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題のとおりですが。
心はどちらにあると感じられるでしょうか?
ユーミンの歌にもありますよねー「やさしさに~包まれたなら~」って歌です。
このとき彼女は心を自分の外側に感じてるのですが。
他の方はどうでしょうか?

A 回答 (23件中11~20件)

 実は、心こそが本当の自分自身であり、本質であり、いわゆる自我なのです。

どうしても人は、鏡に映る肉体を自分自身と思いがちですが、それは、さにあらずで、たとえば極端な話、自分の肉体を真ん中から半分に切った場合、痛がる自分はどちらにいるでしょうか。おそらく上半分にいるかと思われます。そして更にそれを半分にしたら、自分は一体どちらにいるでしょうか。また上の方かと思われます。これを繰返して行くと、最終的には頭脳にたどり着くかと思われます。つまり、痛がる自分というものは頭脳にあって、どんどん切り離していった肉体には存在しないことが、容易に推察できるはずです。
 結局、肉体というものは、自分の所有物ではあっても、決して自分自身ではないということです。では、頭脳こそが自分自身なのでしょうか。脳を構成する神経細胞をバラバラにした時、一体、自分はどこにいるのでしょうか。神経細胞を造り上げている物質は、誰でも同じなのに千差万別の個性があるのは、なぜでしょうか。
 たとえば、まったく同じパソコンがあったとして、その構成している電子部品はまったく同じにもかかわらず、それにプログラミングするオペレーター次第で、まったく別物の働きをするようになることは、今では誰にでも分かるはずです。つまり、頭脳はパソコンのようなもので、肉体はパソコンにつながっている周辺機器みたいなものなのです。そして、頭脳をプログラムするオペレーターこそが、心なのです。
 昔の人は、頭のことを『心の座』とか『精神の座』とか、呼んでいたのですが、その意味するところは、頭というものは、心が座する、つまり、心というものが鎮座、しっかりと留まる部位であると見ていたのです。これを今風に言えば、ガンダムのモビルスーツとそのパイロットみたいな関係といったら、分かり易いでしょうか。
 いずれにしましても、心には色も形も無く見えませんが、思うという形で厳然と存在していて、誰も否定できないはずです。この点に気づいたのが、かのデカルトであり「我、思うゆえに我あり」という言葉を残すことになったのです。デカルトは、ある時、この世の中のあらゆるものの存在を「本当はこれもまぼろし、あれもまぼろし、何もかも本当は存在しない」と、どんどん否定してみたのですが、そして最後に自分の思いというものも否定しようすると、そうすればするほど、その存在が際立つというジレンマに陥り、それでハタと気づき、思うという存在(心)は決して何人にも否定できないもの、これこそ本質、これこそ真の自分という結論に達して、かの言葉を残したのです。
 ですから、肉体があるからこそ自分があると思うのは、まさに本末の転倒であり、思いがあるからこそ自分があるとみるのが正当かと思われます。それで、真の自分=心となり、内も外もないかと思われます。もし、肉体の中か外かと聞かれているのなら、頭の部分でしょうね。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
全体を読んでーーまだ僕も考え中の問題が入っています。3つのリアルー1ー感情と直観を体感するリアル 2ーそういう感情と精神的自己が存在するというリアル3ー物質のリアル。この3つの統合は今考え中です。
パソコンの話ーみんな人は同じようなことを考えるんですねー。僕もかなり考えました。人は単に皆同じOSを積んでるに過ぎないのか、あるいはユングの言うように普遍的無意識でつながっているのか、という問題です。
このことは、とりあえず暫定的には解決しています。上で言った、捉える心と、体感する心は、間違いなく別世界で、どちらが優先、という問題ではない、ということです。
体感と把握ー体感は生き物は皆持っていますが、把握はある程度知性が発達しないともてないなーとは思います。あまり言ってもぼろが出ますが。
肉体があるから自分がある、思いがあるから自分がある、どちらもそうだと思います。自分がどちらの視点に肩入れするかーポイントの問題と感じます。これらをポイントの問題と暫定的に決めたときに、複数ある現実をいかにまとめるか、が問題だなーと思っています。

補足日時:2008/03/14 15:24
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心は、自分の内側にも外側にもあるものだと考えています。



