親子におすすめの新型プラネタリウムとは?

岩手でなぜヒエなどの雑穀が盛んなのか理由を教えてください。
他で広まらないのになぜ岩手では広まったのでしょうか?

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A 回答 (2件)

地域文化や伝承文化というものは文章として残らない、よしんば誰かが記したとしても主観と誇張で結構当てにならない、という前提がありますので飽くまで推測の域を出ていないことをまずご了承ください。



今でこそ日本人の穀物と言えば米、ですがそれは飽くまで渡来人が日本に上陸する以前の話でそれ以前は文字すらない所だった。とは歴史の授業で習ったと思います。しかしそれ以前の縄文時代が文化を持たない原始人に毛が生えた程度の粗野で野蛮な時代だったかというと…実はそうではなかった事が最近の発掘調査から明らかになりました。
http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/
http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/jomon/index …
↑三内丸山遺跡で大規模な集落跡と高度な文化跡が発見されて「なんだよ、縄文人も定住してたジャン」「穀物やサカナも喰ってたジャン」「交易もやってたジャン」とまさにコペルニクス的転換な発見の数々に大騒ぎになりましたね。
その発見から見えてくる事は『縄文時代は半猟半農の時代』だったという事…つまり猟に専念する時季と農業に専念する時期があったわけですが、当時は今より暖かかったとはいえそこは東北地方、雪の積もる真冬に農業をするとは思えない。当然ですね。そこで『冬は猟に出て暖かくなったら農業をしていた』と考えるのが最も論理的ですね。このシーズン・サイクルを現在でも行っているのが秋田県阿仁町のマタギ(職業熊猟師)ですね。
しかし現在のような開墾した土地を耕して、という農業スタイルではなかったようです。あの知事就任以来何かと注目されている宮崎県の椎葉村に『縄文時代から連綿と受け継がれている焼畑農業』というのがあります。
http://www.coara.or.jp/~sasakiak/Slash-Br.html
http://www.econavi.org/weblogue/special/34.html
↑CO2問題とかナントカであまり良い印象のない焼畑農業ですが、実はしっかりと原則さえ守っていればむしろ環境に優しい農法だということだそうですが、それはともかく焼畑農業で栽培される穀物は主にヒエやアワが適しているのです。焼畑の土壌に応じて栽培する季節が異なるようですが、栽培しているものを見ると「あれ?岩手の雑穀文化とカブってね?」なんです。

カブる事はまだまだありまして…焼畑で火を入れる際「山の神に祈りを捧げる」とか焼畑に火入れをする時には、「これよりこのヤボ(薮)に火を入れ申す。ヘビ、ワクドウ(蛙)、虫ケラども、早々に立ち退きたまえ。火の神さま、山の神さま、火が余らず焼け残らぬよう、おん守りたまえ」と唱えるとか…特に火の神・山の神という発想はマタギの思想と完全一致します。
不思議なのが秋田・青森・岩手といった北東北と九州宮崎県とここまで完全一致する文化が存在するという事。調べていくともっと色々な共通点が見つかって面白いですよ。例えば昔話とか方言とかにも多くの共通点があり柳田国男や金田一京助といった人がユニークな学説を唱えているほどですから。

さて岩手という土地を考えてみると古文書によると奈良時代くらいまでは北上川を中心にした岩手県全域+宮城県鳴子辺りを南限+秋田県北秋田市役所付近辺りを西限+青森県十和田市辺りを北限とした『日高見国』と称しています。日高見は北上の語源となっているわけですが、小文書によると日高見国は全く独自の文化を持った異国であることが分かります。
そしてヤマト王権(奈良時代以降は大和王朝)は征夷と称して日高見国を侵略していきます…日本武尊の伝承なんかも九州征伐とか常陸国征伐(古事記)とか陸奥国征伐(日本書紀)とかありますが、最も有名なのが坂上田村麻呂の奥州征伐ですね。岩手県奥州市胆沢に行くと城柵跡を示す石碑があったり八幡平の名付け親だったり現在でも各所に名残がありますが、では肝心の日高見国とはどんな国だったのか?というと…アテルイやモネといった指導者の名前は残っていますが、その大部分が謎のままです。
で、三内丸山の世紀の大発見以降渡来人の影響をほとんど受けなかった東北地方は『続縄文時代』つまり縄文文化が継承されていた、征伐というのは立場を変えれば侵略となるわけで南東北より北は縄文文化が継承された、つまり日高見国は1万年続いた縄文文化の国だった、というわけです。

そこでようやく雑穀文化の話になりますが、坂上田村麻呂が占領したエミシの土地は胆沢が北限(出羽国経由で侵略しようとした痕跡もありますが奥羽山脈と半端でない積雪のおかげで侵略が食い止められた)という事でそこよりさらに北は縄文文化が辛うじて生き残った、だからマタギ文化が秋田に・豊かな雑穀文化が岩手に残ったと考えられます。ついでに言えば大阪発の吉本芸人をイマイチ笑えないとか関西弁がイマイチ馴染まない、といった感情面でも少なからず影響があるのかなぁ、なんて考えています。

もちろんこれは憶測の域を出ない状況証拠だけでモノを言っている(それもかなり端折って記述している)ので信憑性はイマイチですが、文字を持たなかった縄文文化では『伝承』つまりばあちゃんの昔話で歴史を伝えてきたようです。柳田国男以降伝承から昔を推測する民俗学の重要な資料となっていますね。何気ない現実離れしたような話でも科学的に解明すれば過去が見えてくる、というわけ。考古学を発掘品でなく伝承で行っているようなものです。
実はここで挙げた共通点は全て北海道のアイヌとこれまた驚くほどカブってきます…そこから察するにアイヌは縄文人の末裔?イギリス人がアメリカに渡ってアメリカ人になったようなもの?という説すら存在するほどです(まだ動かぬ証拠は見つかっていませんが)。
我々日本人がアイヌと親戚なのかどうかはともかく、日本人は「米が一番、米ヤベエ、米最高」と米を現金や金銀財宝と同じ扱いにして長い事ヒエやアワという穀物を雑穀と呼び蔑んで来たのもまた事実、ですが近年健康を見直す事がブームとなり蔑んでいた雑穀が再び注目されています。健康オタクなんかは結構大騒ぎしていますが、よーく考えてみると渡来人以降の歴史はせいぜい2000年(で現在破綻とも取れる状態)ですが縄文時代は1万年続いたわけですからどちらが人間に優しい文化であるかは、もうお分かりですよね?ついでに言えば文化や文明に優劣をつけることはできませんが、敢えてつけるとしたらどちらが優れているか…もうお分かりですよね?
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この回答へのお礼

熱心にありがとうございました!
様々なところでの関連性が興味深かったです。

お礼日時:2008/01/07 20:39

江戸時代の農業技術では、南部藩の北部地域(盛岡市厨川以北)は、稲作の作付け限界の北限を越えていました。


稲作では積算温度という指標が重要になりますが、厨川のそれは、北欧のコペンハーゲンと同程度です。また、北上山地北部では「やませ」とよばれる冷涼な寒気が稲作に甚大な被害を及ぼしています。
明治になり厨川に東北農業試験場が設置され寒冷地農業における技術的対策が施されるようになりました。
結論になりますが、稲作に頼れない以上、穀作として雑穀の生産が盛んになったものだと思われます。
社会経済史の森嘉兵衞博士の文献にも南部藩で、雑穀の品種が多様に存在していたとの報告があります。
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この回答へのお礼

なるほど。地理的条件が大きかったのですね。
ありがとうございました!

お礼日時:2008/01/07 20:29

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