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長野善光寺が、聖火リレー開催を一週間後に控えた今日、スタート地点を返上する事になりました。
善光寺も今初めてチベット問題を認識したわけではないと思いますが、又もや、[変心]があったようです。
返上の理由のひとつはネット右翼の抗議の電話という事ですが、

http://shadow-city.blogzine.jp/net/2008/04/post_ …

このような人たちがチベットの自治を本当に応援していると思いますか?
映画[靖国]の件と言い、暴力が諸々の自由を弾圧している日本をどのように思いますか?
最近の日本について何でも気の向くままご意見ください。

A 回答 (27件中1~10件)

ANo.8,24です


補足しますね。

>しかし、私とは[言論の自由]について、少し解釈が違うような気がします。
>公的機関であれ私的機関であれ、ある意図を持って抗議の電話をかける事は言論の自由を逸脱していると思います。
>言論の自由とは検閲を受ける事無く思想・良心を表明する自由であり、特定の個人に直接的に抗議したり指示をしたりするものではありません。


大分、論点が絞られてきた気がしますね。
個人的には、nekomacさんとそんなに「言論の自由」について認識はズレていない気がします。(気を悪くされたら、あやまります。)
私も、所謂「電凸」と言われる行為は「言論による暴力」であり「言論の自由」をはき違えた行動だと認識しております。
ただ、この問題が難しいのはこうした「苦情を行う」という「行為」を「法律」で縛ると、遠回しに「政府による言論の自由の剥奪」に繋がりかねないというところです。
少し、その辺りを整理して以下に回答してみようかと思います。


仰るように、「言論の自由」とは「検閲を受ける事無く思想・良心を表明する自由」です。
ココで言う「検閲」とは、公的機関(国)が事前に精査して公的機関の方針や思想にあわないモノは排除しようと言うことです。
それに加えて、「法律による縛り」もこれに加えて良いと想います。
その「法」は別に「明文化」されていなくても構いません。
「社会の雰囲気」と言い換えても良いかもしれません。
つまり、国であれ(個人の集団である)社会であれ、兎に角公的な力によって、他者の思想・意見を封殺された状態を「言論の自由が奪われた状態」と呼べると想います。

しかし、ココでいう「自由」とは「自由放任」の事ではありません。
J・S・ミルだったか、西洋近代の思想家の言葉に
「自由とは他者の自由とも衝突する。他者に危害を加えない限りにおいて自由は認められる」
というのがあったかと思います。(正確な文言は忘れましたが・汗)
つまり、「言論の自由」よりも「人権」が優先されると考えて良いかと思います。
つまり、他者の「人権(組織や法人も人とみなして)」を侵害しない限りにおいて、「言論の自由」はみとめられるのです。


上記はいわば原則論というか観念的で、現実問題に照らし合わせると難しい問題となります。(つまり、言うは易し行うは難し)

さて、件の善光寺や映画の問題ではすが、この場合はどうなのか。
マスコミ報道以上の情報を持ち合わせていないので、軽々に判断するのは難しいのですが。

●善光寺について(長くなるので映画については割愛します)

何故、返上したのかは分りませんが報道の情報からでは
・(チベット問題に関連して)100件以上の抗議の電話があった
・(チベット仏教は)同じ仏教の一派である
・世界の聖火リレーで混乱が生じている
・文化財を抱えている

と言うのが、主な理由かとおもいます。
さて、ここで「言論の自由」に関わるのは、「文化財~」以外だと思います。
中でも、一番の問題が「抗議の電話」であろうと思われます。
この問題は、ネットで話題の「電凸」なんかとリンクしますが、「電話する人」は個人でも、それが束になれば「数の力」として(例え相手が組織でも)「圧力」となり、相手の「人権」を犯す事になると言うことです。
かといって、「抗議・苦情・意見」等を「個人・組織」に行えないように(法などで)縛るとなると、それもやはり「言論の自由」に反すると言えます。
「良心の表明の自由」という事が挙げられますが、「チベット問題に抗議して反対意見を表明」する事も、「良心の表明」に当たると言えます。
しかし、それは「社会的ルール」に乗っ取り「義務」を果たした上で、相手を攻撃する意図ではない範囲で、認められるのであろうと思います。
この場合は、
・(電話であっても)氏名・住所を明かす
・攻撃的な言葉を使わない
・誹謗中傷しない
・他者を扇動しない
・相手がどんな選択をしても、批難しない(批判=精査ではありません)
    ・・・etc
などなどのが守られるべきであろうと思います。
つまり、「言論の自由」を行使して「意見・苦情」などの行動を取るときは、その「発言・行動」に責任を持たなければなりません。
それを逸脱した「電凸」が「言論の自由」を理由に横行している現状は、確かにおかしな状態だと言えます。