『<心>はからだの外にある』(河野哲也、日本放送出版協会)では、心をじぶんの内側にだけ求めることを批判しています。哲学では心理主義といわれているようです。本書は、「心は環境とともにある、関係性の中に存在する」と主張しています。例えば、性格の問題は個人の問題ではなく、関係性の問題なのではないかと主張しています。

一方、魂(ソウル)に注目している論も存在します。魂の性質は次のように整理されるらしいです。
(1)魂は、モノや実体ではなく、生き生きとした力を生み出す源であり、プロセスである。(2)心の深いところから何かをしたいという感情が湧くのは、魂においてである。(3)魂は、他の魂と結びついていくこと、つまり愛を追い求める。(4)魂は、愛の光や喜びだけではなく、影や闇や痛みも併せたパラドキシカルな両面を持つ。(Byミラー)と。
魂は、確かに自分の心の深いところに存在しているようです。

だから、私は、心は、自分の内側にも外側にもあるものだと考えています。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
回答を読ませていただくと、回答者様は、心を、外部ないしは内部に感じられる、ということですね。

関係=存在については、
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3690161.html
こちらで以前質問させていただいてます。人間関係と人間存在は、全く等価だ、という話です。

心そのものに実在を感じる人は、それが=心の実在としての自分が、認識する自分の外か内かどちらかにあると感じます。自分がいる、という感覚が実在だと感じる人は、感情は所有物だと感じるのではと想像します。
心の位置の表現ー(心の)中心、(心の)奥底、はるか上、地の底、胸に抱きしめる、包まれる、空気を読む、明るい、暗い、時間が早く過ぎる、ゆっくり過ぎる こういう言葉は普段使います。
位置と主観的時間ーつまり幾何学的表現という視点で見ています。どうして心が立体的な表現がされるのか、ということです。ちなみにこういう心の表現は、実感してこそ分析ですが。
観測も目にも見えない心の性質を論理的に解明したいと強く思ってた当初、この点に注意しました。えらそうですみません。
ソウルー4つの話はとても良く分かるのですが、何か欠けてるーと思う点は、自分がソウルそのものになって体感するときと、ソウルがある、と把握して認識分析するときの2つを統合的に見る視点ー哲学でいう止揚、を行っていないーと、この例だけでなく、どれを見ても感じます。つまり、めくるめくソウルと一体になったときの感覚を把握し、論理的に表現する、という方法ですーまたえらそうです、ごめんなさい。ようするに僕も完全に分かってないんです。
ミラーさんと、NHKから出ている本ですね。おもしろそうなので、今度図書館にあれば借りたいなーと思います。有名な本なんでしょうか?

補足日時:2008/03/14 14:57
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No10 様のご回答くらい、私に回天の気力を湧出させるものは在りませんでした。


 本人としても迫力があります。
 類似のというか、私の書き込みをここで繰り返すのはあまりいいことではないので、もう一つのURLをご紹介させてください。ききたいでのご質問への書き込みです。
http://kikitai.teacup.com/qa3835796.html

参考URL:http://kikitai.teacup.com/qa3835796.html

この回答への補足

回答ありがとうございます。
リンク読まさせていただきました。
ブラフマとブラフマンですか。この辺りの根源的なものは、各宗教で共通ですね。
ヒンズー教に限らないのですが、一部が全部、全部が一部、一部と全部は同じで、一部があれば全部があり、全部があれば一部がある、という気持ち 真の実在と、それを直観が捉えるときのパターン、のメカニズムにはここずっと追求していました。相当悩んだです。
僕はいつも思うんですが、個別は実は同じだ、という言い方は間違いだと思うんですがいかがでしょうか?
それは単に視点の置き方の違い、そのものであるという風に解釈しています。つまり、違うことと、同じことは等価である、という結論を出していますが、いかが思われますか?
ちなみに、ちょっと前は、違うことと同じことは同じだ、という、文に書いても奇妙な、訳の分からない感覚に悩まされてました。

また良ければご意見お聞かせください。
ありがとうございました。

補足日時:2008/03/14 00:31
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自分のうちで大切に育て、可愛がり、慰め、励まし、


ところがそれでも傷が深くついてしまうことがあり、
そういうときに、
じつに遠い彼方で調和しているものがある、と気づくと、
その星のような遠いところにある 心が
自分のものになる。

