ミミズ」がどんな姿をしているのか、その具体的な姿もありません。しかし、わたしが「猫ミミズ」という言葉を作り、ここで書いた以上、「猫ミミズ」という言葉は存在しています。この時、「猫ミミズ」という意味や概念が、「猫ミミズ」という言葉に先行していたのか、これはかなり疑わしいですよ。

こんにちは。

これは難しい質問ですね。

概念は実在するという概念実在論やイデア論的な考え方に立てば、
概念や意味が言葉に先行する、
となります。
そして、
言葉は概念や意味などを音声や文字などによって表わしたもの、指し示すもの、となるのでしょう。
非常の素朴な考え方ですけれど、説得力があります。

人が何か新しい言葉を作るとき、その言葉で指し示されるもの、そのものの性質、意味などは、すでに心や頭の中にあります。そして、新しい言葉が生まれます。
何かを他人(ひと)に伝えたい、しかし...続きを読む

Q「言葉は物の名前である」は何故間違いか?

「言葉は物の名前である」は何故間違いなのでしょうか?

現実世界における物は、言語以前の段階で、既に(非言語の)意識によって区別されていると思います。その区別され切り取られた意識対象に対して、名前を付けたのが言葉ではないかと思います。従って、「言葉は物の名前である」は、正しいのではないかと私には思えます。しいて厳密に言えば、「言葉は、現実世界から、非言語の意識によって切り取られたイメージ(もの)に対して付けられた名前である」ということになると思います。

ところが、ソシュールの解説書などを読むと、それは、間違いだと書かれています。言語記号(シーニュ)は、現実世界に基づく区切りではなく、シーニュ同士の相互関係によって恣意的決まると言っているように思えます。

そんなことが本当にあるのでしょうか?
何故、「言葉は物の名前である」は間違いなのでしょうか?

Aベストアンサー

う~ん、難しいですね。

確かに、前回の回答は不出来ですね、最初の回答で、問題点は一点と指摘しながら、三点に広げ、結果、説明不足と、音と文字の混乱まで呈しています。
前回、私はソシュールの弁護人では無い、と書きましたが、決して否定しているわけではなく、了解できる部分と、どうなのだろうか、と疑問を持つ部分とがある、と言うことです。それと、ソシュールの解説書の類は、フランス語やラテン語といった言葉で、具体例の説明をしますから、実は私もチンプンカンプンのよく解らない部分が多いのです。

今回は、「記号は、聴覚像と概念を結びつける」「言葉は物の名ではない」この二つの言明から私の解釈に基づいて、再検討いたします。以下は私見で、正否は、ご質問者様がご判断ください。

一点、テレビに関する事だけです。
A「明日テレビを買いに行く」B「昨日はテレビを見ましたか」
Aのテレビは物の名と言ってよい表現ですが、Bのテレビは、電源の入っていない、黒い画面の四角い箱を見たのか、と聞いている訳ではなく、ニュース・野球と言った番組を見たかどうかを聞いています。つまり、テレビは四角い箱型・薄型四角形と言った形状ではなく、その意味と言いますか、使い方、楽しみ方の内容をテレビと言う記号で結びつけていると言う事です。前回の回答で、テレビをアルカイックな社会に紹介する件を例に取りましたが、テレビを持っていくだけでは説明不足でした、可能かどうかは解りませんが、ともかく、そのアルカイックな社会で、通用する内容のテレビ番組を放送しなければなりません、四角い箱がテレビと呼ばれる事を伝えても、それが何であるのか、その四角い箱の意味は、テレビを楽しむ経験によって、これがテレビと言うものかと、理解するのではないでしょうか。

そのような経験なしで、いきなりテレビを見せれば、原住民は逃げ出すか、槍を取って構えるのが関の山、彼らにとって、この四角い箱が、楽しんだり、情報を得たりするための便利な道具だと言う、意味や概念を把握して、テレビ(勿論、此処でテレビと名付けずに、持って来た人の名前を付けても自由です)と言う言葉を理解する事が出来ると思います。
無論、この様な事が、個人的ではなく、一つの言語領域での意味や共通認識又は習慣として波及していく必要があります。

つまり、テレビと言う音が、テレビの持っている意味内容に結びついている、そして、テレビと言う音は、偶然の産物で「レビテ」と最初に決めれば、それで言葉は通用することになる。この様な考え方を進めてみると、「言葉の前に概念がある」と言う言い方も、出来るのかもしれません、有効なものは模倣されますが、この点に関して、私にはよく解りません。

以前、ラジオで、中国ではテレビと言えば天気予報と言う反応が高いと聞いた事が有ります、想像ですがテレビで共産党の宣伝ばかりで、役に立つのが天気予報だとすると、テレビと言う言葉の意味は、天気予報を見る道具と言うことになるのでしょうか。
テポドンの件も、某国での意味と日本語の中で語られる意味は違うのではないでしょうか、日本で「テポドン」と発話されれば、日本と非友好的な某国が、日本に向けて発射される危険性の高い、ミサイルで、アメリカのミサイルとは違う。マズ有り得ませんが、アメリカのミサイルを何処かの組織が闇ルートで、某国へ売り渡した場合、そのミサイルに何と言う名を付けるでしょうか?。

