江戸城は、いつ頃、どんな理由で無くなったのですか?

以外や、周囲の知人の誰もが、自信を持って答えられません。

取り壊されたとしたら、
その莫大な量の、建築廃材は、どう処分したんでしょう?

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A 回答 (3件)

取り壊されたのではなく、今の皇居が元江戸城です。

江戸城は江戸幕府の所在地として、1868年開城されるまで徳川氏十五代の居城でした。明暦3年(1657年)正月18日、本郷本妙寺から出火した火は翌日にかけて江戸市中を焼き尽くし10万人の死者をだす大惨事となりました。この「明暦の大火」により江戸城本丸は全焼し、城内の60%が焼失したといいます(これを「振袖火事」ともいう)。この後、江戸城の再建はなされることはなかったのです。

参考URL:http://member.nifty.ne.jp/chuta/edojo.htm
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
火事だったの!?知らなかった・・・。ハズカシー

私はてっきり、幕末まで天守閣はあったものと
思ってました。
明治政府が、幕威の再び興るのを恐れ、解体したのだ!と、勝手に思いこんでいました。
私の江戸市中イメージは、天守閣が300年間そびえたっていたんです。

1657年に焼失したということは、暴れん坊将軍
も天守閣を拝めなかったんですね。

お礼日時:2001/02/07 23:18

現在皇居として残っている部分もありますが、質問されているのは、天守閣を含む江戸城本丸についてだと思うので、その件について回答させていただきます。



江戸城は、1657年に通称「振袖火事」によって、本丸は全焼、城内全体の半分以上が焼失し、以後再建される事はありませんでした。

参考URL:http://club.pep.ne.jp/~t.mizuno/toky06.html
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こんにちは。

とりあえずこんなのはどうでしょうか

参考URL:http://www.basara.to/kiri.html
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Q江戸城の秘密

家康は江戸城を作った時に、江戸城を作った労働者、技術者を江戸城の秘密が漏れるということで、全員殺したそうですが、本当にそうなのですか?また、そうであれば、そのようにして守った江戸城の秘密とは何だったのでしょうか。

Aベストアンサー

江戸城に限らず城の一番重要な部分を作るのは武士の仕事で、江戸城は初期は家康の譜代の家臣が、征夷大将軍になってからは主として外様大名にお手伝いで築城させています。
天下人になったあとの外様大名ならともかく、天下人になる前に譜代の家臣を殺してしまえば自分の首をしめるだけですからそんなバカなことはしていませんし、他の大名でもそんなことをするものはいません。

Q江戸城は最後どのようにして取り壊された?

今の皇居の場所に江戸城が現存しないのは何故ですか。最後どのようにして無くなってしまったのでしょうか。恥ずかしながら外国人に訊かれて答えられませんでした。

Aベストアンサー

はじめまして。
江戸城の城郭についてですが、
まず1861年、文久元年に本丸、二の丸、西の丸御殿が消失します。
二の丸と西の丸の御殿は明治に入るまでに再建されますが、本丸御殿は放置されます。

その後、無血開城され1873年、明治5年~6年に渡って
神田橋・一橋・日比谷・数寄屋橋・水道橋・小石川・四谷・赤坂・筋違橋・浅草橋などの多くの門を
撤去し始めます。
主に場内の建築物を維持修理する費用が負担になったためです。

さらに西の丸御殿が火災で焼失します。

その後堀が埋められるなどし、1923年、大正12年に関東大震災でも多くの櫓、門が倒壊します。
おそらくこれらも手入れが行き届かなかった事から
脆くなっていたものかと思われます。

太平洋戦争で大手門が焼け落ちます。
以後若干の外観修理が富士見櫓や桜田巽櫓に施され、
今に至っております。

明治4年に城内の建築物が写真で撮られており、
数枚残っています。
見る限りでは、屋根瓦から草が生えるなど荒れているのが見受けられます。

さすが王城・江戸城。
作るにも莫大な金が要しますが、維持にもかなりの負担ができてしまうようです。
国づくりで手一杯の政府が、放置する形になったのは致し方ないようですね。

