ソシュールの入門書などを読むと、以下のように言っているように思えます。
<< この世界は、言語によって切り取られるまでは、混沌とした一体であって、個々の「もの」は存在しない。>>
もし、それが正しいとすると、「リンゴ」という言葉がないと、「リンゴ」という「もの」は存在しないということになりますが、それは、おかしいと思うのですが。もちろん、「リンゴ」という言葉を知らなければ、目の前にある「リンゴ」を「これはリンゴだ」とは言えないのは確かです。でも、だからと言って、「リンゴ」と名づけられるはずの「もの」そのものが存在しないということはならないと思います。
ソシュールはどういう意味で、上記のようなことを言ったのでしょうか?
No.17
- 回答日時:
どうもです
なるほど、これもうソシュールとラコンを少し説明する必要がありますね。でも心配しないで下さい、ラコンはソシュールの影響を受けているpsychologistです。それから僕はこの”心”という抽象概念がいまいち掴みきれてないんですよね。”心”というのは、意識、なんでしょうか、それとも無意識なんでしょうか、実は僕にはわかりません。
>人は言語でこの世界を切り取る前に、既に、「心」でこの世界を切り取っている。言語はその「心」で切り取った部分を指し示す音声映像として生み出されたものである。
これは答えるのは難しいですね、”「心」でこの世界を切り取っている”とはどういことなのでしょうか?とりあえず、赤ん坊の話しを少しさせてくださいね。”赤ん坊は、お母さんのお乳を飲んだり、お父さんの指を掴んだりします”についてですが、ここで一つの疑問が生じます。これは母親が望んで赤ん坊にミルクを与えるのか、それとも赤ん坊がミルクが欲しがっているのかです。赤ん坊が胸に吸い付いてミルクを飲むのは、まずは生きるための手段だと思いますが、何も胸からのミルクでなくても良いと思います。自然界では赤ん坊は自らお母さんの乳房を探し、摂取しますが、人間の赤ん坊はどうなのでしょう。おそらく母親が率先して子供に母乳を与えます。この時、赤ん坊はこれがなんであるか理解しているとは思えませんが、彼らは乳を吸うという行動を教えられずに行います。これは彼らはの生きるための本能なのですかね?? 前に一度、大学の友達とこの議論をしたことがありましたが、意見は割れ、結局棚上げ状態になりました。今でも僕はわかりません。でもここで重要なのは、乳を吸うことは生きるための赤ん坊の行為なのか、それとも一度、母乳を与えられたことによって、赤ん坊に欲望が生まれたのか、とうことです。ただしこの段階で言えることは、赤ん坊にこの世界(現象/物質)が理解できているとは思えないということです。それは言語の世界にまだ介入していないからです。
ラコンにthe mirror stage/the imaginary/the symbolというのがあります。子供はある時期に自分の鏡で見た時、これが自分だと分るそうです。しかしこの段階では、彼らには自分の母親と自分の区別がついてはいません。ここでthe symbol、父親の存在が重要になってきます。父親は社会コードの代わりです。ここでのキーワードPhallus/ペニスが重要になってくるんです。ここで男/女 社会の秩序などを、子供達は言語を通して学んで行きます。(あんまり深く書きませんね)僕がここで言いたいことは、自分と他人との差異への理解は言語が密接に関係していることだと思うんです。
質問者さん言うように、”心」でこの世界を切り取っている”後に”言語はその「心」で切り取った部分を指し示す音声映像”生まれてくるようなものではないと思います。子供は、おそらく言語を文字としてではなく、音で理解していくのだと思いますが、ソシュールはその音にも差異があると言っています。例えば"pig","big"という記号ですが、これは頭のp,b が違いだけで違う記号になりますし、p,b 自体にも差異が生じています。この理由から幼い子供は音の差異とそれに付随するイメージで言語を理解しているのではないのでしょうか。そこでsignifier/signifiedですが、この二つは常に二つで一つです。後から自由に決められるものではありません、この二つは恣意的につながっているんです。例えば、pig と単語見たり、聞いたりしたら it triggers off the image conception of pignessって英語でいいます。pig のイメージが頭に浮かぶと思います。ここで興味深いのは、豚(ブタ)とpigとは全く違う言語ですが、僕たちがイメージする物は同じなんです。ただし、これはpigがブタであることを僕たち日本人は知っているからなんでしょうね。(英語圏のブタのイメージは我々とは違うかもしれません。) 親は子供にあれはブタさんだよ、とか、これはイヌさんだよ、というように言葉の音とイメージを同時に子供教え、その中で差異を教えているのだと思います。しかしそれ以前に、幼い子供言葉の差異を教えても、はっきりと動物を区別できているかどうか疑問です。この間、街を歩いていたら小さな子供連れの親子の会話を耳にしました。子供は”mummy,, puppy! puppy! ”と言いながら、猫を指差していました。幼い子供の段階では言語は未発達ですし、差異も見えていないんでしょうね。しかしこれは成長と共に言語を通し、しっかりと輪郭のある差異になって行くんだと思います。
こんな所でどうでしょうか?
