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最近言われる「気づき」と仏教の「さとり」って、同じものでしょうか。それとも、似て非なるものでしょうか。

A 回答 (11件中1~10件)

こんにちは。


ご質問のタイトルを拝見したときから気になっていたのですが、なるほど、質問者さんの仕事場では「気付き」というのはそのような意味で使われているのですね。ならば、私にも幾つかアドバイスがあります。

通常、「気付く」というのは知覚入力に対して神経系の覚醒状態が「注意状態(もしくは選択的注意)」に移行し、連合野内での認知が成される過程を言います。ですが、この場合はその認知情報に基づいて更に「思考の作業」が行われ、「知覚情報からは得ることのできない新たな結果」を導き出すということですね。近年ではこのような脳内のプロセスを「アウェアネス」という概念で扱い、ビジネス技術を支援する能力開発講座などでは積極的に取り入れられていますが、これを日本語に訳しますと「気付き」あるいは「覚醒」といった意味になります。

「悟り」といいますのはお釈迦様が「瞑想という手法」によって遂には「真理」を見出した過程を指すものであります。ですから、「気付き」も「悟り」も、共に「知覚情報からは得られない新たな思考結果」であることは同じなのですが、「真理以外の結果」に辿り着くものは「悟り」とは言いません。
では、同じ「脳内における思考という作業」ではあるのですが、「真理」に到達するというのは並大抵のことではありません。何故ならば、そのためには「全ての煩悩」を断ち切り、まず「無の境地」に辿り着かなければならないからです。そして、これにより「100%客観的な価値観」が獲得されることを「悟り」といいます。

これに対しまして、「気付き」といいますのは「正しい思考の結果」あるいは「新しいアイディア」の創発でありますが、こちらは「客観的な価値観」ではなく、必ずや「主観的な利益」に対応するものです。果たして、どのようなアイディアであろうとも、それが自分の不利益であるならば実行されることはありません。
我々の脳内でこの価値判断を下しているのは「生命中枢の本能行動」や「大脳辺縁系の情動反応」であり、これによって発生する「欲求の実現」が全ての「行動選択の動機」となります。では、仏教ではこのような主観的な欲求の実現は全て「煩悩」とされ、これに一切従わない客観的な行動の選択を「慈悲の動機」といいます。
簡単な例を挙げますと、いま現在、目の前にめちゃくちゃ好みの女性がおり、状況はオールOKであるとします。ですが、もしここでその女性とH関係を結んでしまうならば自分の人生設計に不利益が生ずる、これが思考結果、即ち「気付き」であり、これにより、涙を呑んで「Hをしたい」という欲求を抑制するのが正しい選択ということになります。
これに対しまして、「悟り」といいますのはそもそもHをしたいという欲求がないのですから、正しい行動の選択に「葛藤」や「苦悩」というものが一切発生しないわけです。お釈迦様は、このように一切の苦悩が排除された状態を「真の幸福」としておられます。ですが、このためにはまず「無の境地」に到達し、「慈悲の動機」に基づく客観的な行動選択ができなければなりません。ですから、これに辿り着くというのははっきり言って並大抵のことではありません。

我々凡人にとってはたいへん難しいことですし、第一、食欲や性欲を断ち切るなんてことが実際にできるわけがありません。ですけど、お釈迦様が苦難の末に示して下さいましたのは極めて客観的な「究極の価値観」というものであり、そして、それは現在でも我々人類が正しい未来を選択するための必ずや道標となります。
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この回答へのお礼

おかげさまで私の頭も整理されてきました。
主観と客観(真理)となると、相反すると言うことですね。
件の例は分かりやすくてありがたいのでありますが、保守本流でない一休さんの場合悟りを開くための動機はなんでもありのようです。
>極めて客観的な「究極の価値観」
知りたい・・・・お経に示されているわけではないんでしょうか。

お礼日時:2007/09/17 00:57

気付くというのは価値観に変化を起こすことではないかと思います。


悟るというのは物事に対しての自分のフィルターを取り去ることかもしれません。
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この回答へのお礼

自分のフィルターを取り去る・・深い省察ですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/09/22 10:33