ご参考になったでしょうか?
では、失礼します。

はじめまして。
江戸城の城郭についてですが、
まず1861年、文久元年に本丸、二の丸、西の丸御殿が消失します。
二の丸と西の丸の御殿は明治に入るまでに再建されますが、本丸御殿は放置されます。

その後、無血開城され1873年、明治5年~6年に渡って
神田橋・一橋・日比谷・数寄屋橋・水道橋・小石川・四谷・赤坂・筋違橋・浅草橋などの多くの門を
撤去し始めます。
主に場内の建築物を維持修理する費用が負担になったためです。

さらに西の丸御殿が火災で焼失します。

その後堀が埋め...続きを読む

Q江戸城と大阪城

大阪城は大阪の陣で実戦に使われましたが、江戸城はそうでありません。純軍事的に見た場合、江戸城と大阪城(秀吉が作成したもの)はどちらが優れているのですか?
また幕末で江戸城が無血開城されず戦争に用いられたら、落城したのでしょうか?

Aベストアンサー

まず、その攻防戦がいつの時代を想定しているかによります。
ご存知かもしれませんが、江戸城は天守閣がいわゆる振袖火事で焼失しており、その後再建されていません。たかが天守閣ひとつで勝敗が分かれるものでもないですが、違いはあるでしょう。

大阪城は一向門徒の本山兼基地として、信長と十年戦争をしながら遂に直接落城することはなく、さらにそれを基にして小田原城も参考にしつつ築城の天才秀吉が心血を注いで作ったものです。戦国時代の戦争なら、かなり優れていたと思います。
一方江戸城は元々が前線基地的な平城で、政治首都としての機能を優先させた街づくりとなっています。小田原城などの城塞都市は市街の周囲を掘などで囲ったのですが、江戸城はそれをしていません。東京って想像より起伏があるので案外に登ったり降りたりなんですけど(皇居の北側と南側じゃかなり高低差があります)、そうはいっても平地に建てられた城だし、大阪城のように淀川みたいな川を利用したものでもありません。

しかしいくら大阪城といっても大砲が発達した幕末の頃ではもう時代遅れのものになっていました。その頃は五稜郭みたいな星形の城が最もなうだったのです。でも大阪にしろ江戸にしろそんなものを作れる土地はもうありませんでした。

戊辰戦争での江戸無血開城ですが、あれは勝海舟の功績ですよ。戦ったところで幕府軍が勝つ可能性がゼロだったからこそ海舟は開城に応じたのです。
そのため残った(新政府軍が江戸に迫っていたころは幕府軍は事実上敗残兵の集まりでした)幕軍の中で最も過激派で手が付けられなかった新撰組の連中を甲府に派兵してまんまと片づけるのに成功しています。
元々江戸城では防御力が少ないことは江戸幕府は分かっていて、そのため有事の際は将軍は甲州街道を通って周囲が山に囲まれている甲州(甲府)へ逃れることとなっていました。ゆえに、甲州街道に近い大久保には鉄砲衆が住み、甲州街道と南北(神奈川と川越などの埼玉)の要になる八王子(現代でもトラック走行が多い国道16号と甲州街道(国道20号)が交差しています)に旗本(親衛隊)を千人住ませています。

元新撰組なきあと、幕府軍に残っていた士気の高い部隊は彰義隊くらいでしたが、その彰義隊も大村益次郎の名作戦があったとはいえたった一日で片づけられてしまいました。勝海舟は自分の手元にある駒はその程度のものであると見抜いていたのではないかと思いますよ。

まず、その攻防戦がいつの時代を想定しているかによります。
ご存知かもしれませんが、江戸城は天守閣がいわゆる振袖火事で焼失しており、その後再建されていません。たかが天守閣ひとつで勝敗が分かれるものでもないですが、違いはあるでしょう。

大阪城は一向門徒の本山兼基地として、信長と十年戦争をしながら遂に直接落城することはなく、さらにそれを基にして小田原城も参考にしつつ築城の天才秀吉が心血を注いで作ったものです。戦国時代の戦争なら、かなり優れていたと思います。
一方江戸城は元々が前線...続きを読む

Q江戸時代の江戸城の堀について

1、現在の内堀は、石垣があるところと無いところがありますが、江戸時代はすべて石垣で固められていたのですか?

