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ソクラテス→エピクロス
肉体的快楽を精神的快楽より勝ると考えるのは無知のなせる業である。
その点で、肉体的快楽を寧ろ「苦」と考えるようになるためには「無知の知」が必要である。
「快楽」と「知」はリンクするものなのだ。
こんなことをソクラテスはエピクロスに言ったりするでしょうか?
御回答よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

言ったりするかしないか、という質問にピントを絞ります。


とすると、答はどちらかというと否定的になります。
それも、ソクラテスとエピクロスが根本的に時代が違う人だからというような理由でもなく、ソクラテスという人物はプラトンなどが脚色しているからというような理由でもありません。たらればだからくだらないとも言いません。

ソクラテスは誰彼ともなく捕まえて議論するような人であったというのが本当ならば、まずエピクロスにいきなりこうだと突きつけることはないと思います。最初にエピクロスがどのように考えているかを聴取した上で、それに反駁するのが彼の流儀ですから。
では、エピクロスは、肉体的快楽を精神的快楽より勝ると考えているのだということを導き出さなくてはならないのですが、いかにも世間で誤解されそうなエピクロス像による判断であって、エピクロスは実際はそのような主張をしていません。

エピクロスの私生活は確かにねーちゃんに言いよりまくっていたようですし、それは事実だと思いますが、その私生活をことさらにバッシングしたのが対立派閥のストア派の人達です。そして、このストア派の連中があることないこと言ったおかげでエピクロスの教説に実際触れたこともないのにエピクロスはしまりのない快楽主義で堕落している、と人々が近寄らなくなってしまっているのです。
以前もエピクロスが唯物論者だからダメだとか言っている人がこのサイトにいましたが、全くの無知で、彼はデモクリトスの論を継承する原子論者ではあるものの、霊魂についても語っていますから唯物論ではありません。また、無神論だとかいう人もいますが、この人もエピクロスが神について語った箇所を全く読んでいないのです。

さて、エピクロスはどのように考えていたか。
身体の健康と魂の平静さが至福なる生の目的、と主張しています。
身体の健康が肉体的快楽であり、魂の平静さが精神的快楽だとするならば、エピクロスは両方を同様に大事なものとしているのです。
だから、ソクラテスがもし「肉体的快楽を精神的快楽より勝ると考えるのは無知のなせる業である」と言ったら、「そうだね。両方大切だね」などと言いかねない。そうすると、ソクラテスは精神的快楽の方を上に見なしたい論客ですから、これはちょっと困ると思うのです。

ソクラテス「でも、肉体的快楽は苦ではないかね」
エピクロス「苦のこともあるが、苦でないこともあるよ」
ソクラテス「少しでも苦があればそれは苦ということにならないかね」
エピクロス「どうして苦痛にばかりこだわるかね。快楽は確かに第一の善であると私も考えている。しかし、快楽であればなんでも貪るようなことはしないよ。快楽のために多くの不愉快なことが結果として起こるようであれば、あえて快楽を得ようとしない。それに、苦痛だって悪いときまったものでもないんだ。苦痛を長時間耐え忍ぶことが大きな快楽を我々にもたらすなら、多くの苦痛の方が快楽よりすぐれていると私は思うよ」

そうなんです。
エピクロスは欲望の塊の人じゃないんです。
快楽についてつきつめて考えればこそ、むしろ質素な精神で生きた人です。
「快楽とは、一部の人たちが(われわれの説に)無知であったり、またこれに同意しなかったり、あるいは誤解して考えているように、放蕩者たちの快楽や、(性的な)享楽のなかにある快楽のことではなくて、身体に苦痛のないことと、魂に動揺がないことに他ならないのである。というのも、快適な生活をもたらすのは、酒宴やどんちゃん騒ぎをひっきりなしに催すことでもなければ、少年や女たちとの(性的な)交わりをたのしむことでもなく、また魚その他の贅沢な食事が差し出すかぎりのものを味わうことでもなくて、むしろ、すべての選択と忌避の原因を探し出したり、また、極度の動揺が魂を把えることになる所以のさまざまな思惑を追い払ったりするところの、醒めた分別こそが、快適な生活をもたらすのである。」(ディオゲネス・ラエルティオス「ギリシア哲学者列伝」第10巻)
わずかなパンと水で充足する人になれと言ってたようですよ。

ソクラテス「しかし、そのことに気づくためには<無知の知>が必要なのではなかったかね」
エピクロス「<無知の知>というより、私の場合は思慮が必要だと説いて回っているんだよ」
ソクラテス「思慮」
エピクロス「そう。思慮だ。知識を愛する哲学よりも、思慮だ。ここから総ての徳が生まれる」
ソクラテス「なるほど。あなたの中では快楽と知はリンクするものなのだね」
エピクロス「疑うまでもなくだよ」

無理に会話に織り込むとこんな感じになるわけですが、ソクラテスはデマに惑わされる人ではないですから、エピクロスの主張を聞いた上で、ご質問のようなことはあえて言わないのではないでしょうかね。
ソクラテスの考えと(世間に誤解されている姿でなく真の)エピクロスの考えはかなり近いように、(エピクロスを奉じる)私には思われるんですが。
(もし私が強引にソクラテスとエピクロスを意図的に近づけようとしているという批判があるならば、それは甘んじて受けますが)
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[肉体的快楽を精神的快楽より勝ると考えるのは無知のなせる業である。

その点で、肉体的快楽を寧ろ「苦」と考えるようになるためには「無知の知」が必要である。「快楽」と「知」はリンクするものなのだ。]
こんなことをソクラテスはエピクロスに言ったりするでしょうか?
・・ソクラテスならエピクロスに言ったでしょうね。
ソクラテスの世界観に基づく価値観はエピクロスの世界観に基づく価値観を凌駕してましたから当然でしょうね。
またこのソクラテスの問いかけも立派にソクラテスらしいですね。肉体的快楽は老いれば得られなくなるものであるし、肉体の死によって消え去るものであるからですね。精神の不死性を知っていたソクラテスから見れば肉体的快楽など無知の知でしかないですからね。でもソクラテスも結婚していますから肉体的快楽なども否定してたわけではないんですね。エピクロスのように物質世界、それがすべてだという考え方をだめだといってるんですね。
ということで「ありうる問いかけだと思いますよ。」
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