参考まででした。
この回答への補足
ご回答ありがとうございました。
>それから僕はこの”心”という抽象概念がいまいち掴みきれてないんですよね。”心”というのは、意識、なんでしょうか、それとも無意識なんでしょうか、実は僕にはわかりません。
おもしろい疑問ですね。私は「心」というものをこの世界で唯一「具体的なもの」と考えていました。というのは、目を開けると、目の前にこの世界が見えます。この見える世界は「これ以上具体的なものはないというほど具体的です」。しかし、その具体的世界は、「心に映った世界」であって、心の外に客観的にある世界ではないということです。従って、我々が通常言う「もの」は、正確に言うと、心の外にある世界の「もの」ではなく、我々の心に写った世界の「もの」だと思います。
そして、私が言いたかったのは、この心に写った世界の「もの」は、言語があろうがなかろうが、「はっきりと区別して見える」ということです。例えば、ソシュール言語学の説明によく出てくる例として、虹は7色か4色かは言語が決めているというような話がありますが、それは、虹を直接観察しない人についての話でしかないと思います。虹を直接見れば、それが、7色とか4色とか自然数で割り切れるようなものでないことは明らかだと思います。
ということで、この世界は、目で見れば、様々な異なった「もの」で出来ていることは明らかで、「もの」の区別が明らかだからこそ、それらに、名前を付けることが出来るのではないでしょうか? これは、まさに、「言語名称目録観」であり、ソシュールが「それは、間違いだ」と言っているものですが、何故、間違いなのでしょうか?
>ただしこの段階で言えることは、赤ん坊にこの世界(現象/物質)が理解できているとは思えないということです。それは言語の世界にまだ介入していないからです。
今度は、私の方が抽象的でわからなくなってしまうのですが、「理解できている」とはどういうことでしょうか? 人の心の中は直接わかりません。ましてや、言葉を話せない赤ん坊の心の中はわからないのではないでしょうか? しかし、我々は、一般に「赤ん坊が行動する様子を見て、赤ん坊が何を見分けているか」を判断するのではないでしょうか? 赤ん坊がお母さんのお腹の上を自力で這い上がって、おっぱいのあるところまで口を近づけてお乳を吸うという行動を見れば(先日、TVで出産間もない赤ん坊の行動をドキュメントでやってました)、赤ちゃんが、おっぱいを何らかの形で見分けていることは確かではないでしょうか?
「理解できていないのは、言語の世界にまだ介入していなからです」とのことですが、それは、「言語化できない理解は、理解とは言わない」と定義しているだけではないでしょうか。
>質問者さん言うように、”心」でこの世界を切り取っている”後に”言語はその「心」で切り取った部分を指し示す音声映像”生まれてくるようなものではないと思います。子供は、おそらく言語を文字としてではなく、音で理解していくのだと思いますが....
「音声映像」というのは、ソシュールのシニフィアン(signifier)の日本語意訳です。ですから、文字ではないです。ちょっと変な意訳ですけどね。でも、よく、入門書に出てきます。signifier/signifiedの話はよくわかります。ただ、signifier/signifiedが紙の表裏のように一体で切り離せないというソシュールの考え方は理解できませんけど。
>子供は”mummy,, puppy! puppy! ”と言いながら、猫を指差していました。幼い子供の段階では言語は未発達ですし、差異も見えていないんでしょうね。
済みません。英語が不得意なもので、意味がよくわかりません。「ママ、パパ、パパ」と言いながら猫を指したのではないのですか?