同じく、世界でおこってるリレー中のデモ行動ですが、これも非暴力であるなら行うことは「言論の自由」内であろうと思います。
しかし、リレーを妨害したりする事は「言論の自由」を逸脱していると考えます。
逆に、「オリンピックに政治問題・人権問題を持ち出すべきでない」というのも「言論の自由」として表明して良いと思います。

つまり、先の回答でも述べたとおり、「言論の自由」と「(言論の自由の仮面を被った)暴力」とは、スレスレであると言えます。(※また、一部では暴力に訴えざるを得ない場合もあります(≒テロ活動など)。だからといって、私は正当化も支持もしてませんが。)
よって、今回の事が「言論の自由の侵害」に当たるのか「当然の範囲内」であるのかは、個々の価値観に帰せられます。
しかし、それだけでは無意味ですので、「議論」されるべき事でしょう。(残念ながら、このサイトでは議論はタブーですが)
その上で、「歴史の評価」を待つしかないでしょう。

この回答への補足

こんばんは
お忙しいところ、ご回答くださりありがとうございます。
お礼は明日に書かせていただきます。

補足日時:2008/04/21 23:53
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この回答へのお礼

やはり少し解釈が違うようです。
>チベット問題に抗議して反対意見を表明することも
>「良心の表明の自由]にあたると言えます。
誰に対して表明するかによるのではないでしょうか。
街頭で意見を表明したり、ネット上での書き込みは大い結構ですし、権利の範疇だと思いますが、ターゲットが善光寺や他の中国人個人、他の団体への直接抗議になれば全く別の話です。
善光寺や、その他の個人はチベット問題に抗議されるいわれはないからです。たとえリレーのためにお寺の境内を提供したとしても、個人のイデオロギーを強要される謂れはありません。
>検閲を受ける事なく思想・良心を表明する権利
ここら辺に少し、解釈の相違があるのかもしれません。
検閲をするのは国家機関ですから、思想・良心を表明する対象は不特定多数又は公に向かって自己を表明するのであって、電凸などの行為は言論の自由からの逸脱というより犯罪に近いのではと私は思います。
何故なら、電凸という行為を行う事によって相手の感情、プライバシー、時間などに、一方的にさまざまな損害をあたえることになるからです。
しかし、言論の自由より人権が優先されるべきという考えには全く同意です。
いかなる権利も他を傷つけ、他の権利を奪う事によって得るべきではないと思います。
チベット問題に抗議してデモるのが言論の自由を行使しているのか、集会の自由を行使しているのか私は分かりませんが、各国がさまざまに苦慮し警備を増強しながらもデモ自体を禁止しないのは、今のところは合法の範囲と認めているのでしょう。
(少数の逮捕された過激な人間をのぞいて)
しかし、このように憲法の定義や解釈が多数あって異なるとか全く曲解している事自体がおかしな事で、やはりこれも教育の問題に行き着くのでしょうか?
結論として言論の自由についてご回答者は、
電凸や抗議電話について、社会ルールに則り、相手を攻撃する意図がなければ認められるということですね?
私は電凸や抗議電話のように個人に直接話しかける類いのことは言論の自由とは関係ないただの迷惑行為だと思います。

「変じゃないですか日本」には答えていただけませんでしたが、違う意味で有意義でした。
大変ありがとうございました。

お礼日時:2008/04/22 13:10

>>補足に貼りましたURLの中で、


(権力に対する言論の自由は権力を監視する意味合いがあり、もし制約があれば民主主義とは言えない。
しかし、個人に対する言論の自由は乱用すれば、名誉毀損罪、侮辱罪に抵触する恐れがある。)
というこの辺をよく理解する必要があると思います。


同じことを私の回答の中にも書いてありますよ。

>>しかし、賛成にしろ反対にしろ「○○しなければ放火するぞ」等といった脅しものは立派な犯罪ですので取り締まれば良いだけです。ことばの暴力も人権侵害になるので捕まるだけです。過去にも過激な行動・言動で逮捕者が出ていますので、法治国家だと思いますよ。
 

 補足すれば、ネット上に子供を誘拐するなどと書いた人が逮捕された事例もありますし、過剰の取立てで逮捕された人も居ます。逮捕者が出ていないと言うことは、法律の範囲内での抗議だったのではないかと個人的な推測です。

 ただ問題はどこで線引きするかです。国によってこの基準はバラバラです。デモをしても許される国があれば、徹底的に取り締まられる国も有ります。反対の意見を言わせない、独裁状態の国もあります。この点については法律でどう決めるか結論を出すには、まだまだ時間が要りそうです。

>>歴然とした抗議電話と言う事実があるにもかかわらず、何故自主的などというのでしょう?

