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ヨハネ4:13-14

イエス・キリストがスカルという村の井戸に水をくみに来たマリヤという女に語った言葉で

「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

肉体的にも精神的にも潤って乾かない水というのがあるのでしょうか?
紀元前の当時でも「水」は天からの恩恵で貴重で命の根源のように崇められてはいたと思いますが、永遠に人の内で湧く水とは何を示しているのでしょうか?

A 回答 (13件中1~10件)

真実に何かを言ったり、行為したなら、人はたった一瞬、それが香ることで、全ての苦しみから解脱します。


真実の言葉や行為には、一滴で、全ての苦を終滅に導く作用があります。
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この回答へのお礼

BABAaさんありがとうございます。お礼が遅れお詫びします。

>一滴で、全ての苦を終滅に導く作用があります。

イエスも処刑を受けた時、痛い、苦しいとは決して言わなかったのに「私は乾く」といって水を欲してましたね。
「死に水」は現実、真理を欲してのことなのか…と訳の解らない発想を持ちました。

「裸足のゲン」をテレビで見たとき、被爆した人が「み・水、水~」と命からがらで喘ぎ、「水を飲むと安心して死んでしまうから水をあげちゃだめだ」という場面は切なかったです。

それほど多くは要らない。ほんの少しでいい。香るだけでいいかもしれない。物質が沢山ある世界とイメージが香るだけの世界。
優劣があるというのか?幸せに。
少し現実逃避で実は夢ばかり見てました。目をつぶれば口を閉じれば幸せです。

順不同でも自己満足という不純な目的にもなりますが、返信は必ずしますので;

お礼日時:2007/11/18 19:26

非常に良い点に気付かれましたね。



マリアも最初はよく理解できなかったようです。
イエスは祈りの中でこう言われました。
*** ヨハネによる書 17:3‐4 ***
彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています。

ですから、イエスの明らかにされた神についての真理を理解して
いわば飲み、生活に適用した人は水を湧き出させることができるのです。
*** 聖8‐参 コリント人への第一の手紙 3:6 ***
わたしは植え,アポロは水を注ぎました。しかし,神が[それを]ずっと成長させてくださったのです。

そうした供給は組織的に行われることになります。
*** 聖8‐参 マタイによる書 24:45 ***
主人が,時に応じてその召使いたちに食物を与えさせるため,彼らの上に任命した,忠実で思慮深い奴隷はいったいだれでしょうか。

将来、さらに大規模な命の水が用意されていて、それを飲むよう招待されています。
*** ヨハネへの啓示 22:1‐2 ***
また彼は,水晶のように澄みきった,命の水の川をわたしに見せてくれた。それは神と子羊とのみ座から出て,2 その大通りの中央を流れていた。

参考URL:http://watchtower.org/j/
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この回答へのお礼

新年明けましておめでとうございます。お礼が遅れ申し訳ありません。
どんな経緯でこの質問に辿り着いてくれたものでしょう!
質問してから2年経過しましたが、締め切らずにいて良かったです。「上善は水の如し」サラーと飲めてしまいます。
私のような鈍いものが「なるほど」と唸り、自分に照らして考えやすくなりました。

命の水は「真理を理解」するということかもしれませんね。
生活に適用した水(ここではイエスの知識)は忠実で思慮深く人を成長させる。

私はクリスチャンとも違い、何者でもないのですが、宗教を含め生活に活用できる科学、哲学など多くの知識を与えてくれた師がおり、決して私にだけではないのですが、私はミーハーですので、乾ききった心を自己満足したいがために師に迫って、師の養分、博愛精神(血)を欲しました。。血といっても毒のある言葉によってですけども。毒を持って毒を制す。その毒は私の濁りきった血を幾分か綺麗にし、今こうやって公開の場で晒してますが、どんなもんでしょう?
その水は飲むとそこに無くなる、そして飲んでも又乾くのではなく、水を飲み癒された私が誰かを癒したくなりどんどん流れ出すようなのです。これ「成長」?実感するのはまだ先かもしれません。

その恩師が私に ↓出した宿題があったのを以前ここで沢山の英知と善意ある回答者から教えてもらいました。
必要(大切)なものはひとつだけ?
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1649982.html?ans_cou …

