スラブ人について質問なのですが、特に南スラブ人について。
南スラブ人というと現在の旧ユーゴらへんの人種だとおもうのですが、かれらがバルカン半島にやってきた時代を詳しく知りたいです。
本で読んだのですが、7世紀頃南スラブ人はバルカン半島に定住したと書かれていました。しかし、違う本を読むと最初にバルカン半島に入植してきたのは、スロベニア人、クロアチア人、セルビア人の三つだそうです。
私は、南スラブ人がバルカン半島にきた時、彼らは最初一つのまとまり、つまり南スラブ人としてそこに定住し、その後個々のアイデンティティーを持ち、クロアチア人やセルビア人などと分かれたと認識しているのですが、本を読む限り、南スラブ人としてのひとつのまとまりでバルカン半島にやってきたのではなく、すでに個々としセルビア人、クロアチア人としてバルカン半島に来たと書かれていました。

どちらが正しいでしょうか?

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A 回答 (11件中1~10件)

話しが南スラブ人からズレてしまっていますので、別枠での質問するほうが良いかと思いますが。



>自分たちで~派ではなく、~教と一つの団体を作るべきだと思いますが??

自分達こそ正統なキリスト教だと思っているのですから、自分達をキリスト教徒と名乗るのは当然の事です。
自分達で新しい宗教を起こすという事は、自分達がキリスト教の異端であったと認める事になりますから。
そのため、一般のイスラムから異端とされていますドズール派やアラウィー派も自称イスラムです。
一方、バーブ教団は、イスラムから完全に独立し、みずからのバハイ教となりました。
現在では、ネストリウス派は、一般のキリスト教として認められていますし、カタリ派も現在信者がいたとすれば、キリスト教として認められる可能性があります。
現在のキリスト教における異端は、モルモン教、エホバの証人、統一原理、クリスチャンサイエンスなどになります。

>なぜ二元論を基礎としているカタリ派を異端する必要があるのでしょうか?二元論というのは、かれらにとって異端視する要素があるのでしょうか?

キリスト教諸国において、二元論異端として、アルメニアのパウロス派(小パウロ派)、バルカンのボゴミール派、西欧のカタリ派があります。
このうち、パウロス派は、あまり異端視されていません。
アルメニア公国の国教であったため、ビザンツに滅ぼされましたが、それは異端であったからではなく、敵であるアルメニア公国の国教だったからです。
アルメニア公国滅亡後、パウロス派は、バルカンは、現在のルーマニアに移されました。
ボゴミール派が異端とされたのは、既存の十字架、教会などを偶像崇拝として破壊してまわったためです。
多数の信者のいる正教会の教会や墓の十字架までを破壊してまわったため、既存の正教会の人々が怒ったことがきっかけです。
カタリ派の場合、ローマ教皇の権威を認めなかった事に由来します。
カタリ派を擁護したツールズ伯、フォア伯などは、フランス国王にも従わず、独自の地底を築いていました。
ローマ教皇の権威の確立のため、フランス国王の南フランス制圧の口実としてアルビジュア十字軍が編成されました。

>ネストリウス派の起源についてお願いします。

ネストリウス派は、キリストを単なる人間であり神性は無いとする考え方で、起源と言われても「そう考える人がいた」としか言いようがありません。
ユダヤ教やイスラム教も、人間として考えますから、そう考える人がいても当然かと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。とても勉強になりました。多くの補足すべて答えていただき本当に感謝です。私も、もっと勉学に励み、世界事情を知っていこうと思います。しかし、いつも思うのですが、勉学をする際に周りの環境や人というのは大事だとつくづく思います。今回も、回答者さんが答えていただけなかったら、様々な発見もなかっただろうし・・。とにかく、有難うございまhした!!!!!!

お礼日時:2008/03/08 17:57

9番です。



>現在のボスニア人というのはほとんどイスラム教でボスニア正教徒はいないと聞きましたが、そうなのでしょうか?