 自主的でないとも言い切れません。
 善光寺では、同じ仏教徒であるチベット人の犠牲者の為にローソクの輪で177人の犠牲者悼む催し物が行われました。仏教の「調和」を示す円形になるように約60人の参加者が1本ずつ持ち、濡れる地面に静かに置いて手を合わせた。僧侶の代表(48)は「事件で犠牲になったすべての方の菩提(ぼだい)を弔い、平等で平和な世界の実現を願う」と述べた。とのことです。同じ仏教徒が悲惨な死を遂げていることについて、寺としても憤りを感じているのかもしれません。
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この回答へのお礼

まず、他の体制の違う国の事や放火や誘拐などの違う事件に言及するのは、話がややこしくなるので止めましょう。
問題は映画、靖国と善光寺発の聖火リレーです。
善光寺は現在、100件あまりあった電話の抗議が本当に犯罪性の無いものであったかどうか捜査が入ったとの事です。
で、靖国ですが当事者のアルゴピクチャーズの社長が国会議員の加藤紘一氏も同席のときにネット右翼からの凄まじい脅しがあったと証言しているのです。
それにも関わらず、映画館は上映中止にしなければならず、
憲法で保障された権利を放棄せざるを得なかったのです。
何故この事実には目を瞑るのでしょう?

また、憲法については、同じ事を書いていると言われますがどこに書いてあるのでしょう?
抜粋された>>しかし、賛成にしろ反対にしろ
で始まる放火や誘拐については、言論の自由とは全く異なるものです。
放火するとか誘拐するとか、上映を止めなければ映画館をどうこうするぞと電話するのは脅しとか脅迫とか言われる犯罪になります。
ご自分でもそのように書いていらっしゃいますね。
私の抜粋した、[原論の自由を乱用すれば抵触する、名誉毀損罪、侮辱罪]とは全く質の異なるものだと言う事をまずご理解ください。
もしどうしても理解出来なければ解説書を読むなり、どなたか先輩に教えを乞うなりして、勉強される事をお進めします。
これの違いを理解しなければ話は堂々巡りで、糸口は見えてきません。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/04/21 23:48

No.21,No.22です。



No.22の件は横道にそれましたので、それは置いておきますが、
私はNo.4の方の
 >10数年前の昔から、変だよ。
という言葉がすごく実感できます。

私の本職はIT屋なのですが、サポート業務もやっていたことがありまして、その中でクレーム処理も行ってました。
そこでの実感ですが、90年代前半までは丁寧な電話対応をしていれば、たいていは丸く収まったのですが、90年代後半くらいからは電話越し、あるいはネットやメールで感情剥き出しのクレームをつけてくる人が増えてきました。

2000年を過ぎるとサポセン業務の第一線からは離れたのですが、今度はインターネット全般で、いわゆる2ちゃんねる言葉遣いをする人が急増するのを実感しています。
私はインターネットが普及する前からNiftyでパソコン通信をしていましたので、当時の節度ある言葉のやり取りをしていた時代が、非常に貴重だったことを今さらながらに実感しています。

この流れは未だに止まらず、いわゆるブログの炎上事件などで、ときおりマスコミまで騒がせているのが実情です。


じゃあ、なんでこうなったかということについてですが、原因は以下の二点かと私は考えています。

一つはインターネットの普及ですね。
No.24の方が触れてますけど、昔から左翼や右翼団体は、公共機関や特定の民間組織に対して抗議活動、質問者の方の言うところの言葉の暴力を使っていました。
しかし、それらは団体活動なので、組織である程度統制が取れていたわけです。
被害にあった役所や企業の方は気の毒ですが(苦笑)、組織的な交渉をすることで、ある程度対応は可能だったわけです。

ところがインターネットの普及により、個人で情報発信が可能な時代となりました。
しかもインターネットの特性として、個人の顔が見えません。
このインターネットの特性の理解が進むにつれ、あるいは2ちゃんねるのような匿名掲示板の普及により、言論の自由を履き違える人が急増しました。

そして、ネットで鍛えられた一部の人が(苦笑)、電話での抗議活動(いわゆる伝凸)にまで突っ走っているのが、今の実情ではないかと思います。


もう一つは、いわゆる戦後教育の問題点が噴出したことでしょう。
質問者の方は認めないかもしれませんが(苦笑)、パソコン通信時代からマナーを守った節度あるネットでの発言を私は心がけています。
もちろん、実生活でも同じように、日頃から心がけています。