いい加減で協調性とか礼儀も知らない奴に見えるマリアだけれども、イエスはしっかり者のマルタを厚く信頼しつつもさすがイエスです!着眼点が違います。というか世界は広いです。
自分で自分を小さくする知識など何の役に立つものなのでしょうか?複雑にして卑屈に硬化させる頭は何のために必要でしょうか。
私はそれが無くても生きてけたので無駄に思えます。単純で実にいい加減に見えるマリアにも凄くいいところがあるんだよと。知らずにいるのも、知りすぎも勿体無い。自己弁護のし過ぎかなぁ。

時間があればじっくり考えたいことでもあるので(永遠考えるかも)まだ締め切らずにいます。
貴重なご意見に潤う気持ち、そしてishiid1さんが苦労されてここまで共生(優しさ)してくれたことに感謝します。

お礼日時:2009/01/05 11:08

No.11です。


あまりしつこくなると たとえいいことを書いても 台無しになりますが お知らせのようなことを一点です。

恋愛論については 拍子はずれになってもいけませんから 控えまして 《神の名誉の為にも》 次の聖書の箇所をお伝え致します。
 イエス・キリスト出現(=《新しい契約》)のあとでは 神は人間の罪について一切問わないと言っている文章です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。

 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したとき(――モーセの時です――)に結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。

  しかし、来たるべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
(『旧約聖書 / エレミヤ書』 :31:31-34)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

brageloneさん、ありがとうございます!年が変わりそうで急ぎます。そうなると一神教の神というより多神教の唯一神のようです(?)「全存在が持てる真理」となるなら独占することも振舞うことも赦す必要すらないのですよね。それは水もそうですが、言葉がそうなるなら、バベルの塔が立つ前は意思疎通に言葉の障害がなかったのだから、それに戻る可能性もあるかもしれない。例えば手話は世界で大体通じますね、聴覚障害の人が一人でアジア旅行をしていて羨むぐらい困った事も起きないよと自慢されたことあります。ゴリラやチンパンジーとも意思疎通できますし。「初めに言葉ありき」という源泉には手話があったかもしれないなと。

年中はお世話になりました。色々な方に面倒を見てもらったり幸せでした。感謝を込めて、皆様の益々のご繁栄とご多幸を信心もないのに祈ります。来年もよろしくお願いします。良いお年を。

