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A 回答 (2件)

柳田國男及び折口信夫の著作はお読みのことと存じますが、やはり基本的なものですから読み返すことが良いのではと思います。

また、斎王も巫女の一種で、伊勢の斎宮、賀茂の斎院、野宮、紫野院などが関連します。特に、伊勢の斎院と在原業平の秘められた恋が伊勢物語の題名の由来ともなったなどの説もあり、未婚であることが条件であった斎宮に通じ、タブーを破ったことの衝撃が、入内前の二条の后と通じたことより重く受け止められたことが題名や構成に関連するのかも知れません。
あと、古事類苑は基本資料ですので、索引で巫女等の関連項目を引くと意外な資料に巡り合うことができるかもしれません。
直接的な回答ではありませんが参考まで。
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こんばんは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>平安時代の巫女

巫女と言うと、「神聖」な職業と思われるでしょうが、実は、巫女は「売春」の元祖と言われています。
遊び場のない当時は、神社は恰好な遊覧地で多くの人が神社詣でをし、巫女が男の相手をしました。
これは、長く続き、江戸時代まで続きました。
江戸時代には、神社は寺社奉行の管轄でしたが、寺社奉行には「風俗取締り」の権限はなく、言ってみれば「野放し状態」だったのです。

また、平安時代~室町時代~江戸時代で有名だったのは、「出雲の阿国」(いずものおくに)が出てきます。

(1)元亀3年(1572)(推定)頃に出雲に生まれた、阿国(おくに=出雲の阿国)が、出雲大社の「巫女(みこ)」となり、出雲大社の勧進(修繕費などの資金集め)に、諸国を回るようになり、記録としては、

(2)奈良興福寺・多聞院の院主、多聞院英俊(たもんいんひでとし)の日記「多聞院日記」の天正10年(1582)の項に、
「加賀国八歳十一歳の童が『ややこ踊り』を披露した」
と、書かれていますが、この解釈として、

(3)加賀という八歳の娘とクニ(阿国)という十一歳の子どもが踊った、という解釈と、

(4)ただ単に、加賀国の八歳と十一歳の子どもが踊った、という二つの解釈がなされています。

(5)その後、慶長5年(1600)に、京都近衛殿の屋敷や御所で、雲州(うんしゅう=出雲)の「クニ」と「菊」という2人の女性が、やはり、「ややこ踊り」を披露した、と言うものが近衛時慶(このえときよし)の日記「時慶卿記」に出て来ています。
しかし、これらの史料では、いずれも「ややこ踊り」をした。と、記載されており、「ややこ踊り」とは、幼い子どもが、ただ単に笛と太鼓に合わせて「舞」を披露するだけのものだったようです。

(6)その3年後の慶長8年(1603)5月初旬に、京都の四条河原に小屋掛け(数本の杭(くい)を地面に打ちつけて、筵(むしろ)を被せただけの粗末な小屋)をして、茶屋へ通う伊達男を阿国が男装をし、夫の(夫ではない、という「説」もある)名古屋山三郎(なごや さんざぶろう)が茶屋の女将に女装をして、踊りを交えた寸劇を演じ、この男女の入れ替わっての「性倒錯」が評判となり、連日「大入り満員」だったといわれ、これを当時の京の人たちは「傾く(かぶく=常識外れ、突拍子もない)」と呼び、これが「かぶく」「かぶき」と訛り、後に「歌舞伎」という漢字が当てられ、歌舞伎の「起源」と言われています。

(7)阿国は、慶長12年(1607)に千代田城で勧進歌舞伎を披露した後、消息が途絶えて、慶長17年(1612)に京都の御所でも歌舞伎を踊ったとも言われていますが、没年は全くの不明です。
なお、「江戸城」のことは、江戸時代「江戸城」とは呼ばず、正式には「千代田城」またの名を「舞鶴城(ぶかくじょう)」と呼び、庶民は、ただ単に「お城」と呼んでいました。

(8)阿国がこの時結った髪型を「若衆髷(わかしゅまげ)」と呼び、京都や大阪、そして、江戸にまで伝わり、女性の間で大流行しました。
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Q守護霊に観音が見えるってどういうこと?

僕の友人の知り合いで霊能者がいるのですが、
その人に見てもらった友人の彼女の守護霊が観音様だということです@
それを聞いてちょっと疑問に思ったのですが、
もともと観音というのは仏教の世界で出て来る存在で…、
ということは人間が考え出したものではなかったのでしょうか。

そもそも仏教でいう三千世界が物理的に存在していて、
大日如来からそれにらにまつわるモロモロまでが実在するかどうかの問題なのかもしれませんが、まさか今の時代にそれを信じる人はいないと思います。

だから尚更不思議と思うのです。
それとも、仏教という宗教の有る無しに関わらず、
観音はそれ自体独立して存在するものなのでしょうか? 
たとえ釈迦が生まれなかったとしても、観音はそれ以前から(以後かもしれませんが)
実在すると考えた方が良いのでしょうか?