子どもについては、別の興味があります。それは、大人と子どもの違いがどこにあるのかということです。大人だって、知らない言葉は山ほどあります。知らない言葉を聞いたとき、それが、何を意味するかが、はじめ、はっきりわからないのは、大人も子ども同じではないかと思います。だから、「もの」が先か「言葉」が先かを考えるとき、子どもを例に挙げるのではなく、大人を例に挙げても良いはずだと思うのですが。そして、大人の場合を考えれば、ある「もの」の名前を知らないからと言って、その「もの」の存在を他のものから明確に区別できないということはない。それは、明らかだと思います。もちろん、「民主主義」とか「精神」とか抽象度が高いものは、「言葉による説明」を聞かないと、初めから明確ということはないです。今、問題にしているのは、抽象概念ではなく、五感で捕らえられる具体物の話です。
No.16
- 回答日時:
すみません。
哲学書を読んだことのない(ソクラテス アリストテレスプラトン パスカルとかの名前とかその有名な言葉とかは学生時代に学校で習った程度は覚えていますが)者ですし、長い間ほとんど肉体労働で生きてきました者ですが、このQ&Aに参加を始めたことからこのような哲学と関連するのだろうQ&Aのカテゴリーもまだ少しですが見始めるようになりました。 そういう人間からの回答なのですが、たまには、新鮮ではあるかもしれません。
実は 哲学者という人たち(職業なのか啓蒙的は教育者なのかそういう地位をさすのかもよく解らないでいるので、「人たち」と書いています。)に対して、 そんなに物事を深く明晰に考えていると思われている方々ならなんで、現実に苦しんでる人たちがたった今の今もこの歴史から消えていないというのにそれをすこしでも助けられるようなコンセンサスをその哲学で創っていけないのか? なんでそのコンセンサスの見通しを我々(一般人)に示してくれないのか? もしかしたら難しい言葉で物事を定義することにオタクみたいに夢中になってしまって、むしろ頭がこんがらがってる人たちなのかもしれない。 深い体験や経験からの時にはその前にもがきのたうちまわるような思いで物事を考えてきた、そんな知恵から「ではどうすれば、すこしでも 人間がより幸せになれるのか」という切実な問題の見通しをさぐる頭脳明晰な専門家たちが哲学者なのではないのではないか? という疑いがありました。
もちろん知的興味自体の価値をなんら否定していませんし、現に上記の疑いを前提にしてですが、質問者様の明晰性に触れこれから知的分野への私なりの回答を書こうとしているわけです。
たぶんですが、というよりここでは推理で考えられる解釈のひとつというべきなのでしょうが、ソシュールっつう人は「神」の概念を問題にしたかったんじゃないですか?
物体があってきびしい生活があって サルの能力が(「自己や人間を見つめ反省し進歩できる存在」である人間という生物に どのような突然変異とかでそうなったのかは別の論議であるとして)言語を持つ生物になったのだとしても、 人間の五感をたよりとした認識(知る)能力は、音楽にしても大自然の美しさにしてもその心がどのように人と人の心を結びつけるかを知ることへの感動にしても、そこから「深いとしか言いようのない意味」の存在を、そして、そういう言葉を 事の端のいったんとして認識できるような可能性をもっています。
(こんなふうな書き方や言い方は普段しませんので、みなさんよりもかえって難しい言い方となってしまってるのかもしれませんね。 でも ともかく書きたい強い衝動のまま書いていってみます。)
するとそこに「神」という概念がうまれ始まるというふうに私は そんなふうに「神」とう概念のはじまりを捕らえています。
最初は純粋無垢な心と頭脳から生まれたのがその概念だったはずだ というふうにです。
その「意味」という存在は 人間という頭脳生物がこのだだっぴろいなんてもんじない荒涼とした(?)しすぎるにほどがある宇宙に生まれるまでは存在しなかった。 「もの」の意味も存在しなかった。 したがって
意味にとって者は存在しないに等しかった。
という要はあたりまえの事を言いたかったのに、めちゃくちゃに複雑な定義群の中で西洋人として「だから神は存在する」という結論を表現したくて
だからみずからこんなふうな解りにくい非論理的でさへある物事の説明となってしまったのでは という推理が こういう文に接するとその本とかを読む前に働いてしまうんです。
でもkobareroさん。 あなたは こういう中途半端のままとなってしまいがちな知性の論議を通して何かを啓蒙しようとされているようにも見えます。 命題ですか? ともかく大事な議論題材を「神」の問題も「存在」の問題もすぐには、明日の世界のための論議の場やそれによって世界をすこしでも良くしてゆくことに繋がらないにしても、これを理論明晰な形で表現したり考えあったり、よりわかりやすいその「命題」の表現をそこに求め続けたりする作業はとても大事なことと感じます。
この回答文をひねくれもののおもろい知性の参入と受け取ってお楽しみになるのもけっこうですが、わたしは真剣です。 それよりは楽しむならばせめてドンキホーテがここに出現したと思ってもらいたいです。
言いたいことは、「もしかしたらそちらはわざと「意味」という存在を抜きにした質問をなんらかの理由からでっちあげたというふうに思える」ということと「ソシュールについては、やはり「神」の概念をともかくもつたえたかったんじゃないかというふうに推理されてしかたがない」という文になるかと思いますが、 これ(言いたいこと)解っていただけますでしょうか?