そのとうりです。
現在ではボスニア教会は存在しません。
そのため、ボスニア教会に関しての研究をしようとしても、資料などが少なく、研究が進まないのです。

>カタリ派というのは、キリストを神だと思っていないのでしょうか?
この宗派の教義を教えてください。

カタリ派というのは、二元論を唱える中世ヨーロッパでひろがった異端信仰です。
二元論とは、この世は、善と悪、光と闇、精神と肉体など、対立する二つの抗争により成り立っていると考える教派です。

東欧のボゴミール派は、一定の教義のうえで成立したため、教義に一定の基準が有りましたが、カタリ派は、ボゴミール派、ゾロアスター教、マニ教、グノーシス主義などが渾然と混じり、自然発生したため統一した教義が無いばかりか、アルビジュア十字軍以降地下に潜ってしまったため、教会や信徒ごとに解釈がことなってしまいました。

ただ一般にカタリ派と言った場合、フランスのラングドック地方のカタリ派を指す事が普通です。
当初は、カタリ派では、キリストを神の子と認識していましたが、アルビジュア十字軍により、カタリ派の拠点モンセギュールが落ちた後は、輪廻転生の考え方を持ちます。
キリスト教において、唯一輪廻転生の考え方を持った教派となります。
カタリ派の研究は、この後期カタリ派と輪廻転生の考え方との関係が中心となっており、前期カタリ派や他地域でのカタリ派の研究は進んでいません。

この回答への補足

ありがとうございます。
これらの異端と考えられた宗派は、もはやキリストは神として認めていなかったり、輪廻転生を考慮したりと、王道のキリスト宗派とはだいぶ外れていると思います。それなのに、キリスト教の一宗派と認識していることは不思議ですね?自分たちで~派ではなく、~教と一つの団体を作るべきだと思いますが??
カタリ派の続きですが、王道キリスト教を信仰している人々にとって、なぜ二元論を基礎としているカタリ派を異端する必要があるのでしょうか?二元論というのは、かれらにとって異端視する要素があるのでしょうか?

また、前回私が質問した、ネストリウス派の起源についてお願いします。

補足日時:2008/03/07 16:08
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8番です。



>回答者さんががいう<ボスニア人とネストリウス派は関係ありません>というのはよく理解できませんが・

ネストリウス派とボゴミール派は、全く別の教派です。
ネストリウス派は、「キリストは単なる人間であり、奇跡も復活もありえない」という立場に立つ教派ですが、ボゴミール派では、「キリストは神の子であり、キリストの兄弟であるもう一人の神の子サタナエルが、人間界に神の教えに反する教えを広めたため、それを正す目的で、使わされた」という考え方をします。
そのため、ボゴミール派は、「キリストは神である」と考える単性派(エチオピア教会やコプト教)などに近い関係にあります。

>ボスニア教会というのは、ボゴミール(私の認識ではネストリウスでもありますが)を信仰していたボスニア人たちがつくったものではないのでしょうか??

これも違います。
今日では、ボスニア教会は、カトリックに近い教義をもっていた事が分かっています。
しかしカトリックとは異なり、教皇の権威を認めていませんでした。
そのため、教皇の権威の及ばない地域になっていました。
そのため、西欧で異端とされ弾圧されたカタリ派やセルビアやブルガリアで異端とされ弾圧されたボゴミール派の人達が多数ボスニアに逃げ込み、独自の教会をつくりました。
そのため、ボスニア教会の一部では、ボスニア教会とボゴミール派などの二元論教派が混じったり、同じ教会を使用しての礼拝となったりしたため、ボゴミール派とボスニア教会が同じものとの認識が広まったのです。

>セルビア教会も確かビザンティン帝国の影響を受けたので、キリストの正教徒を元に、後に独自の宗派セルビア正教をつくったのではないのでしょうか?

正教会という組織は、典礼などは共通していますが、民族ごとに総主教座を作り、独自の運営をします。
そのため、正教会全体をを統括する組織がありません。
(トルコのイスタンブールに、世界総主教座がありますが、実権は全くありません)
そのため、ギリシャ正教、ロシア正教、セルビア正教、ルーマニア正教、グルジア正教などは、完全に独立した教会となっています。
これは、カトリックなどが、ラテン語典礼を強要したのに対し、正教会が現地人の言葉での典礼を正教布教の切り札とした事によります。
そのため、セルビアでは、ギリシャ正教ではなく、セルビア語による典礼を行うセルビア正教となるのです。

>ボスニア正教はボスニア人が王国を作ったときからすでに存在している宗派なのでしょうか?

ボスニア教会の成立に関しては、良く分かっていないのが実情のようです。
ボスニア教会の教義が、カトリックに近いものであった事が判明したのも、最近の事で、10数年前までは、ボスニア教会は、質問者さんが考えたように、ボゴミール派やカタリ派に近い考え方をしていたと思われていました。

この回答への補足

ごめんなさい。またまた補足させてください。ボスニア正教会についてですが、現在のボスニア人というのはほとんどイスラム教でボスニア正教徒はいないと聞きましたが、そうなのでしょうか?