川と河の件は、音と表意文字を混同しています、この件は撤回いたします、失礼しました。

最後にソシュールの弁護を。
『ある人々にとっては、言語(ラング)は、その本質的原理をつきつめれば、ひとつの名称目録にほかならない。いいかえれば、同数の事物に対応する用語のリストである。たとえば

樹の図柄/ARBOR  馬の図柄/EQUOS 等々

この考え方には、多くの点で批判の余地がある。それは、語よりも前に存在するすでに出来上がった観念を想定している。・・・それは、名称を事物に結びつける絆がじつに単純な操作であるかのように思わせるが、それは真相とははなはだしく遠いものである。それにもかかわらず、この速断的な見方も、われわれを真理へ一歩近づけることはできる。』
一般言語学講義『ソシュール言語学入門』フランソワーズ・ガデより孫引き
それ程、決め付けてはいないようなのですが。

ついでに、日本語の例をとって解説した本が見つかりました、自分で読んでいない本をお奨めするのは如何なものかとも思いますし、私の解釈と全く違うかもしれませんが、一つ参考までに。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4327376914/503-1065858-7896719?v=glance&n=465392&tagActionCode=charmatwebryi-22

補足
アフリカ社会の文化に関する研究報書の中に
ヨーロッパ文化に接触していない人々は、絵画を鑑賞する習慣がない、或いは、一部の文化では、花を美しいと感じたりする習慣がない、と言った記述を、複数の本の中で、読んだ事があります。

う~ん、難しいですね。

確かに、前回の回答は不出来ですね、最初の回答で、問題点は一点と指摘しながら、三点に広げ、結果、説明不足と、音と文字の混乱まで呈しています。
前回、私はソシュールの弁護人では無い、と書きましたが、決して否定しているわけではなく、了解できる部分と、どうなのだろうか、と疑問を持つ部分とがある、と言うことです。それと、ソシュールの解説書の類は、フランス語やラテン語といった言葉で、具体例の説明をしますから、実は私もチンプンカンプンのよく解らない部分が多いの...続きを読む

Q唯名論

唯名論というのはどういうものなのでしょうか。かみ砕いて教えていただければと思います。

Aベストアンサー

 普遍論争で「実在論」と対立した「唯名論」ですね。「噛み砕いて」とのことですが、そのためには「実在論」と対比して示したほうがわかりやすくなると思いますので、そうさせていただきます。

 まず「普遍論争」というのは11世紀後半から14世紀にかけて続いた中世スコラ哲学最大の論争です。一方は「実在論 realism」陣営、一言で言えば「普遍は個物に内在する」と考える立場。他方は「唯名論 nominalism」陣営で、これも一言で言えば「普遍は名辞・呼び名にすぎない」と考える立場です。(なお、realismの訳語としては従来「実念論」というのが一般的でしたが、誤解を招く部分があるので最近は「実在論」と訳されます。)

 では実在論から。
 「普遍は個物に内在する」とはどういうことか。「人間」を例にとります。現実に存在する人間には、もちろんそれぞれの個性があります。容貌もちがいます。そういう個別にちがう部分をどんどん削り取っていけば「人間」の共通部分が残るのではないか、「人間」というものの普遍的な形が得られるのではないか、というのが実在論の発想です。さらに、こうして得られた普遍的な形が実在しているのだと、この立場は主張するのです。
 と言っても、その「普遍的な形」が単一のモノとしてどこかに存在しているわけではありません。複数の人間それぞれの中に、その数だけ置かれており、しかし一切のちがいは除去されていますから、まったく同一のもの、区別できないものとして存在している、というわけです。

 対するに唯名論。
 「普遍は名辞にすぎない」。言い換えれば、「普遍」はモノとして事物に内在しているのではなく、外から付けられた呼び名でしかないということです。三角形は3本の直線から成りますが、実際にはいくらでも多様な形が作れます。「それらに共通する普遍的な三角形」と言われても、困りますでしょう? どんな三角形でも、三角形なら、立派に三角形なんですから。となれば、「三角形の普遍」とは「3本の直線から成る図形」すべてを一括して呼称する「三角形」という呼び名なのだ、と言った方がよい。
 「昆虫」でもいってみましょうか。「人間」ならば、いくらか「普遍的な形」がイメージしやすいのですが、昆虫となるとたいへんです。トンボとちょうちょ…とか…共通する「形」が実在するものとして考えられるか…うーん…ちょっとムリそうでしょ? 昆虫の場合、言えるのは「頭・胸・腹の身体と6本の足を有する節足動物」ということであって、この定義によって共通する性格をもったものを「昆虫」と呼んでいるだけです。
 という感じに、「普遍は唯の名前だ」と考えるのが「唯名論」です。

 ちなみに、実在論と唯名論を統合する第三の立場として「概念論」という立場もあるのですが、誰をこの立場に立った人と分類するかという点に問題があり(分類しきれないのです)、そうなるとこの「概念論」なる立場の内実も非常に規定しにくくなりますので、これに関してはプロの研究者でも言及には慎重になります。つーわけで、私ごときにはこれの解説はできません。