この回答への補足

せっかくの美しい詩の、深い部分を見ずに過ぎるのは嫌なのですが、
遠い彼方で調和している、という、空間的表現をされてるのを見ると、ユーミンと似てるなーと思います。
そんなことはともかく、
素敵ですねー詩人ですねー。こういう文は僕は逆立ちしても書けないなー。ただ読ませてもらって味わう人ですねー僕は。
まだ何か僕はうわずっていますね。そうじゃないです。
心の中心を描くこういう文章に対しては、ただ感じ入るだけで、言葉なんて全然無いのですが、何か書かないとと思って。
取り急ぎお返事だけですが、あとでゆっくり味あわせていただきます。
回答ありがとうございました。

補足日時:2008/03/14 00:12
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「心は自分の中にありますか外にありますか?」


心の中枢部分は自分という意識の中、中央にあります。
心(自分自身)というのはたまねぎの様に多層構造でできているのですね。一番外側が表面意識で内側に向かって、潜在意識、記録意識、心の中枢意識のようにですね。表面意識というのは肉体の五感で感じる自分自身ですね。これも自分の意識ですから表面意識や潜在意識で自分の心を表現していれば心は内にあるわけです。逆に記録意識、心の中枢意識から表面意識を見ると心は外にも存在するわけです。感情という意識は表面意識や潜在意識から強く出るものですから心が内になることが多いのでしょうね。心というのは複雑で、いつも気にして管理していないとどの部分が主体として自身を表現しているのかがわからない状態になりますね。特に表面意識は船の自動操縦のようもので、船長たる心が寝ていても勝手に進んでしまうのですね。何かの時には心の中枢部が手動で舵を取らないと衝突してしまうということでしょう。それから心の中枢部の更に中央は網の節の一つ一つのようにすべての人々や生き物につながってるんですね。まことに不思議ですけどね。
ということで、参考までに

この回答への補足

回答ありがとうございます。

すごいですね、よくおわかりですね。瞑想などされるのでしょうか?

意識の4つの分類ーとそれにあてはめている言葉については、僕は回答の文だけではよく分からないです。表面と潜在は分かりますが、その下に記録と中枢ですか・・考えてみます。参考文献があるといいんですが。オリジナルですか?
主体としての自己が、心の階層のどこにあるか、というとらえ方は、僕と全く同じです。
質問です。この見方の時、例えば心がビルのようにできているのに、1階にいるときも3階にいるときも、自分の認識する4次元の時空間(世界)があるのは変に思ったのですが、そう感じられますでしょうか?

補足日時:2008/03/14 15:00
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#5です。


感情がどこから来るのかはほんとに分からないですね。
子供のころ、体を切り刻んでいってどこまでが自分なんだろうと想像したことはないですか。
頭に自分があると感じるのは恐らく目が頭についてる影響が強いと思います。夜中に目を閉じて自分を感じようとすると自分自身がどこに居るのか分からなくなりますよ。
感情の不思議さは自分の不思議さと同じなんですよね。
というわけでご質問には回答できませんでした。
めんぼくない。

この回答への補足

わーすみません、お返事遅くなり申し訳ないです。

本当に不思議ですねー。僕も不思議なのは大好きなんですが。
>子供のころ、体を切り刻んでいってどこまでが自分なんだろうと想像したことはないですか
そ、それは、怖いかも。想像ですよね、想像・・・やったことはないですが、今やってみました。??? これは、心というより、精神的な、自分、という存在がどこにあるか、と探すような気がします。
頭で思うと、本当に、心と脳は同じだという考えに引っ張られるんですが、
>夜中に目を閉じて自分を感じようとすると
こちらはよく分かりますー小さいころは、夜中にふと目が覚めてそんなことよくありました。虚空に浮かぶ自分、みたいな感じだったです。
>めんぼくない
いえいえ、意見を交わすのが楽しいんですよね。他人の視点を聞くのはおもしろいです。
一番強く思ったのは、「自分の不思議さ」って言葉でした。そんな感じ方があるんだーと思って「ほほー」って感じです。一度やってみようかな。
ご意見ありがとうございました。

補足日時:2008/03/14 00:06
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是々非々は非なり。