しかし、私のような人間は、ネットでも実社会でもおそらく少数派です。
特に現代は、学校教育でいわゆる徳育を放棄していますので、家庭教育でしっかりとした躾を両親からされていない限り、社会マナーを身につける機会が極端に減っています。

ネットユーザーは若年層が多いので、社会マナーを知らない人たちが割合として多くなる結果となっていると私は考えています。

結論としては、学校教育の見直しと、子供をきちんと躾られない親の教育をやり直せというのが、乱暴なようですが私の結論です。
ただ、教育は国家百年の計といわれるように、効果が出るまでに時間がかかります。
即効性がないのが、残念です。
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この回答へのお礼

>質問者の方は認めないかもしれませんが、
何を?何故?ですか?
私の何を知っていて言われるのか分かりませんが、私も今までいろいろの人の影響を受けて来たのは事実であり、自分一人で自分の考えを作り上げたわけではありません。
認める認めないはその人、その考えによります。
(認めないかもしれませんが、私、以外と影響されやすい人間です)

学校教育の見直しについては他の回答者から既にご意見をいただいており、
今回の質問の芯となった憲法の問題を考えるにつけ、非常に重要且つ急がれる問題ではないかとあらためて思いました。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/04/22 13:33

 ネット右翼の定義を言う必要なはないとのことですが、それでは、こちら側で定義しますよ。

そうしないと、質問側と解答側でズレがおきてしまいますから。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B3%E7%BF%BC
の日本の右翼の項に書かれている内容をインターネット上で書いたりやり取りする人々とします。「ネット○○」とありますから、現実世界で活動する人々は含めません。現実世界で動く人たちは正真正銘「右翼」でしょう。 抗議の電話を行う(単に反対するのでなく、リンクに書かれている内容を主張する)ものは、現実世界で、関係者と肉声でやり取りをしていますから、ネット右翼ではなく右翼でしょう。ネット右翼ならインターネット上でしか動きませんから。
*******************************
 
 右翼でも左翼でも何でも、自分の意思を表明する権利はあると思います(賛成の電話しか許さないというのは、言論の自由を制限することになります)。反対の電話をするのも賛成の電話をするのも自由だと思います。しかし、賛成にしろ反対にしろ「○○しなければ放火するぞ」等といった脅しものは立派な犯罪ですので取り締まれば良いだけです。ことばの暴力も人権侵害になるので捕まるだけです。過去にも過激な行動・言動で逮捕者が出ていますので、法治国家だと思いますよ。
 この件で、寺がスプレーで汚損されましたが、あのようなことをする人は早く捕まって欲しいです。

********************************
>>このような人たちがチベットの自治を本当に応援していると思いますか?

色々な人たちがいるのでわかりません。OKWAVEに居る人たちがチベットの自治を本当に応援していると思いますか?という質問と同じです。全員に尋ねてみないと調べようがありません。

********************************
>>映画[靖国]の件と言い、暴力が諸々の自由を弾圧している日本をどのように思いますか?

映画館に圧力をかけている団体のことでしょうか?上記の通り、脅せば恐喝などで捕まります。

********************************

>>日本は法治国家です。何故個人あるいは団体、企業が望む行為をねじ曲げられ圧力や100件を超す抗議に屈しなければならないのか、何故国家がそのような暴挙を赦しているのか、何故国家は国民が憲法で保障された権利を守ってやれないのかが問題だと言っているのです。

 善光寺が辞退するか否かは、善光寺が決めることです。抗議の電話が上記URLの人々によって行われたのかどうかは不明です。右翼なのかも不明です。抗議しているからといって、それが右翼だと決め付ける根拠はどこにあるのでしょうか?純粋に同じ仏教徒であるチベットのことを考えて抗議した人も居るのではないでしょうか?100件とのことですが、海外の様子を見ているとそれくらいの割合になっても仕方ないように感じます。逮捕者が出ていない辺り、普通の抗議電話でだったのでしょう。
 
 逆に辞退しなければ、反対側から、辞退しないように抗議した連中に屈しなければならないのかとなります。これは見方の問題であって、質問者様のように辞退に反対する人々からは、「(辞退賛成者の)抗議に屈しなければならないのか」という疑問が沸くでしょうし、辞退しなかったらしなかったで、辞退に賛成する人々からは、「(辞退反対者の)抗議に屈しなければならないのか」という疑問が沸くでしょう。いずれも相対的なものです。
 圧力については、情報がありませんので想像上の話になってしまいます。
 