二つ目の質問は、ネストリウス派、とカタリ派の異端派についてです。カタリ派というのは、キリストを神だと思っていないのでしょうか?
この宗派の教義を教えてください。
ネストリウスについてですが、以前私はオスマントルコについての本を読んだ際、この帝国はトルコ人によって建国されましたが、彼らは元々中央アジアから来たと書いてありました。そこでは、昔ネストリウス派を信仰していた人々がいたらしいです。ネストリウス派はアジアまで広まったようですが、元々はヨーロッパが発祥ですよね?どのようにアジアまで広まったのかご存知であるなら、教えてください。

補足日時:2008/03/07 09:27
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7番です。



>そんな利点となる要素を持った国なのでしょうか?

地理的な位置が問題であり、土地自体は山がちで貧しい地域でしたから、大勢力が根拠地を置くことがありませんでした。
また、土地が貧しいため、長期間軍隊を駐留させる事も困難であったため、ボスニアを領土として確保する事が難しいために、各勢力の争奪の場になってしまいました。

オーストリアの場合、一時首都ウイーンまでトルコに攻め込まれています。
それを撃退した段階で、一番勢力を伸ばし安いのがバルカン半島でした。
オーストリアは、ハンガリー王の称号を得ていましたから、ハンガリーに手を出すのは当然、長年ハンガリーに属していたクロアチアも当然オーストリアの物。
クロアチアまでくると、クロアチアが領有を目指すボスニアは、すぐその先です。
またオーストリアは、トルコがセルビアを支配した時に、多数の亡命セルビア人を受け入れて国境防衛のために定住させてきました。
(クロアチアのクライン地方など)
それらセルビア人の故郷奪回の夢も影響したのでしょう。

セルビアは、トルコとオーストリアに挟まれた状況にありました。
特にオーストリアの支配下のハンガリー領は、首都ベオグラードのすぐ北側に迫っていました。
少しでも勢力を拡大しないと、セルビアがオーストリアに飲み込まれる危険性が有りましたから、セルビアは、セルビア人が多数住むボスニアの領有化を積極的に行いますが、結局オーストリア領となり、それに反発したセルビアとオーストリアの間で、第一次世界大戦の火蓋がきられてしまいます。

トルコにとっては、劣勢のヨーロッパ方面で唯一のトルコ支持者のボスニア人が居るのがボスニアです。
ボスニアを失う事は、ヨーロッパ方面での拠点を完全に失う事になってしまいます。

>なぜボスニア人というのは、異端とされていたネストリウス派を持ち続けるのではなく

ボスニア人とネストリウス派は関係ありません。
ネストリウス派は、現在のイラクを拠点に東に勢力を拡大した教派(キリストは単なる人間で、復活も奇跡もありえないとする考え方)で、ボスニアでは、ボスニア教会という教会が主流でした。
ボスニア教会については、よく分かっていないところも多いのですが、基本的な考え方は、カトリックに近いのですが、教皇を認めておらず、二元論異端(カタリ派やボゴミール派)に寛大でした。
そのため、弾圧されたカタリ派信徒やボゴミール派信徒が多数ボスニアに逃げ込み、二元論異端とボスニア教会の教義が混じった地区もかなりあったようです。

>イスラム教に改宗しようと思ったのでしょうか?

これは、現在でもよくわかっていません。
トルコは、原則的にヨーロッパ地区のキリスト教徒が、イスラムに改宗するのを原則禁止しましたが、ボスニア人は、それでもイスラムに改宗してしまっています。

トルコは、キリスト教徒がイスラムに改宗する事を嫌がりました。
それは、異教徒にかなり高率の人頭税を課す事がイスラム法で決められていたため、キリスト教徒がイスラムに改宗してしまうと、その人頭税が取れなくなり、財政的に厳しくなるからでした。
またトルコの社会では、多数の奴隷が必要でしたが、イスラム教徒は奴隷にできなかったため、奴隷供給地の確保という面もありました。
そのためトルコは、原則的にキリスト教徒のイスラムへの改宗を禁じ、それを破ってイスラムに改宗しても、人頭税の免除はせず、奴隷としても使う事にしていました。
つまり住民にとって、イスラムへの改宗は、全くメリットの無いものにしたのですが、ボスニアでは、イスラムへの改宗が相次いだのです。

