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私の経験した限り数詞を付ける民族は少ないようです。例えば、日本では人の数は「5人」で、「5本」とは言いません。ところが英語では人でも鉛筆でもfiveです。中国語はどうなのでしょうか。

さて質問です。数学で言う「数」とは、その集合が持っているあらゆる個性や特徴を消去しても残っているある性質に名付けた、大変抽象的な概念なのですが、日本人はそこまで抽象化出来なかったようです。そこで、抽象化からの不安を取り除くために付いたのが「数詞」ですね。この点では、日本人は抽象化が苦手なようですね。それにもかかわらず、日本人には世界的な数学者が排出している理由が、私には未だに良く判りません。

ご意見をお聞かせ下さい。

A 回答 (4件)

前半の部分だけ(質問じゃないですね)。



中国語にも(助)数詞はあります。韓国語にもあります。

誰の説だか忘れましたが、名詞には人の「思い入れ」のようなものがあって、各言語にそれが反映されているらしいです。日本語や中国語は「助数詞」に、ドイツ語やフランス語は「性」に、この「思い入れ」が反映されているという説です。

じゃあ英語はどうかと言うと、どちらもないですね・・・

この回答への補足

#4さんと#3さんのどちらも、なるほどと教わる所がありましたので、良回答の採点をどうするか、大変迷いました。この際、「性」を抽象化と結びつけた意外性を採る事にして、このような採点になりました。#3さんも20点にほとんど肉薄しております。

補足日時:2007/10/30 22:23
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この回答へのお礼

なるほど、「性」は抽象化仕切れなかった「思い入れ」と考える事が出来るということですか。参考になりました。面白い意見有り難うございます。

中国語と韓国語の知識は皆無なので、興味があります。具体的にはどういう使い方があるのか知りたいです。

お礼日時:2007/10/29 11:58

> 抽象化からの不安を取り除くために付いたのが「数詞」ですね



 こういう考え方は初めて聞きました。
 人間の「5人」と、鉛筆の「5本」とがあるとき、アメリカ人は five men、 five pencils と、同じ five=5 を認識できるのに、日本人は同じ「5」を抽象化できずに、別々の認識をしている、という主張でしょうか。

 私の素人考えでは、数詞を付けるのは、日本人の自然に対する接し方、山には山の神様、海には海の神様、という八百万の神がいる、という見方と関係しているように思います。それぞれの「モノ」に対して、それぞれの敬意を払っている、という感じではないでしょうか。

 日本人が数学に強いのは、数の数え方が関係していないでしょうか。11 を「じゅういち」、つまり、「10」と「1」の合成数としてとらえて十進法の精神が身についているのに、eleven にはそういう観点はないですね。
 もっとも、このレベルの「数学に強い」は、庶民がおつりの計算に困らない、というレベルの話で、世界的な数学者が出るかどうかというレベルとは別物ではないかと思います。

この回答への補足

#4さんと#3さんのどちらも、なるほどと教わる所がありましたので、良回答の採点をどうするか、大変迷いました。この際、「性」を抽象化と結びつけた意外性を採る事にして、このような採点になりました。#3さんも20点にほとんど肉薄しております。

補足日時:2007/10/30 22:29
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この回答へのお礼

>日本人は同じ「5」を抽象化できずに、別々の認識をしている、という主張でしょうか。

その通りです。

>それぞれの「モノ」に対して、それぞれの敬意を払っている、という感じではないでしょうか。

なるほどと思いました。

>日本人が数学に強いのは、数の数え方が関係していないでしょうか。

確かに、日本語ははっきりした十進法を採用していますね。その点、英語は12まで呼び方が独特で、多分昔の12進法の影響を残しているのかも知れません。フィートやヤード、それにスクウェアー・フィーとなど、長さや面積のは明らかに12進法ですね。