お礼日時:2007/12/31 23:51

「もし、貴方が神様の賜物を知り、また飲む水を少しくれと言った人が誰であるかを知ったならば、彼に求めたはずであり、彼は貴方に生きている水を与えたはずです。

ヨハネ4:10」。神様の賜物は、生きている水です。生きている水は、永遠の命の意味です。即ち、神様の賜物は永遠の命です。肉体のために飲む水は、再び乾くけれども、生きている水である永遠の命は、絶え間なく湧き出る水のように、一回得ると、失うことは有り得ないのです。   イエスとサマリや女との物語は、4節から42節まで長々です。初めは、ユダヤ人である貴方が如何して私に水をくれと言えるかと言いかかった彼女が「9節」、霊的な意味を理解出来ず、肉体的なことだけ言ったが「12節」、隠れた罪を指摘されるとイエスを特別な能力を持つ預言者だと思いながらも「19節」、問題の核心からの逃れようと話題をほかのところに変えます「20節」。イエスキリストが、自ら神様の子だと言った事が無いと言い張る人々も多いですが、26節では「貴方と言っている私が彼です」と言われました「9:37」。  ここで大事なことは、罪人が救われる為には、必ず、罪の問題を解決しなければならないと言うことです「19節」。罪がある人は神様の国に行けないからです。神様の国には、極 小さな罪も存在しないからです。極 小さな罪でもあれば、神様の国には入れないことです。だから、駱駝が針の穴を通るくらいに神様の国に入るのは難しいと言われたのです「マタイ19:24」。しかし、なかなか罪を認めないのが肉体の人間です。ある潔癖を言い張るお婆さんがいました。罪を一回も犯したことが無いと言い張りました。「嘘をついたこともありませんか?」「良いことだけ言っても全て言えないのに、どうして私が嘘をついたことがあるでしょうか?」。罪がある人は、神様の国に行けず、地獄に行きます。救われたと言う意味は、罪によって地獄に行く定めから、罪の問題を解決して神の国に行けるようになった、と言う意味です。 救われたと言いながらも、地獄を否定し、神様は愛のみだから救われたと言う人も居ます。ローマ書も愛のみ、コリント書も愛のみ、神様が言葉を選んだだけで同じ愛を述べただけだと言うことです。そのような人は、神様の福音を変形した者であり、聖書の通りに信じようとする人を惑わせ、躓かせる人であり、健全な福音を伝える人を妨害する人です。聖書には地獄が50回書かれてあります。5は死を意味する数字であり、10は異邦人を意味する数字です。ですから、死「地獄」を信じない異邦人は、地獄に行くことによって地獄を体験するようになります。 聖書の中で高慢な人だけは救われた事がありません。高慢な人は罪を認めない人です。高慢な人は、御言葉を削除したり変更したりして自分なりに聖書を解釈する人です。 サマリやの女は、自分の罪を恥じる事なしに人々に言い、神様を認めました「39節」。 「私が、渇いた者に命の水の泉を値なしに与える。啓示録21:6」。「欲しい者には誰にも、命の水を値なしに、飲むようにさせなさい。啓示録22:17」。旧約では、私達の罪の身代わりとして、おもに羊が身代わりの血を流されたことによって、罪を贖って貰いました「創世記4:2、出エジプト12:5、レビ22:19」。罪が支払う代価は死「地獄」であり、罪は血を流すこと以外は赦される方法が無いからです「ヘブライ9:22」。旧約の羊はイエスキリストの模型でした「ヨハネ1:29」。そして、模型だった子羊が、実際に来られて、十字架に掛けられて血を流すことによって、私達の罪を赦してくれたのです。これを心から信じる人は救われた人です。イエスキリストが、自分の罪の身代わりとなって死なれたことによって、自分の罪は許されたと心から信じる人は救われた人です。単なる頭だけで理解した人は救われた人ではありません。自分の親を頭で理解して信じる人は居ないように、救われた人は心で、自然に信じる人です。そのような人には、渇かない水である永遠の命が、値なしに与えられるのです。このような救いに代価を求める人は、聖書違反者であり、狼であり、悪魔の僕です。教団によって教えが異なるから、牧師によって教えが異なるから、と言う話をよく耳にしますが、そのように言っている人は、私は救われて無いですよと言っているのに違いが無いです。同じ神様、同じ聖霊、同じイエスキリストだからです。「But he that is joined unto the Lord is one spirit.しかし、主と結びついた者は一つの霊です。コリント前6:17」。私は、聖書の通りに信じて、聖書の通りに救われた人々、が異なることを言っているのを見たことがありません。
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この回答へのお礼

puregrapeさん、質問を見付けていただき、そして詳しいご説明をありがとうございます。神の思し召しを受けたようです。

原文で読む機会も能力もなく残念ですが、翻訳本の訳の正確さには初めから懐疑的なのです。ついでに私が呑気な無神論者であることもあって聖書の深い意味が読み取れないでいます。

乾かせない水=永遠の命=「信心」、一度与えられた水は全ての罪を認めさせ懺悔し、そこから許しという問題の解決に辿り着けた者だけが血を流さず天国に行けて、罪を認めなかった高慢な者は血を流す事以外には赦される方法はない。ということに簡略しては乱暴ですか?

神様は完全無欠な潔癖症のような。よほど純粋でありながら厳格な人でなければ信じてても救われるかどうか難しいって思いました。

信じる信じないで全人格(霊を含め)と死後の居場所(私はあるとは思わないけれど)区別するところはある意味度量が狭い!し、他者を嫌うや非難するからには、自分の中に非難される程の疾しさを隠そうとする人間の心理、憂さ晴らしして慰められようとする価値観に神も多分に追従してるなって感じます。

既に数々の不正を犯し高慢な人間であるということを認め、それによって他人を善悪で区別する権利がないことも悟って(るつもりの私)だから、神は人を裏切らないというなら、文句を言わせないというのと同義ですから、非難したり信じない者には「地獄」という概念を持たせて動機が違っても同じ結果にして黙らせようとはしてないでしょうか?