 …と、書きに来たらAliasさんの回答が…。
 えっと…実はその…Aliasさんが紹介されている「観念(イデア)として実在」という部分がですね、「実念論」という訳語がもたらす誤解なのです。実在論はプラトン哲学との直接の関係はありません。実在論の主張は、あくまでも「モノとして実在する」ということだったのです。

 普遍論争で「実在論」と対立した「唯名論」ですね。「噛み砕いて」とのことですが、そのためには「実在論」と対比して示したほうがわかりやすくなると思いますので、そうさせていただきます。

 まず「普遍論争」というのは11世紀後半から14世紀にかけて続いた中世スコラ哲学最大の論争です。一方は「実在論 realism」陣営、一言で言えば「普遍は個物に内在する」と考える立場。他方は「唯名論 nominalism」陣営で、これも一言で言えば「普遍は名辞・呼び名にすぎない」と考える立場です。(なお、realismの...続きを読む

Q恣意性について教えてください★

学校でレポートが出たのですが
いまいちよくわかりません

どなたか、わかりやすく
ソシュールやメルロ・ポンティの言う
恣意性について教えてください!!

Aベストアンサー

 言語は通常<意味>をもって流通しているとみなされています。私が<赤>と発語することによって、聞いている相手は「あざやかであれ、にぶくあれ、赤い色を想定」します。ですから、言語にはもともと<意味>が付与されているから、私たちは混乱なく言語を使用している、と思っています。言語とは、おおまかな意味をしか伝えていませんね。
 しかし、「このつらい気持ちをわかって欲しい」という<意味>を伝えようとすると、私たちは10人の人に、その意味を語ってもらえば、何がなんだかわからなくなってしまうのではないでしょうか。どんな風につらいのか、喘息のような息苦しさなのか、ボーッとした不安が続いてつらいのか、次に、気持ちとは何なのか、こころなのか、意識なのか、心臓のあたりなのか、大脳新新皮質のあたりなのか。
 つまり、私たちは、言語は意味されることがしっかり定着しているから言語を使っている、と考えていますが、<意味>することを語るために使用している風に見えながら、その<意味>自体もあいまいで、<意味>されることまでは当然考えて使用していない、ということなのです。

 これらを象徴する例として、私は「鳥の鳴き声」をあげたい、と思います。鳥は何故鳴くのでしょうか?

 それは、恣意なのです。つまり、意味もなくただ鳴きたいから鳴いているのです。自由勝手気ままに、意味もなく、聞かれることも予想せず、ただ鳴いているのです。これが言語は恣意である、という意味なのではないでしょうか。

 私たちは、言語といえば<意味>の上に成り立っている、と考えがちですが、アとカが重なって<アカ>と言い、これで<赤>という意味が成り立っているわけではないのです。たまたま、アオと発語されていないからアカ、と差別化出来るだけのことで、言語は、こうした音の差違に基づいた分別作用でしかないのです。この分別作用が<意味の根拠>になっていくわけですが、これすらも、鳥の鳴き声と同じで、その根幹では、<意味>なく、自分にとって発語することが楽しいから、遊んで鳴いているだけなのかも知れません。ただ、それが、チュンチュンとキーキーで<意味>が違っているな、と想像するだけのことです。

 こうしたことを、言語の恣意性、と言うのではないか、と記憶します。

 言語は通常<意味>をもって流通しているとみなされています。私が<赤>と発語することによって、聞いている相手は「あざやかであれ、にぶくあれ、赤い色を想定」します。ですから、言語にはもともと<意味>が付与されているから、私たちは混乱なく言語を使用している、と思っています。言語とは、おおまかな意味をしか伝えていませんね。
 しかし、「このつらい気持ちをわかって欲しい」という<意味>を伝えようとすると、私たちは10人の人に、その意味を語ってもらえば、何がなんだかわからなくなって...続きを読む

Qソシュールの《言語記号の恣意性》は 神話である。

 ソシュールの《言語記号の恣意性》については まだ或る程度の《定説性》が残っていますが これが ただの神話であることを次のように証明します。当否・成否を問います。


 まづ先にその例証となる言語現象をかかげます。

  / nVgV /という形態素を取り上げます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。これは 子音の / n / や / g / が同じというようにシニフィアン(≒音素)が同じなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。
 すなわり この / nVgV /という語の形態においては いづれの場合も《障害や邪魔の除去》という意味を帯びて 共通であるという例です。

 (1) / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ

  すなわち 《 nagi=薙ぎ》は 伐り払うべきものが障害・邪魔と見なされている。
  《 nagi=凪ぎ》は 波風が同じくそう見なされている。
  《 nagi=和ぎ》は 心の動揺などがそう見なされている。
  そうして その障害ないし邪魔と見做されたものを 除去する。またはそれらが除去される・消滅する というシニフィエとなっている。


  ちなみにここで例証の中身を示すならば ソシュール(ないし丸山圭三郎)の仮説では ここで言えば子音の / n / や / g / は それとしての意味はまったく無く 恣意的に / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎといった語として成ったと言っています。

  / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった語例において 子音の n や g といったシニフィアンと 語義の《薙ぎ・凪ぎ・和ぎ》とのあいだに 何ら自然でかつ論理的なきづなは無いという説なのです。