2、外堀にも門などはあったのですか?

3、外堀の北東側のルートはは神田川、日本橋川に分岐してますが、川も石垣で固めて堀として扱っていたのですか?

4、現在衛星写真を見ると、外堀の南東側のルートは国会議事堂あたりで途切れてますが、当時はどういうルートを通っていたのですか?

画像などを使ってご説明していただけるとより助かります。
よろしくお願いします!

Aベストアンサー

最近売り出された、ビジュアル週刊誌の「江戸」をご覧ください。
江戸の初期から詳しく載っています。

また、祥伝社新書「江戸を歩く」も下町を含めて載っています。

Q江戸城

江戸城っていつまであって、なぜなくなったのですか?(あほな質問ですみません)。幕末「江戸城開城」まではあるわけですが...。

Aベストアンサー

 江戸城は今でもあります。天皇が住んでいる皇居がもとの江戸城です。
 では間単に。
 江戸城は東京都千代田区皇居。
 平安時代の末期から鎌倉時代にかけて江戸氏の居城があったのです。(江戸氏とは秩父の平氏の一族江戸氏のこと。麹町に最初の城をつくったようです。鎌倉時代の御家人です。徳川氏に仕えて喜多見氏と名を替え、大名にもなったがすぐに領地を返還するよう命じられている)徳川家康が江戸湾の埋め立てと平行して江戸城を広げ、3代将軍家光の時の完成。1868年4月開城。10月の天皇の住む都、京都に対する東の都という意味で東京とし、お城も東京城と改名、翌年に皇居となりました。
ところで、
 室町時代の中期扇ガ谷上杉氏の家臣太田道灌が江戸城を造って城下町が発達したのは有名ですよね。
 今年は江戸開府400年ですね。記念行事も行われています。http://edo400.net/home/? このホームページを開いてみると、東京の江戸の頃のようすや、幕府のしくみ、幕末の混乱期の様子もわかると思います。
江戸について、東京についていろいろ興味を持つと結構おもしろそうですよ。私も調べてみようと思っています。

参考URL:http://edo400.net/home/?

 江戸城は今でもあります。天皇が住んでいる皇居がもとの江戸城です。
 では間単に。
 江戸城は東京都千代田区皇居。
 平安時代の末期から鎌倉時代にかけて江戸氏の居城があったのです。(江戸氏とは秩父の平氏の一族江戸氏のこと。麹町に最初の城をつくったようです。鎌倉時代の御家人です。徳川氏に仕えて喜多見氏と名を替え、大名にもなったがすぐに領地を返還するよう命じられている)徳川家康が江戸湾の埋め立てと平行して江戸城を広げ、3代将軍家光の時の完成。1868年4月開城。10月の天皇の...続きを読む

Q皇居は江戸城跡で、江戸城は、ほぼ現存しているのか?

少し文字が入らない質問になりましたが、先程テレビで、一般公開されているのか?皇居の話題でした。当方は江戸城跡、皇居には、行った事が無い田舎者ですが、近くには彦根城、伏見桃山城、また、昔は天守閣のある城が、一時くらいはあったのか?それとも平地の城だったのか?までは知りませんが、二条城も有名所です。まぁ、今に至るとどれもさほど広くはありませんが、かなり離れた場所からも、遺跡のようなものが、発見される事もあるようです。また、以前、勤務していた会社の本社が、広島でして、広島駅と広島城は、かなり離れているのですが、その離れた駅の横からも、薬研堀という、土地の名前かと思えば、容易く敵に攻め入られない為の堀の名前と言う事で、『こんな離れたところまで‥』と驚いた事もあります。聞いた話ですと、皇居内には、昭和天皇の為に、小さいながら、何コースか、ゴルフコースのようなものもあると聞きました。さすがに、広島城のように、今となっては、二条城、伏見桃山城、彦根城共に、昔の敷地のままとは行かない状況かと思いますが、皇居の場合、江戸城→落城→皇居建設の過程を経れば、ほぼそのまま、敷地だけは残っているのではないか?と思ったのですが、どうでしょうか?