こめんなさい 長すぎましたね。
ご回答ありがとうございます。
>ソシュールっつう人は「神」の概念を問題にしたかったんじゃないですか?
そうかも知れませんね。
「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。....万物は言によって成った。成ったもので、言によらず成ったものは何一つなかった。」と聖書に書いてありますから、まさに、言語で切り取る前は、混沌であったということになりますね。
No.15
- 回答日時:
kaitara1です。
なかなかうまく説明しにくいのですがちょっと書いてみます。虫も猿もリンゴをリンゴと認識しているというのはそれでもよいとしても(私としてはそのように考えるとその先をうまく考えて行かれなくなると思っています)虫も猿もそのリンゴと一体化してしまって又バナナに対しても同じことが起こり同一の虫でも猿でもなくなってしまいます。自分が不変でなければ認識の主体にはなれません。つまり自分とリンゴやバナナを切り離せない虫や猿は(人間のようには)認識できないということです。人間も言葉を使わなければ自分に張り付いたリンゴやバナナから自由になれません。あまりうまく書けませんでした。ごまかすつもりはありませんからどうぞご自由に疑問の点をお示しください。ご回答ありがとうございました。
>虫も猿もそのリンゴと一体化してしまって
ここでおっしゃっている「一体化」の意味が、どうしてもわかりません。猿がリンゴを食べるとき、なぜ、猿がリンゴと一体化するのでしょうか?猿はリンゴを自分とは切り離された独立のものであることを当然知っているからリンゴを食べるのではないでしょうか?
多分、私の理解がkaitara1さんに全く追いついてないためと思いますが、正直なところ、全くチンプンカンプンです。
No.14
- 回答日時:
さらに、どうもです。
まずソシュールは言語学者です、ちょっと猿とは関係ないと思いますが、僕なりに書いてみます。
猿にまず言語がないとは、言い切れないのではないのでしょうか。これは推測ですけど。彼らはもちろん、僕らの言うリンゴと呼ばれる記号を持ち合わせてはいないでしょう。でもひょっとしたら”キッキー”がリンゴかもしれませんが。冗談はこのくらいにして、彼らがその赤い物が食べられるもだと認識するのは、経験からでしょうね。これは僕ら人間にしても同じことではないでしょうかね。ロック/ヒュームというイギリスの経験主義者達は人の知識は経験にあると述べています。それがなんであるのか、経験を通して認知していくわけです。でも僕は思うんですけど、経験は言語を通してやはり、知識をつくっていくのではないのでしょうか。例えばぶつかれば、痛い!っていいますし、猿だって痛たければわめくと思います。でも言語体系が猿より複雑/豊かな人間のほうがやはり理解力があり、推測したりする能力を保有しています。それはやはり言語を通して差異がよめるからではないのでしょうか。
経験に関しても、 甘い、酸っぱい、辛い、食べられる、食べられないなど差異は存在します。ただし猿が人間と同じ味覚を有しているかどうかは僕にはわかりませんし、彼らは、一度食べてまずければ、食べないだろうし、おいしければ、それを学習してまた同じ物を見た時に、食べる行為に繋がっていくのだと思います。でもそれが、形で彼らは見ているのか、匂いなのか、色なのか僕にはわかりません。僕は動物学を学んでいないので、このへんで勘弁して下さい。
ご回答ありがとうございました。
いや、別にサルでなくてもいいですよ。人間の赤ん坊でも同じことです。
人間の赤ん坊は生まれたときは、言語を習得してないと思います。でも、赤ん坊は、お母さんのお乳を飲んだり、お父さんの指を掴んだりします。すなわち、言語を知らない赤ん坊にとっても、世界は混沌ではなく、既に、いくつかの対象に区切られた差異を見出しているのだと思います。
私の当初の質問が混乱を招いているかもしれませんので、以下のように別の質問に置き換えさせていただきます。
<質問>
私は、以下のように考えます。
人は言語でこの世界を切り取る前に、既に、「心」でこの世界を切り取っている。言語はその「心」で切り取った部分を指し示す音声映像として生み出されたものである。
しかし、ソシュールは、言語が生まれる前に、「心」がこの世界を切り取っていることを否定しているのではないでしょうか? いや、そんなことはない、ソシュールの考えは、私の上述の考えと同じだというのなら、私の疑問はキャンセルします。
No.13
- 回答日時:
#10です。
>動物にとっては、「この世界」と言われても、それが何を意味するかはわからない
