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前回、『言語の流れ』でラテン語は中世に支配語の位置であった理由・背景を教えてもらいました。今回はラテン語に続く支配語の位置にフランス語が来た理由、今日の英語がなった理由を当時の情勢を交えて教えてください。

A 回答 (2件)

 


先の質問の回答というものを読みましたが、別に新たに回答を書いて投稿する意志はありませんので、ここで簡単に述べると、ラテン語は、西欧中世において、「競争者」のいない、唯一の卓越した教養語・共通語でした。

アラビア語など何の関係もありません。アラビア語を学んだのは、ごくごく少数の写本翻訳修道士か、世俗の教養人で、それも、ラテン語に翻訳してしまえば、元のアラビア語の本など、もはや相手にしていません。

それは、アラビア語で、イブン・ルシュドやイブン・シーナという発音のアラビア・スコラ哲学の大学者が、ラテン語で、アヴェエロスだとか、アヴィチェンナ(またはアヴィセンナ)など、元の名前と似ても似つかぬ名前になっていることからも、分かることです。

アラビア語が分かる人が学者のなかに多数いれば、こんなことは起こらなかったのです。実際は、アラビア語が読めたのは、非常に少数の人だけで、アラビア・スコラ哲学を西欧の学者や神学者が真剣に研究していたときも、ラテン語の翻訳を通じての研究でした。

(中国でも似たようなことをしました。中国はしかし、西域やインドから取り寄せた貴重なサンスクリット語仏典写本などが全部消えます。漢訳仏典だけ残ります。西欧は、戦火で焼けたりしたものは別に、写本は保存して残しています。イスラム世界の方が、かつてのイスラム文化の成果を捨ててしまった処があります)。

また、アラビア世界からは、アリストテレスのギリシア語原典写本も西欧に入って来たのですが、こちらは、「新約聖書」が元々ギリシア語で書かれていたこともあり、かなり多数の研究者は、ギリシア語は読めたので、これらの写本は原文のまま読まれることが多かったのです。

(とはいえ、聖トマスはギリシア語が読めず、アリストテレスの研究のため、友人の優秀なギリシア語翻訳家に、アリストテレスの著作の可能な限り正確な訳を依頼していました)。

アラビア語をうんぬんするのが、いかにナンセンスか、このことを考えれば自明でしょう。

ラテン語は、中世西欧では、競争者のいない、唯一の教養語・共通語だったのです。その理由は明白で、西欧中世は、生活も文化も、経済も政治も軍事も、何でもが、キリスト教という共通基盤の上にあったからで、キリスト教の教えの中心にある「聖書」が、「ウルガタ聖書」として、ラテン語で記されていて、教皇庁は、意図的に、「聖書」を各国語に翻訳することを禁止したのです。

「ウルガタ」を囲んで、中世西欧の神学議論は、すべてラテン語を通じて行われたのであり、文化文書も、共通語であるラテン語で書かれたので、ラテン語は、競争者のいない共通語となったのです。

では、ラテン語が衰え、何故次にフランス語が、というのは、ラテン語の没落は、宗教改革と密接な関係があり、ルターのドイツ語訳聖書や、イングランドのジェイムズ王欽定訳聖書が代表的なように、「聖書」を読むのに、もはや、必ずしも、ラテン語が必須でなくなったためです。

近世の哲学者スピノーザは、その主著「エティカ」をラテン語で書きましたが、彼のライヴァル、デカルトは、その「方法序説」を、ラテン語とフランス語の二つの言語で書きました。西欧の教養人向けヴァージョンと、母国のフランス人向けヴァージョンの二つを作ったのです。

ダンテは、「神曲」をラテン語ではなく、トスカーナ方言で書きますし、イングランドのシェイクスピアは、その戯曲を、当然ながら、英語で書きます。フランスでは、ヴァロア朝末の宮廷詩人ロンサールが、フランス語で詩を書いています。

