三浦つとむの弁証法についてですが、やはり、一般的に知られているものとは異質の物なのでしょうか? 

A 回答 (1件)

 「一般的に知られている」弁証法が具体的にどのようなものなのか(どのようなものをイメージされているのか)、つまり三浦つとむの弁証法との比較対象や、何をもって「異質」とされているのか、投稿の文面からはわかりませんが、例えばいわゆる「科学的社会主義」の入門書や解説書・事典などで説明されているものから弁証法を知った方にとって見れば、三浦つとむの弁証法の説明はかなり「異質」に見えるのかも知れません。



 弁証法(唯物弁証法)に関する三浦つとむの説明は、たしかに唯物弁証法の説明としては主流ではありません。というのは、彼の著書『弁証法はどういう科学か』にも記載されている通り、マルクス・エンゲルス以降のマルクス主義の後継者たちは、「実践家」=革命家としての偉大さと「理論家」としての理論の妥当性・正当性とが支持者たちに混同されて扱われ、原理的にマルクスやエンゲルスよりも後退したもの・誤ったものまでも「真理」として奉られ、それが共産主義政党やマルクス主義哲学者などの文化人によって「マルクス主義の発展」として、弁証法の「通説」として・主流として、取り扱われてきたのでした。

それに対して三浦つとむは、マルクス・エンゲルスの思想の本来の見解を復元する作業を、言語論等自らの理論構築のために進めてきました。三浦つとむの弁証法に関する説明が、「通説」といわば「異質」になったのはそのためです。レーニンやスターリン・毛沢東といった革命の功労者の言葉を無批判的に受け入れなかったことも大きいとおもいます。ただし、「異質」といってもそれは「通説」と比較して、相対的に見てそうだということでありますが。

なお三浦つとむの弁証法が「通説」(三浦つとむは「官許マルクス主義」と呼んでいる)とどうして異なるのか、あるいは「通説」のどこが問題なのかは、ご存知かもしれませんが彼の著作『レーニン批判の時代』(選集第2巻)等が参考になります。気になるようあれば、これらとマルクス・エンゲルスなどの原典の該当個所をつき合わせて調べてみることが必要になるでしょう。





 

 

 
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Q超越論的弁証論 理想一般について

人はどのようにしてある対象が空想か理想であるかを判断するのでしょうか?

Aベストアンサー

わたしはここは質問に対して回答をする場であって、「自由」に自説を開陳する場であるとは考えていませんし、またそのような場を求めているわけではありません(現にそうしていらっしゃる方を批判するつもりは毛頭ありません。ただ、わたしはそうではない、と言っているだけです)。レポートの課題なら、漠然と与えられた設問に答えることも必要でしょうが、ここでの回答に際しては、質問される方の問題意識をできるだけ正確に理解することが必要だと考えていますし、そしてまた、その問題意識を整理し、鮮明にしていく助けになればと考えています。

そこで先回のように逆に質問をさせていただいたわけです。自由に書いてくださいと言われても、逆に困ってしまいます。

ただ、補足要求をしておいて、結局何も答えないというのは、お互い、気分の悪いものですから、このご質問も「超越論的弁証論」と表題にあるように、あくまでカントの『純粋理性批判』の「超越論的弁証論」における「理想」に限定して、回答します。


たとえばわたしたちがこういう場で、誰かの書いた文章を読むとする。断片的な文章であっても、やがてわたしたちはそれをまとめあげて、ひとつの組織だった書き手のイメージをいつのまにか自分の内に築いていきます。何度かそれを重ねるうちに、しだいに相手のが「どんな人か」をも理解できるようになります。そんなふうに、わたしたちはさまざまな要素を相互に関連づけ、統一するプロセスを、「こころのはたらき」としてもっています。そうしてカントはここに「判断」が働いているといいます。

木の幹の一部の拡大写真を見て、これは「木」だ、と判断するように、わたしたちのあらゆる知覚や思考や概念はこのように統合-判断を繰りかえしている。そうしてその裏には、こうした判断を下す「高等裁判官」が控えている、とカントは考えました。この高等裁判官が下す判断を「統覚による超越論的かつ先天的な統一」とカントは呼んだのです(まあほかにもいろんな呼び方をして、わたしたちの頭を混乱させるのですが)。
この統覚で重要なのは
・経験にさきだってあたえられること……だから先天的
・経験に由来するものではないこと……だから超越論的
この点です。

