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スラブ人について質問なのですが、特に南スラブ人について。
南スラブ人というと現在の旧ユーゴらへんの人種だとおもうのですが、かれらがバルカン半島にやってきた時代を詳しく知りたいです。
本で読んだのですが、7世紀頃南スラブ人はバルカン半島に定住したと書かれていました。しかし、違う本を読むと最初にバルカン半島に入植してきたのは、スロベニア人、クロアチア人、セルビア人の三つだそうです。
私は、南スラブ人がバルカン半島にきた時、彼らは最初一つのまとまり、つまり南スラブ人としてそこに定住し、その後個々のアイデンティティーを持ち、クロアチア人やセルビア人などと分かれたと認識しているのですが、本を読む限り、南スラブ人としてのひとつのまとまりでバルカン半島にやってきたのではなく、すでに個々としセルビア人、クロアチア人としてバルカン半島に来たと書かれていました。

どちらが正しいでしょうか?

A 回答 (11件中1~10件)

>すでに個々としセルビア人、クロアチア人としてバルカン半島に来たと書かれていました。



でないと、クロアチア公国、セルビア王国が矛盾してしまいます。
キリール文字、ラテン文字も違いますので、こちらの方が正しい認識に思えます。
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スラブ人は、大体ウラル山脈近辺から移動してきた民族です。


かれらがバルカン半島の付け根当たりに入るの際に二つのルートがあり、黒海沿岸ルートとイタリアルートに分けることが出来ます。
なので、
> 南スラブ人がバルカン半島にきた時、彼らは最初一つのまとまり、つまり南スラブ人として
という時点でちょっと違うかな、と思います。これが大体六世紀くらいまでの話です。

この後、スロベキア人、クロアチア人、セルビア人などが現在の西スラブからイタリアルートで入ってきます。言語その他は、津軽弁と薩摩弁の違い程度の差がありましたが、基本的には同じ言語であったと言われています。
これが大体七世紀頃のお話です。

で、それぞれの部族にしたがってまとまり(国)が形成されていくわけですが、最初のバルカン半島へ入る時点からある程度のまとまりはあったでしょうし、それぞれのまとまりが合同し混交して存在していたとも言えるでしょう。イスラエルやモンゴルで見られるように、氏族ごとのまとまりはありつつも全体のまとまりもある、という形です。


なので、信号の青が「ブルー」なのか「グリーン」なのかの違いのようなもので、見方によってはどちらとも取れる、というところでしょう。
ただし、文化的にも言語的にも初期にはかなり近いですから、それぞれが分かれてというよりは、ある程度まとまってというほうが実際には近いような気もします。

この回答への補足

回答ありがとうございました。ということは、まだクロアチア人などとして部族が形成される以前の、いわば一まとまりの''南スラブ人''は7世紀以前ということですね??

そのほか質問なのですが、<スロベキア人、クロアチア人、セルビア人などが現在の西スラブからイタリアルートで入ってきます>と書かれていましたが、私が聞いた話ではスラブ人というのは、東、西、南と分裂して現在のバルカン半島には南スラブ人として形成されたと聞きました。しかし、回答者さんの西スラブから来たという事ですと、スロベキア人、クロアチア人、セルビア人は一度西に住んでいたという解釈になってしまします。その辺を詳しく教えてください。スロベキア人というのは現在のスロベニア人のことですか??

後もう一点、スロベキア人、クロアチア人、セルビア人の三種族が南スラブ人として最初バルカン半島に進出してきたと思いますが、彼らが定住したその後に、セルビア人から分裂して、ボスニア人、モンテネグロ人、マケドニア人というのが生まれたということですよね??したがって、7世紀にこの半島に南スラブ人が定住したと本で書かれているのは、スロベキア人、クロアチア人、セルビア人の三種族だけのことを指していますよね??