神の名誉の為にも?現世で救われるような、ここが生きているこの時が天国だったのです。という下りがあるといいなと思いました。

お礼日時:2007/12/31 20:34

No.3です。

お応えをいただきました。

フランソワ・モーリアック(*)に《イエスの生涯》という小説があります。(ひょっとすると 部分的にその解釈の影響を わたしも 受けているかも知れません。部分的にですが。そして 何も見ないで 回答は書きましたが)。

*モーリアック:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9% …

確か そこでは――記憶ちがいでなければ―― このサマリアの女は イエスに恋をするという設定です。
 もしそうだとすれば その関係性のこともあって より一層このかのじょに合った表現で イエスは答えているのだと思います。

また――これは わたしの付け加えですが―― イエスは 最短距離を歩んで かのじょに説得のようなことをおこなったのだと考えます。つまり はじめから ぶしつけな内容をも直截に問い掛けているように思います。

いづれにしても かのじょは すでに その日は 井戸に来る前から きょうは何かあるんじゃないかなと予感がしていたのではないでしょうか。そのこともあって イエスは単刀直入に問いかけ 話しを解決へと 一気に持って行っているように思えます。

そんなこんなを想わせるくだりだと思います。
信仰は 一人ひとり 自分の内奥のことです。
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この回答へのお礼

brageloneさん。いつもお世話になっていながら気にしすぎる私はその反動でお礼が進まないという逆説です。熟練オヤジは女性の品定めとお世話が好き、少年は健康的なお色気の女性を直視することができない。欲し過ぎるからで、絶倫なのはオヤジではなく少年である。全身が狂気となるのを怖れているのと同じ原理です(意味不明なら飛ばしてください)

イエスほど魅力(と妙齢?)があれば恋(初めて逢うのに思い出のような人=崇拝)しないでは居れないのが普通かもだし、不安でたまらない時、失恋の後とか喪失感がある時ほど惚れっぽくなりますよね。

失恋(の専門家)の私。喪失感がある時って与えられたことの多少を悔しがるより、もっと私を使って与えることが出来なくなるってことが悔しい気持ちになるんですよね。それでイエスは「私に水を下さい」と乞うてマリアに自信を保たせようとしたのかな? でもですね、失恋で失うものもないという考えに変わって来て、失恋は私の胸の内にあるもので、主体から離れるものじゃないこと。私が相手を何とも想わなくなった時が失恋だということにして、いくら距離を置かれようが卑下されようが自分免許で好きだった人が突然嫌いになる理由とか存在に変質してしまえる方が妙な法則だ理屈だと。
だから私の涙は乾くこともありません、喜びの涙です。何と失恋とはあっさりした境地のもので、そこに辿り着くのは亀のごとくで、しつっこいって嫌われますけど(泣)。向こうに迷惑はかけませんから。因みに蠍座A型。

お礼日時:2007/12/31 21:23

#7です。



No4の捕捉について、横からながら、
いい加減なことを自説にされても困るので説明しておきます。
ひとつ、ブッダはイエスよりも古い時代の人間ですから、
教えを人から聞くことはできても、実際に会ったとするのは間違いです(仏跡など歴史調査の結果で明らかです)。
それから「空・風・火・水・地(キャハラバア)」と云った存在自体を、
仏教は認めていません(諸法無我)。
もし、これをキリスト教側の意見として正しいとするならば、
ヒンドゥーの土着信仰の影響を受けた間違った仏教になります。
これでは仏教について、タントラ仏教やヨーガと同じ偏った理解しかできません。
質問者様が旧約聖書を知らず「水」の議論をされるのはナンセンスです。
キリスト教の神はユダヤの神です。ユダヤ教の中でイスラエルの民が、
どのような気持ちで神を恐れ敬ったのか、
それを知らずにイエス=キリストの偉大さを知ることは適いません。
まずは、正しく歴史を知るべきです。
さもなくば人間の歴史の上に築かれてきた信仰の意味を見失うでしょう。
超次元的なものを求めるか否かについては私は
それも最近は良いかも知れないと思うようにもなりましたが・・、
宗教は道徳の為にあってそれは人間がより人間らしく生きられる為に
作られた教えであり、それは正しく謙虚に心に受け留めることで価値が出てきます。
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この回答へのお礼