:ご質問の内容はソシュールという人が考える「この世界」というものに対する視点の取り方の問題だと思うのです。
言語化されて切り取られることによって「この世界」が混沌から「(思考対象としての)個々のもの」の集合として認識できるようになる。
思考における言語の重要な役割を述べている箇所なのではないでしょうか。
おっしゃるとおり、思考のないところには「この世界」という認識自体が存在しないわけで、その場合、あえて「世界という言葉で表現されるもの」を想定する意味はないという考え方なのではないかと思ったわけです。
No.12
- 回答日時:
>アメリカ人にとって、appleはあるけれど、リンゴはないというのと同じことになりますが、ソシュールは、わざわざ、そういうことを言いたかったのでしょうか。
ソシュール的に言えば混純という存在(シニフィエ)が先にあって
その後リンゴというものが出来たと言いたいのだと思います。
リンゴその物を見ても動物からしてみたら「あリンゴだ」と思って
食べてるわけではないです。
感覚情報的にえさを食べている、もしくはそのほかの用途として存在
しているに過ぎずそのことをソシュールは混純とした一体としてと
らえているのでそこで言葉(シニフィアン)である存在を表すことに
よって「物」として表すことが出来ると言いたいのだと思います。
シニフィエがシニフィアン化される事によって「物」が発生すると
いう表現方法です。(たぶん・・・・)
ご回答ありがとうございました。
全く、おっしゃるとおりですが、ソシュールはそのようには言っていないと思います。ソシュールは、シニフィアンとシニフィエは紙の表裏の関係であって、切り離せない結合体(シーニュ)であると言っていると思います。だから、シニフィエが先にあって、それに、名前を付けるがごとくにシニフィアンを結ぶ付けるというようなことを否定していると思います。
この点が、私が理解できないことであり、質問していることと密接に関連している点です。
No.11
- 回答日時:
どうもです、回答欄読ませていただきました。
まず、前の書き込みに誤字、脱字があったことをお詫びします。ちょっと、果物から離れて考えてみましょうか。そうですね、例えば男と女という言葉の存在。この内、女という記号を完全に消し去って、更に記号(女)を説明する必要な記号も消してしまいましょう。そうして記号(男)を説明できますか?おそらく無理でしょうね。記号(男/女)はその差異によって意味を増やし、また他の記号を借りて男/女を表象しています。そうして今度は、両方の記号を失ったとしましょう。たしかにかつて男と女と呼ばれた物体は、そこにはありますし、物体のつくりの違いから違う物体であることは、おそらく理解できるでしょうね。でも違いが分るということは、すでに何かと比べると言う動作を要求されます。じゃ、何がどう違うのか、これは記号の差異、それに伴う表象において物体の違いを理解するということなのでしょうね。つまり差異を示唆した時点で、言語の切り分けをすでに行っているということではないでしょうか(ちょっと乱暴な書き方ですけど)。
そうしてもう一つ大切なことは記号の中には、イメージを伴わない物もあるということです。(god, love, freedom) これらは、signifierだけで、signified (image conception)を欠いています。でも私たち、それがおおよそなんであるかは理解できると思います。それはやはり他の記号との差異によって、意味が生まれているからなんですよ。つまり、漠然と二つの物体があって、差異が分らなければ、やはり僕たちはそれがなんであるのか、理解できないんです。
また、物体という単語もまた他の記号に支えられた一つの記号にしか過ぎません。
ソシュールを読む上で大切なことは、彼がstructurelist/linguistであることを念頭にいれて読むことです。彼はphenomenologistではありません。
言語で世界を切り分けるとは、物体に差異を作り出し、カテゴライズすることにより、物体は言語によって表象されるということだと思います。
最後に、もしソシュールの細かい部分で分らないことがあれば、おつきあいします。僕も勉強になるので。
参考まででした。
ご回答ありがとうございました。
>でも違いが分るということは、すでに何かと比べると言う動作を要求されます。じゃ、何がどう違うのか、これは記号の差異、それに伴う表象において物体の違いを理解するということなのでしょうね。つまり差異を示唆した時点で、言語の切り分けをすでに行っているということではないでしょうか(ちょっと乱暴な書き方ですけど)。
