江戸時代の侍は刀を二本差していたようですが、
どうしてでしょうか?
武家諸法度などで決められていたのでしょうか?
平和なので、一本で十分と思うのですが。
また二本は重過ぎると思います。
(骨盤や背骨がゆがんでしまったそうです)

よろしくお願いします。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (4件)

下のWIKIPEDIAに、次のように出ていました。



「江戸時代武家諸法度の第一次改正により、武士の正式な差料が大小二つの刀を差すようきめられ、大刀(だいとう)を本差、小刀(しょうとう)を脇差として装備することになった。」

これによれば、武家諸法度に定められていたということになります。

>一本で十分

おっしゃるとおりですが、武士以外の人間でも短い刀を持つことが許されていましたので、大小二本差しは武士の特権、象徴として必要だったかと思います。

>二本は重過ぎる

そういうことで、江戸も時代が下るにつれて、細くて軽い刀を持つ武士が増えたそうです。
それから、二本ざしはチャンとした身なりのときで、ちょっとした外出(散歩や川での釣りなど)では脇差だけだったようです(ここは時代小説の受け売り)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%87%E5%B7%AE
    • good
    • 1

No.3です。


大刀一本でも、武士の象徴性は保たれるのではないか、という疑問が出てきます。

脇差はもともと主武器(大刀)が破損したときや、組み討ちになったときなどに使う、補助的な役割りがありました。
平和な時代になると、儀礼的な必要性が出てきたと思います。
城内では脇差だけを着け、二本差しは許されなかったようです。
また、他家へ訪問したときも、大刀は玄関口へ置いて、脇差だけで座敷へ入ったということを聞いています(時代小説ヨリ)。
武家の女子も懐剣を忍ばせていたと聞いていますし、攻撃的性格のある大刀がムリな場合でも、武士が腰に何にもナシでは恰好がつかないので、最低脇差だけは着ける必要性があったのではないかと思います。
    • good
    • 0

同じような質問に以下の回答がありました。



侍が腰につけているのは打刀(うちがたな)と呼ばれる長い刀の他に、少し短い脇差(わきざし)と呼ばれる刀を差していますが、実はもう一本、脇差の下に小柄(こがら)という首切り専用の短刀も差していたそうです。戦国時代、脇差は一本が使用不能になった時のスペア的意味合いもありました。鎧を着けた相手を倒すには、刀で切ろうとしても無理だから、叩いて相手を倒す事を考えて、分厚い刃を持つ刀を使用したのです。厚いだけ合って、”蛤刃”(はまぐりば)と呼ばれ、また短刀も使い勝手がよく、接近戦になった時、すかさず相手と組んで刺す事が出来るように、戦国武将は必ず左腰に短刀を差していたそうです。
 刀剣鑑定士によれば、室町時代以前の作刀を「太刀(たち)」と呼んでいます。これは刀を下にして紐で吊り下げて腰に佩(は)いたものですが、室町以後は「刀」と呼び、武士は刃の方を上にして大小二本の刀を差すようになりました。このため50cm前後の本造り脇差が初めて製作され、後世の脇差の濫觴(らんしょう)となったのです。刀剣鑑定上は寸法だけで時代がわかるそうです。なお、この時代は馬上戦より集団的な徒歩戦が有利となった関係で個人対個人の組み打ちも盛んに行われ、敵の首を突き刺すのに便利な20cm以下の小振りな反りの無い重ねの厚い鎧通し、諸刃造の短刀が数多く造られたそうです。当時の作品は時代の要求に合致した実用刀で名刀と称すべき作品はなく、戦国時代の作品の価値が伺われます。この時代は農民階層も帯刀していたようです。
 戦国時代は別として、江戸も中期を過ぎると侍の世界はサラリーマン化し、官僚化して行ったような気配があります。お家大事に忠義を尽す見返りとして禄を食み、大小2本の刀を腰に差し、失敗すれば腹を切らされました。徳川幕府の元で、平和がよみがえってからは、武士たちは自分の主人である藩主に忠義を尽くし、領民に対しては藩の決まりに背いたり悪事をする者のないよう目を光らせ、たくさん年貢を取り立てる事に精を出す事が主な役目となり、腰に差している二本の刀は武士の威厳を示す飾り物に過ぎなかったようです。
 さて、こんにちにおいて現存する刀は多いのですが、それだけ大量の刀が作られたということであり、つまりそれだけの需要もあったということです。しかし、必ずしも実践に用いられたわけではありませんでした。なぜなら建長2年(1250)4月20日鎌倉幕府は「庶人の帯刀を禁ずると」いうお触れを出しています。つまりそれほど刀を差して歩く者が多かったということです。戦国の戦いを描いた合戦図屏風を見ると、刀を差していない者は見あたりません。ルイス・フロイスは1565年京都から出した書簡の中で「日本人は年少の時から剣を帯びることを始め、眠る時だけ外して枕元におく」と説明しています。教科書的な解釈では、秀吉の刀狩り以降、武士階級以外の者はすべて武器を取り上げられてしまったことになっていますが、その後も民間には膨大な数の鉄砲や刀が保有されていたし、武士以外の人たちが完全に帯刀を禁止されていたという事実もないようです。大小二本差せるのが武士だけの特権であったというだけのことだったのです。さらに実質的に武士身分のシンボルとして慣習化してくるのは江戸時代も半ばの17世紀後半以降といいます。
 それからテレビでよく聞く「刀は武士の魂」というのは、幕末の動乱に至って刀の実践的意味が再び脚光を浴び、武器の中心は刀という思い込みが強くなり、また明治政府による軍、官、警による『帯刀権』の独占を目的とした明治9年の『廃刀令』、さらに戦前の軍人の帯刀によって日本人の間にいつしか「刀は武士の魂」というような気合が生まれたようです。
 また、武士は子供のうちから小さな刀を腰に差していましたが、刀は大変重く腰骨にとても負担がかかります。それを2本も差して歩くので腰骨の上にタコができ、刀の重量のため左肩が上がった姿勢になるので、遠くから見てもその姿で武士だとわかったそうです。・・・ということは、桃さんのカッコいい立ち姿は真実の武士の姿ではない・・・?
ところで私の先輩で、苗字が「刀(かたな)さん」という人がいますが、ご先祖が刀職人だったそうです。珍しいお名前です。
そういえば、私の実家にかみしもと古い刀が3本ありますが、いつの時代のものなんでしょう・・・。
    • good
    • 0

