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 先日、教育基本法に”愛国心”というものが加えられた、とマスコミに報道さ
れていました。
 よく考えると、”愛国心”の内容ははっきり決められていないではなく、
”愛国心”という概念も、何だか考えれば考えるほど、非常に曖昧となって
くる感じがします。
 この概念と内容をどう理解すればよいのでしょうか?

A 回答 (10件)

海外へ行ったときに、早く国に帰りたいなーという気持ちのことではないでしょうか。

むりやりおしつけるのもどうかとは思いますが、国旗や国歌を公式の場で掲揚しなかったり、歌いたくないという人には、しばらく海外で生活してもらえば簡単にわかると思っています。結論としては、愛国心は「これ」というものでなく、自然にわき出てくる郷愁のようなもの、というとこです。
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水道の蛇口をひねれば水が出る。


切符を買えば電車に乗れる。

それをどう思うか、ってことかと考えていますが。。


愛国心は

英訳すると ”Patriotism”

だが、 日本の ”心” は ”主義” とは違うようにも。


反論もちろん歓迎。

(ああ、でもここでそれやっちゃいかんのか。 ( ̄― ̄; )
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教育基本法は「基本法」だから、簡単に条文を加えたり削ったりできず、まだ「検討案」だと思います。



「加えよう」としている人たちの言動をみていると、
「お国のためだ、文句を言うな」といって、「痛み」をがまんする口実にしたいだけのようにしか思えませんがねえ。

グローバルの時代にあえて「愛国心」を掲げる必要があるか。この時代になにが大事か、ということですね。
滋賀県人が滋賀県を愛するために何が大切か、といえば、まず、琵琶湖の環境をまもること(たぶん)なんだけれど、国体で点数をあげること、みたいに思っている人が多い。高知県でもそうだが・・。
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普通に考えれば、まず自分自身を大切にすること(道徳で扱う第1項目)。



次に、仲間との関わり方を大切にすること(第2項目)。次に、公共、身近な社会との関わり方を考えること(第3項目)。最後に、国際人としてのあり方(第4項目)と、道徳では大まかに分類がされており、愛国心は、この中の4項目めに位置づいております。

つまり、ここまでの回答にもあるように、まずは自分が自立して、誇るべき人格を目指し、仲間との関わりあいを学びながら、他者に学ぶ態度、姿勢を覚える。

次に、自分は周りに支えられて生きていることを知り、自分を囲む全ての人、そして先人たちが、今日の私たちの暮らしのためにしてくれている苦労や偉業に触れます。では私たちは、これらの社会に生きるものとしてどのように関わっていくかを考えるわけです。

最後に、この国に生きるものとして、先人たち、今を生きるこの国の人たちのいろんな思い、偉業などに触れ、その流れに生きる私たちが、同じ国で生きていこうとした、している仲間の心に洗われ、誇りに思うことができたとしたら、それが愛国心のひとつといえるでしょう。

そしてここからが本当に大切なことですが、私の考える愛国心は、そこでとどまらず、今後の世代の子たちが、「この国に住んでいることが幸せである。誇りに思う。」といえるだけの国に、私たちはしていかなければならないという責任感を持たせなければならないと思うのです。

そうでなければ、いつまでたっても、日本人は「私人」にこだわり、公のあり方に意味を見出せず、公に守られる一方で、それだけの義務、責務を負っているという立場を忘れ、無意味に人を傷つけあうだけの、動物的な超甘えん坊民族に陥ることでしょう。おそらくそこに、本当の「誇りある個人」は存在しません。

やはりいつまでたっても人間は、「公人」であることを忘れてはならない。それが、私たちが守るべき、また、発展させていくべき「国」を大切にしようとする心につながっていくと思うのです。ありきたりのことばですが、みんなが幸せに暮らしていける国を、みんなが目指すこと。

国なんてどうでもいい。自分さえ幸せならばとうそぶく人もいますが、国や、公に守られながらのそういう発言こそ、最低レベルの甘えっ子でございまして、醜いことこの上ありません。
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私の感じるところは、(本題とはいささかそれますが…。



『愛国心』が、私という一個人から、家族、そして地域のコミュニティと「拡充」して国家に対する愛へと行きつくものであれば、
それから更に一歩踏み込んで、『愛(世界)心』へと拡充が発展して欲しいものです。
国際社会で国家が国益を重視、優先するのは常識ですが、それによって世界に非平和が招かれるのを最も危惧する次第です。

また、自分の事や、地元の事などしか考えな様な、(国家の)国会議員さんに、まず率先して「愛国心」を習得して欲しいですね。


まぁ、どちらかというと、日本は戦前の崇拝主義的愛国心を悪しきものとした過程で、戦後は愛国心を潜在的に否定してきた傾向にありますから、
そのような中で、ある意味、国家的公共に対する受け止めを、真摯に考える部分とかが薄かったり、否定的になる傾向があったりと、する所があるのも否めません。