この回答への補足

ありがとうございます、ネストリウス派に関してですが、この宗派はボゴミール派と同じと認識していたので、ボゴミールではなく、ただネストリウスと書きました、なので回答者さんががいう<ボスニア人とネストリウス派は関係ありません>というのはよく理解できませんが・・・ネストリウスつまりボゴミールがボスニアに多く逃げ込んだので・・・
ボスニア教会というのは、ボゴミール(私の認識ではネストリウスでもありますが)を信仰していたボスニア人たちがつくったものではないのでしょうか??
セルビア教会も確かビザンティン帝国の影響を受けたので、キリストの正教徒を元に、後に独自の宗派セルビア正教をつくったのではないのでしょうか?

ボスニア正教はボスニア人が王国を作ったときからすでに存在している宗派なのでしょうか?
宜しくお願いします。

補足日時:2008/03/04 16:33
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6番です。



>ブルガリア人というのは、スラブ人ではなにですね・・

そもそものブルガリア人は、スラブ人ではありませんが、圧倒的多数のスラブ人を長年支配していたため、現在では完全にスラブ化しています。
そのため、現在ではブルガリア人は、南スラブ人に含みます。
旧アジア系のブルガリア人の文化を混在したスラブ人が、現在のブルガリア人という事になります。

>ボスニア人はどうでしょうか??

ボスニア人も、セルビア人やクロアチア人と全く同じ民族でしたが、西欧の直接的影響も、東欧(ビザンツ)の直接的な影響も受けなかった地域の人々が元になっています。
(逆に言いますと、両方の影響を受けた地域でもあります)
そのため、ボスニアのキリスト教は、カトリックでも正教会でもない独自のボスニア教会が主流でした。
ローマ教皇などは、ボスニア教会を異端とし、ハンガリーに対し制圧するように何回も要請するのですが、ボスニアの地形や土地の貧しさから、失敗が続き、ボスニア教会は、トルコが進出してくるまで生きながらえます。
(セルビアも進出しようとしますが成功しませんでした)
トルコが進出してきますと、ハンガリーやセルビアへの敵対心から、ボスニアではイスラムへの改宗がすすみ、現在のボスニア人(ムスリム人)となります。

この回答への補足

ボスニアの地域をセルビアや、オスマンやハンガリー帝国が奪い合っていましたが、そんな利点となる要素を持った国なのでしょうか?
また、ボスニアの地形的、土地の貧しさというのは具体的にどういう事なのでしょうか?
もう一点なのですが、なぜボスニア人というのは、異端とされていたネストリウス派を持ち続けるのではなく、イスラム教に改宗しようと思ったのでしょうか?オスマン帝国の支配を受けたセルビアは、イスラムに改宗するのではなく、自分達のセルビア正教会を維持できたとおもいます。むしろ、オスマン帝国はイスラムへの改宗を強制したわけではないと思うのですが・・・

もし、ご存知なら教えてください。

補足日時:2008/03/03 09:19
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4番です。



>最初バルカンに来た人種はクロアチア、セルビア、スロベニア人だったらしいのですが、回答者さんはモンテネグロ人も含めていますよね?

モンテネグロ人は、現在の民族として出したもので、セルビア人からの別れです。

>この三人種はセルビアから分かれたと考えているのですが、違いますでしょうか?

モンテネグロ人については、そのとうりなのですが、マケドニア人に関しましては、そもそもブルガリア人の性格が先に出ていますので、ブルガリア人がセルビア人の影響により独立した民族となったと考えるほうが良いでしょう。
このブルガリア人ですが、本来のブルガリア人は、ハンガリー人などと同じくウラル語系のアジア民族とも北イラン系のアジア民族とも言われる(両者の混合だったかもしれません)民族が、バルカン半島に定住し、南スラブ人と混合した民族です。
このブルガリアのほうが、セルビアより先に現在のブルガリアからマケドニアなどにかけて建国しています。

そのため、ブルガリアでは、マケドニア人を、西ブルガリア人と呼び、マケドニアは、ブルガリア固有の領土であると主張し、マケドニアを奪ったセルビアとは、敵対関係にありました。
マケドニアをめぐる両国の対立が、第二次バルカン戦争となり、第一次世界大戦、第二次世界大戦で、ブルガリアが枢軸国に加わる原因となっています。

この回答への補足

ありがとうございます。ブルガリア人というのは、スラブ人ではなにですね・・・。
ボスニア人はどうでしょうか??