この回答への補足

ご回答ありがとうございました、

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E8%AB%96% …

もしお時間がありましたら熟読してみてください。

補足日時:2008/04/21 10:21
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この回答へのお礼

同じ日本人同士、主義主張の違いでいがみ合う事はありません。
ディベートはディベートであり、けんかのようになる事を避けたいという私の思惑を分かって欲しかったのですが、、。
それはさておき、
もちろん、どんな思想を持つ人にも言論の自由はあります。
ただ、他の回答者にもコメントしましたが、日本には言論の自由をはき違えしている人がいます。
自由の権利を行使するには責任が伴います。これは民主主義の原則です。民主主義の国に於いて自分の都合の良いところだけを利用するわけにはいかないのです。
言論の自由とは権力の検閲を受ける事無く自身の思想・良心を表明する自由であり、決して一個人や団体などを攻撃したり、他を誹謗中傷したりすることではありません。
補足に貼りましたURLの中で、
(権力に対する言論の自由は権力を監視する意味合いがあり、もし制約があれば民主主義とは言えない。
しかし、個人に対する言論の自由は乱用すれば、名誉毀損罪、侮辱罪に抵触する恐れがある。)
というこの辺をよく理解する必要があると思います。
次からは概ね仰る通りだと理解しますが、最後の私の質問の本筋については事実をしっかりと見つめ、認める事が肝心ではないかと思います。
確かに靖国に関わる映画館も、聖火リレーの善光寺も「自主的に決めた]と言っております。
本当でしょうか?
歴然とした抗議電話と言う事実があるにもかかわらず、何故自主的などというのでしょう?
イジメにあった子供が、苛めっ子に「他の人に言うなよ!言うと酷い目に遭わせるぞ」と言われて親にも言えずにひた隠しにしている状態と同じに私には見えて仕方がありません。
いずれにしろ、どちらのケースも最初は実行するつもりでいた事を何かの力によって変更せざるを得なかったのは事実なのですから、その大元のところの何故したい事が出来ない世の中なのか?また、そのこと(憲法で保障されている自由)を断念しなければならない社会は健全なのかを、お聞きしたかったのです。
大変長くなってしまい、おまけに言葉足らずで理解しずらかったかもしれませんが、寛容の精神でお読みくださるようおねがいいたします。

お礼日時:2008/04/21 10:20

ANo.8です。


お礼ありがとうございます。
それに関して、すこし補足を。


>私も中国がこの世の楽園だとか、申し分の無い国だとかは毛頭思いません。
>しかし、一部の人たちが言うように、本当に何もかも閉ざされた国で人民を目隠しの状態においておき情報をシャットアウトしているならば、ネット上に氾濫している中国に対する批判は何を根拠にしているのかと思わざるを得ません。

確かにその通りです。
日本人は中国のことをとやかく言う割に、中国の事を知っている人は少ないと思います。
歴史家で東京外国語大学名誉教授の岡田英弘氏は、「日本人は、まず中国人を知ることから始めよ」と言っています。
彼は、モンゴル史から歴史研究に入り、その後中国史・日本史など幅広く研究されています。
また、その歴史観もダイナミズムに捉える視点の持ち主で、賛否両論ありますがその独特の歴史観は「岡田史観」と呼ばれています。
そして、政治的な発言も目立つ方で、少々保守的な所がありますが、中国史研究に携わってきた経験からくる彼の提言は一つの重みがあると個人的には感じています。(もちろん、全面的賛成は出来かねる所も多々ありますが)
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00241/ …
http://www.sankei.co.jp/seiron/etra/no08/ex08-th …
http://www10.ocn.ne.jp/~okamiya/

上記の、彼の提言の中で、「日本人は中国人を知らないし、中国人も日本人を知らない」は現実を写しているだろうと思います。
※他の部分では、少し賛同できかねるところも多々ありますが。

>貴方の言われるように本当に「圧力に屈したと取るか、事前に危険を回避したと取るかは、個々人の評価次第」でしょうか?
>確かに私たちはどう考えようと自由ですが、
>圧力に屈したのか、危険を回避した賢明な策であったのか事実はどちらか一つだと私は思っています。

これは非常に難しい問題だと言えます。
というのも、「講義の電話」や「街頭デモ・街宣講義」など、(物理的には)非暴力的な手段による講義というのは、非常に重要な行動だからです。
特に、政府や公的機関に向けた活動としては有効な手段でもあります。
民衆のデモや抗議活動が、政府を動かした例は多々あります。
これらを「暴力だ」として排除する動きが広がると、政府がデモなどを弾圧し言論の自由を奪う事になりかねません。