 (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれています。けれども ここでも  / nVgV / というシニフィアンには いづれの語でも同じシニフィエ(≒意味)が見られます。《障害の除去・邪魔の消滅》というシニフィエが共通です。ソシュールの説では そんなことはあり得ないというものです。

  nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)
  naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)
  naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く) 
  naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)


 さらに語例を伸ばします。
 (3) 《和ぎ nagi 》関連で 母音の交替をも加えて この / nVgV / なる音素には 共通の意義素が潜んでいるという語例です。

  nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)
  nago-mu   和む     (障害が消滅していく)
  nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)
  negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)
  nega-u   願う      (障害の消滅を希求)

   *

 どうでしょう。言語記号の恣意性なる仮説によれば こんな現象はあり得ないことになります。
 
 ちなみにその仮説によれば 例外なる事態は 次のようだと言います。

 オノマトペつまり擬音語や擬態語では 音素(シニフィアン)と意義素(シニフィエ)とのあいだにつながり(きづな)があると言います。

 郭公は その / k / の音素を鳴き声に合わせてどの言語でもというほどに同じ音素から成る語として持たれているようです。
 
 日本語で 光がピカッとかがやくという様態に合わせて ひかり・光るという語が得られています。

 あるいは例外としては いわゆる派生語の場合が挙げられます。これは 同じひとつの語根から派生するのであるからには 当然だと考えられます。

 つまり

  nagi 和ぎ
  nago-ya-ka 和やか   
  nago-mu   和む

 これらは じつは派生語として / nVgV / なるシニフィアンに同じ共通のシニフィエがあっても 恣意性の説の反証にはなりません。という考察は すでに成されています。
 (ナグサメ=慰めも 派生語であるかも知れませんね)。






 例外を別とすれば じんるいが言語を獲得したのは その語彙の全体を――その時点で―― 一気に得たのだと言います。個々の語は互いにその語としての差異によってのみ 関係しあいつつ 使い分けされているというものです。(語としてというのは 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》とが一体となったそれぞれの語としてです)。

 あとで造語される語を別として 或る時点で語彙の全体を ひとつの体系として 得ることになったのだと説いています。

 そうであるにせよ無いにせよ 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》として成る語には その関係性(つまり ∽ として示したそのつながり方)が 自然で論理的なきづなを持つと例証によれば考えられます。


 さらにくわしい議論をおぎなわなければならないのですが こういった問題が ソシュール≒丸山圭三郎の理論にはあると言ってよいと考えます。


 * おぎなうべき議論の一端として:

   音素・・・・=・・・・意義素
   _______________
  / n /  = 同定相・否定相
  / g /  = 反出相;反定相・疑問相・変化相

 といった仮説を前提としています。
 いま

  / n /=否定相 + / g / =変化相(変化ゆえ 過程相・移行相)

 といった複合によって

  / nVgV /なる音韻(シニフィアン)
    =《障害の除去・邪魔の消滅》なる意義(シニフィエ)

 といったじっさいの語例が作られているという見方を 例証(反証)として提出しました。



 ただしここで 否定相の子音 / n / が 薙ぎにおいてはなぜ《伐採すべき草や木》を内容とする《障害・邪魔》として認定したか? それは 分かりません。恣意的に決められたとしか言いようがありません。

 つまり 凪ぎや和ぎにおいてはそれぞれ《波風》や《心の不安》を 何故ほかにも数ある障害や邪魔の中からえらんだのか? それは 分かりません。



 

 * すでに問うたことがあります。けれども ジョウシキが間違っているなら 何度でも問うべきかと考えます。
 【Q:《言語記号の恣意性》は 神話である。】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5664705.html

 ソシュールの《言語記号の恣意性》については まだ或る程度の《定説性》が残っていますが これが ただの神話であることを次のように証明します。当否・成否を問います。


 まづ先にその例証となる言語現象をかかげます。

  / nVgV /という形態素を取り上げます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。これは 子音の / n / や / g / が同じというようにシニフィアン(≒音素)が同じなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。
 すなわり この / nVgV...続きを読む

Aベストアンサー

「お礼」への書き込みをありがとうございます。

> ☆ なかい702さんは 大局的に・言語学の王道をあるく視点をとうとび 議論をしておられるようですが やはりいまの議論というのは 論点がしぼられています。
⇒つまり、こういう理解でよろしいでしょうか。「言語構造内のいろいろな場面に恣意性が認められるが、ここでの議論では狭義の恣意性、即ち、ソシュールの記号理論でいう第一の恣意性・シニフィアンとシニフィエの相互関係と、第二の恣意性・意味価値の相関関係のみを扱うものとする」という解釈です。もしそうでしたら、部分的ですが納得できます。

> 第一の恣意性は 記号(シーニュ)内部のシニフィアンとシニフィエの関係において見い出されるものである。つまりシーニュの担っている概念 x とそれを表現する聴覚映像 y との間にはいささかも自然的かつ論理的絆がないという事実の指摘であって具体的にはchien なる概念が/(シアンという発音記号)/という音のイメージで表現されねばならないという自然な内在的絆は存在しないということである。
⇒フランス語圏では[ʃj~?]という音を聞きいて脳内にその聴覚映像を結んだら人は「犬」を了解するが、それは[ʃj~?]という音と「犬」とが直結しているからではありませんよね。それは単に、フランス語での語義に関する社会的慣習に過ぎません。その証拠に、例えばアメリカでは人の名前だと思うかも知れないし、日本では赤塚不二夫の漫画に出てくるズッコケ表現だと思うかも知れません!
 ということで、[ʃj~?]というシニフィアンと、「犬」というシニフィエとの対応関係は、一重に、フランス語における「恣意的な約束」である…と、こういうことになりますよね。