ganesha_meさん、ありがとうございます!
こうやって色んな解釈の間違いの指摘を受けられるのも質問の意義と思っています。
歴史や教学を知らずに生活も出来てしまうし、何かと思いこみが多いもので、その打破に私の哲学はあります。謙虚出来るようになるには幼過ぎるよという自覚だけはあります!? 旧約聖書のDVDを観てみよう。(安易な探求真である)

     >「空・風・火・水・地(キャハラバア)」
      と云った存在自体を、仏教は認めていません(諸法無我)。

インド伝来の真言密教にはありました。インド伝来の密教と中国伝来の仏教は似ている側面もあるでしょうが根本は違っていますね。日本で永続共存していることは日本の土着の信仰の懐の深さもあってでしょうね。

お礼日時:2007/11/23 11:44

水というのはたとえです。



>「信仰が永遠に自給自足できる水」ということかな
まあ、間違いではないね。
イエスが与えるものは御言葉かな?

この回答への補足

katyan1234さんの補足欄をお借りします。
みなさんの返信はありがたく何度も読ませていただいております。
私の性格と能力を察してのんびりと寛大でおられてください…。

補足日時:2007/11/14 08:07
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 イエスや聖典の表現と内容は、確かに歴史や科学の解明と解釈がありえましょう。

それは一定の事柄の理解のためには有益なことであると存じます。
 実際ご回答のそういうご説明は、たいへん勉強になることもあります。それは一つのジャンルとして認めなければなりません。
 私はでも、この聖書のことばは、ことばが伝える意味内容として受け取ります。
 イエスという存在からのことばは、時にこのようにサマリアびとの女性にたいしていっているのでしょうが、今の私達はこのサマリアの女性(私は性としては男性でも)として、となって、聞く必要が、受け取る必要がないでしょうか。
 サマリアの女性と同じ境遇に置かれているではないか。ということを先ず深く自覚すること、困っている事が、困っている状況を痛感してないようでは、イエスのことばは意味がない。歴史学や科学の次元の事実の意味しかない。
 人それぞれに、どんなに自分がサマリアの女性なのだと知ることから出発したいと存じます。のっぴきならない状況を自分に知ることから。
 仮に、精神や思想のことばで、そういう水だとしても、そこで意味がでてくるのでしょうね。
 イエスは教えの、事実的効力を言っているのではないですか。
 それは科学や歴史の事実を知ることで終始するならそれでいいのですが。聖書のことばはどう受け取るにしても、こちら側はのっぴきならない状況を知らないようでは何の意味もないのではないですか。
 この件(くだり)の前には、イエス自身も疲労したと、書いてありました。そして、この女性に水を下さい、といっている。私達はそれぞれの人生で、どんなにこういう場面になっていることでしょう。
 私の受け取りは、水とは事実に効力の有る、創造者からの教え、ことばであり、イエスはそれに繋がっている。そのものである。
 そしてそれは、アーメンというものである。太初のことばである。
 創造のvibrationである。中国では少し違うが、気になっている。
 ヒンドゥでは正にオームであり、具体的にはプラナとなっている。
 そのコンタクトを教えようと、いうのであろう。イエスは。
 そして女性はそれを、イエスの全てから了解できた。
 それだけ彼女は自分を、其の状況を知っていた。困っていた。
 困らない人には聖典は意味がないのでしょう。
 私達は困ることが、どんなに仕合せかを知るべきではないでしょうか。せめて聖典を読む前に。
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この回答へのお礼

krya1998さんハッピーメリークリスマス。どうかお目にとまることを祈ります。。ズボラが一番の理由ですがお礼が滞ったことお許し下さい。

>サマリアの女性と同じ境遇に置かれているではないか…と深く自覚すること…困っている状況を痛感してないようでは、イエスのことばは意味がない。

「人の痛みを自分の痛みのように感じて」ですよね。見返りがなくても誇れるならするし、自分可愛さだけですることは誇らしくならない時もあって得をしながら憤りも湧いて「気が済んだ」了解とならなかったり。

>イエス自身も疲労した…そして、この女性に水を下さい、といっている。

精神的に強いイエスでさえ自身の弱さを受け入れて母性本能をくすぐるようなことをしたんですね。それは女性に高ポイントです。計算でしょう!

