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教義内では共存的な世界観を思わせる多神教(たとえば神道)が、対外的(他の宗教など)には排他的になるのはなぜですか。そもそも、教義内でも共存的な世界観などないのでしょうか。

多神教がもつ包容力は、対外的にも寛容な、排他的ではない態度に通じると思いたいのですが、幻想でしょうか。

A 回答 (29件中21~29件)

 No.9です。


★ 「原形かつ第一次形態」への復帰と言っても、復帰してから出直してくださいという感じで、一歩も二歩も遅れてしまいます。やはり、対外的な寛容は、幻想のようです。読んでいて、そう思いました。
☆ いえいえ そんなことはありませんよ。
  現段階で 世界中のムラというムラ(市町村)が 互いに連絡しあい 連携して インタナシオナルなインタムライスムを築けばいいのです。 
 国家は 放っておいて ムラ( mura )どうしで たとえば議会の交流 互いの議員の相互選挙 人びと・ものその他その他文化・経済的な交流を 縦横無尽に広げてゆく。そういう方向が考えられますよ。

この回答への補足

村単位の全体主義のように、思えますが。
信仰を持たない自由がないようにも、思います。

補足日時:2008/02/10 21:30
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 日本人の信仰は オホタタネコを市民の代表とし 市民からの推挙を受けて立った崇神ミマキイリヒコイニヱを市長としたミワ(三輪)市政に始まると思います。

(紀元300年ごろ 奈良・三輪山付近)。これによれば 排他的な要素を免れるのではないかと考えています。

§1 シントウの原形またその確立

 三輪山に祀ったオホモノヌシなる神が 聖霊となって イクタマヨリヒメに生ませたのが オホタタネコだと言います。ある時 疫病が出て困り 市長は このオホタタネコを探し求めたそうです。祟りという認識でしたから 祀れば 平らかになるだろうというものでした。(この同じ系譜のスサノヲやオホクニヌシの記述には 薬草を求め医療に熱心であったともあります)。

 けれども 《ネコ》は 根子で大地の子 《ヒコ・ヒメ》は 日子(彦)・日女(姫)で太陽の子です。これは 一人の人の身体と精神とに当てはめられるでしょうし あるいは 市民政府として 市民一般と市長および公務員とに やはり当てはめて捉えてもよいと思います。つまり 社会形態としても 確立したかたちを採り始めたと考えられます。
 つまり この《ネコ‐ヒコ》連関は そのような内容をもって 《イリ(入り)》なる歴史知性の誕生を見たと捉えます。崇神(いわゆる天皇としては 第十代)ミマキイリヒコイニヱの《イリ》であり《ヒコ》であり 歴史知性というのは 人の自然本性にそのまま《入り》したというその自己還帰のことです。

 その以前では イクタマヨリヒメというように《ヨリ(憑依)》の知性だったわけです。アニミスムないしシャーマニスム(卑弥呼を想え。つまり崇神ミマキイリヒコの少し前の三世紀である)であり 何ごとにも寄り憑くというべき歴史知性以前の知性です。原始心性とも言います。これも シントウの原始的なかたちだろうと思われます。その《何ごと》は 《かみ》と呼ばれたのですから。

 人は 《イリ歴史知性》の自覚のもとに ものごとに対して 《ヨリ原始心性》としての寄り憑くことが少なくなった。このように 歴史的な(時間的な・相対的な)自然本性に自己が到来するなら 人間の生活 そしてさらには 人類の社会と歴史は すでにふつうに 営まれていくと言えます。(潜在能力が ただちに現われようとして待機している状態にまで来たと言えるでしょう)。

§2 《イリ》歴史知性からさらに《ヨセ》なる超歴史知性の出現

 イリなる歴史知性に基づきつつも まだ 昔のヨリ(憑依)なる原始的知性の状態にある人びとは 残っていました。これを導こうとして 自らの力のもとに かれらを《ヨセル》(寄せる)ということを行なう人間が出ました。
 すでにその原形が 卑弥呼(ヒメのミコトの ヒとミとコで 中国の史書に載ったか)のシャーマニスムでした。アニミスムの親分というような性格です。しかも こんどは すでに 歴史知性に芽生えたあとの《ヨセル》です。スーパー歴史知性です。
 神功皇后オキナガタラシヒメのときに この《ヨセ》の記事はあるのですが その後も かのじょの系譜に見られるという意味で この《ヨセ》なる超歴史知性を 広くアマテラス族と呼びます。《タラシ》でもいいはづです。アマテラスのほうが 一般性があります。正確には 崇神ミマキイリヒコも アマテラス族ですから やはりスーパーアマテラスと呼ぶといいでしょう。