「対象に差異を見出すこと」=「言語能力」と定義すれば、おっしゃるとおりだと思いますが、通常は、「言語能力」をそこまで拡大して考えないのではないでしょうか。
例えば、サルがリンゴを掴んで食べる行為を見ると、サルは「リンゴ」と「リンゴ以外のもの」の差異を感じ取っていることは確かだと思いますが、でも、だからと言って、サルは「言語能力」を持っているとは、通常、言わないと思います。
No.10
- 回答日時:
ソシュールさんという方は知らないのであて推量で考えてみます。
自我に目覚める前の赤ん坊にとっての世界は「混沌とした一体」であるだけで十分、ということにもなるのでしょうか。
快をもたらすものか不快なものかだけで十分納得していると思います。
「言葉によって切り取る」という行為は「個々のもの」を認識する欲求に駆られるからで、また、それが言葉が必要とされる理由でもある。
りんごという言葉が無くてもりんごは存在するが、たとえば食べられるものかそうでないものか、だけの区別より必要とされない場合、言語としての「りんご」は不要である、といったような意味かと感じました。
>「リンゴ」と名づけられるはずの「もの」そのものが存在しないということにはならない
:というより、その実がりんごと名づけられていなければ、バナナと名づけられるものもないはずで、さらに果物という言語もないでしょうし、「植物」もなく、「当初の位置を動かないもの」「食べられるもの」といったような感覚でしか捉えられないでしょう。
ですから動物にとっての「この世界」は無いということになるように思います。
人間が「この世界」という認識を持つのは、すでに言語による「個々のもの」の切り取り作業がある程度進んだからこそ、といったようなことになるのか、とも思いました。
ご回答ありがとうございました。
>ですから動物にとっての「この世界」は無いということになるように思います。
確かに動物にとっては、「この世界」と言われても、それが何を意味するかはわからないわけですから、我々が言っている「この世界」はないと言えないこともないですが、だからと言って、動物にとって、目の前の森や、自分を襲ってくる敵や、雷の音や、風や、川の水がないと言うことにはならないと思います。動物は、それらを総称して「この世界」と呼んだりはしないというだけのこではないでしょうか。
No.9
- 回答日時:
「実在」と「実存」
「実在」と「実像」
「実像」と「心像」
「姿」(figure)と「形」(shape)
を考察した上で、
真理と虚偽の本性について B・ラッセル
http://www.geocities.jp/mickindex/russell/rsl_oN …
バートランド・ラッセル
http://www.geocities.jp/mickindex/russell/idx_ru …
を読んでみてください。(1900年代に記したものなので、非常にまとまっていると思います。)
私の質問との関連からは、少し離れてしまっているように思いますが、参考にさせていただきたいと思います。ご回答ありがとうございました。
No.8
- 回答日時:
リンゴを食べる虫の事を考えると、この虫はわれわれから見ると確かにリンゴを認識しているように見えます。
しかし虫はリンゴと一体となっていて時々刻々虫自体も変化していきます。つまりわれわれが虫に成り代わってリンゴを認識しているに過ぎません。つまり虫はりんごあっての虫であって主体的に存在しているのではないということです。人間は脳が発達した為にリンゴと一体化して時々刻々変わらない言語を作り出したということではないでしょうか。人間がリンゴをかじっても虫が食べるときと同じようにリンゴは時々刻々変わっていきます。体から考えると人間も虫と同じです。こういう状態を混沌といえると思います。言葉はこのような混沌という液体を保存する容器のようなものと考えると言葉のほうが後でよいのではないかと思います。ご回答ありがとうございました。
済みません。虫とリンゴの関係についてのお考えは、何をおっしゃろうとしているのかよく理解できませんでした。多分、私にとって、虫の心は理解の範囲を超えているためだと思います。
もう少し身近な例で、例えば、サルの場合はどうでしょうか。
サルは、リンゴもバナナも食べます。ある種のサルは、芋を水で洗って食べます。これは、サルとって、リンゴ、バナナ、芋、水は、言葉で区別はできなくても、心で区別しているということではないかと思います。ということは、この世界を言葉で切り取るまでは、世界は混沌としているとは言えないと思うのですが。
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