あくまで主観ですが強がっている男性の弱みをチラっと見ると胸がキュンとします(照)万人に愛し方を教えて胸キュンが「涌き出てる水」だったのか!?母性は女性だけの特権としないで男性にも個人差こそあれ強がってる女性の弱さに惹かれることもあると思います。けれど性差に拘ることでもないですね。

>私達は困ることが、どんなに仕合せかを知るべきではないでしょうか。せめて聖典を読む前に。

困るとき指針が示される。私の場合なぜか穏やかに過ごせている時より成長しやすいというのがあり、後悔もないことが多いです。困難が幸せにさせてくれるものとまで断定しないけど、万事が上手く行くことの方がバランスも崩れやすいものだから災いがあっても死にはしないなら感謝なのかもしれません。
私の指針その1
   「臭い」と背向くものの肥しとなり他者の力を借りてでも
    間接的に長期的に循環するうちいつかは吸収されるだろう。
その2.
    人に優しく自分にもっと優しく甘く。
その3.
   自分の至らなさを見せても必要な相手は必要。
   お互い完璧を望まないでいる関係こそ完璧な関係だから。

乾かない水の指針と重なれるでしょうかね?
お礼としながらまだ混沌として、答えがあっても場合や人によっての解釈の違いも計算の上での聖典であるのかもしれませんね。

アーメンやオームはきっと体感することで理解するもののよう。それでも考える上でや自分の指針の整理もすることができました。そのことも含めて回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/12/25 22:38

僭越ながら、私もこの話は比喩だと思います。



水が重要なのではなく渇きという「飢え」が重要だと思います。
ユダヤ教の神は絶対で、私たちは原罪を背負って神の怒りを受けて、
この世に短い命を住まう者であったと思います。

イエスは神の声が聞けるので、イエス=キリストの与える言葉は、
神の真理を説いたものであり、神がこの世を創り絶対永遠ならば、
神の声を聞けば渇きさえもなくなるとする神秘なのだと思います。
肉体的にも精神的にも潤う水なのでしょう。
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この回答へのお礼

ganesha_meさん、ありがとうございます。お礼が前後し大変遅れました事申し訳ありません。

     >神の声を聞けば渇きさえもなくなるとする神秘

イエスは貧しさや病気が辛いものなのではなく、それがもたらす作用の孤独や絶望が人にとって絶えがたいものだとしたのでしょうね。
孤独や絶望から救う神秘「神の声」というのは言葉だけではなく乾ききった身体に染透る「美味しく感じる水」のように全身全霊で感じただろうと、想像は出来るのですが、欲深いもので水を飲む必要がなくなってしまうのも寂しいな…ずっと満足し続けるという実感を持ったことがないのでやはりまだよくわかりません;

キリストは穏やかな人という印象があるのですが、陽気な人だったのでしょうか?「信じるものは救われる」と、とりあえず勘違いでもいい!?飢えていようが損気を起こしたり嫉妬しないで空元気でも上等として私は大切なこととしています。

お礼日時:2007/12/09 23:49

その内容を読むと、相手の女性はイスラエル王国の子孫だと思えます。


イスラエル王国は、紀元前1021年頃にパレスチナの地域で成立した国家です。
後にユダ族がそこから分離してユダ王国を作りました。
イエスはユダ族ですよね。

イスラエル王国は山を神の住まいとして(日本もそうですが)崇拝しましたが、南のユダ族は神殿を築き、そこを神の住まいとしたんです。

北が最初に捕囚されて、開放された後も戻ってこない人が多くて、(失われた10支族ってありますよね)、ユダヤ教原理主意的な南のユダ王国からすれば、同じ種族でありながら、差別していたんです。
宗教的に相容れないから分離したわけで、憎しみというより軽蔑的にサマリア人を見ていた。