しかし、一方でこうした行為が個人に向けられたとき、重大な人権侵害や名誉毀損など人一人の人生を狂わせる事にもなります。(これはマスコミの報道にも言えることです)
例えば、ネットなどで問題となっている「伝凸」とか言われる行動ですが、あれとても「正義の名を借りた暴力行為」と言えなくもありません。(ネットという不特定多数の人間が、一人の人間に私的制裁を加える行為)
つまり、「言論の自由」と「人権・法」というのは微妙なバランスの上で成り立っているのです。

今回の件は、確かに映画館とお寺という、ある意味で公的機関ではありますが、民間であり私組織でもあります。
そこに抗議を行った事は、ある意味では「言論の自由」であり、ある意味では「言葉の暴力」と言えます。
この境界線は、本当にスレスレなのです。

もし、映画館があのまま上映して、結果本当の暴力(放火されたり)を受けて大火事になり、死傷者が出たら、果たしてその映画館の判断は正しかったと言えるのでしょうか?
映画館側がそれを恐れたとしても、仕方ないと言えます。
しかし、一方でそうした「恐怖」でもって圧力をかけるのは「言論の自由」を奪う行為だとして批難を受けるでしょう。
同様の理由で、もし聖火リレーを断行して、結果お寺が火事になって文化財が失われた場合はどうでしょうか?

結局、どちらが「正しい行為」なのかは個々人の価値観に帰せられるでしょう。
しかし、個々人の判断にばかり任せて入れない事も事実です。
なので、結局は結果論から精査して、過ちならば正し、正しければ続けるという行動が大切ではないでしょうか?
その為には、活発な議論を行い、個々人が思考停止に陥ることなく、正しい事は何かを見極めるように心がけるべきではないでしょうか?
また、自分の過ちを認め相手に寛容になることも重要な要素だと私は思っています。

すこし、最後は論点がずれましたが参考になれば幸いです。

この回答への補足

tyr134さん、補足の欄と間違えて書いてしまいました。
回答は急ぎませんのでもし、お気が向いたらご意見をください。
もう少し閉めずにおきますので。

補足日時:2008/04/20 23:53
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この回答へのお礼

仰る事は良くわかります
しかし、私とは[言論の自由]について、少し解釈が違うような気がします。
公的機関であれ私的機関であれ、ある意図を持って抗議の電話をかける事は言論の自由を逸脱していると思います。
言論の自由とは検閲を受ける事無く思想・良心を表明する自由であり、特定の個人に直接的に抗議したり指示をしたりするものではありません。

>もし、映画館があのまま上映して、結果本当の暴力を受けて
>大火事になり、死傷者が出たら果たしてその映画館の判断は
>正しかったと言えるのでしょうか?
>映画館がそれを恐れたとしても仕方がありません。
誤解されては困りますが私は映画館やお寺を責めているのではありません。
日本は法治国家です。何故個人あるいは団体、企業が望む行為をねじ曲げられ圧力や100件を超す抗議に屈しなければならないのか、何故国家がそのような暴挙を赦しているのか、何故国家は国民が憲法で保障された権利を守ってやれないのかが問題だと言っているのです。
やっと、核心の[何か変じゃないですか、日本]にたどり着きました。
このような日本を変だと思いませんか?

お礼日時:2008/04/20 23:41

今回の長野善光寺の返上はチベットの自治を本当に応援してる右翼の


する行動か?は同じ仏教国にしてチベットが酷いことをされている
と言われる国の祭りごとに参加していいのか?
と言う観念・その人達の思考が抗議電話に繋がったかな?
あくまで自分の見解です

靖国映画弾圧はすべてを否定そして弾圧する
ではなく、一部の不当性に疑問視してそれらの一部撤回の要求
まぁ中にはやり過ぎた少年もいましたが
見もしないで批判はやりすぎかもしれません
しかし見た人からの批判疑問が今回の騒動の引き金
になってるのも事実です、

しかし電話では本当に右翼かは判断出来ないですよね
実際に恐喝罪かなんかで捕まらない限り自称が多いですし

いい物ではないと思いますが、この暴力が諸々の自由を弾圧問題はない所はないですね、この国だけではない物
そういう生き物として考えてます

この回答への補足

こんばんは
お礼は明日改めて書かせていただきます。

補足日時:2008/04/21 23:57
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この回答へのお礼