補足日時:2008/03/01 16:51
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セルビア人は、白セルビア(ドイツ東部~ザーレ川、エルベ川間)


クロアチア人は白クロアチア(バイエルン州近辺)(確定でない)

から移動した事になっています。(要研究部分)

つまり、南スラブ系が移動した後、西スラブ系は移動し、
そこで南スラブ化したのでしょう。
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スラブ人の故郷は、現在のベラルーシ付近になります。


そこから、西に向かったのが西スラブ人(ポーランド人、チェコ人、スロバキア人)で、東に向かったのが東スラブ人(ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人)、南方に向かったのが南スラブ人(スロベニア人、クロアチア人、ボスニア人、セルビア人、マケドニア人、ブルガリア人)となります、

南スラブ人は、当初フン族の支配下にあった時は、フン族の一部を構成していました。
フン族のビザンツ領侵攻にともない、ビザンツ帝国内に、個々に定住するようになります。
この傾向は、フン族崩壊後も続きました。
まだこの段階では、クロアチア人もセルビア人もありませんでした。

現在のハンガリーのあたりに、アーバール族が定住し、ビザンツ帝国への侵攻を繰り返すようになると、アーバールに手を焼いたビザンツ帝国は、スラブ人の帝国内定住政策をとります。
つまり、ビザンツ帝国は、南スラブ人地帯を、ビザンツ帝国の防衛線としようとしたのです。
625年~629年(7世紀)の事です。
これにより、大量のスラブ人が、ビザンツ帝国内に定住する事になります。

この段階でもまだクロアチア人やセルビア人といった意識はありません。

ビザンツ帝国の国境を荒らしまわるアーバールに手を焼いていたのは、西のフランク王国も同様で、フランク王国のカール大帝は、軍を起こしてアーバールの本拠地を攻撃し、アーバールは弱体化します。
これが契機となり、カール大帝の西ローマ皇帝就任後敵対関係にありましたフランクとビザンツの和解が成立します。(812年)
このアーヘンの和約では、

1.フランク王国が、イタリアのフランク領の一部(ベネチュア)をビザンツに割譲する。
2.ビザンツ帝国は、カールの西ローマ皇帝就任を認める。
3.互いの勢力圏を確定し、相互とも敵対行動はとらない。

とされました。

この時、フランクとビザンツは、そこの住民とは関係なく、勢力圏の確定をしました。
その結果、フランクの勢力下に入ったクロアチア人、スロベニア人と、ビザンツの勢力圏に入ったセルビア人、モンテネグロ人などに分割されました。
この時、ボスニアは、どちらの勢力圏になるかは確定されませんでした。

その後フランク王国が分裂・崩壊後、ドイツ(神聖ローマ帝国)に支配された地域が、スロベニアとなり、後にやってきたハンガリーに支配された地区がクロアチアになります。
ビザンツ勢力圏内で独立王国を築いたのがセルビア、ブルガリアとセルビアが取ったり取られたりした地域がマケドニアになります。

この回答への補足

ありがとうございます。とても分かりやすかったです(嬉)
でも補足させてください。
しかしながら、おもしろい話ですよね??元は同じ南スラブ人なのに、クロアチア人やセルビア人などと分かれたなんて・・・。
回答者さんは、フランク王国とビザンツ帝国の両国が和解した後、<フランクの勢力下に入ったクロアチア人、スロベニア人と、ビザンツの勢力圏に入ったセルビア人、モンテネグロ人などに分割されました。>と書かれていましたが、多くの本を読む限り、最初バルカンに来た人種はクロアチア、セルビア、スロベニア人だったらしいのですが、回答者さんはモンテネグロ人も含めていますよね?
私が思うに、セルビア王国が成立した後に、また格地方で独自のアイデンティティを築いた人種が、ボスニア、モンテネグロ、マケドニアだと思うのですが・・・。つまり、この三人種はセルビアから分かれたと考えているのですが、違いますでしょうか?