イエスが良き隣人としてサマリア人のたとえ話をしましたが、赤の他人の隣人どころかもともと同じ国の子孫たち。
「関西人だ」「東京人だ」と張り合ったところで、日本人には代わり無いのと一緒。
いがみ合うこと自体 ばかげたこと。


北はどこだったか忘れましたが、戦争に負けて他の民族の入植が進み、他の民族の血が混ざったりしているとか言われてもいますが、もともとイスラエル民族だって混血なんですよね。


このヨハネ4.13-14はよく意味がわかりません。
当時のサマリア人は母系だったのかもしれない。
そしてその女性は神官だったのかもしれない。
そうなると多数の夫という意味がわかってくる。


このヨハネの文書のこの箇所は、他の文書を参考にして作られているのかもしれない。
そしてその元の文書はヘブライ語、またはアラム語だったと思えるのです。
何故ならマタイの福音書の表現に似ているから。

マタイ文書もそうだったように、ギリシャ語に変換されたとき、別の言葉に変わったため、何を言いたいのかよくわからなくなってしまった と思えるのですね。

だから、ヘブライ語に戻せばわかると思えるのですが、ヘブライ語を私は知らないので、本来の意味が一体なんだったのかわかりません。

じゃあ 返信を書くなといいたいでしょうけど、ちょっと小耳にはさみたいものがあって、ノコノコ出てきました。


トマスの福音書というものをご存知でしょうか。
キリスト教が焚書にした書物です。
残念ながら神に関することが書いてあるものは燃やしてはならない という絶対的な掟がございまして、キリスト教会が命令したにもかかわらず、教会より神を選んだ人によって燃やされず地中に隠されたんです。

長い長い年月 その書物は地中に眠っておりました。
俗に言うナグハマディー文書。約2000年ほど眠っていた。
その中にトマス(双子)の福音書が載っているんです。


例えば、『イエスは言った。「あなたがたがあなたがたの中にあるものを引き出すならば、それがあなたがたを救うであろう。あなたがたの中にあるものを引き出さなければ、それは、あなたがたを破滅させるであろう」』

『イエスは言った。「私はもはやあなたの先生であない。なぜなら、あなたは私の量った湧き出る泉から飲み、酔いしれたからである。・・・・私の口から飲む者は私のようになるであろう。そして私もまた彼になるであろう。そして、隠されていたもの彼に現れるであろう」』


トマスの福音書の中のイエスは、人々を救うために来臨するのではなく、人間に霊的知解への接近を拓く導師として来臨することになっている。
しかし、弟子が覚醒を達成すると、イエスはもはや霊的主として仕えることはない。
両者は対等に 同一にさえなる。
トマスがイエスを認めるやいなや、イエスがトマスに、両者ともその存在を同じ源泉から授かったと言っている。


イエスの言っていることをトマスが理解し、同じレベルに達したってことですよね。

で、同じ源泉の源泉とは一体なのか。

新世紀エヴァンゲリオンだと太母神と同一になりましたが。。。。

グノーシスの教師モノイモスの言葉から考えてみましょう。
『神とか、創造とか、これに類似したものを捜し求めるのはやめなさい。
あなたがた自身を出発点にして、彼(究極的存在)を求めなさい。
あなたがたのなかにあって、すべてのことを思う通りになし「わが神よ、わが心よ、わが思いよ、わが魂よ、わが肉体よ」と言う者は誰であるかを知りなさい。
悲しみ、喜び、愛、憎しみの原因を知りなさい。
・・・・あなたがたがこのようなことを注意深く吟味するならば、あなたがた自身のなかに、彼を見出すだろう。』

(自己をもっとも深いレベルで認識することは、同時に神を認識することなのだそうです。これがグノーシスの奥義なのだそうです。)


>紀元前の当時でも「水」は天からの恩恵で貴重で命の根源のように崇められてはいたと思いますが、

はい、創世記でも最初に水が登場しますよね。
日本神話もそう。
MA。インド・ヨーロッパ語群で母という意味。
Mは液体(水),Aはアレフ=始まり。

ということで、新世紀エヴァンゲリオンのシンジ(神の子)はMAと同化しMAとなり、創造をしたんですね。
何をかというと自分と異なる他者を。
その繰り返しが生命の定め。
DNAってそういう形状でしょ?