少し文字が入らない質問になりましたが、先程テレビで、一般公開されているのか?皇居の話題でした。当方は江戸城跡、皇居には、行った事が無い田舎者ですが、近くには彦根城、伏見桃山城、また、昔は天守閣のある城が、一時くらいはあったのか?それとも平地の城だったのか?までは知りませんが、二条城も有名所です。まぁ、今に至るとどれもさほど広くはありませんが、かなり離れた場所からも、遺跡のようなものが、発見される事もあるようです。また、以前、勤務していた会社の本社が、広島でして、広島駅と広...続きを読む

Aベストアンサー

>皇居の場合、江戸城→落城→皇居建設の過程を経れば、ほぼそのまま、敷地だけは残っているのではないか?と思ったのですが、どうでしょうか?
江戸城というのは、彦根城や広島城などとはやや趣が違います。
お城!というには非常に早い時期にシンボルである天守閣が焼失しています。
1657年(明暦3年)
浮世絵などでも、堀や櫓が風景の一部として描かれているだけです。
東京の地図を見ていただくと、皇居の周りに内堀通りというのがあります。
北側の竹橋付近で日本橋方面へ向かう高速道路があります。
この高速の下は堀です。
東京駅の八重洲口の前の通りを東へ行くとこの高速の下を通る形となります。
この通りも堀で竹橋からの堀とつながっていました
西へ行くと有楽町の駅がありますが、その西側にも堀があって、現在の日比谷公園の中で現在見ることができる堀とつながっていました。
この有楽町の駅付近が江戸南町奉行所です。
江戸城の外堀で、現在姿が残っているのは、市ヶ谷駅や四谷駅の前の堀です。
この堀は飯田橋駅の付近で神田川につながりそのまま隅田川まで外堀の役目をは果たしていました。
西側は新橋駅の下を通って赤坂見附まで続く外堀通りというのがあります。
これが堀の名残りです。

堀がひらがな「の」の字のように作られたために、どこまでが町でどこからが城なのか判然としないのが江戸城の特徴です。
江戸時代からこの姿でした。

なぜこのように、ある意味で中途半端な形になったのかというのは地形が大きく影響しています。
江戸城が作られ始めたころは、東京湾の突当りで、現在の東京駅の付近に砂州が東側から突き出した形となっていました。
江戸前島と呼ばれ伊勢神宮の荘園でした。
伊勢神宮の田んぼすなわち神田です。
現在の、日比谷公園から浜松町に至る一帯は海底でした。
現在の皇居は北側が一部地続きの島でした。
この島の上に江戸氏が砦を構築したのが始まりです。
太田道灌が江戸城の始祖とされていますが、実際は江戸氏の砦を道灌が占拠しただけです。
道灌亡き後、放置されていた砦に家康が目をつけて一大土木工事を行って作り上げました。
家康の頭の中にはおそらく大阪城のイメージがあったのでしょう。
つまり、もともとは堀など必要がなかった地形です。

西側の東海道口一帯は海の上に地図上で地割を行って、各大名に屋敷が欲しければ自分で埋めろ!とやりました。
日比谷付近は毛利が割り当てられセッセと埋めました。
現在の日比谷公園は毛利家の屋敷跡です。
町人を住まわせるために、現在の御茶ノ水の西側斜面から神田の一帯を削って平らにし、その土で東京駅付近の砂州の外側をセッセと埋めていきました。
この埋め立て工事は江戸時代末期まで、火事などの際に出た廃材ガレキ等を埋めてどんどん広げていきました。
築地などという地名が今でも残っています。
新橋周辺も汐留と呼ばれます。
廃棄物で島を作る伝統は昭和の時代まで続きました。
東京の下町というのは埋め立て地です。

現在浅草は江戸の名残りを残す町とされていますが、埋め立て地の江戸よりもはるかに古い街です。
浅草寺の創建は645年すなわち大化の改新のころです。
江戸っ子てぇのは芝で生まれて神田でそだち・・・という啖呵はここからきています。
両国橋という名称も、隅田川が武蔵国と下総国の境であったことに由来しています。