ではこの統覚の超越論的で先天的な統一は、いったい何によってささえられているのでしょう? 経験とは関係ないのだとしたら。
カントはそれは「わたしが考える」ということだというのです。「考えているわたし」、すなわち自我は超越論的であり、知覚に先立ってあたえられたものである、と。

わたしたちはさまざまな場面で考えます。それらは経験的なコギトであると同時に、経験を超えたものとも関係をもっている、ともいうのです。
もう少し、「経験と経験を超えたもの」について説明します。

たとえばわたしたちは目の前でわんわんと吠えている毛むくじゃらの生き物を見て「犬がいる」と思います。その判断は、現在のわたしたちの感覚や、過去の経験の記憶からつくりだされたものであり、空間と時間の形式のなかで統合され、実体として構成されます。

犬が飼いたいな、とニール・テナントが歌う。「大きな犬じゃなくて、チワワがいい」という歌詞を聴きながら、わたしたちはそれぞれに、その歌に出てくる犬のイメージをふくらませていきます。その犬は現実にはいない犬ですが、やはりわたしたちは過去の経験の記憶をもとに、空間と時間の形式のなかで統合し、実体として構成していきます。

犬と遊ぶときのわたしたちは、世界に一匹しかいない具体的な犬と関係しながら、同時にその向こうに抽象的な犬とも関わっている。犬の歌を聴きながら、そこに歌われる実際にはどこにもいない「チワワ」と関係しながら、抽象的な犬とも関わっています。その抽象的な「犬」は経験のなかには存在しません。経験したことがないから、わたしたちはその抽象的な犬を知ることができません。けれども、逆に、わたしたちの個々の犬経験が依拠している「なにものか」なのです。

このような経験することができないにもかかわらず、なおかつあらゆる経験の底にあるものをカントは「物自体」と呼びます。

わたしたちの判断は、経験そのものにたいしてのみ、なりたつものです。わたしたちは、残念ながら経験の外にある世界を知ることはできません。カントはわたしたちの経験世界を「現象界」と呼びますが、「個々の犬」と「抽象的な犬」の関係にあたるように、現象界が依拠する「なにものか」の世界がある、現象界はこれを超えたものを前提としている、というのです。けれども、その世界がなんであるかは決して知ることができません。

この「物自体」の世界は、ほんとうに存在するのでしょうか。
存在するというどのような証拠があるのでしょうか。
カントによれば、そのような証拠はなにもない、といいます。それは、わたしたちが要請することができるだけです。

わたしたちは、個々ばらばらの固体からなる世界に生きています。けれども、わたしたちはそれを感性的な空間へと分析し、空間的に構成しなおします。個々の固体を一様性のもとに分類し、原因と結果という形式に帰着させていきます。それもみなすべて、わたしたちのこころのはたらきです。
わたしたちは、ここに法則を見いだします。法則ということは、すなわち、この経験が継続することを要請し、未来へと当てはめようとしていることにほかなりません。いちどきりの出来事を「経験」と認識するのも、それが継続することを要請しているからです。

ところで、ここに非常に興味深いことがあります。
わたしたちは、出来事を「経験」ととらえ、因果関係の形式に置くとする一方で、わたしたちは自分の行為は自分に責任がある、と考えていることです。
わたしたちは自分の行為をいつも因果律に従って説明します。こういう理由でこうしたんだ、このような動機があった、と、行為を因果律の下に置く。にもかかわらず、自分に責任があることを認めます。そうして、責任をともなうということは、「それをしない自由はあったのだが、あえて自分はそれをした」というふうに、「自由」を要請しているのです。

この「自由」は現象界に属するものではありません。
現象界ではあらゆる出来事が、先行する出来事を原因とする因果律の下に置かれているからです。もし自我に責任があるものであるなら、自我は「物自体」の世界になければならない、ということになります。

わたしたちは、自分が知ることのできない「物自体」の世界が、秩序を持った知的な世界であることを前提としています。わたしたちのひとつひとつの行為はそうした前提をともなっているのです。わたしたちの行為は、先行する出来事によって決定されているかに見えますが、もしそこで「自由」に行為することができるとするならば、「物自体」に属する自我が要請されているのです。

さて、長くなりましたが、いよいよ「理想」です。
わたしたちは「脚の長い男の子がわたしの理想」というふうに、おっそろしく粗雑にこの言葉を使ったりしますが(ちなみにわたしの理想は脚の長さとは関係ありません)、カントの「理想」は、逆に、おっそろしく立派なものです。なにしろ「理想とは理念によってのみ規定せられうる、いな、それどころか規定せられているようなものである」(B.596)というのですから。