じっさい、霊が見えるということもあると思うし、仏教も好きです。
だから批判するつもりは全くありませんが、
ちょっと疑問に思っていましたので、質問してみました。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

宗教には全く詳しくありませんが、霊の事については詳しい者です。
観音様はかなりの高級霊です。
その観音様が守護してる方は確かにたくさんいらっしゃいます。
観音様が守護してる人間は、とてもとても慈悲深い人格を持っています。
その人の魂自体が高いので、観音様が「守る」のではなくもっと人を助けるように「導いて」くれるのです。
一番わかりやすい例を挙げますと、テレビでおなじみ江原啓之さんは観音様が守護しています。
「人を助ける」という宿命を持った人に観音様は導きをくれます。
ちなみに先祖代々、神道を行ってきて霊感を継いできた私自身は、人を助ける道ではなく普通に自分の人生を歩む道を選びましたので、観音様や龍神様などの高級霊は私には憑いていません。

観音様が導いてくれる人というのは、本当に高いステージにいる魂を持った人なのです。
そしてまさに性格は、観音様のように慈悲深く、包み込むようなあたたかさを持っています。
特に医者、ボランティア、霊能者、介護施設で働く方に多いです。

神様は確かに人間が作りあげたものです。
しかし人間が考える事というのは、実は霊界に既にあるという話は有名ですよね。
発明にしてもそう、何かの閃きや文化を発展させるアイディアは霊界から夢を通して人間に伝わり、それを実現する。
だからこそ宗教・神が生まれたのだと。
人間が神を作り出したように見せかけて、実際のところやはり神が先というのが私の見解ですが・・

賛否両論あると思いますが、観音様が見守ってくださるなんて凄いことなのです。
マイナスな事なんてありません。
霊能者といえども人間です。
霊視をして「観音像が後ろに視える」から、「観音様がついてる」と言うのです。
江原さんほどの力を持つ霊能者はそうそういませんので、「霊に振り回されてるかわいそうな霊能者」のほうが多いと思います。
逆に悪い師匠を持ってしまったがために、あくどい事を生業とする霊能者も私は知っています。
今回の件ではなんの問題もありませんが、霊能者の言う事を妄信するとイタイ目をみます。
なので質問者様のように、「あれ、なんかおかしいよな?」という冷静さが、世界中のみんなに必要だと思うのです。
頭から妄信する、頭から否定する、のではなく中間にいればなんの問題も起きません。
未熟者が失礼しました。

宗教には全く詳しくありませんが、霊の事については詳しい者です。
観音様はかなりの高級霊です。
その観音様が守護してる方は確かにたくさんいらっしゃいます。
観音様が守護してる人間は、とてもとても慈悲深い人格を持っています。
その人の魂自体が高いので、観音様が「守る」のではなくもっと人を助けるように「導いて」くれるのです。
一番わかりやすい例を挙げますと、テレビでおなじみ江原啓之さんは観音様が守護しています。
「人を助ける」という宿命を持った人に観音様は導きをくれます。
ちな...続きを読む

Q神社の巫女さんの起源

中世の神社の巫女さんってどんな感じ?
神社の巫女さんっていうのは、全国的には、いつの時代ころに現在のスタイル(紅白の衣装の事務員)に固まっていったのでしょうか?
個人的趣味で調べている事なのですが
この辺りの時代の資料がほとんど出てこないので質問です
律令制度の衰退に合わせて歴史の陰に隠れていくと図書館でも資料のない状態で
素人の自分にはさっぱり分かりません
対象は武士の時代、鎌倉~江戸中期(だいたい本居宣長以前)くらいまで
イタコとかの遊興の巫女関係はほどほどでお願いいたします

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>神社の巫女さんっていうのは、全国的には、いつの時代ころに現在のスタイル(紅白の衣装の事務員)に固まっていったのでしょうか?

回答から先に述べますと「平安時代後期」が定説のようです。

平安時代に宮中の女性が白い小袖に紫や赤、黄色などの袴をはいた屏風絵などがありますが、その流れをくんで、白の小袖は「純潔」を表し、赤の袴は「太陽(信仰)」を表している・・・と考えられています。

昔は、袴には「マチ」と呼ばれる仕切りがありズボンのように左右に分かれたものを着用していましたが、江戸時代後期頃からはスカート型になっています。

Q平安時代の一般人について

「平安時代」というと、
私の中では貴族のお姫さまや花合わせ薫物合わせといった雅なお遊び、
あとは和歌くらいしか思い浮かばず、平民の様子がまったく想像できないんですが、
誰もがこんな優雅な暮らしをしていたはずがありませんよね?
平安の平民たちはどんな暮らしをしていたんでしょうか。
いろいろ検索にかけてみましたが、貴族の生活ばかりが出てきます。
平民の生活というと範囲が広すぎて知っていても答えづらいと思うので、
特に気になるところを。