まぁ~東京というのは、皇居のみならず江戸というのは元々はどこ?というと分かりずらい町です。

>皇居の場合、江戸城→落城→皇居建設の過程を経れば、ほぼそのまま、敷地だけは残っているのではないか?と思ったのですが、どうでしょうか?
江戸城というのは、彦根城や広島城などとはやや趣が違います。
お城!というには非常に早い時期にシンボルである天守閣が焼失しています。
1657年(明暦3年)
浮世絵などでも、堀や櫓が風景の一部として描かれているだけです。
東京の地図を見ていただくと、皇居の周りに内堀通りというのがあります。
北側の竹橋付近で日本橋方面へ向かう高速道路があります。
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Q大政奉還後の江戸城について

大政奉還の後、江戸城は無血開城されて、東京大空襲で消失するまでのあいだ江戸城は現存していたようですが、現在現存している城のように内部を一般公開していたのでしょうか?

また、現在の江戸城跡には松の廊下跡や大奥跡を示す石碑が建てられているようですが、これらは“だいたいこの辺りにあったと推測される場所”に建てられているのでしょうか?

Aベストアンサー

 江戸城の本丸御殿は幕末期焼失することが多かったようで、1844(弘化元年)、1859(安政6年)、1863(文久3年)に罹災し、この最後の火災から再建されることはなかったようです。後5年で幕府は無くなってしまいましたしね。
 その時にも残った西丸御殿の方は今の皇居が江戸城の西にありますので、そのまま利用し、後に建て替えた、と考えるのが自然ではないでしょうか。こちらは調べても判りませんでしたが。
 また、戦前には天皇は神に近い存在として神聖化されていましたので(政治的な理由から)、それを一般公開するということは考え難いと思います。御苑etc.の解放もすべて戦後、それも大分経ってからのことです。

 参考URLにもありますように、江戸城に関しては実に多量の図面が残されています。その最大のものは甲良家という棟梁家に残されていたもので今は東京都中央図書館が所蔵しており重要文化財に指定されています。毎年11月初旬に一部公開されています。それ以外にもあるようですし、建物の位置はかなり明確に判っている、と考えて間違いはないと思います。
 他の城跡のように県庁や大学などが建ってしまったりして大きく改変を受ける、ということもなくきていますし。

参考URL:http://www.ipn.ne.jp/kiso/sub2-3.htm

 江戸城の本丸御殿は幕末期焼失することが多かったようで、1844(弘化元年)、1859(安政6年)、1863(文久3年)に罹災し、この最後の火災から再建されることはなかったようです。後5年で幕府は無くなってしまいましたしね。
 その時にも残った西丸御殿の方は今の皇居が江戸城の西にありますので、そのまま利用し、後に建て替えた、と考えるのが自然ではないでしょうか。こちらは調べても判りませんでしたが。
 また、戦前には天皇は神に近い存在として神聖化されていましたので(政治的な理...続きを読む

Q【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったか

【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったから」、「そもそも江戸っ子は貧乏だった」という3大理由がインターネット上に挙げられていますが多分間違っていますよね?

江戸時代、江戸は火事が多かったので頼母子講(たのもしこう)という相互会があった。

少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

この事実で仮説1の火事が多かったから宵越しの銭は持たなかったとうう説は間違いとわかる。

大金が回ってくる仕組みを火事が多いので大金を持たなかったという江戸っ子の説は矛盾に気付く。

2つ目の仮説。銀行はなかった。けれども頼母子講という少額を積み立てて大金を引き出す銀行みたいな仕組みがあったのでこれも嘘の仮説だと分かる。

最後の仮説の江戸っ子は貧乏だったという説。

江戸時代に流通していた通貨は金貨、銀貨、銭貨の3種類。

銭貨の価値は現在の価値で50円程度。

江戸時代の江戸っ子の日当が50円程度だった?