> これに対して第二の恣意性は 一言語体系内の記号(シーニュ)同士の横の関係(←→)に見い出されるもので 個々の辞項のもつ価値がその体系内に共存する他の辞項との対立関係からのみ決定されるという恣意性のことである。
> 具体的に言えば 英語の mutton の価値がフランス語の mouton の価値とは異なる その異なり方の問題で その言語の形相次第で現実の連続体がいかに非連続化されていくかという その区切り方自体に見られる恣意性にほかならない。
⇒意味価値の相関関係は常に蠢いていますね。これは任意のどの言語でも当てはまります。もし、変動も何もなく安定しているような言語があるとすれば、それはすでに話し手のいなくなった「死語」でしかあり得ません。このような意味価値の相関関係の変動ぶりは、その言語における2つの異なった時期の共時態を比べてみれば一目瞭然です。そして、その間の通時態を時系列に沿って追ってみれば、その経過のほども分かります。
 ところで、その意味価値内の相関関係の変動は、何によって引き起こされるでしょうか。一方には「言語構造のひずみ」という誘因があり、他方には「そのひずみを何らかの方法で是正したい」という使用者側の動因があります。そして、その運動の遂行を決定づけるのは後者すなわち人間の側(の動因)であり、まさにそこに件の恣意性が関わってくる…と、こういう仕儀ですよね。

> ☆ 《結果的産物》としての第一の恣意性が成り立っていないということが明らかになれば どうなるでしょうか? つまりここでの反論は《第一の恣意性》が事実ではないと示して反駁するものです。これだけで反証は成し得たと考えています。
⇒さあ、それだけで反証を成し得たとするには無理があると思いますよ。前にも言及したとおり、どの言語内にもシニフィアンとシニフィエとの間に何らかの有縁性があることはソシュール自身も認めています:「(発話の際)能記の選択は必ずしも常に恣意的ということでなく、時に有縁的である」、「特に、擬音語と間投詞においてそのことが言える」、と。ただし、それに続いて「擬音語と間投詞は決して言語体系の組織的要素ではない」し、「我々の説を脅かすものではない」とも断言しています。つまり、「第一の恣意性」と矛盾する現象は僅かにあるけれども、それは「言語構造論にとっては周辺的なこと」であるとして、深入りしなかっただけなのです。ということは、有縁性の例をいくら集めてみせても、それだけで「言語記号の恣意性」を否定することはできないでしょう。

> ☆ 趣旨説明欄において ちらっと丸山に触れているだけですが 実際問題としては 丸山理論に対する批判である。こうはっきり申し述べておくべきだったことでもあります。丸山理論が 孫ではなく 本人だという意味です。
⇒「丸山理論が孫ではなく、本人だ」というのはある種詭弁のようにも聞こえますが、まあそれはそれとして、それならなお、「ソシュールの《言語記号の恣意性》は神話である」というタイトルとの間に少なからぬ齟齬があると思いますよ。
 なお、時々僭越にも辛辣なことを申しますが、決してbragelonne様を非難するためではありません。むしろ逆に、bragelonne様の学究心にはいつもながら敬服申しあげています。これは一重に、共同して真理への肉迫をしたいとの願望からに他なりません。どうかこの件、ご了解賜わりますように。

> ☆ すなわち この反証によって 《第一の恣意性》は 中身が事実に反すると明らかになったと考えています。
⇒いやいや、「音素(子音)がそのままで意義素をおびており、そのことが語の生成にもつながりを持ったかたちで影響している」場合があることを示したところで、「第一の恣意性は、中身が事実に反すると明らかになった」などとは言えないと思いますよ。
 例えば、フランス語圏以外の地域で、[ʃj~?]と同じ聴覚映像か、少なくともそれとの有縁性を持つ聴覚映像で「犬」を想起せしめる状況(人間に共通する普遍性)がなければ、この語に関するシニフィアンとシニフィエとの相関関係、必然的有縁性を示したことにはならないでしょう。例えば、『鶏の泣き声のシニフィアンが多くの言語で[k]音を含む」というように、「地球上の人間の大多数が」[ʃj~?]と聞いて「犬」を想起するという事例に類する有縁性を突きつけない限り恣意性説は崩せないと思います。

> おそらくきちんとした語例を三つほど示して《音素=意義素》なる理論が例証できれば――つまりは ひとつの言語内だけでそう証明できれば――言語記号の恣意性なる理論は全滅である。こう見ざるを得ないと考えます。
⇒bragelonne様がよく研究されていることは敬服するところですが、今回の提示材料は通時語彙論・意味論であって、それはいわば文献学の範疇であるのに対し、ソシュールのそれは言語体系の構造論でしょう。つまり、philologyでlinguistics 批判をしようという、お門違いを犯していることになります。ですから、今回のbragelonne様の議論は、実態的には「通時語彙論に見る恣意性の原理の破れ」くらいの論題に過ぎないと思います。もし、この内容を「ソシュールの《言語記号の恣意性》は神話である」という論題で、例えば「日本言語学会」で発表するようなことがあれば、失礼ながら、一笑に付されることでしょう。