1.平民の職業ではどんなものがあったのか。
  中でも若い女性はどんな仕事を持っていたか。

2.街中にはどんな店があったのか。出店のようなものはあったのか。

3.一般人と貴族が交流することはあったのか。
  貴族を街で見かけても話しかけることはできなかったのか。
  よくある「身分の差の恋」などはなかったのか。

4.貴族のように教養を備えていない人は、和歌を詠むこともなかったのか。

5.女性(女の子)の着物は髪型以外江戸時代の町娘と同じようなものなのか。

6.平民は年貢の取立てや貧しい食事になんとか耐えて生活していたのか。

質問が多すぎてすみません。
レポートなどの資料にしたいわけでなく、まったくの興味本位ですが、
どれかひとつでもいいので、平安時代に詳しい方の回答を得られると嬉しいです。

「平安時代」というと、
私の中では貴族のお姫さまや花合わせ薫物合わせといった雅なお遊び、
あとは和歌くらいしか思い浮かばず、平民の様子がまったく想像できないんですが、
誰もがこんな優雅な暮らしをしていたはずがありませんよね?
平安の平民たちはどんな暮らしをしていたんでしょうか。
いろいろ検索にかけてみましたが、貴族の生活ばかりが出てきます。
平民の生活というと範囲が広すぎて知っていても答えづらいと思うので、
特に気になるところを。

1.平民の職業ではどんなものがあったの...続きを読む

Aベストアンサー

1.
いろんな職業があったと思われます。当時はある程度の自給自足をしていたとはいうものの、都市部の人ではすべて自分たちでまかなえていたとは思えません。特に工業では、紙、陶器、武器、などのいろんな職工がいたようです。
女性にも職業があったことが予想できます。「振り売り」といわれる行商、機織、海女、白拍子のような芸能関係など、女性ができそうなものは何でもあったと思われます。専業もいたでしょうし、家事・育児・手伝いの傍らだったりもしたでしょう。また、古今東西、富裕な家のメイドは当たり前ですし、男女の仲を取り持つ「仲人」とか「仲媒」といった特殊な職業も文献に見られます。こんなものまであったのですから、衣食住に関するさまざまな職の基本はすでにこの頃にもあったことがうかがえます。
今昔物語などを読むと、たいそう活発な女性が多くいることから、そんなに窮屈な身分制度に押し込められていたわけではなく、わりと社会に出て元気だったようです。

2.
平安京には東西に市が設けられていました。このことから、全国に店はあっただろうと推測できます。ただし、商流の多くは「振り売り」という行商です。明治・江戸時代まで商業の中心はこの「振り売り」です。

3.
あったと思います。直感的にも、今ほど自由さはないにせよ、今も昔も、男女の仲が身分で隔てられるとは思われません。
たとえば、源氏物語の夕顔は貴族とはいえません。通っていた愛人の家の隣に、たまたまあったあばら家に住んでいただけです(実は友人のもと愛人だったわけですが)。逆に貴族の女に下衆の男を紹介する、ということもあったようです。こんなことの手引をやっていたのが、前述の「仲人」「仲媒」といわれる人達(主に女性)だったわけです。源氏物語や伊勢物語でも明示はされていませんが、たくさん出てくる仲介している女のなかには、職にしていたものも含まれていると思います。下女のサイドビジネスでもあったかもしれません。

4.
没落貴族もたくさんいましたし、そのひとたちの影響うけたりして、下々の方へも少しは広まっていたと思います。

5.
もちろん多少違いますが、庶民の服の基本は昭和時代までほとんど変わっていません。変わっているのはブルジョワジーやプチプルジョワジー以上の階級です。
ちなみに土間&高床の住居も、ふすまや障子がふえたくらいで基本は、昭和までほとんど変化していません。

6.
年貢の取立てよりも、自然との闘いと村・部落クラスの行政官の不法徴収・不法雑役などが厳しかったと思います。年貢は貨幣でもありませんし、農民は米だけしか作らなかったわけではなく、実際は野菜や雑穀、油、織物などで自足したり商売していたりして、それほど苦しくはなかったと思います。生活が破綻してしまうくらい苦しくなる原因の多くは自然だったでしょうね。

1.
いろんな職業があったと思われます。当時はある程度の自給自足をしていたとはいうものの、都市部の人ではすべて自分たちでまかなえていたとは思えません。特に工業では、紙、陶器、武器、などのいろんな職工がいたようです。
女性にも職業があったことが予想できます。「振り売り」といわれる行商、機織、海女、白拍子のような芸能関係など、女性ができそうなものは何でもあったと思われます。専業もいたでしょうし、家事・育児・手伝いの傍らだったりもしたでしょう。また、古今東西、富裕な家のメイドは...続きを読む


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