補足日時:2008/02/28 12:23
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元からそこに人種がいた事。


そこはスラブ化した事。
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スラブ人の故郷は、現在のベラルーシ付近になります。


そこから、西に向かったのが西スラブ人(ポーランド人、チェコ人、スロバキア人)で、東に向かったのが東スラブ人(ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人)、南方に向かったのが南スラブ人(スロベニア人、クロアチア人、ボスニア人、セルビア人、マケドニア人、ブルガリア人)となります、

南スラブ人は、当初フン族の支配下にあった時は、フン族の一部を構成していました。
フン族のビザンツ領侵攻にともない、ビザンツ帝国内に、個々に定住するようになります。
この傾向は、フン族崩壊後も続きました。
まだこの段階では、クロアチア人もセルビア人もありませんでした。

現在のハンガリーのあたりに、アーバール族が定住し、ビザンツ帝国への侵攻を繰り返すようになると、アーバールに手を焼いたビザンツ帝国は、スラブ人の帝国内定住政策をとります。
つまり、ビザンツ帝国は、南スラブ人地帯を、ビザンツ帝国の防衛線としようとしたのです。
625年~629年(7世紀)の事です。
これにより、大量のスラブ人が、ビザンツ帝国内に定住する事になります。

この段階でもまだクロアチア人やセルビア人といった意識はありません。

ビザンツ帝国の国境を荒らしまわるアーバールに手を焼いていたのは、西のフランク王国も同様で、フランク王国のカール大帝は、軍を起こしてアーバールの本拠地を攻撃し、アーバールは弱体化します。
これが契機となり、カール大帝の西ローマ皇帝就任後敵対関係にありましたフランクとビザンツの和解が成立します。(812年)
このアーヘンの和約では、

1.フランク王国が、イタリアのフランク領の一部(ベネチュア)をビザンツに割譲する。
2.ビザンツ帝国は、カールの西ローマ皇帝就任を認める。
3.互いの勢力圏を確定し、相互とも敵対行動はとらない。

とされました。

この時、フランクとビザンツは、そこの住民とは関係なく、勢力圏の確定をしました。
その結果、フランクの勢力下に入ったクロアチア人、スロベニア人と、ビザンツの勢力圏に入ったセルビア人、モンテネグロ人などに分割されました。
この時、ボスニアは、どちらの勢力圏になるかは確定されませんでした。

その後フランク王国が分裂・崩壊後、ドイツ(神聖ローマ帝国)に支配された地域が、スロベニアとなり、後にやってきたハンガリーに支配された地区がクロアチアになります。
ビザンツ勢力圏内で独立王国を築いたのがセルビア、ブルガリアとセルビアが取ったり取られたりした地域がマケドニアになります。

この回答への補足

ありがとうございます。とても分かりやすかったです(嬉)
でも補足させてください。
しかしながら、おもしろい話ですよね??元は同じ南スラブ人なのに、クロアチア人やセルビア人などと分かれたなんて・・・。
回答者さんは、フランク王国とビザンツ帝国の両国が和解した後、<フランクの勢力下に入ったクロアチア人、スロベニア人と、ビザンツの勢力圏に入ったセルビア人、モンテネグロ人などに分割されました。>と書かれていましたが、多くの本を読む限り、最初バルカンに来た人種はクロアチア、セルビア、スロベニア人だったらしいのですが、回答者さんはモンテネグロ人も含めていますよね?
私が思うに、セルビア王国が成立した後に、また格地方で独自のアイデンティティを築いた人種が、ボスニア、モンテネグロ、マケドニアだと思うのですが・・・。つまり、この三人種はセルビアから分かれたと考えているのですが、違いますでしょうか?

宜しくお願いします。

補足日時:2008/02/29 09:21
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セルビア人は、白セルビア(ドイツ東部~ザーレ川、エルベ川間)


クロアチア人は白クロアチア(バイエルン州近辺)(確定でない)

から移動した事になっています。(要研究部分)

つまり、南スラブ系が移動した後、西スラブ系は移動し、
そこで南スラブ化したのでしょう。
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4番です。



>最初バルカンに来た人種はクロアチア、セルビア、スロベニア人だったらしいのですが、回答者さんはモンテネグロ人も含めていますよね?

モンテネグロ人は、現在の民族として出したもので、セルビア人からの別れです。

>この三人種はセルビアから分かれたと考えているのですが、違いますでしょうか?