この回答への補足

回答ありがとうございます。

なんの意味かさっぱりわからないので調べました。
あれこれ考えると迷うよ~、という意味ですね。
全くその通りだと思います。
質問の前提に触れる話ですが、
その~、この言葉で全員が納得し理解するなら問題ないです。
でもこの言葉は正しいですが、あらゆる状況において万能、とは現実いきません。
いらないことを悩むように人はできてるので、なぜ悩むのか追求するのも、方法としてありかと思うのですが?
本来じっとしていればよかったアダムとイブは、わざわざ知恵の実を食べて不幸になったのですから。

補足日時:2008/03/10 03:31
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この回答へのお礼

補足のあとしばらく考えました。
いわれるとおり考えに依存するのはナンセンスです。そういう意味ですね。
依存を生み出すメンタルの不安定感をなくそうというのは最優先です。
考えるのが楽しいのもありますが。
唐突でびっくりですが、確かに基本です。
依存心は、こういうところで話すことで人の理解を深めることでなくそうという方針です。質問の意図も、深くいうとそうなります。
思考と感情の関係はいつ見ても、感情の思うがままです。
頭で言ってるつもりなんですが。
考えたらえらい奥が深かったので・・なるほど、です。

お礼日時:2008/03/10 06:43

無限の広がりを共有する


一滴が海に溶け込む時
胸の中でうずくものは確かにある
全身の力みは揺らぎ熔ける
一生のうちで
それは誰もが経験するものなのだろう
すべては
そのために生まれてきたようなものなのだから
だから
心は無限に遍在し
個は解き放たれる時期はある

この回答への補足

回答ありがとうございます。
この文章は詩でしょうか?
詩人の人ってすごいですよね、心を紡ぐ言葉を意のままに扱いーほんと、尊敬します。作詞家もそうですが。

話変わりますが、深く感受性豊かな方は、その内側の感覚を、あまり表立って言いません。奇妙で、変ですから。なので、特に科学や、論理的なフィールででは表現されません。主に、文学的文章や、詩や、俳句や、そういうものですね。知り合いに文芸部の人がいていろいろ書くのですが、その人の文を見てもそう思います。
小さいときからいつも思っていたのは、深い文学的表現には、いつも感心させられるのですが、その感動の理由は、つまり腑に落ちる、筋が通っている、納得できる、小説を読んでてなるほどと思うのは、理にかなったことが書いてあるからです、深い感動の裏側には、筋の通ったことが書いてあったー現実から見れば奇妙だけどーという感じです。得心がいかないと、感動もしません。あるいは文章を読んで悩むのも、その通りだ、と思うから悩みます。その理、というか、筋というか、そういうものに、いつも強い論理性を感じています。ー現実を構成する論理性とは違うものがあり、人が感情で動くときは、いつもその論理性に従って動く、と思っています。
なので、内的実感がー普通に言うところのフィーリング、というやつですね、それが論理の俎上に永遠に載ることがない、というのは間違っているなーと思います。
文章を紡ぐ人は、そもそも自分が全力で書いた文に論理があるかなどと言うことには興味はありません。
僕は一読者なので、そういう点に惹かれています。
人が生きている実感を論理的に記述しようとしたら、この方法がいいのではないか、と不遜ですが、思います。
ユーミンの詩も、生きる実感そのもので大好きなんですが、他の人は、大好き、というところで、止まっちゃってるのですが、僕はそこから先にずっと前から興味があります。

補足日時:2008/03/10 03:18
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#1です。



なるほど、心を感情としているんですね。
心が外にあるとるすと、例えば質問者さんが悲しい気分のとき、ほかの人もその影響を受けて悲しい気分になると思うんですがどうですか。

この回答への補足

再度の回答ありがとうございます。

心が外にあると、ですか。
そうですね、心が外に実在していれば確かにそうなります。
ただ、ここでは、外にあると感じる、というだけの話ですので。
実際に外にあると認識していたら、なんというか、ちょっとそれはやばいのでは、と思います。幻覚?幻聴みたいな?
心がどこにあるか考えると、頭の中にあると思いますし
心がどこにあると感じるか、といわれると、胸の中か、外か、その辺りだなーと思うわけです。
つまり、実感と、判断を対等に扱おう、という姿勢でしょうか?
問題は、人は、理性にも従うと同時に、感情にも従います。なので、その感情はどうなってるのかな~? という出発点になります。