超越論的弁証論では神の存在論的証明を批判します。そうして、神は「理念」としてある。そうして、その神の理念によって規定されているのが、この理想である、と。

この理想は、わたしたちの個々の経験が「物自体」を前提としているように、人間の理性が前提としているもの、理性にとっての前提として、わたしたちを行為へと導くもの、ということになります。

空想とは、質問者さんが#2の方の補足欄でおっしゃっておられるように、何ら行為をともなわないもの、その意味で

> 現実世界へ働きかけることはなく

ということ、カントに即していうなら、現象界とは関わり合いをもたない、どこまでもいく理性のみのはたらき、と言えるかと思います。

以上、長くなりましたが。

わたしはここは質問に対して回答をする場であって、「自由」に自説を開陳する場であるとは考えていませんし、またそのような場を求めているわけではありません(現にそうしていらっしゃる方を批判するつもりは毛頭ありません。ただ、わたしはそうではない、と言っているだけです)。レポートの課題なら、漠然と与えられた設問に答えることも必要でしょうが、ここでの回答に際しては、質問される方の問題意識をできるだけ正確に理解することが必要だと考えていますし、そしてまた、その問題意識を整理し、鮮明にし...続きを読む

Q"弁証法的アウフヘーベン"

↑ってどういう意味ですか?
簡単に教えてください。
私は哲学のことはまったく知りませんが
読んでる文献に出てきたのですが
どのようなたとえを指しているのか
まったくわかりません。
ちなみに、質問しているカテゴリが
あってるのかもわかりません。
よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

弁証法を図式(シェーマ)的に言いいますと、一方の「存在」(sein)に対して、他方にそれの矛盾である「無」(nichts)が対立して、この「存在」と「無」が合成されたものとして「生成」(werden)が成立するという形になります。

違う言葉で説明いたしますと、ある「概念」(1)に「矛盾するもの」(2)を明確に提示することで、(1)は否定されますが、また(2)にも否定される矛盾が見つかると、結果的にその二つを乗り越えつつ総合するような「新たな概念」(3)が現れます。

また違う言葉で言いますと、弁証法とは、「テーゼ」(These)、「アンチテーゼ」(Antithese)、「ジンテーゼ」(Synthese)という段階の進展であり、ある命題に対して反命題が対立した場合、そのどちらかを捨て去って選択するということではなく、それぞれの短所を上手く捨てつつ、二つの命題の総合的なものが成立するということです。

この総合に到達することが「止揚する」(aufheben)と呼ばれます。この「アウフ・ヘーベン」は、「拾い上げる」という意味ですが、ヘーゲルの場合(その後の哲学上の議論でも)は、まさにこの過程の運動のすべての意味が込められていまして、「否定して、保持して、高める」という意味になります。

しかし、その総合的なものも「テーゼ」となったからには、またそれに対する「アンチテーゼ」が立てられ、そして「総合」が生まれ、またその「テーゼ」、「アンチテーゼ」・・・・・・・・・・と続くことになるのです。

これが、ヘーゲル歴史観であり、歴史は常に繰り返すものであるということになります。ヘーゲルは歴史も精神の発展史と見なしていたので、ヘーゲルは頭でしか考えていない、という批判がなされました。そうして現れたのが、マルクスの唯物史観でした。

このような説明でいかがでしょうか。

弁証法を図式(シェーマ)的に言いいますと、一方の「存在」(sein)に対して、他方にそれの矛盾である「無」(nichts)が対立して、この「存在」と「無」が合成されたものとして「生成」(werden)が成立するという形になります。

違う言葉で説明いたしますと、ある「概念」(1)に「矛盾するもの」(2)を明確に提示することで、(1)は否定されますが、また(2)にも否定される矛盾が見つかると、結果的にその二つを乗り越えつつ総合するような「新たな概念」(3)が現れます。

また違う言葉で言いますと、弁証法とは、「...続きを読む

Q弁証法的思考?

私の知り合いが良く『弁証法的計算』と云う言葉を使います。難しい事は良く解らないのですが、要するに「AがあってBがあって、その結果Cになった。」と云う「1+2=3」(日本の算数の授業)と云う意味での“計算”ではなく「Cと云う結果が出た。それはBの要素がありAの要素があったからだ。」と云う風な「3=2+1」のような考え方(イギリスの算数の問題)らしいのですが、私達のように普通の教育を受けて育った人間からしてみれば、タダの『結果オーライの後付け理論』にしか見えません。

なんでもかんでも「解ってた。」「そうなると思ってた。」と言って済ませる事や、人の功績さえ、その人を投入した自分の功績にすり替えて話す態度が許せません。

そもそも『弁証法的計算』などと云う物が存在するんですか?もし存在するなら、それと『結果オーライの後付け理論』とどう違うのでしょうか?