モンテネグロ人については、そのとうりなのですが、マケドニア人に関しましては、そもそもブルガリア人の性格が先に出ていますので、ブルガリア人がセルビア人の影響により独立した民族となったと考えるほうが良いでしょう。
このブルガリア人ですが、本来のブルガリア人は、ハンガリー人などと同じくウラル語系のアジア民族とも北イラン系のアジア民族とも言われる(両者の混合だったかもしれません)民族が、バルカン半島に定住し、南スラブ人と混合した民族です。
このブルガリアのほうが、セルビアより先に現在のブルガリアからマケドニアなどにかけて建国しています。

そのため、ブルガリアでは、マケドニア人を、西ブルガリア人と呼び、マケドニアは、ブルガリア固有の領土であると主張し、マケドニアを奪ったセルビアとは、敵対関係にありました。
マケドニアをめぐる両国の対立が、第二次バルカン戦争となり、第一次世界大戦、第二次世界大戦で、ブルガリアが枢軸国に加わる原因となっています。

この回答への補足

ありがとうございます。ブルガリア人というのは、スラブ人ではなにですね・・・。
ボスニア人はどうでしょうか??

補足日時:2008/03/01 16:51
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6番です。



>ブルガリア人というのは、スラブ人ではなにですね・・

そもそものブルガリア人は、スラブ人ではありませんが、圧倒的多数のスラブ人を長年支配していたため、現在では完全にスラブ化しています。
そのため、現在ではブルガリア人は、南スラブ人に含みます。
旧アジア系のブルガリア人の文化を混在したスラブ人が、現在のブルガリア人という事になります。

>ボスニア人はどうでしょうか??

ボスニア人も、セルビア人やクロアチア人と全く同じ民族でしたが、西欧の直接的影響も、東欧(ビザンツ)の直接的な影響も受けなかった地域の人々が元になっています。
(逆に言いますと、両方の影響を受けた地域でもあります)
そのため、ボスニアのキリスト教は、カトリックでも正教会でもない独自のボスニア教会が主流でした。
ローマ教皇などは、ボスニア教会を異端とし、ハンガリーに対し制圧するように何回も要請するのですが、ボスニアの地形や土地の貧しさから、失敗が続き、ボスニア教会は、トルコが進出してくるまで生きながらえます。
(セルビアも進出しようとしますが成功しませんでした)
トルコが進出してきますと、ハンガリーやセルビアへの敵対心から、ボスニアではイスラムへの改宗がすすみ、現在のボスニア人(ムスリム人)となります。

この回答への補足

ボスニアの地域をセルビアや、オスマンやハンガリー帝国が奪い合っていましたが、そんな利点となる要素を持った国なのでしょうか?
また、ボスニアの地形的、土地の貧しさというのは具体的にどういう事なのでしょうか?
もう一点なのですが、なぜボスニア人というのは、異端とされていたネストリウス派を持ち続けるのではなく、イスラム教に改宗しようと思ったのでしょうか?オスマン帝国の支配を受けたセルビアは、イスラムに改宗するのではなく、自分達のセルビア正教会を維持できたとおもいます。むしろ、オスマン帝国はイスラムへの改宗を強制したわけではないと思うのですが・・・

もし、ご存知なら教えてください。

補足日時:2008/03/03 09:19
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7番です。



>そんな利点となる要素を持った国なのでしょうか?

地理的な位置が問題であり、土地自体は山がちで貧しい地域でしたから、大勢力が根拠地を置くことがありませんでした。
また、土地が貧しいため、長期間軍隊を駐留させる事も困難であったため、ボスニアを領土として確保する事が難しいために、各勢力の争奪の場になってしまいました。

オーストリアの場合、一時首都ウイーンまでトルコに攻め込まれています。
それを撃退した段階で、一番勢力を伸ばし安いのがバルカン半島でした。
オーストリアは、ハンガリー王の称号を得ていましたから、ハンガリーに手を出すのは当然、長年ハンガリーに属していたクロアチアも当然オーストリアの物。
クロアチアまでくると、クロアチアが領有を目指すボスニアは、すぐその先です。
またオーストリアは、トルコがセルビアを支配した時に、多数の亡命セルビア人を受け入れて国境防衛のために定住させてきました。
(クロアチアのクライン地方など)
それらセルビア人の故郷奪回の夢も影響したのでしょう。

セルビアは、トルコとオーストリアに挟まれた状況にありました。
特にオーストリアの支配下のハンガリー領は、首都ベオグラードのすぐ北側に迫っていました。
少しでも勢力を拡大しないと、セルビアがオーストリアに飲み込まれる危険性が有りましたから、セルビアは、セルビア人が多数住むボスニアの領有化を積極的に行いますが、結局オーストリア領となり、それに反発したセルビアとオーストリアの間で、第一次世界大戦の火蓋がきられてしまいます。

