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今、森鴎外の小説を読んでいるのですが、いくつか疑問に思ったことがあります。

 まず、小説の文章なのですが、いわゆる昔言葉で書かれていて「~給う。」や「~と申す。」など会話でも使われています。そこで疑問に思ったのことが、実際にこの時代の人たちはこのような話し方をしていたのでしょうか?文章だから、丁寧に書いているのかな?とも思いますが、実際にこの話し方だと舌が回らないんじゃないかと、余計な心配をしているこの頃です。詳しい方、教えてください。

 それと、「舞姫」について私的な感想なのですが、最終的に悪いのは主人公ではなかったのかと思うのは私だけでしょうか?確かに人間には弱いところもあり、仕方がないこともあるとは思います。しかし、自分の押し通すべきところも通せず、その挙げ句友を恨むとは何事だ!と思ってしまいました。そんなことはない!!という方のご意見もお願いします。

A 回答 (3件)

文語と口語というのがあって、文書は、ふつう文語。


鴎外の時代に生きてなかったので、当時の口語は知りませんが。
> 今、森鴎外の小説を読んでいるのですが、いくつか疑問に思ったことがあります。
これは、文語でしょう。
口語なら、いま、鴎外読んでるんだけど、ちょっと分からないとこがある。
人によっては、違うか。
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鴎外のほかの作品よりは、あえて文語体を多用していると思います。


主人公の性格を現すのに、適している文体に思えます。
私は、女性として、舞姫に感情移入しましたので、質問者さんと同じ捉え方です。
実際、交際したドイツ人女性を下敷きとした作品だそうですので、作家としての創作欲が勝った勇気ある発表だと思っています。
鴎外は、代表作を読み流した程度で、浅いな・・・。
と、今実感しました。
再読してみようと、思いました。
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『舞姫』は明治23年に書かれた小説です。

言文一致、すなわち話し言葉をそのまま文章にするという動きがようやく動き始めたのが、二葉亭四迷の『浮雲』(明治20年~)です。つまり、この時期以前、文章での会話は必ずしも実際の会話をそのまま写したものではなく、どちらかといえば文語体そのままか、それに近い形で書かれていたと理解して差し支えないかと思います。その意味で『舞姫』での会話が必ずしも実際の会話そのままでなかったとしても不思議ではないです。それがまた、『舞姫』という物語に趣を添えていると、個人的には思っています。

同じように、主人公太田豊太郎の弱さというか、立身を優先させる考え方は、現代の価値観から見れば非常な違和感を覚えるのも確かかと思います。ただ、これもこの物語が書かれた明治20年代という時代背景を考えれば、一方的に非難もできない部分があると考えます。つまりは『末は博士か大臣か』の時代であり、司馬遼太郎氏の言い方を借りれば、『個人の人生を国家のそれと、簡単に同一視できた、ある意味では幸福な時代』とも言える時代であり、個人の幸福と、立身出世というものが分離しては考えられなかった時代だったとも言えます。その中で、主人公は、敢えて個人の幸福と立身出世とは別ではないかとのテーマを打ち出しつつも、最終的には時代の価値観に飲み込まれていった。ただ、彼は官僚としての立身出世だけが人間としての幸福ではないとうすうす感じており、その思いが友人へのかすかな恨みという形で後を引いたのだ、と理解しています。

……それを彼の意志薄弱さと捉えて、『おまえが全部悪いのだ』と非難するのも確かにありだと思います。ただ、明治20年代という時代背景を考えれば、普通なら、何も考えることなく友人の誘いのままにエリスを捨てて日本に帰っていただろうに、と思います。エリスとの生活と、日本での官僚としての立身の間で揺れるだけの、個人としての自我を、主人公は既に獲得しかかっていたのだと私は理解します。

こういう考え方もあると理解いただければ幸いです。
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