さらに、日本語の「数詞、いち、に、さん、ひゃく、せん、、、」などは単音ですんが、英語は数詞がやたらに長いく、その影響で1981をninteen eighty oneなどと、位取りを一切無視して表現しますので彼等は引き算が苦手です。だからおつりの計算は、品物の値段に残りのお金を足して、足し算で計算する事しか出来ないようです。

#2さんへのお礼も見て頂いて、なにかご意見を聞けると有り難いのですが。

有り難うございました。

お礼日時:2007/10/29 02:01

> 抽象化からの不安を取り除くために付いたのが「数詞」ですね



そうは思えません。数詞という言葉を「人」「本」を指していらっしゃるようですが、
数詞とは本来「一、二、三」"one, two, three" といった語のことを指すのではないですか?
こうした数詞があることは、ものの量を抽象化していることを示していると思います。
また、英語でも、単に five とだけいう場合と five pencils と言う場合があるとおもいます。five だけ言って通じる場面はカジュアルなシーンか、ある程度コンテキストが限定されている場面だと思います。

母語と数学の関係性をお調べになりたいようでしたら、仏語、露語、独語もお調べになったほうが良いと思います。それぞれの言葉を母語とする偉大な数学者がたくさんおります。
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この回答へのお礼

私は国語の素人なので、言葉の定義が不正確だったようです。早速ウエッブサイトで調べたところ「数助詞」と言うのだそうです。これを知っただけでも、質問のした甲斐があります。有り難うございました。

私はアメリカに大分長く住んでいますが、英語では、
How many cats did you see?
と聞かれた、
I saw two. も I saw two cats. も正式な表現です。

若い頃勉強した記憶では、仏語、露語、独語、みな英語型だったと思います。

日本語では、
「2見た」とは言わず、また、「2猫見た」とも言わず、「2匹の猫を見た」あるいは「2匹見た」と言わなくてはおかしな日本語になります。英語のように猫を付ける場合でも、「2の猫を見た」も駄目です。
猫と言う言葉を添えて曖昧さが入り込まないようになっているのに、それに加えて「匹」の言葉を添えなくては安定が悪くておかしな日本語になってしまいます。この感覚は、コンテキストに無関係です。やはり「2の猫」とは言わず「2匹の猫」と言うように、「2」まで抽象化するが不安なのではないでしょうか。

こういう独特の文化を持った日本人の感覚が、数学の発展での抽象化に対して何か独自の世界観を持ちきたらしているのか。それとも、数学とはその人が埋め込まれている文化に無関係な世界観を対象とした学問なのかと言うような疑問が思いついたので、質問させて頂いた次第です。

因に私は物理学者ですが、物理学とは単に客観的な物質界の事象を合理的に説明しようといだけの学問ではありません。物理学者は宇宙には第一原理、ないし物理の基本法則という物が存在し、森羅万象がその第一原理から統一的に説明出来るはずだとの、神懸かった、いわば物理教ともいうべき信仰の信者です。ですから物理学の思考法は、その人の埋め込まれた文化に強く影響を受けております。数学はどうなのでしょうか。何かご意見がありましたら、お聞かせ下さい。

何れにいたしましても、回答有り難うございました。

お礼日時:2007/10/29 01:47

いろいろ可能性は考えられますが、単純に言語に数詞を 持つ/持たない が数を抽象化して把握していることとイコールではないということではないですか?



欧米人が five と言ったときに、それが即ち人の人数だけではなく「5」という概念そのものを表現しているとは言えないと思います。

同様に日本語が数詞を持つことで即、日本人は抽象化が苦手と判断することには繋がらないと思われます。
日本が優れた数学者を輩出していることが、それを示唆しているとは思いませんか?
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この回答へのお礼

>同様に日本語が数詞を持つことで即、日本人は抽象化が苦手と判断することには繋がらないと思われます。

同感です。ですから余計気になってしまうのです。

有り難うございました。

お礼日時:2007/10/29 00:50

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