トルコにとっては、劣勢のヨーロッパ方面で唯一のトルコ支持者のボスニア人が居るのがボスニアです。
ボスニアを失う事は、ヨーロッパ方面での拠点を完全に失う事になってしまいます。

>なぜボスニア人というのは、異端とされていたネストリウス派を持ち続けるのではなく

ボスニア人とネストリウス派は関係ありません。
ネストリウス派は、現在のイラクを拠点に東に勢力を拡大した教派(キリストは単なる人間で、復活も奇跡もありえないとする考え方)で、ボスニアでは、ボスニア教会という教会が主流でした。
ボスニア教会については、よく分かっていないところも多いのですが、基本的な考え方は、カトリックに近いのですが、教皇を認めておらず、二元論異端(カタリ派やボゴミール派)に寛大でした。
そのため、弾圧されたカタリ派信徒やボゴミール派信徒が多数ボスニアに逃げ込み、二元論異端とボスニア教会の教義が混じった地区もかなりあったようです。

>イスラム教に改宗しようと思ったのでしょうか?

これは、現在でもよくわかっていません。
トルコは、原則的にヨーロッパ地区のキリスト教徒が、イスラムに改宗するのを原則禁止しましたが、ボスニア人は、それでもイスラムに改宗してしまっています。

トルコは、キリスト教徒がイスラムに改宗する事を嫌がりました。
それは、異教徒にかなり高率の人頭税を課す事がイスラム法で決められていたため、キリスト教徒がイスラムに改宗してしまうと、その人頭税が取れなくなり、財政的に厳しくなるからでした。
またトルコの社会では、多数の奴隷が必要でしたが、イスラム教徒は奴隷にできなかったため、奴隷供給地の確保という面もありました。
そのためトルコは、原則的にキリスト教徒のイスラムへの改宗を禁じ、それを破ってイスラムに改宗しても、人頭税の免除はせず、奴隷としても使う事にしていました。
つまり住民にとって、イスラムへの改宗は、全くメリットの無いものにしたのですが、ボスニアでは、イスラムへの改宗が相次いだのです。

この回答への補足

ありがとうございます、ネストリウス派に関してですが、この宗派はボゴミール派と同じと認識していたので、ボゴミールではなく、ただネストリウスと書きました、なので回答者さんががいう<ボスニア人とネストリウス派は関係ありません>というのはよく理解できませんが・・・ネストリウスつまりボゴミールがボスニアに多く逃げ込んだので・・・
ボスニア教会というのは、ボゴミール(私の認識ではネストリウスでもありますが)を信仰していたボスニア人たちがつくったものではないのでしょうか??
セルビア教会も確かビザンティン帝国の影響を受けたので、キリストの正教徒を元に、後に独自の宗派セルビア正教をつくったのではないのでしょうか?

ボスニア正教はボスニア人が王国を作ったときからすでに存在している宗派なのでしょうか?
宜しくお願いします。

補足日時:2008/03/04 16:33
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8番です。



>回答者さんががいう<ボスニア人とネストリウス派は関係ありません>というのはよく理解できませんが・

ネストリウス派とボゴミール派は、全く別の教派です。
ネストリウス派は、「キリストは単なる人間であり、奇跡も復活もありえない」という立場に立つ教派ですが、ボゴミール派では、「キリストは神の子であり、キリストの兄弟であるもう一人の神の子サタナエルが、人間界に神の教えに反する教えを広めたため、それを正す目的で、使わされた」という考え方をします。
そのため、ボゴミール派は、「キリストは神である」と考える単性派(エチオピア教会やコプト教)などに近い関係にあります。

>ボスニア教会というのは、ボゴミール(私の認識ではネストリウスでもありますが)を信仰していたボスニア人たちがつくったものではないのでしょうか??

これも違います。
今日では、ボスニア教会は、カトリックに近い教義をもっていた事が分かっています。
しかしカトリックとは異なり、教皇の権威を認めていませんでした。
そのため、教皇の権威の及ばない地域になっていました。
そのため、西欧で異端とされ弾圧されたカタリ派やセルビアやブルガリアで異端とされ弾圧されたボゴミール派の人達が多数ボスニアに逃げ込み、独自の教会をつくりました。
そのため、ボスニア教会の一部では、ボスニア教会とボゴミール派などの二元論教派が混じったり、同じ教会を使用しての礼拝となったりしたため、ボゴミール派とボスニア教会が同じものとの認識が広まったのです。

>セルビア教会も確かビザンティン帝国の影響を受けたので、キリストの正教徒を元に、後に独自の宗派セルビア正教をつくったのではないのでしょうか?