§3 《教義内では共存的な世界観を思わせる多神教(たとえば神道)が、対外的(他の宗教など)には排他的になるのはなぜですか》

 アマテラス(天照らす)というのは その言葉どおりに もともとは ヒコ(日子)と同じであろうと考えます。人間の精神であり 社会的な役割としての公民です。崇神イリヒコなるアマテラスの系譜には のちにタラシ系統(スーパーアマテラス)から出た雄略ワカタケによって 謀略に遭い殺されたイチノベノオシハのミコがいます。その双子のオホケ・ヲケは 命からがら逃げて あとで 名乗り出るといった歴史があります。あとで 市長(顕宗・仁賢帝)となったとき 父の仇の雄略ワカタケの陵から ほんの少し土をけずって 復讐に代えたという逸話があります。
 つまりふつうのイリヒコ系アマテラスと ヨセ=タラシ系のスーパーアマテラスとのちがいを 簡単に見ようとしたわけです。

 したがってというほどに 後者《ヨセなる超歴史知性》は けっきょく そのヒコ=アマテラスなる指導者の地位を 専門化させ 社会から単独分立し 市民政府ではなく その上に社会的な第二階を築き そこを 自分たちの住み処としてしまいました。市民たちは 国譲りとして 好きなようにさせたのでした。

 ですから ここから オホタタネコの神なるオホモノヌシは けっきょく 第二階に住むスーパーアマテラス族のための神となり また もともと やはり 市民たちの宮であった伊勢神宮も かれらのための制度となりました。(この伊勢神宮については むしろ崇神ミマキイリヒコの時代の制度発足として記事があったりしますが どうでしょう)。

 このいわゆる二階建ての国家の問題は 天武オホシアマ天皇の改革によって 一定の収拾を見ました。市民が主役であるという考えをできるだけ採り入れようとしました(八色の姓)。国家という二階建ての形態は その後も残りました。

 結論として 《教義内では共存的な世界観》というとき 国家の上から 市民らを《ヨセル》という考えがある限り それは 矛盾していると思います。原形かつ第一次形態――つまり崇神ミマキイリヒコと市民オホタタネコの三輪市政――では おおむね 実現したと考えたいと思っております。
 もっとも たとえば 崇神イリヒコは 日本の各地に《四道将軍》を派遣して 王化の徳を及ぼそうとしたと記事にはあります。つまり 服属させたわけです。えこひいきして言えば これほど素晴らしい《イリなる歴史知性》を自覚した人びとが ほかの隣人に 伝えてやりたいと思っても それほど奇異なことではないように思います。《宣教という愚かな手段》(パウロ)のことです。
 
 かくて 社会は スサノヲ市民圏( Susanowoschaft )とそしてアマテラス公民圏( Amaterasutum )との二階建てが いくらかの期間――世界史においても――つづいております。

 《わたしは無宗教です》という日本人は もう崇神ミマキイリヒコの社会を忘れているのだと思います。この社会は 神話としては スサノヲのイヅモでの須賀の宮のことだと考えます。これは のち子孫のオホクニヌシの代になって アマテラス国から 服属の要求を受け かれは非戦論であったので 国譲りをしています。
 わたしたちは 何が何でも自分たちが 一番だというスーパー歴史知性に対して 好きなようにさせたのだと考えます。長すぎました。そばが延びてしまいました。そういう情況にあると考えます。
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この回答へのお礼

「国譲り」の話は有名ですよね。神話の中では、段々と政治的で排他的な面が強調されてしまいます。「原形かつ第一次形態」への復帰と言っても、復帰してから出直してくださいという感じで、一歩も二歩も遅れてしまいます。やはり、対外的な寛容は、幻想のようです。読んでいて、そう思いました。

大変、詳細に書き込みいただき、ありがとうございました。
参考にさせていただきます。

お礼日時:2008/02/10 20:23

 無宗教、という言葉をいいかげんに使う人が日本にはけっこういますが、日本人はほぼ100%神道の徒です。



 例えば、身内が死んだらさっさと焼きますか? たいがい葬式をしたいと思うでしょう。所詮死者は葬式をされようとされまいと何も気にしないのに。が、気にしているような気になるのが、宗教心です。

 まあ、それはそれとして。

 既にあってそれなりにうまくいっている体系に外乱が入ってきたら、混乱するでしょう。別に宗教に限りません。ニュートン力学に基づき地球の公転を利用して光速の変化を測定しようとしたら、一定だったから当時の物理学者はみな困りました。アインシュタインが解決しましたが。
 物理法則と違って、適当にシナリオが作れればOKな世界観などというものであれば、うまく共存することも可能ですよ。実際、日本で後発の仏教も、神仏習合という共存形態を作り上げましたし。

 なお、教義上の問題と、教団活動としての政治は、きちんと分けて考えましょう。歴史の中では、教団が存続したり拡大するためには、武力含めた実力が必要でした。言い換えると、実力が衰えたら教団が滅亡しその宗教自体が滅びるのです。従って、たとえ教義が武力を禁じていても、教団の存続のためには武器を取るのがたいがいの人の組織というものです。現代でも、政治活動をしている宗教として、創価学会が典型的ですしね。