> ・ / nVk(g)V / なる語例
> ・ / h /=順出相;順定相と/ k /=反出相;反定相との対照
> ・ 完了相の助動詞で ツ(/ t(d) /)とヌ(/ n /)との対照
> の三つについて説明し得たと考えるものです。どうでしょう。
⇒シニフィアンとシニフィエとの相関関係、必然的有縁性は、多かれ少なかれどの言語にも見られますが、その有縁性の強さには差があり、フランス語などの屈折語ではそれが比較的弱く、日本語のような膠着語系はそれより強い傾向にあります。アフリカのスワヒリ語はそれが最も強い言語の1つで、例えば「のっしのっし」や「しゃなりしゃなり」等に当る「歩き方を形容する表現」が数十通りもあって、それを聞くだけで何歳くらいの人がどんな風に歩いているのか、もちろん男女の区別も含めて、分かるのだそうです。
 ソシュールは、このような言語を(シニフィアンとシニフィエとの有縁性に関して)「文法的な言語」と呼んでいます。「シニフィアンとシニフィエとの相関関係が、文法の範疇に入り込んでいる」という意味でしょう。ことほどさように、単独の言語に見る限りこのような有縁性は必ず見出されますが、他方非同系言語間では、("kennel"と「犬[ケン]寝る」のような!)ダジャレ的な偶然の一致を除いて、まず見出されません。
 bragelonne様の最初の質問文や補足の中の例は、相対的に「文法的な言語」からの例であって、したがってその研究のタイトルを再考するとすれば、「ソシュール『言語学原論』が手を抜いていたシニフィアンとシニフィエとの有縁性に関する考察」と題するにいいものであると思います。しつこくてすみませんが、決して「言語記号の恣意性」の原理を覆せるようなものではないでしょう。この筋からアプローチする限り、それはアリが象の足に噛みつくのにも似て、「原理」は微動だにしないでしょう。

 以上、碩学のbragelonne様に失礼とは思いましたが、偽らざる感想を述べさせて頂きました。ただし、本件に関してのみの感想でして、他のテーマについては常々敬服申しあげておりますこと、前述のとおりです。

「お礼」への書き込みをありがとうございます。

> ☆ なかい702さんは 大局的に・言語学の王道をあるく視点をとうとび 議論をしておられるようですが やはりいまの議論というのは 論点がしぼられています。
⇒つまり、こういう理解でよろしいでしょうか。「言語構造内のいろいろな場面に恣意性が認められるが、ここでの議論では狭義の恣意性、即ち、ソシュールの記号理論でいう第一の恣意性・シニフィアンとシニフィエの相互関係と、第二の恣意性・意味価値の相関関係のみを扱うものとする」という解釈で...続きを読む

Q人間にとって言葉とは

人間にとって言葉とは、どのようなものなのでしょう。物が先か、言葉が先か・・・・・。なぜ、言葉というものがあるのか・・・・。
レポートなのです。全く分かりません。自分なりの答えも見つかりません。どうか少しヒントをください。お願いします。

Aベストアンサー

「サピア=ウォーフの仮説」というヒントになりそうなキーワードを差し上げておきます。これは、物が先か言葉が先かという問題に対する一つの論の試みです。「仮説」なのでなんとも言えません。それを批判する(正しいものは受け入れ、違うと思うところは違うと主張する)ことで、何か言えるんではないでしょうか。

なぜ、言葉というものがあるのか、ですが、1として「言葉がもしもなかったら、どんな世界になっていたか」ということ、2として「言葉はどのようにして生まれたか」ということを考える必要がありそうです。

あと、言語を記号とみなす考え方もあり、これもちょっと厄介ですが、「記号論」というキーワードを差し上げます。深入りすると大変かもしれません。せいぜい「シニフィアン」と「シニフィエ」あたりの理解にとどめるのが、大学のレポートのレベルだと思います。

人間にとって言葉とは何か、ということですが、それはいろんな方法で知ることができます。たとえばここで回答者の意見を伺うというアンケートから総括するでもよし、また自分も人間の1人であるから、個人的な意見としてはこうだということを主張してもよし、だろうと思います。視点はいろいろですね。

あと、いくつかこんな論題も考慮すると面白いかもしれません。
「言葉を使うのは人間だけか」
参考キーワード:チンパンジーの言語学習、アマラとカマラ
「言葉は本当に正しく物を表せるか」
参考キーワード:範疇、「りんご」と「そのりんご」の違いなど

もう1点、「人間とヒト」は区別しなくてはならないかもしれないと今思いました。学習能力という面で言えば生物学的にヒトと捉えた方がいいでしょう。人間というのは多少なりとも社会的な側面があるので、やはりそういうことになるのかもしれません。

道具であるとか、コミュニケーションの手段であるとかいうのは、今までによく言われていることで、斬新さには欠けますが、tsukajiさんが何かもっと奇抜な発想で思い付けたらいいなぁとは思います。