金貨の価値が20万円程度だった。

江戸時代の大工に月収は2万円。2万円/30日で日当で666円。

1日銭貨を13枚。

当時の大工は高給取りだったとすると一般庶民のブルーワーカーは大工がホワイトカラー職で現代の月収50万円職に値すると一般庶民のブルーワーカーの月収は25万円として6枚。

で、1日6枚で飯が3食で銭貨3枚が余る。で、相互会に毎日銭貨3枚を預けると月で99枚。1枚50円で5000円。

金貨が20万円なので月5000円で12人で相互会を組んでいるので年1回月収が6万円のときがある。

年1回大金を掴んでも6万円なら江戸っ子は20万円の価値がある金貨を一生見ることがなかったのかも知れない。

ということは、江戸っ子は宵越しの銭は持たないの話には続きがあって、(けど江戸っ子は銭貨を大金の銀貨に変えて貯金していた)。要するに1番価値がない銭貨を持たないで銀行(相互会)に預けて大金にするという仕組みが江戸にはあったので当時の人は江戸の仕組みを珍しく思い、「江戸には銀行という仕組みがある」ということを「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」と表現したのが真相ですかね。

【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったから」、「そもそも江戸っ子は貧乏だった」という3大理由がインターネット上に挙げられていますが多分間違っていますよね?

江戸時代、江戸は火事が多かったので頼母子講(たのもしこう)という相互会があった。

少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

この事実で仮説1の火事が多かったから宵越し...続きを読む

Aベストアンサー

すごいですねえ。
いろいろ計算して、ここまで考えると、おもしろいですね。

私は、ただ、単に、
物に執着して、がつがつ貯めこむのは粋じゃない。
きっぷ(気風)がいいことが美徳、という考えが江戸では一般的だったから、
(本当にもらったら、もらっただけ使ってしまう人ばかりでなくても)
そういう気質だと、おもしろがって、または、自慢気に、言っていたのではないかと思いました。
開き直ったスローガンみたいな(笑)。
で、そういう風潮ができたのは、
やはり、長屋に住んでいるような、大部分の人が、
ぎりぎりの生活で、贅沢はできない状況だったからでしょう。

ところで、たのもし講、私が小さい頃、母がやっていましたよ。近所のおばちゃんたちと。
なつかしい言葉です。

Q将軍不在の江戸城での政事、儀式

14代将軍・家茂は慶応元年5月16日、長州再征のため江戸城を出発しています。
この日以後、江戸城は3年近く将軍不在となったまま、明治となります。
そこで疑問に思うのですが、この期間の江戸城における政事、儀式はどうなったのでしょうか。
例えば、「御目見え」や月次登城、礼式日の登城など将軍が出席する行事が多数あったと思いますが…。
また、老中は、将軍のお供で上洛した人もいれば、江戸に残る人もいたのですか。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

将軍のいるところが幕府です。

なので、史料に残っているもので言うと、八朔に関しては

維新史料綱要
【編/冊/頁】7巻 201頁
【和暦年月日】慶応3年8月1日(18670080010)
【綱文内容】征夷大将軍徳川慶喜、八朔祝儀のため、高家京極高福「丹後守・侍従」を以て太刀及び馬を献ず。

とのこと。形式的には儀式は行われている。

Q【姫路城の鬼門、裏鬼門の謎】普通は鬼門は北東、裏鬼門は南西にあるはずなんですが姫路城の鬼門が姫路城の

【姫路城の鬼門、裏鬼門の謎】普通は鬼門は北東、裏鬼門は南西にあるはずなんですが姫路城の鬼門が姫路城の北東になく南にあるのはなぜですか?

おかしくないですか?

Aベストアンサー

「姫路城の鬼門」を門か何かだと思っておられるのでしょうか?
鬼門は書かれているように北東の方角を指す(として日本では使用されている)言葉です。つまり「姫路城の鬼門」は「姫路城の北東」と言ってるのと同じです。あなたの質問は「姫路城の北東が南にあるのはなぜですか?」ということになり、質問がオカシイということになります。

ちなみに鬼門の由来は、むかーしの中国の書籍に北東の門に捕まえた鬼を縛ってまとめているところがあるって記述からで、なのでその門を鬼門と呼ぶってところから、北東の方角を鬼門(の方角)と呼ぶようになりました。それが日本では、鬼の門って怖いねーって感じのイメージ先行で、とりあえず北東は鬼門で怖いねー、じゃあ反対側も裏鬼門で怖いねーって感じでしょう。ちなみに裏鬼門なんてのは日本と、もしかしたら風水くらいで言われる程度のニセ情報も良いところの話なのですが、どうせそんなのはどうでも良いのでしょう。


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