猿にも解るような易しい解答をお待ちしています。

Aベストアンサー

また来ました。
私も#1さんのおっしゃる「詭弁」に一票です。

「弁証法的……」というのは、要は……を弁証法的に扱う、ということですから、そうやって扱えるものなら何が来ても間違いじゃないと思うんです。たとえ「弁証法的計算」という言葉が、一般的に使用されていなかったとしても、自分はこの計算を、弁証法的思考に基づいて行っている、というのであれば。

で、昨日からずっと考えていたんですが、どうも「ぱちもん」(関西弁です)臭いような気がする。

もし、その方が今度「弁証法的……」とおっしゃったら、誰の弁証法でしょう、と聞いてごらんになってはいかがでしょう。ソクラテスとヘーゲルの弁証法って違うんですよね?みたいに。ちゃんとした考えに基づいて話をしておられたるのだったら、きちんと説明してくださるだろうし、「ぱちもん」だったら、「まぁ、そりゃどうのこうのでもごもご……」みたいになって、以降はそんなこと言わなくなるんじゃないかな(きっとそういう人だったらまた別のことを言い出すのだろうけれど……。結局スルーするしかないのかな)。

「弁証法」でもそうだけれど、哲学っていうのは、「テクスト」だの「エクリチュール」だのと独特の言葉づかいをする。
なんだよ、わかりやすく「書かれたもの」って言やいいのに、「エクリチュール」だとかなんだとかスカしやがって……、という批判もできるのですが、たとえばデリダを勉強している人であれば、「エクリチュール」という言葉によって、デリダが表現しようとした思想を言っているのだな、とわかる。
哲学っていうのは、ただ無定型に考えるのではなく、考えるフィールドを設定して、ルールを決めて、そのフィールドの上でルールに従って考えていこう、としたものなんです。
哲学用語というのは、そのルールみたいなものです。思想を理解していくためには、まずこうしたルールを理解するところからでないと、始まらないわけなんです。
ところが、それこそ「スカ」すために、会話にこうした用語を散りばめる方もいらっしゃるわけで……。コマッタモンダ。

で、ですねぇ。#2であげた三段論法、ウソは書いてないつもりなんですが、書き方がよくない(すいません)。誤解を招くような書き方になってるかもしれない。この三段論法の立て方にもきまりごとがあるんです。もし興味がおありでしたら、また聞いてください。

また来ました。
私も#1さんのおっしゃる「詭弁」に一票です。

「弁証法的……」というのは、要は……を弁証法的に扱う、ということですから、そうやって扱えるものなら何が来ても間違いじゃないと思うんです。たとえ「弁証法的計算」という言葉が、一般的に使用されていなかったとしても、自分はこの計算を、弁証法的思考に基づいて行っている、というのであれば。

で、昨日からずっと考えていたんですが、どうも「ぱちもん」(関西弁です)臭いような気がする。

もし、その方が今度「弁証法的……」とおっ...続きを読む

Q弁証法的な発展とは

[弁証法的な発展]とはどういう意味なのでしょうか。

検索してもさっぱり意味がわかりません。

簡単な例で教えてください。

Aベストアンサー

弁証法というと、ものものしいですが、基本は対話の構造です。
質問者さんは、日常でこんな経験をなさったことはありませんか。あることを主張する。そこに反論が来る。相手を納得させるためには、より説得力のある論拠が必要だ。それを考えて最初の主張を発展させていく……。これが弁証法です。

具体的に考えてみましょう。

A「焼き鳥は塩がうまい」
B「いや、タレの方がうまい」
そこで「塩だ」「タレだ」と言い合っていたら、平行線をたどるだけです。
ここでAの人は別の視点を持ってきます。

A「塩の方がカロリーが少ないから健康にいい」
このときAさんは最初の「塩がうまい」という主張から、より人の賛同をえられやすい主張へと転換しています。この転換を「発展」ということができます。

このように、まず、あることがらについて最初の分析をおこないます。…「テーゼ」
つぎに、それに反対する意見が出てきます。…「アンチテーゼ」
ここからこのふたつの対峙するテーゼを包括できるような第三のテーゼが生まれてきます。これを「ジンテーゼ」と呼びます。