> 多神教がもつ包容力は、対外的にも寛容な、排他的ではない
> 態度に通じると思いたいのですが、幻想でしょうか。

 通じさせることはできますよ。
 実際、塩野七海によれば、古代ローマがそうでしたし。
 現代においては、日本神道の他の宗教に対するいいかげんさがそうですし。
 が、上述のように、その話と教団の政治活動は、別の話です。
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この回答へのお礼

排他性は、教団、組織体の持つ「性(さが)」であることが、浮き彫りになったと思います。

ありがとうございます。

お礼日時:2008/02/10 19:52

そしてそれが貴方の思っていることの


遠いようで最も近い道になります。

できれば田んぼなどが最も適しているかとおもいます。
手作業による田んぼの稲作りをやると
様々な日本の芸術にもつながっていることが分かります。
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この回答へのお礼

農業には、今のところ興味がありませんが、参考にさせていただきます。ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/10 19:47

>しかし、生きている人間の「魂の救済」を現世の中でしっかり果たすという役割を何かにもってもらいたいとも思っています。



宗教に人間の本質的な魂の救済などできないと思っております。
人間も自然の一部分であるということを忘れてしまっている。
今の日本に心身症が増えているのもそのせいで
自然に帰し
自然と触れ合う仕事に就く。
これが最良の医者であり薬ありカウンセラー。
日本人の根を離れるから心が苦しむ。
心を病む人の魂の救済は
それ以上でもなければそれ以下でもない
と思っております。
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この回答へのお礼

精神疾患だけを念頭においた「魂の救済」ではなく、悩みながら成長する者の支援者のような想定なので、ラジオのパーソナリティーでもいいのです。宗教に限りません。

そのように、理解していただけたら幸いです。

お礼日時:2008/02/10 19:45

多神教と一神教は、対立する概念ではなく、その宗教の置かれた環境によるものにしかすぎません。


多神教から一神教へ、一神教から多神教へと移り変わった宗教もありますし、多神教の外観をした一神教も、一神教にみえる多神教もあります。
さらにその中間の二神教、三神教なども過去には存在しました。
一神教と多神教との区別は、全く無意味なものでしかありません。
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この回答へのお礼

まったく、無意味な区別であるかもしれません。
しかし、それは、無意識の構造においてであり、顕識の、表層上の、外観上の印象として、一応あると思っています。

その程度に理解していただけたらと思います。

ご意見、参考にさせていただきます。ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/10 19:40

今の日本人が無宗教な人が多いという事実。


そして別に日本人が対外的に排他的ではないですよね。
無宗教であっても宗教性がないということでもないですし。
貴方が排他的ということなのでしょうか

哲学のカテにおいて自らの立場として宗教に関して意見は述べても
宗教の教義に対しての議論は避けるのではないですか?
何故か
それについて議論しあっても何もいいことはないからです。
普段の生活では宗教の話などしないですよね
そういうことを気にしないで人はやっていけるようだと思いませんか

天皇を頂点とした神道を復活させたいということなのかな?
そりゃ貴方それこそ排他的、軍国主義の再来になってしまう可能性がある。
そういうことを恐れるのですよ。人は
分かってないねぇ
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この回答へのお礼

まず、神道の信徒?、氏子?というのではありません。また、排他主義者でも軍国主義者でもありません。

「共存」と「排他」について、多神教という土俵で考察している最中です。質問文からその主旨が伝わらなかったとすると、当方の表現力不足ですが、回答者さまの書いたような印象を与えていないつもりでした。

貴重なご意見、ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/10 19:33

一番は人間の問題だと思います。



で、やっぱり多神教が寛容だなんていう説が、
嘘や間違いであるというのはいかがでしょう。

多神教が寛容。だから自分たちも寛容。
なんて論調は、一神教が何かとニュースなどで
話題になってから取り上げられるようになった気がします。

多神教には戦争や疫病の神までいます。

それに、神道と仏教は昔から、なにかと争っているというのに。

特に神道が語られる時は、日本というものがでてきます。
日本が否定されると、駄目ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

神々は、偉大だけれども、信者は「身の丈の神」、「自分の知の限界以内」しか認識できないという個々の「人間の問題」なのでしょうね。

ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/10 16:04

子供たちに


日本人としての自己のアイデンティティーが確立する前に
特定の宗教に染まってほしくはないとは思います。
一度染まってしまえばそこから抜け出すのは容易なことではない。
宗教にはそういう恐ろしさがあります。
無宗教であるというのはだからいいことだと思いますね。
ちなみに僕も無宗教です。
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この回答へのお礼

何ものにも入信しない自由というのも、尊重されるべきと思います。

しかし、生きている人間の「魂の救済」を現世の中でしっかり果たすという役割を何かにもってもらいたいとも思っています。

そのようなニーズに応える、カウンセリン機能のような装置って、かなり怪しい人々の手中にあるようにも思います。他方、献身的なボランティアの姿も見ますが、それは宗教活動ではないように多々見かけます。人格形成期にいろいろと見聞を広める必要があると思います。

ありがとうございました。

お礼日時:2008/02/10 15:58

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