補足日時:2008/03/10 02:56
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 ご回答をご一緒に拝読したいので、ご挨拶として投稿いたします。


 ≪このとき彼女は心を自分の外側に感じてる≫のですか?
 ≪このとき彼女は心を自分の外側に感じてる≫自分の心になっているのではないでしょうか?何か夢のない、当たり前の叙述になってしまいますが。
 私も類似の経験がありますが、それは≪外側のことに感じている心でいる≫ということです。その心は自分の中にあり、外のことにそういう思いでいるということです。外部状況・条件、そしてそれを紡いでいる自分の心の働き。画き。
 映写結果の画像は外ですが。それを見ているのはこちら側。
 タイトルでのご質問に戻ります。
 仰せの心はどういう機能と立脚基盤をもち、どんな出自でありますか?
 何をするものですか?世界という現象たる紡ぎをして、現出してくれているものなら、こちら側で、画面の映像は外に紡がれていますが、その映像を映像として受け取り、見ているのはこちら側なのでしょうね。
 
 仰せの自分とは、世界の中では何なのでしょうか?
 正に紡むがれている、現象世界の中の一部なのでしょうね。
 誰が紡いでいるか。それは見ている自分でしょう。
 それは一緒になっているが、どうも区分されなければならないのではないかと、存じますが。このことはヒンドゥ哲学の分析に詳しく教えられていますが。
 はっと気がつくときの現象についてのご質問がありましたが、その気付く自分は、常に奥にいるのではないでしょうか?(http://kikitai.teacup.com/qa3840024.html
 


 

参考URL:http://www.yogananda-srf.org/

この回答への補足

ええ、こんなにどんぴしゃりの質問が心理学の方に来てるんですね!びっくりです。
一般的には、人の気持ちが分かる~感情移入ともいうのかなーと思うのですが。

散歩で、遠くの山が見えるのですが、そこの木の一本一本まで見ようと思うと、そこの木のところまで心が飛んでいくような気がして怖くて我に返ることが、ごくたまにあります。
自分の朝から夜までの起きてる時間を考えたとき、我を感じているか、周囲の世界に感情移入してるか、2つに一つしかありません。この文も集中して書いているときは、このあと何を書くかのイメージを紡ぐことに集中しており、客観視はありません。2つは両立しない、と感じます。
言い換えると、我を感じるときも、何かに感情移入しているときも,共にリアリティーである、ということです。
我を思う現実を現実1.感情移入の現実を現実2,とします。(仮の呼称)
ただ、この質問は、性格の傾向として、どちらのリアリティーにより強いリアリティーを感じるか、というようなことの質問になっています。

舞台で演技をするとき、次にこれやろうああ動こうと準備している自分がいますが、意識の頂点?では、つまり集中力の極みは、ただ一個の作業しかできません。現実1の場合も現実2の場合も、集中力は、心理学で言うところの意識と無意識の階段を、このとき、忙しく上下するのですが・・・
僕自身の性格としては、現実2に代表されるようなリアリティーを生きることが多く、現実1になることはほとんどありません。
現実1の時も、現実2の時も、集中力のかけ方によって、強く集中してるときと、ボーッとしてるときとがあります。
現実1と現実2の切り替えは、意識してもできますし、参考ページの方のような、映画館でのように、集中力の変化と共に、自然に起こることもあります。

・・・この辺りまではまーなんとか・・ここから先が、苦しんでいます。感覚的には捉えてるのですが、論理的表現は苦労しています。sigh です。
回答者様の文章を受けて上の文を書いたつもりなんですが、言ったことを理解しない、とお考えでしたら、またよろしくお願いいたします。ちょっと難しい文章だったので。
ヒンズー哲学のページは、ゆっくり読ませていただきます,といおうと思ったんですが、英語ですか・・。何か分かるページを探さないと・・
ちなみに、現実1,現実2,などというのは、ただの仮定であり、仮に本当でも全く証明できず、ただ、自分の実感がよく説明できるなーと思うので、仮にそういうだけです。心の話は皆仮説ですし、探偵が状況から、その状況をよりよく説明する仮説を作るように、同じことをしています。もっとよりよく内的感覚を説明する整合性の取れた話があればすぐにそちらに変わるつもりです。

回答がいただけ、とてもうれしいです。

補足日時:2008/03/10 02:43
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