正教会という組織は、典礼などは共通していますが、民族ごとに総主教座を作り、独自の運営をします。
そのため、正教会全体をを統括する組織がありません。
(トルコのイスタンブールに、世界総主教座がありますが、実権は全くありません)
そのため、ギリシャ正教、ロシア正教、セルビア正教、ルーマニア正教、グルジア正教などは、完全に独立した教会となっています。
これは、カトリックなどが、ラテン語典礼を強要したのに対し、正教会が現地人の言葉での典礼を正教布教の切り札とした事によります。
そのため、セルビアでは、ギリシャ正教ではなく、セルビア語による典礼を行うセルビア正教となるのです。

>ボスニア正教はボスニア人が王国を作ったときからすでに存在している宗派なのでしょうか?

ボスニア教会の成立に関しては、良く分かっていないのが実情のようです。
ボスニア教会の教義が、カトリックに近いものであった事が判明したのも、最近の事で、10数年前までは、ボスニア教会は、質問者さんが考えたように、ボゴミール派やカタリ派に近い考え方をしていたと思われていました。

この回答への補足

ごめんなさい。またまた補足させてください。ボスニア正教会についてですが、現在のボスニア人というのはほとんどイスラム教でボスニア正教徒はいないと聞きましたが、そうなのでしょうか?

二つ目の質問は、ネストリウス派、とカタリ派の異端派についてです。カタリ派というのは、キリストを神だと思っていないのでしょうか?
この宗派の教義を教えてください。
ネストリウスについてですが、以前私はオスマントルコについての本を読んだ際、この帝国はトルコ人によって建国されましたが、彼らは元々中央アジアから来たと書いてありました。そこでは、昔ネストリウス派を信仰していた人々がいたらしいです。ネストリウス派はアジアまで広まったようですが、元々はヨーロッパが発祥ですよね?どのようにアジアまで広まったのかご存知であるなら、教えてください。

補足日時:2008/03/07 09:27
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9番です。



>現在のボスニア人というのはほとんどイスラム教でボスニア正教徒はいないと聞きましたが、そうなのでしょうか?

そのとうりです。
現在ではボスニア教会は存在しません。
そのため、ボスニア教会に関しての研究をしようとしても、資料などが少なく、研究が進まないのです。

>カタリ派というのは、キリストを神だと思っていないのでしょうか?
この宗派の教義を教えてください。

カタリ派というのは、二元論を唱える中世ヨーロッパでひろがった異端信仰です。
二元論とは、この世は、善と悪、光と闇、精神と肉体など、対立する二つの抗争により成り立っていると考える教派です。

東欧のボゴミール派は、一定の教義のうえで成立したため、教義に一定の基準が有りましたが、カタリ派は、ボゴミール派、ゾロアスター教、マニ教、グノーシス主義などが渾然と混じり、自然発生したため統一した教義が無いばかりか、アルビジュア十字軍以降地下に潜ってしまったため、教会や信徒ごとに解釈がことなってしまいました。

ただ一般にカタリ派と言った場合、フランスのラングドック地方のカタリ派を指す事が普通です。
当初は、カタリ派では、キリストを神の子と認識していましたが、アルビジュア十字軍により、カタリ派の拠点モンセギュールが落ちた後は、輪廻転生の考え方を持ちます。
キリスト教において、唯一輪廻転生の考え方を持った教派となります。
カタリ派の研究は、この後期カタリ派と輪廻転生の考え方との関係が中心となっており、前期カタリ派や他地域でのカタリ派の研究は進んでいません。

この回答への補足

ありがとうございます。
これらの異端と考えられた宗派は、もはやキリストは神として認めていなかったり、輪廻転生を考慮したりと、王道のキリスト宗派とはだいぶ外れていると思います。それなのに、キリスト教の一宗派と認識していることは不思議ですね?自分たちで~派ではなく、~教と一つの団体を作るべきだと思いますが??
カタリ派の続きですが、王道キリスト教を信仰している人々にとって、なぜ二元論を基礎としているカタリ派を異端する必要があるのでしょうか?二元論というのは、かれらにとって異端視する要素があるのでしょうか?

また、前回私が質問した、ネストリウス派の起源についてお願いします。

補足日時:2008/03/07 16:08
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