「サピア=ウォーフの仮説」というヒントになりそうなキーワードを差し上げておきます。これは、物が先か言葉が先かという問題に対する一つの論の試みです。「仮説」なのでなんとも言えません。それを批判する(正しいものは受け入れ、違うと思うところは違うと主張する)ことで、何か言えるんではないでしょうか。

なぜ、言葉というものがあるのか、ですが、1として「言葉がもしもなかったら、どんな世界になっていたか」ということ、2として「言葉はどのようにして生まれたか」ということを考える必要があ...続きを読む

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Q言語の思考(世界観)に対する影響力 (サピア・ウォーフの仮説)

言語相対性理論で有名であるサピア・ウォーフの仮説は、ご存知の方もたくさんいらっしゃると思います。心理学、哲学や言語学でよく持ち出される理論です。
(Edward Sapir & Benjamin Lee Whorf が唱えた仮説)

引用文がなくて申し訳無いのですが、私なりにこの仮説を次のように理解しております。

「ある言語を母国語とする話者は、必ずその言語を通して物事を捉える。言語と思想は密接に関係しており、言語のない思想など存在しない。言語は人間の思想を支配している。」

つまり、自分の話す言葉に存在しない考え方はありえないということです。
よく例に出されるのが、「色」についての捉え方で、言語によって世界観が支配されているので、その言語に無い色は認識ができないという考え方です。

他に例にあげられるのは、「数の数え方」で、ある言語では、4以上の数字は、「たくさん」という言い方しかないと聞いたことがあります。つまりこの言語を話す人は、自分の話す言語によって、「4以上はたくさん」であるという世界観に捕らわれている、ということになります。

最後に、質問の内容ですが、私は個人的にこの仮説を3、4年前に始めて聞いた時は、疑問に思いましたが、最近はなんとなく理解できるようになりました。全く信じているわけではありませんが、まあ一理はあるかな、といったところです。

もし皆様の中で、この仮説に関して賛成、又は反対の意見があるならば、お聞かせ願いたいと思い、質問してみました。どうして賛成又は反対なのかの理由も聞かせていただければと思います。

(参照URL)
http://www.asahi-net.or.jp/~QM4H-IIM/k020527.htm

言語相対性理論で有名であるサピア・ウォーフの仮説は、ご存知の方もたくさんいらっしゃると思います。心理学、哲学や言語学でよく持ち出される理論です。
(Edward Sapir & Benjamin Lee Whorf が唱えた仮説)

引用文がなくて申し訳無いのですが、私なりにこの仮説を次のように理解しております。

「ある言語を母国語とする話者は、必ずその言語を通して物事を捉える。言語と思想は密接に関係しており、言語のない思想など存在しない。言語は人間の思想を支配している。」

つまり、自分の話す言葉に存在...続きを読む

Aベストアンサー

「サピア・ウォーフの仮説」というものは、私は詳しくないのですが、

「ある言語を母国語とする話者は、必ずその言語を通して物事を捉える。言語と思想は密接に関係している。」ことについては、私は賛成します。
私は、言語の語彙のかたよりや、文法構造によって、人の思考のしかたが影響を受けるのではないかと思います(思考のしかたに「遺伝的なもの」が影響するかどうかは、ここでは考えないことにします)。

たとえば、英文を読んでいると、日本語ではとらえることが難しい表現が出てくることがあります。
また、日本語には擬声語・擬音語が非常に多くありますが、これが日本人の思考のしかたに影響していることは大いにありえるでしょう。

例にあげられている、「色」や「数」の話は、こう考えます。
日本語で、「赤」にあたる色は、実際には無限にあるわけですが、そのような「赤」の中で、色の濃淡を識別する事はできるわけです。
でも、その濃淡のある「赤」それぞれについて、日本語では単語が与えられていません。このことが、どう影響するかというと、その濃淡のある「赤」それぞれについて、議論する(考える)ことが難しくなります。
「数」でいうと、4以上の数は数えることができないので、4以上の数はわかるが、議論はしづらい(=考えることが難しい)ということになると思います。

「言語のない思想など存在しない」ことについては、まだ、色々と考えている最中ですが、こう考えます。
「人間は言葉によって考える」のは、確かに事実です。
けれど、物事をオブジェクトとして扱う方法は、言語化だけではないと思います。
もちろん、最終的には、言語化することによって、思考や議論を助けることになるでしょうが。

「サピア・ウォーフの仮説」というものは、私は詳しくないのですが、

「ある言語を母国語とする話者は、必ずその言語を通して物事を捉える。言語と思想は密接に関係している。」ことについては、私は賛成します。
私は、言語の語彙のかたよりや、文法構造によって、人の思考のしかたが影響を受けるのではないかと思います(思考のしかたに「遺伝的なもの」が影響するかどうかは、ここでは考えないことにします)。

たとえば、英文を読んでいると、日本語ではとらえることが難しい表現が出てくることがあり...続きを読む

QTo be or not to be の意味を教えてください

To be or not to be の意味を教えてください。
お願いしますm(__)m

Aベストアンサー

アメリカに35年半住んでいる者です。

私なりに書かせてくださいね。

シェイクスピアを知っている人はそれなりに訳を知っていることになりますね. しかし、今の時代にこれをいうことはシェイクスピアとは関係なく、~になるか(なり下がるか)ならないか、と言う意味にとります.