武家諸法度などで決められていたのかはわかりませんが、小さい方の刀「脇差し」は切腹用だと聞いたことがあります。

    • good
    • 0

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q御成敗式目・建武式目・武家諸法度 どうちがうの?

はじめまして。

日本史を本格的に勉強し始めたのですが、
御成敗式目・建武式目・武家諸法度と、時代は異なりますが色々な法令(?)が出てきました。
これらはそれぞれ、
(1)どのような目的で
(2)どういう内容のもので
(3)結果どうなった
のでしょうか?

それぞれ端的に、簡単にでいいのでご説明いただけると助かります。

Aベストアンサー

続きで~す!

最後は武家諸法度を見ていきましょう。

<武家諸法度>
これは「江戸幕府」の基本法典と考えていいでしょう。まず、時代背景はどうだったか?
1605年に、家康はこう思っていました。

「う~ん・・・わしが引退したら、もしかしたら次に将軍になるのは・・・秀吉の子の豊臣秀頼になってしまかもしれんの~・・・」

というのは、当時まだ「世襲」という感覚がなかったのです。政治のトップに立つのはもっとも有力な人物であるべき!そこに血縁など関係ない!まだ江戸幕府の出来立てだった時代は、まだ少しだけ「下克上」の風潮がかすかに残っていたんですね。
そのため、家康はみんなを驚かすようなことをします。それは・・・まだ生きている間に子供である「徳川秀忠」に将軍職を譲ること。こうすることで、「将軍を代々受け継ぐのは、徳川家なんだぞ!」というのを世に知らしめて、「世襲」を印象付けたのです。
当然、これに猛反発したのは「豊臣家」です。特に、秀吉の妻である「淀殿」が猛反発しました。

「次の将軍になるのは、かの有名な秀吉様の息子の秀頼でありざます!あんな血を受け継いだだけの役立たずじゃないでざます!」

みたいな感じですかね?そこで家康は当然「うぜ~・・・」って思ったはずです。でも、同時に「チャンス」とも思ったのです。というのは、前々から家康は「豊臣家」を滅ぼそうとたくらんでいたのです。そこで、その口実にしたのが・・・「方広寺鐘名問題」。これは何なのかというと、まぁぶっちゃけ言えば家康のあてつけみたいなもの。「方広寺」の鐘に「国家安康」「君臣豊楽」という文字が彫られていて、これを家康が「家“康”が安らかに死ねば、“国”も“安”らかになり、“豊”“臣”家が“君”臨すれば家“臣”も“楽”しく過ごせるよ?」みたいに解釈したのです。とんでもない難癖ですよね?
そして家康は難癖をつけて、豊臣家を挑発します。怒った豊臣家は挑発にのり、家康と対立します。これが、「大阪の陣」とよばれるやつです。