永遠に人のうちで沸く泉って、MAに帰還したいというパトスじゃないかと。

イスラエル人はシオンに帰還することを長い間熱望していますよね。
それは単に同じ地域に住むという意味じゃなく、同じ思想になるという意味じゃないかと。
同じ地域に住むには同じ思想にならなければならない。
ならなくなったから、イスラエル王国は分裂したわけですよね。
そして、また一緒になりたいと、その繰り返し。

宇宙は紐のようなものとも言われていますし、ビッグバン説もありますよね。
そうだとしたら、今は広がっているようですが、やがて中心に向かっていくと思います。
そしてまた臨界点に達すると分裂を始める。
永遠にこの繰り返し。

この回答への補足

 kigurumiさん、他の回答を頂いた方にも返事が大幅に遅れて非常に遺憾に思っております。土下座します!m(_ _)m申し訳ありません。 

自分でもウロウロ思索して一向に纏まらないでいます。  
それが何か繋がっているような気もして水って罪なものです!
kigurumiさんの説を多いに参考にしてのことですが、とりあぜす何か記そうと補足にしました。

     >同じ地域に住むという意味じゃなく、
      同じ思想になるという意味
     >また一緒になりたいと、その繰り返し。
     >宇宙は紐のようなものとも言われていますし、
      ビッグバン説もありますよね。
      そうだとしたら、今は広がっているようですが、
      やがて中心に向かっていくと思います。
      そしてまた臨界点に達すると分裂を始める。
      永遠にこの繰り返し。

映画「バベルの塔」も観ていないし、旧約聖書は全然解らないのですが、イエスがブッダに会おうとしていたらしいという説を聞きかじった(だけですが)あります。言語も分断されてなく同じ思想で意志疎通も出来ていた時代があったのだとしたら?

アジアの文明に興味を持つものとしてインドや中国(方面)から「水」を探ってみました。
△サンスクリット文字・梵字
サンスクリット文字は古代インド(紀元前五世紀?)9の文章語(ヴェーダ語:インド・ヨーロッパ語族のインド・アーリア語派で英語の親戚筋)
梵字はヴェーダ語に続く古典サンスクリット語で紀元前236年にプラーフミー文字(現存)、その後四・五世紀にグプタ文字が現れ6世紀に悉曇(しったん)文字となって日本に伝わり(真言)梵字といわれた。
その梵字で宇宙の五元素は「空・風・火・水・地(キャハラバア)」として卒塔婆に書かれ裏には「種子(バン)」と書かれている。「悉く(ことごとく)煩悩を大日如来(太陽神マハーヴァイローチャナ)に依存して水に流して貰う」という意味があるそう。種子の中に太陽神がいて宇宙の元素を不分離とか不死、かくあるべしな意味であると思われる。

『水はパドス、情熱の種子の比喩』かもしれない。
これは私の勝手な解釈によるもので、古代インド文字、真言に詳しい方の説明を貰いたいです。

     >MA。インド・ヨーロッパ語群で母という意味。
      Mは液体(水),Aはアレフ=始まり。

「MATHERM、Mを取ったら他人です」というコマーシャルを思いだしました。
他人は始まらないのでしょうか?

     >永遠に人のうちで沸く泉って、
      MAに帰還したいというパトスじゃないかと。

△アルケー http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB% …
△パトスpathos - 「感情的・熱情的な精神」の意。「ペーソス」の語源。
△ペーソスもの悲しい情緒。哀愁。哀感。情熱。パトス

△宇田多ひかる「passion」
   思い出せば遥か遥か
   未来はどこまでも輝いていた
   きれいな青空の下で僕等は少しだけ怯えていた
   ~
   懐かしい色に窓が染まる
   ~
   二度と会えぬ人に場所に
   窓を開ける
   ~
   わたしたちに出来なかったことを
   とても懐かしく思うよ

補足日時:2007/11/23 08:10
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