お礼遅くなってすみません。
まあ仰りたい事は分かりますが、他の人がやっているから自分もやって良いという事にはならないかと思います。
まして先進国であり、経済大国と言われる日本ですから、誰もしない事をして模範を示す事がたまにあっても良いかと思います。
考え方はいろいろありますが、結論を言えば、オリンピックと政治を絡めるべきではないと私は思います。
それが理想論だという事はわかっていますが、それでもやはり理想は捨ててはいけないと思います。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/04/22 13:24

No.21です。



>何をもって極端な政治的意見とするかは不明ですが、憲法に定めら
>れた基本的人権が守られていないと主張する事を、極端な政治的意見
>と断じる社会は健全ではありません。

抽象的な物言いですが、この内容については異議はありません。

しかし、日本国憲法第12条にあるように、これを濫用してはならないとあるので、自分の人権ばかり主張し、他者の人権や公共の福祉を侵害するような発言や行動については、遠慮なく批判いたします。

<参考>
>第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の
>努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、
>これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のために
>これを利用する責任を負ふ。

それから、質問者の方の過去の回答をチェックすると、中国擁護の発言が多いようです。
日本での基本的人権について意識するのはけっこうですが、同じ程度に中国のチベット人民の人権問題についても意識するようになれば、人権問題にもっと詳しくなれるでしょう。
常に多方面からの視点がもてるようになれば、より偏りのない思考ができるようになります。
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この回答へのお礼

何か急に論調が乱れて来て当惑しておりますが、私の過去の回答とはどのような内容でしょうか。
私は主義として差別主義者は一番軽蔑しますし、その矢面に立たされている中国や韓国の方々に深い羞恥の念と申し訳ないという気持ちを感じております。
その結果、中国の擁護とも取れる発言があった事は認めますが、それが自国への愛国心や人権問題と矛盾するとは思っていません。
人権とはそのように狭い視野で考えるものではないと思いますよ。
また、たとえ私がもし過去にどんな発言をしたとしても、今の質問にそれを持ち出し、先入観念で固まって回答するのはフェアではないと思います。
私に対してそのような不快感を持ちながら回答されているとは知らず本当に驚くと共に他にも貴方のような方が居るかも知れないと思うと怖くなりました。
であれば、最初から攻撃的な回答の方が正々堂々としており、気持ちを固める事も出来ますが、、、大変失望しました。
しかし、これ以上のやり取りは削除の対象になりそうでもあり、それは良い回答をしてくださった方に気の毒なのでこれで失礼します。
さようなら

お礼日時:2008/04/20 14:40

質問者さんは自ら政治に詳しくないとコメントしているので、僭越ですが憲法とはなんぞやということについて、少し説明します。



まず憲法とはそもそも誰に対してのものかというと、実は国家を縛るためのものなのです。
つまり、日本国憲法にある言論の自由というのは、国家が守らなければならない決まりごとなのであり、国民を縛るものではないのですね。
国民を縛るのは、刑法とか民法といった個々の法律です。

質問者さんは『暴力が諸々の自由を弾圧している日本』と主張し、それに対し回答者の方の多くが『いや、そんなことないよ』と回答しているのは、質問者さんが言葉の暴力を振るう一部の日本人を対象にしているのに対し、違うと言っている回答者の方は政府機関による言論弾圧はないと回答しているわけで、そもそも前提が違うから意見が合わないのです。

今の日本では、国家機関は国民の言論の自由を弾圧してはいけませんが、国民の間で言葉の暴力を振るうことについては、実はあまり制限がありません。
もちろん、虚偽の主張で特定の個人を傷つけたりすれば、警察に訴えることはできます。
精神的に傷を受けたり、あるいは名誉毀損に該当すれば、それについては警察や検察を通して立件することが可能です。

しかし、政治的な主張については、私の知る限りでは多少言葉の暴力を振るったところで、警察は関与できません。
これは中国問題に限らず、むしろマスコミなどによる被害の方がより深刻でしょう。

さて、意見のまとめに入りますが、日本に言葉の暴力を取り締まる法律がない以上、いくら日本に言論の自由があるとはいえ、必要以上に傷つきたくないのであれば、自己防衛のために極端な政治的意見の主張は控えた方が日本社会で生きるにおいて懸命な手段となります。
そして、多くの日本人は無意識のうちにそれを察知して、日々実践しています。

ただ、少々度がすぎるのか、国際社会で日本人があまり主張しないために、日本の意見が広まりにくいという結果になっています。
将来的には改善できればよいのですが、今のところ私にも妙案はありません。
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この回答へのお礼

こんにちは
憲法の定義については興味深く受け止めさせていただきました。
私は憲法は国民のためにありその第一義は基本的人権の保障であると思っていました。
しかし、その結果は国家権力の専横を縛ることになるんですね?