宜しくお願いします。

補足日時:2008/02/29 09:21
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元からそこに人種がいた事。


そこはスラブ化した事。
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スラブ人は、大体ウラル山脈近辺から移動してきた民族です。


かれらがバルカン半島の付け根当たりに入るの際に二つのルートがあり、黒海沿岸ルートとイタリアルートに分けることが出来ます。
なので、
> 南スラブ人がバルカン半島にきた時、彼らは最初一つのまとまり、つまり南スラブ人として
という時点でちょっと違うかな、と思います。これが大体六世紀くらいまでの話です。

この後、スロベキア人、クロアチア人、セルビア人などが現在の西スラブからイタリアルートで入ってきます。言語その他は、津軽弁と薩摩弁の違い程度の差がありましたが、基本的には同じ言語であったと言われています。
これが大体七世紀頃のお話です。

で、それぞれの部族にしたがってまとまり(国)が形成されていくわけですが、最初のバルカン半島へ入る時点からある程度のまとまりはあったでしょうし、それぞれのまとまりが合同し混交して存在していたとも言えるでしょう。イスラエルやモンゴルで見られるように、氏族ごとのまとまりはありつつも全体のまとまりもある、という形です。


なので、信号の青が「ブルー」なのか「グリーン」なのかの違いのようなもので、見方によってはどちらとも取れる、というところでしょう。
ただし、文化的にも言語的にも初期にはかなり近いですから、それぞれが分かれてというよりは、ある程度まとまってというほうが実際には近いような気もします。

この回答への補足

回答ありがとうございました。ということは、まだクロアチア人などとして部族が形成される以前の、いわば一まとまりの''南スラブ人''は7世紀以前ということですね??

そのほか質問なのですが、<スロベキア人、クロアチア人、セルビア人などが現在の西スラブからイタリアルートで入ってきます>と書かれていましたが、私が聞いた話ではスラブ人というのは、東、西、南と分裂して現在のバルカン半島には南スラブ人として形成されたと聞きました。しかし、回答者さんの西スラブから来たという事ですと、スロベキア人、クロアチア人、セルビア人は一度西に住んでいたという解釈になってしまします。その辺を詳しく教えてください。スロベキア人というのは現在のスロベニア人のことですか??

後もう一点、スロベキア人、クロアチア人、セルビア人の三種族が南スラブ人として最初バルカン半島に進出してきたと思いますが、彼らが定住したその後に、セルビア人から分裂して、ボスニア人、モンテネグロ人、マケドニア人というのが生まれたということですよね??したがって、7世紀にこの半島に南スラブ人が定住したと本で書かれているのは、スロベキア人、クロアチア人、セルビア人の三種族だけのことを指していますよね??

補足日時:2008/02/28 12:23
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(1)(2)(4)は当時の公的文書のようです。
http://kindai.ndl.go.jp/index.html

(1)『明治十四年 兵庫縣統計概表/兵庫縣庶務課編纂/兵庫縣藏版
明治18年7月31日出版届 明治18年8月16日刻成 不販賣』
「播磨國/飾東郡/60組/町110村65」(…実際に町・村を数えると174で1不足?)
64~66コマ目/209
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/807351/64

(2)『地名索引 内務省地理局編纂 明治十八年四月/内務省地理局藏版
明治17年11月4日版権届 明治18年4月23日出版』
51~55コマ目/406「三」
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992096/51
208~212コマ目/406「長」
http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992096/208

(3)『内務省版権免許 府縣管轄区域郡區町村名集覧/樋口文治郎編/明治廿一年四月出版
明治20年10月13日版権免許 同21年3月25日印刷竣功 同4月13日発行』
「飾東郡姫路龍野町&飾東郡」
44コマ目/237
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/762902/44

(4)『新旧対照市町村一覧 いろは順市町村索引/
東京和泉橋警察署著/明治廿二年十一月十五日
明治22年10月29日印刷 明治22年11月13日出版届』
(明治29年3月31日迄の「飾東郡&飾西郡」と
明治29年4月1日からの「飾磨郡」とが混在?)
40~41コマ目/263「姫路市」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761995/40
74~75コマ目/263「姫路市」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/932790/74
46~47コマ目/263「飾磨國飾東郡」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761995/46
「飾磨國飾磨郡」
77~78コマ目/263
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/932790/77

(5)『市町村一覧ほか/中村芳松編
明治28年5月30日訂正増補再版』
110コマ目/375「姫路市」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761998/110
116コマ目/375「播磨國飾東郡」

(6)つかんぼやと>市町村変遷パラパラ地図>兵庫県
明治22年4月1日以降分
http://tamotchi.skr.jp/geo/hensen28/index.html

残念ながら以上のとおりでございます。

なお、明治22年4月1日以前の「村」単位の規模に関しましては
当時の郡町村人口を町村数で割ると<あくまでも私見ですが>
いわゆる「大字」単位の規模を超えるものでもなさそうです。