あらゆるもののなかにこの弁証法の構造は隠れています。
わたしたちは、たとえばプレゼンなどのようなときにも、自分の考えを煮詰めていく段階でこれをやりますね。
最初に主張すべきことを考える。それに対する反論を見越す。反論に応えられるように最初の主張を練り直し、反論をも含んだものにしていく。

あるいは恋愛ドラマでも同じです。
主人公は恋に落ちる。
その恋を妨害する出来事や人が登場する。
障害を乗り越えて主人公は恋愛を成就させる。
→そのとき、主人公はかならず人間的な成長を遂げています。

テーゼはアンチテーゼの登場によって、より高次のジンテーゼへと発展します。
これをヘーゲルは「止揚」(しよう)と呼びましたが、まあ用語はどうでもいいことです。
こういう関係を「弁証法的発展」といいます。

弁証法というと、ものものしいですが、基本は対話の構造です。
質問者さんは、日常でこんな経験をなさったことはありませんか。あることを主張する。そこに反論が来る。相手を納得させるためには、より説得力のある論拠が必要だ。それを考えて最初の主張を発展させていく……。これが弁証法です。

具体的に考えてみましょう。

A「焼き鳥は塩がうまい」
B「いや、タレの方がうまい」
そこで「塩だ」「タレだ」と言い合っていたら、平行線をたどるだけです。
ここでAの人は別の視点を持ってきます。

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Qヘーゲルの弁証法

ヘーゲルの弁証法についてですが、
教科書では「正」を蕾、「反」を花、
「合」を実としています。
この例えが一体何を意味しているのかが分からないのですが、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 いちおう大学院でヘーゲル読みをやらかしていた者です。泣かされました。はい。

 まず、「実はヘーゲルは《正・反・合》という言葉は使ってない」という事実がございます。それに近いことを言っているのは、むしろフィヒテではないかと思います。高等学校の倫理の教科書などでは、わかりやすさを追求してのことか「正・反・合」としていますが。
 そして、「ヘーゲルの弁証法って何?」という問題に答えるのは、やっぱり簡単じゃありません。彼の『論理学』でも、大まかに「移行」「反省」「展開」と、3通りほどの「弁証法的運動」が語られています。それに、彼は何でもかんでも三拍子のリズムに無理やり押し込んでしまうクセのある人ですから、押し込んだモノによってはどうしようもない無理が出てワケがわかんなくなったりもしております。たぶん、彼自身、わかってない。

 が、きわめて大まかではありますが、「より全体的・包括的な見方、考え方へと上昇していく運動」とは言えようかと思います。「より全体的・包括的な方へ」です。それ考えますと、「蕾=正」「花=反」「実=合」という説明は適切とは思えません。「実」が「全体」であるかのように読めてしまうからです。No.2のkequさんが引用されている箇所は、そうは言っていません。「蕾と花と実は、同時に両立せずに交代するが、それらはその植物にとって一時的なあり方であり、それらが生まれ、消えていく過程そのものがその植物の全体である」といったあたりです。「その植物」とは蕾「だけではない」、花「だけではない」、実「だけではない」、しかして、そのすべてである、と。
 この「だけではない」というのが aufheben です。このドイツ語の動詞は、「捨てる」という意味と「保持する」という意味の両方を持つ、実にややこしい言葉なのですが、ヘーゲルはここに大きな意義を認め、好んで多用しています。「前段階の見方、考え方では、絶対的で固定的で自立的なものに見えていたものが、次段階では相対的・流動的・従属的なものとして、より全体的な認識のごく一部にすぎなかったことがわかる」、と、そんなときに、前段階の認識が「aufhebenされた」と言うわけなんです。大きく脱中心化され、価値を減じられたけれども、でも保持されているというわけで。

 ということですので、その譬えの意味は、実は「蕾も花も実も、それだけでは植物の全体ではない、それらが交代するサイクル全体こそが、その植物の全体像である」といったあたりです。

 このへんの説明で、実は別のところに書いた「仮面ライダー編」てのもあるんですが…すいません、ちょっと見つからなくて。

 いちおう大学院でヘーゲル読みをやらかしていた者です。泣かされました。はい。

 まず、「実はヘーゲルは《正・反・合》という言葉は使ってない」という事実がございます。それに近いことを言っているのは、むしろフィヒテではないかと思います。高等学校の倫理の教科書などでは、わかりやすさを追求してのことか「正・反・合」としていますが。
 そして、「ヘーゲルの弁証法って何?」という問題に答えるのは、やっぱり簡単じゃありません。彼の『論理学』でも、大まかに「移行」「反省」「展開」と、3...続きを読む


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