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どこかの新聞のコラムに書かれていて印象に残っている話です。太平洋戦争で捕虜となり収容された敵兵(アメリカ兵?)に、心を込めてごぼう料理を出した日本人がいた。しかし、捕虜はひどいものを食べさせられたと感じた。これがもとでこの日本人は戦犯になってしまった、というのですが、このはなしをもっと詳しく知りたいと思っています。

A 回答 (2件)

ありましたね。


ここが参考になります。
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20060828/p1
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この回答へのお礼

ありがとうございます。このサイトによると、都市伝説かもしれない、ということですね。

お礼日時:2007/10/03 09:28

東京俘虜収容所第四分所の片山謙五伍長だったと思います。


 彼は食料調達・支給の責任者でして、病死者60名の食料配給を罪に問われまして禁錮20年(再審で17年)の判決を受けました。
 この事件は昭和17年から18年の冬が大寒波の最中に起きたものです。東京俘虜収容所第四分所は新潟県にある捕虜収容所でして、寒波のためにオーストラリア兵60名が肺炎で亡くなりました。その調書や証言の中で食い物として木の根を食わされたという内容があるのです。実際は、本部から支給される食料では量が足りないため、片山は肉類・小麦・米を苦労して確保しました。奥さんも献身的で、片山家の配給の米を分けたり、農家にお願いして牛蒡を含めた食料の確保を行ったのです。

 尚、この収容所では計8人が死刑となっています。
  柴野忠雄准尉
 捕虜虐待の総指揮として死刑。実際は燃料の確保などに奔走

  青木勇次曹長
 捕虜60名に対する治療を怠ったり皮膚に可燃物を押し付けて虐待した罪で死刑。実際は本部に軍医の追加派遣をお願いしたり、盲腸で死に掛けた捕虜を嫌がる病院を口説いて治療してもらったり、脚気で動けなくなった捕虜をお灸で治療してやったりした。

  柳沢章・関原政次・鈴木吉博・大日向博・牛木栄一・秋山米作軍属
 何れも捕虜に暴行を加えたりした罪で死刑。軍属とは戦場で目を失った人・左手が不自由な人・脚を大怪我して歩行困難な人の再雇用として捕虜収容所のお手伝い業務をさせていたもので、虐待をするだけの運動神経を何れも持っていない。
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この回答へのお礼

とても詳しいご回答ありがとうございます。当時は食料不足のなか、収容所の責任者は大変だったのですね。オーストラリア兵には新潟の冬はきつかったことでしょう。

お礼日時:2007/10/03 09:33

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