≪「気づき」は、このところ仕事上で使われることばであります。


仕事上の発見、新しい展開のアイディアといったことらしいのですが、正直よく分からないので「さとり」と対比してみようと言うのがこの質問の趣旨であります。≫
 それは偶々、一致するという現象も生ずるかも知れませんね。
 所詮、真理とは単純なのだということを、気づいてその通りに没入してしまうことでしょうから。
 人間にしろ何にしろ、膨大な理解なんて事はないのではないですか。
 根本に没入、一体しかない。それは単純なことでしかない。
 むずかしいが、単純。

 
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この回答へのお礼

常人の達し得ない悟りを引き合いに出してモノを考えるのが無理ではありましたが、こういうやりとりから根本に近づけましょうか。
(まとまりがなくなってきました)

お礼日時:2007/09/16 20:02

> む、難しい。

「中立的な意味」がよく分かりませんでした。

 考えるジャンルに依存しない、という意味で中立という言葉を使いました。
 悟るための気付きもありますし、駄洒落を駄洒落と気付く気付きもありますし。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
納得です。
私どもの業界で用いる気づきというネーミングが違和感があったのでそういっていただくと胸に落ちます。

お礼日時:2007/09/16 19:56

目覚めたもの、覚りを啓いたものという状態を


お釈迦様の説かれた仏陀に至る道によって得られる状態とみるなら
気付くだけで覚りには至れないでしょう。
気付きは意識の変化
無常性であっても
執着を離れるということではない。
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この回答へのお礼

さとり・・・う~む。深みにはまりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/09/16 12:05

「気づき」には“仏教の”ということばが付いていませんが、これは意図してのことでしょうか?


 なれば、気づきはなんでもないことでしょう。
 もちろん自分というものの変革というか、踏み出しは伴うことは必ずしもない、単なる何かの気づきでしょう。
 微妙で、本然の真理や、境地の気づきもありましょう。
 でも気づくだけで、そしてわかるだけで、その範囲の世界の自己の変革しかない。
 ‘悟り’ではなく「さとり」とした意味もわかる気もするし、同じ知ることであるが、これはこの世に出てきたことの開き、根本智への没入でしょう。実現でしょう。人生の終局の達成でしょう。
 ≪似て非なるもの≫とも、そうではないともいえましょう。
 「気づき」は「さとり」に含まれる一要素になっている面も、そういう場合もあるでしょうが、「気づき」には「さとり」は含みこまれる筈もないでしょう。
 一つ一つの「気づき」を感激して迎え、「さとり」という場合もありましょうが、それは「気づき」がいっぱい連なることを、意味しているのでしょう。
 「さとり」は最後の到達でしょう。ニルヴィカルパ・サマディ。
 もちろんその深化させていくのでしょうが、もうそこでは、宇宙とこの自分の中のものによって、そこから戻されることはない。
 自分がなくなっている。
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この回答へのお礼

「気づき」は、このところ仕事上で使われることばであります。
仕事上の発見、新しい展開のアイディアといったことらしいのですが、正直よく分からないので「さとり」と対比してみようと言うのがこの質問の趣旨であります。
申し訳ありませんが、「さとり」は禅宗の「悟りを開く」のつもりです。
でも、昔一休さんの伝記でかじったくらいのものですから、あまり分かっておりません。
それぞれ、どのように使われているか、捉えられているか教えていただければ幸いです。

お礼日時:2007/09/16 11:58

納得という意味では同じなのではないでしょうか。

悟りのほうは自然に納得出来るようになったというような感じがします。気づきのほうは何かきっかけがあって納得できた場合のように思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
うーん。
深い考えです。

お礼日時:2007/09/16 11:57

まったく同じでまったく違うものです。

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この回答へのお礼

これまた難しいですね。

お礼日時:2007/09/16 11:38

 全くの別物ですね。



 「気付き」というのは、単にそれまで自分に見えなかったものが見えるようになるというだけの、中立的な意味しかありません。もっとも、自分に益になる内容について、普通は言われるのですが。

 悟りは、涅槃境に入ることです。
 そのために「気付き」も、要素としては必要ですが、そのほかにも膨大な人間理解が必要です。
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この回答へのお礼

む、難しい。「中立的な意味」がよく分かりませんでした。
「膨大な人間理解」って、行き着かないんでしょうね。

お礼日時:2007/09/16 11:37

気づきは悟りの部分であって全部ではありません。


でも気づきのない悟りはありえません。
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この回答へのお礼

ああ、一部と全部ですか。
108ケは・・・煩悩か。
いつになったら、全部に達することやら。

お礼日時:2007/09/16 11:37

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