さて、結果は知っているとおり、家康の勝利となりました。ここからがポイントです。家康はもう豊臣家を滅ぼしたんだから、これ以上「豊臣家」のようにいちいちたてついてくる家臣を作りたくないと考えたのです。そこで、あの1615年に「武家諸法度」を定め、家康の配下にいる大名たちを厳しく統制しようと考えたわけです。そのため、「一つの藩は一つに城!」といった内容の「一国一条令」を発布したり、徳川秀忠の時代には「福島正則」という人物を武家諸法度違反で大名をクビにします。この「福島正則」はあの「関が原の戦い」のときにとても活躍してくれた、徳川家にとっての重臣だったのにもかかわらず、秀忠は処罰をした。つまり「武家諸法度に例外はないぞ!」という風に世に知らしめて、より統制を強くしました。この結果、三代将軍「徳川家光」の時代には「江戸幕府」というのは250年以上も続く政治機関へと上り詰めたのです。

武家諸法度においては将軍によって、内容が少しずつ修正されるのですが・・・特に五代将軍「徳川綱吉」の時代になるとその厳しさが一気にガクンと下がります。これにはいろいろと時代背景があるのですが・・・それは勉強していけば分かると思いますよ。

ってな感じです。長くなりましたが、以上で解説を終わります。

続きで~す!

最後は武家諸法度を見ていきましょう。

<武家諸法度>
これは「江戸幕府」の基本法典と考えていいでしょう。まず、時代背景はどうだったか?
1605年に、家康はこう思っていました。

「う~ん・・・わしが引退したら、もしかしたら次に将軍になるのは・・・秀吉の子の豊臣秀頼になってしまかもしれんの~・・・」

というのは、当時まだ「世襲」という感覚がなかったのです。政治のトップに立つのはもっとも有力な人物であるべき!そこに血縁など関係ない!まだ江戸幕府の出来立てだった時代...続きを読む

Q寛永12年、家光が発令した武家諸法度。

一、大名・小名在江戸交替相定ムル所ナリ。毎歳夏四月中、参勤致スベシ。従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国郡ノ費、且ハ人民ノ労ナリ。向後ソノ相応ヲ以テコレヲ減少スベシ。但シ上洛ノ節ハ、教令ニ任セ、公役ハ分限ニ随フベキ事。 (wikiからコピー )

この中の「但シ上洛ノ節ハ、教令ニ任セ、公役ハ分限ニ随フベキ事。」とは、上洛の際に何をどうせよと命じているのですか、教えて下さい。
参勤交代とは、どんなつながりがあるのですか。
また、ここで言う上洛とは、二条城へ入ることですか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

kouki-koureisyaさん、こんばんわ。

おそらく参勤交代のときの供揃えの人数のことを言っているのだと思います。家光の頃は将軍宣下などは都で行っていたので、将軍は大行列を引き連れて都に上っていました。だから、大名も将軍に従い、行列を引き連れて都へ上ったのでしょう。
その時は軍役規定に従い正規の人数を出しなさいということでしょう。
京都に将軍上洛した時の供揃えは定めてある通り、 治めている領地の石高の大きさに相応しくすることという意味でしょうね。

詳細は下記のURLを参照ください。

武家諸法度
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E8%AB%B8%E6%B3%95%E5%BA%A6

Q幕末の武家諸法度の影響力

学校で幕末の事について調べています。
幕末は若い武士が倒幕運動を起こしましたよね。
その時って武家諸法度の影響力は低かったんですか?
学校で発表するので、出来れば資料等もあるとうれしいです。

Aベストアンサー

専門家ではないので参考意見です。

武家諸法度が作られたのは3代家光の時代ですよね。
徳川の初代3代は大変権力も権威もありました。
しかし、戦乱のない世の中で武家の威光は変化していきました。
それから400年近く経った幕末、
15代慶喜の頃まで影響力が持続したとは思えません。

それと、ひとつ付け加えるなら
幕末に倒幕運動を起こした主な人々は
浪人と呼ばれる、非武士階級が多く含まれています。
彼らにとっては、(勿論武士になりたいという憧れがあったので
法度を順守した人もいると思いますが)
武家諸法度も何もないのではないでしょうか?
そういう意味では、影響力が薄いと言えるはずです。

倒幕派の中にも、
幕府に対立したい人、天皇を擁立したい人、
開国に反対の人、開国に賛成の人と、様々な人がおり
思想が微妙に違います。

そのあたりを斟酌しないと
武家諸法度の影響力も一概に言えないと思いますよ。

Q武士はなんで二本刀を持つ?

武士はなんで二本刀を持つのでしょうか?

Aベストアンサー

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10117282920
の解説がよろしいかと...

Q映画「七人の侍」で菊千代が使っていた日本刀は何ですか?

菊千代が使っていた刀ですが、かなりごつくて長い刀でしたが、重量もありそうで、実戦には不向きと思っています。

実際にそういう刀はあったのでしょうか?

Aベストアンサー

「野太刀」という種類ですね。 (七人の侍 野太刀 で検索すると出てきます)

戦場では豪腕・剛勇さの象徴だったようです

参考URL:http://member.nifty.ne.jp/bintaro/touken/nodati.htm


人気Q&Aランキング

おすすめ情報