あと、全国の「小字」を見るのに一番簡便なのは『角川日本地名大辞典』巻末所収のものですが、
残念ながらこの辞典シリーズでは編集方針にズレがあったのか、
「北海道・大阪府・兵庫県・奈良県・福岡県・愛知県・沖縄県等」は「小字」一覧未収録であったり、
「鳥取県・島根県・大分県等」は小字一覧であっても「大字」に相当するものが収録されていて、
小字が全て収録されているとは思われない場合もある様子です。

なので、兵庫県の「小字」を調べる場合には、
兵庫県地名研究会による『兵庫県小字名集』が1991(平成3)年以降、
順次国別に全5巻(東播磨・西播磨・但馬・丹波・淡路)が刊行されていますので
コチラに当たられるのも宜しいかもしれません。

また、明治時代の地名を調べるもう一つの方法は、
ふつう大字単位の地番順で編集されている土地台帳やその附属地図(地籍図・字切図などとも言います)に記載された
「字(字名・小字)」が役立つ場合もあります。今回の事案に照らせば「神戸地方法務局姫路支局」が所管庁です。
台帳&附属地図は(法令上は既に廃止された制度なので)何れも無料で閲覧が可能なはずです。

ただ、両記事ともに現代版○スポの匂いも漂いますがね^^

先に結論を申せば、明治14年から現在に至る間…特に明治14年~18年時点…には
「姫路市」を含め「飾東郡」の中では
村単位としての「三田村」「長柄村」はともに「不存在」と推定されます。

根拠資料は、下記URLのとおりでございます。
既読でしたらm(_"_)mですが、未読でしたら是非一度御確認下さい。
(1)(2)(4)は当時の公的文書のようです。
http://kindai.ndl.go.jp/index.html

(1)『明治十四年 兵庫縣統計概表/兵庫縣庶務課編纂/兵庫縣藏版
明治18年7月31日出版届 明治18年8月16日刻成 不販賣...続きを読む

Q吉屋信子 花物語

以前、読書のカテゴリで質問させていただいたのですが、回答が得られなかったのでこちらで新たに質問させていただきます。

私はひょんなことから吉屋信子の「花物語」にハマってしまい、最初は図書館で借りていたのですがどうしても手元に置いておきたくなりました。

国会刊行会から出ている、3冊組みで中原淳一氏の挿絵のものが欲しいというのが本音ですが、お買い得かなという点では「吉屋信子全集1・花物語・屋根裏の二処女」に注目しています。

そこでお聞きしたいのですが、「吉屋信子全集1」に収録されている「花物語」は、国会刊行会から出ている3冊組みのものと同じ数の物語が収録されていますか?もしそうだとしたら、国会刊行会の3冊組みが丸ごと入ってお得ということになるのでしょうか。

自分でもいろいろ調べているのですが、ちょっと分からなくて質問させていただきました。

ご存知の方、ぜひ教えてください。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

回答ではないのですが少々気になることがあります。
まず、国書刊行会から出ている「花物語」上中下巻は1995年に新装版が出たこともあり、アマゾンなどでも取り扱っていますが、注目されている「吉屋信子全集1 花物語・屋根裏の二処女」は1975年に朝日新聞社から出版されたものです。
こちらがお買い得ということになったとしても買える可能性はかなり低いのでは?

単純にページ数だけなら3巻組みは上343p・中354p・下312p、全集本のほうは545pです。
同じ文字の大きさで同じ段組なら、全集本は抄録と見ることができますが、仮に3巻組みは1段全集本は2段組だとすると同じくらいでしょうか?
実物を見るのが一番手っ取り早いと思うのですが、図書館で取り寄せてもらうことは可能でしょうか?
国立国会図書館や近隣他府県などの送料がかかってしまう取り寄せしか手がないのであれば使えない手法ではありますが。

Qスラブ人

東欧のスラブ人がアジア人に近い顔立ちなのは、アジア人との混血が進んだためですか?