フランス語が、何故、ラテン語に代わって、西欧の教養語になったかというのは、フランス革命などとは、あまり関係がありません。フランス革命が起こった頃には、フランス語の西欧教養語としての位置が、衰えはじめていた頃でした。

ルイ14世とルイ15世のフランスで、宮廷文化の花が華麗に開き、それは17世紀から18世紀にかけてのことです。フランスにおいて、啓蒙主義思想が起こり、それはドイツやオーストリアなどの当時の強国、領邦国家世界に広まります。宮廷語として広まって行ったのです。

参考URLに、フランス語が、何故、西欧の共通教養語となったのか、その理由について、説明した文章が載っています。

イングランドは、大陸と一定の距離を置いていたのですが、それでも、フランス語は、イングランドの王侯貴族の教養語として、フランス式宮廷マナーと共に、必須となっていました。

宮廷教養語としてのフランス語の没落は、西欧諸国が、近代国家として自立を始めたためです。18世紀であっても、ドイツやイングランドの知識人たちは、自国語で論文を書いていました。ドイツ観念論哲学の著作は、カントもヘーゲルも、ドイツ語で書かれています。ドイツもイングランドも,その他の国でも、知識人は、自国語で論文を書き、フランス語など使っていなかったのです。

フランス語は、宮廷マナーや、政治外交の場で、共通語として使用されていたということになります。学問や生活の分野では、各国の知識人は、自国語で論文を書いていたのです。また、「聖書」は自国語翻訳のものを使い、フランス語の「聖書」など使っていませんでした。フランスの植民地では、使っていたでしょうが。

英語が、大きく前面に出てきたのは、大英帝国の確立と、新しい大国アメリカの台頭が、圧倒的に意味を持っているでしょう。特に、ヴィクトリア朝期と、二十世紀の冷戦のなかで、アメリカは世界帝国になって行ったのであり、それとともに、英語が、世界中を席巻したのです。それはかつてのフランス語の比ではありません。

>かつてのロシア貴族は、何故フランス語を公用語としていたのか
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=178993

>No.177627 質問:緊急!ナポレオンが言った「ピレーネ山脈を越えたらヨーロッパではない」の理由
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=177627
 

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=178993,http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=177627
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この回答へのお礼

う~ん、世の中には詳しい人がいっぱいいるんですね^^。
とても参考になりました。世界史にも出てきた宗教改革の聖書の語訳にこんな意味があるなんて思っていませんでした。今度は奥深く歴史に触れてみたいものです。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2002/07/23 12:40

フランス語の台頭と没落を当時の情勢を交えて説明する自信はありませんが、前回回答した縁でヒントだけ出しておきます。

ヨーロッパの言語が近代語として成立したのは16世紀前後であり、その共通語ともいうべき国語を普及させたのは教育と軍隊ではないかと思います。農業人口の多かった当時としては、地域性のある方言が中心語だったと思われるので、統一言語の普及には相当の年月を要したものと思われます。それを進めるには国家の力がひつようとなります。フランスは革命を通じて真の国家意識が国民の一人一人に広まった欧州唯一の国だと思われます。
国民中心の統一国家は周辺の遅れた国に影響力を発揮します。フランス語が力を持ったのはフランスと言う国家が当時のヨーロッパで総合的に力を持っていたということでしょう。第二次世界大戦の前後からアメリカが強い産業力を背景に武力を発揮して世界へ影響力を発揮したのに反し、フランスは植民地の独立戦争で国力を消耗しかつての世界政治のリーダの地位を自ら降りたのではないでしょうか。

以上はあくまでヒントに過ぎません。最近の歴史は資料も多いので自分で調べるべきです。参考URLをひとつだけ紹介します。

参考URL:http://www.mfj.gr.jp/colloque_9910/resume/Miura. …
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この回答へのお礼

前回に続いて回答していただきありがとうございますm(__)m
ヒントだけでも結構参考になりました。ありがとうございました。

お礼日時:2002/07/23 12:42

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