つまり、この中途半端な文章を使い、護身術では、To be or not to be,,,,,, a rape victim!!と言う言い方をして、レイプの犠牲者になりたいのかなりたくないのか、答えは出ているよね.と言う具合に使えるわけです.

また、シェイクスピアの事を知っている人なら、この後の、that is the question.を強調する為に使う言い方としても使います.

つまり、大学へ行くべきがそれとも好きな職につくべきか、と言う迷いがあるときに、相談された人は、To be or not to be.,,,,,,と考え込む、と言う使い方ですね.

最近ボーリングの質問がありましたが、10フレーム目で、この三つをストライクで決めればパーフェクトゲーム. この時点では誰もが感じるchokeの場面です. ボールを投げる前に、余裕のあるところを見せるために、Hamlet, you are not the only one to suffer. Me, too. To be or not to be!! This ball is the answer!! とみんなが聞こえるように言って、そして、みんなが見ている前で、胸に十字を切ってボールを投げる状況ですね. なかなかの役者だともいえますね。

と言う事で、どのように使われているかという視点で書かせてもらいました.

これでいかがでしょうか。 分かりにくい点がありましたら、補足質問してください。

アメリカに35年半住んでいる者です。

私なりに書かせてくださいね。

シェイクスピアを知っている人はそれなりに訳を知っていることになりますね. しかし、今の時代にこれをいうことはシェイクスピアとは関係なく、~になるか(なり下がるか)ならないか、と言う意味にとります.

つまり、この中途半端な文章を使い、護身術では、To be or not to be,,,,,, a rape victim!!と言う言い方をして、レイプの犠牲者になりたいのかなりたくないのか、答えは出ているよね.と言う具合に使えるわけです.

また、シ...続きを読む

Qソクラテスの無知の知は矛盾していませんか?

ソクラテスの無知の知についてです。
高校の倫理でソクラテスのことを学び、
その中でソクラテスの思想に「無知の知」というものがありました。

ソクラテスは、
「あなたは自分の無知を知らないが、私は自分の無知を知っている(=無知の知)」
と習いました。

しかしここで思うのが、
ソクラテスは自分が無知であると言うことを知っていると言いましたが、
これを同じく返されたらどうなるのでしょうか?

ソクラテスは無知について知っているとは言えないのではないでしょうか?
ソクラテスに対して、
「あなたは実は無知であることを知らない」
と返した場合無知の知は無くなってしまうのでないでしょうか?

Aベストアンサー

有名な『ソクラテスの弁明』に出てくる「無知の知」ですね。


おそらく、本来の意味とは少し異なった意味を教えられたのではないのかと思います。

無知の知はソクラテスの哲学を表す重要な言葉で一文節を取り出して、そこだけで解釈すると誤解が生じてしまうので『弁明』の全体を見て解釈するのが大事だと思います。

お粗末ですが、軽く無知の知に至るまでを説明しますね。


ソクラテスは神からある言葉を授かります。その言葉とは
「ソクラテスより知者はいない」
というものです。

ソクラテスは考えます。
俺が一番賢いわけがない。


ソクラテスは、この神の言葉は間違いであることを証明しようと試み、自分より知者であると思われる、評判高い人々を訪れるわけです。その人達の職業は詩人であったり大工であったり様々です。


ソクラテスは彼らが自分よりも知者であることを期待して訪ねたのですが、話をしてみるとどうも勝手がちがいました。


といのも、彼らは確かに専門的な知識はソクラテスよりも優れていました。しかしそれに奢って
「徳であったり、本当に善いものに関する知識」
を持っていないにも関わらず知ったかぶりをして話をしていたのです。


その一方で自分は、徳とか善きものについて知らないということを自覚している。
その点で彼らよりも自分は賢い。
ソクラテスはそう考えました。


ここでソクラテスに初めて「無知の知」が自覚されます。


「無知の知」は「不知の知」とも表記されていて、私は後者の方がしっくりきます。

といのも、
「知っているものが何も無い」
という状態ではなく
「知らない(不知)ということを知っている」


と解釈しているからです。

ですから、質問者さんが問うように
「ソクラテス、あなたは無知(不知)を知らない」
と言われれば、きっとソクラテスは
「いや知っている、自分は善とか徳については何も知らないことを知って(自覚して)いるよ」
と答えると思います。


付け加えるなら
「ぜひ教えてくれないか、君も知らないならば一緒に探求しようではないか」
とも言いそうです(笑)



気になるようでしたらぜひ『ソクラテスの弁明』を実際に読んでみてください。文量は多くないので気軽に読むことができると思いますよ。


長文失礼しましたm(__)m

有名な『ソクラテスの弁明』に出てくる「無知の知」ですね。


おそらく、本来の意味とは少し異なった意味を教えられたのではないのかと思います。

無知の知はソクラテスの哲学を表す重要な言葉で一文節を取り出して、そこだけで解釈すると誤解が生じてしまうので『弁明』の全体を見て解釈するのが大事だと思います。

お粗末ですが、軽く無知の知に至るまでを説明しますね。


ソクラテスは神からある言葉を授かります。その言葉とは
「ソクラテスより知者はいない」
というものです。

ソクラテ...続きを読む


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