Aベストアンサー

東欧のスラブ人はコーカソイド(ヨーロッパ人種)です。

ロシア人はスラブ人を基調としながらも東に向かうにつれてモンゴロイド系が多くなる傾向にあります(歴史的にモンゴル人やタタール人の支配を受けていた国ですから)。

Q大川信子

京都競馬に出ている大川信子さんって
いくつくらいの方なんでしょうか。
詳しいプロフィール教えてください

Aベストアンサー

年齢は不詳ですがプロフィールはこのURLにありました

http://www.long.gr.jp/contents/staff-list/osaka/mc/okawa.htm


過去にも質問ありました
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=1269570

参考URL:http://www.long.gr.jp/contents/staff-list/osaka/mc/okawa.htm

Q江戸の古地図を見ていると、現在の南青山一丁目のとこ

江戸の古地図を見ていると、現在の南青山一丁目のところが「宮様御門前」という名前になっています。

今でこそ、青山通りを挟んだ向かいは「宮様」が住む赤坂御用地ですが、江戸時代は御三家紀伊徳川家の敷地でした。

当時の「宮様御門」とはどの門のことで、その「宮様」とは、誰のことなんでしょうか?

Aベストアンサー

おはようございます。

場所はわかりました。現在の山王病院の北のあたりですね。古地図でも確認できました。
netを探すとありましたね。紀州邸とかかわりがあるそうです。紀州侯の2代の夫人が京都から降嫁され、屋敷と門が朱塗りだったためこのように呼ばれたとか。下記参照ください。

http://www.jlogos.com/webtoktai/index.html?word=%B5%DC%CD%CD%B8%E6%CC%E7%C1%B0%28%B6%E1%C0%A4%29&id=7301555

Q吉屋信子作品のタイトル

吉屋信子の作品で、水の江滝子が出てくるもののタイトルを教えて下さい。
作中人物の好きなもの、もしくは作中の当時流行しているものとして出てきたか、作中人物の同様のセリフ(つまり、ターキーのファンだとか今はSKDが流行……といったようなセリフ)であったはずです。

それから、こちらはまるで自信なしなのですが、垣根か庭に花が咲いていてピアノを弾いている女の子が出てくる話というのはあったでしょうか。

20年以上前に読んだきりなのでほとんど忘れています。
ちなみに当時読んだものは吉屋作品が何冊かシリーズもののようになっていて、サイズは文庫。ピンク色のイメージがあるので、おそらく背表紙か装丁でピンク色が使われていたと思います。

Aベストアンサー

「からたちの花」のあらすじです。少々うろおぼえですが
麻子は「女は美しくなければ価値がない」と考えている母と美しい姉妹の間に生まれた普通の子なので、要望コンプレックスをもち、性格もひがんでいました。
家出の真似をしたときに知合った同年輩の少女とその母の影響で、「歌」をきっかけに自信を持つようになります。
(垣根の外からピアノの音にひかれて…だと思います)
今までの反作用で増上慢になりかけたりもしながら、人を思いやる心を持つことで自分を大切にすることに目覚めて成長していく、という物語だったと思います。
「水の江滝子」はわかりませんが、母が麻子を妊娠したときに、胎教にと部屋に小野小町の絵などを掛けていると、妹(麻子の叔母)が「そんなの古くさいわ、こちらに遊ばせよ」と女優のブロマイドなどを貼る、というシーンがありましたので、あるいはここかもしれませんが、時代考証が合わないような気もします。
吉屋信子のことは、田辺聖子の小説「ゆめはるか 吉屋信子」がとてもよくわかります。

Q旧大名家の現在の当主は、何をしてますか?

旧大名家の現在の当主は、何をしてますか?

徳川宗家→ 日本郵船元副社長
尾張徳川家→ 徳川美術館の館長で本職はプログラマー
紀州徳川家→ 女性建築家
水戸徳川家→ ?
徳川慶喜家→ カメラマン
仙台伊達家→ 歴史研究家
会津松平家→ ?
加賀前田家→ 石川県人会連合会の会長
福井松平家→ ?
岡山池田家→ 池田動物園の園長。妻は今上天皇の妹
広島浅野家→ ?
長州毛利家→ 防府毛利報公会の会長
土佐山内家→ ?
福岡黒田家→ 不動産会社の社長
佐賀鍋島家→ ?
熊本細川家→ 元内閣総理大臣・熊本県知事の細川護煕
薩摩島津家→ 観光会社の社長

と、このように主要な大名家の現当主の肩書きをまとめてみました。
不明部分の補足や間違いの指摘があれば、教えて下さい。
あと、上記以外の旧大名家の当主についてももしご存知なら教えて下さい。

Aベストアンサー

 既に現当主ではないと思いますけれど、30年程前には芸州浅野家の当主浅野長愛(ながちか)氏が学習院の高等科長(いわゆる校長)をなさっていました。
 尾張徳川家の現当主はその頃の生徒です。


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