ご回答は非常に私が欲しかった意見の核心を突いていると思います。
>自己防衛のために極端な政治的意見の主張は控えた方が
>日本社会で生きるにおいて賢明な手段となります。
そのような日本人が多過ぎます。
何をもって極端な政治的意見とするかは不明ですが、憲法に定められた基本的人権が守られていないと主張する事を、極端な政治的意見と断じる社会は健全ではありません。
また、自らはなにも主張せず、他人の主張にも反応せず、自分の身の回りの事のみに気を取られて生きる人間が作る無気力な社会は成長を止めたも同じだと思います。
御身大切に、無難に生きる事は私の主義ではありませんが、私はそのような人たちを非難はしません。
>国際社会では日本人があまり主張しないために・・・・
海外生活の経験がある人なら分かると思いますが、日本人のように自分を主張しない国民は少ないです。
自分の意見を持たない、主張をしないという事は一人前とは見なされず、いつか、居ても居なくても良い影のような存在になり孤立します。
海外の習慣、文化がすべてすばらしいとは思いませんが、たとえ間違っていても、「自分はこう思うと発言出来る事」は重要な事だと言う事は学べるのではないかと思います。
個人一人が何も出来る事は無いかもしれませんが、私は誰の賛同を得られなくとも、変なものは変だと主張出来る人間でいたいと思っています。
質問の趣旨を理解していただき本当に感謝します。
ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2008/04/20 09:22

補足やお礼を読むと、あなたは所謂右翼と、ヤクザと在日朝鮮人が主体の街宣右翼と、あなたの言うネット右翼の区別が付いてないようだ。


しかも、十数年前のことすら知らないようですから、左翼系の学生と機動隊が衝突した学生運動や、左翼過激派のテロ事件も知らないようだ。
少なくとも、現在の日本は暴力が諸々の自由を弾圧しているようなことはない。

「靖国」に関して、先日、一水会などの右翼団体に試写会があったことくらいは知っているだろうか。
その結果、右翼団体とはいえ、賛否両論の意見が出ている。
これらの右翼団体は、「靖国」に対して抗議行動は取ってない。
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この回答へのお礼

こんばんは
確かに私はヤクザや右翼については詳しくはありません。
ネット右翼という言葉も、昨年9月にこちらに入会して知った次第です。
もの知らずで大変申しわけありません。
すでに他のご回答者にもコメントしていますように、私の言う暴力とは言葉の暴力という意味です。
現在も過去も、洋の東西を問わず、言葉の暴力も権力の横暴も存在すると私は思っています。
このようなネット社会でも、自分と意見や立場の異なるものに対してイヤがらせや脅しがあると聞きます。
靖国については、上映中止に至った理由はネット右翼の脅しがあったとアルゴピクチャーズの社長が言っているのを聞きました。
その他、権力者の圧力もあったと聞きます。
このように、民主主義国家の国民の自由を阻むものは暴力であり、ある種の弾圧だと私は思って居ります。
しかし、現在の日本には暴力や弾圧は無いと信じる自由もありますのでご意見はありがたく承りました。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/04/19 20:08

 No.17です、靖国云々に関しては異論が無いことも無いですが本論から外れるので割愛します。



>何かの頸木があるからこそ安心して歩けるということも真実の一面とは言えませんか?
 抽象的なご意見で“安心して歩ける”というのが何を意味しているのかいまいち理解しかねますが、“政治活動や議論をするにあたって行動や言論に一貫性を与えてくれる”という類の意味であるのならばある程度は賛同できますし、より“それらしい”理屈も捏ねられるようになるとは思います。但しその一貫性が個別の政治的状況に対してより優れた知見を与えてくれるわけではありませんし、そのような一貫性は個人の政治的選択の幅を狭めます。
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この回答へのお礼

#17のお礼に書きましたように、貴方のご回答の最後の部分は私には少し難し過ぎて、その反動で分けの分からないことを書いてしまったかもしれません。
抽象的と言うか観念的な物言いは私の欠点で大いに反省するべき点です。

[歩ける]というのは[信念と共に生きていける]または貴方の言うように、政治活動の中で主張出来ると取っていただいて結構です。
ただ、私は政治についてはあまり良く分かりません、
しかし、人はイデオロギーにせよ、日常の平凡な主義主張にせよ、何の頸木からも自由で何の呪縛にも捕われず生きていく事は可能なのか?という漠然とした疑問は持っています。
そして、逆にその頸木を必要としているのではないかとも。
何故かとりとめの無いお礼になってしまいました。
ありがとうございました。

お礼日時:2008/04/19 22:51

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