ですから、「愛国心教育」がどのようなものであるか、私は詳細は存じませんが、
それが、本当に良い方向性があるものであるならば(肯定的に考えると)、
これからの若者が、「愛国心」を認識する事で、(愛というと男女の愛情という狭義なものだけでないという)人間的に「愛」というものを認識できる事ができれば良いだろうし、またそれによって、社会にはびこる、{阻害}、{対立}等、人間同士の情愛的な問題もいくらかは緩和されれば良いかなと思います。
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本当に、『愛国心』て曖昧ですよね。


NO4の方も示唆しておられるように、自国だけが大切又は自国が一番という、大いなる勘違いをする可能性がある言葉だと思います。

『愛』という概念は、100人いれば、100通りの定義が返ってくるだろうし、個人個人が色々な経験の中で覚え、育み表現し、身近なものから遠く(大きく視野を広げ)発展させていくものだと思っているので、ことさら『国』をつけることにより、自国のみ愛しなさいと聞こえてくるのです。(愛を固定させてしまう恐れ)

『愛する心』というものは、まず、身近なのもから始まって、さらなる発展をしていく視点で、考えて行くのが理想と思います。

その事をふまえた上での『愛国心』であってほしいと願っています。
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この回答へのお礼

>...勘違いをする可能性がある言葉だと思います。
 同感ですね。このような内容を伴わない抽象的なものに執着し過ぎますと、
No2の方が書かれたように単に”自己満足”になってしまう可能性も。
>愛を固定させてしまう恐れ
 まさに、ここが問題の本質点のように思います。普遍的、感情的、などのよう
なものに、法的な制限を加えることは、”知性”の教育とは懸け離れた行為とも
感じますね。
>その事をふまえた上での『愛国心』であってほしいと願っています。
 そうなんです、そうなんですよ!
 結局、この内容は10人に10つの期待や解釈はあって、法制した機関も、この
都度、それなりの内容を加え、これなりに解釈してしまうのではないか、と感じ
ますね。
 

お礼日時:2002/10/20 10:41

韓国人は「愛国心」が強いと言われています。


故郷を愛し、故郷の発展のために尽くしなさいと
両親が子供を諭しているとも聞きました。
ですが、それを自分の国が一番だとはき違えている傲慢な輩も少なく
ありませんが・・・。日本でも戦争時に「お国のために尽くすことは誇りである」と家でも、学校でも聞かされたと、祖父が申しておりました。
私は、そんな言葉を知らずに育った世代です。
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この回答へのお礼

>・・・両親が子供を諭しているとも聞きました。
 このあると思いますね。特に日本には韓国人が多いで、異邦人として生きてい
ける日本社会において異質とも思われるようなことはあると思われます。しかし、
この本質には円滑の交流不足と思っています。
 ”国”とは、中にいると分からない、外で眺めると、初めて意識したものとの感じが強いと思われます。
>お国のために尽くすことは誇りである」と家でも...
 国をまったく意識したこと(意識する必要)のない人々に、これを繰り返し強
調するのは、何かの異常的な現象・異常的なことの前兆ともいえますね。
>私は、そんな言葉を知らずに育った世代です。
 このような異常な環境に遭わない事は幸運と思います。

お礼日時:2002/10/20 10:25

 対象を大きく「国」としてしまったため、わかりにくくなっていますが、要は自分の住んでいる地域や故郷に誇りを持ち、愛することができるか。

ということにかかってくると思います。
 「この町が大好きだ」は「この国が大好きだ」に通じます。ですから教育現場としては、その地域に住むことに誇りが持てるよう、地域をよく知り、良さを発見できるような方法で授業等を行なう。ということになるのでしょうか。
 
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この回答へのお礼

>...要は自分の住んでいる地域や故郷に誇りを持ち、愛することができるか。
 このように言えば、わかりますね。人は愛することができるこそ、いろいろ
な幸せとか、楽しみを感じますね。
>...地域をよく知り、良さを発見できるような方法で授業等を行なう。
 これは非常に良いことと思います。ただし「教育基本法」に加えることはわか
りにくいところですね。私は自分のふるさとAが一番好きで、どこよりも美しい
ところと思っています。しかし、これはあくまでも自分の主観であり、Aは美し
くないと思っている人は必ずいると思われます。自分の意志を勝手に他人に強
要することはいかがなものかと思われます。まして、学校教育とは、文学、
歴史、自然科学など普遍的なものを教えるところと思われています。
 もう一つの視点から眺めてみれば、この「...法」に反する行為とは何ですか。
この場合にはどんな賞罰が加えられるのか、は当然出てきますよね。

お礼日時:2002/10/18 17:23

自己満足・・・・・の一言だと思う

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この回答へのお礼

>自己満足・・・・・の一言だと思う
 うーん、昔の書籍などを読むと、この気持ちがわかりますね。
 ご返事、どうもありがとうございました。

お礼日時:2002/10/18 17:05

 教育基本法上の定義という意味でしょうか。


 であれば、特に決められてるわけじゃないと思いますよ(^_^;

 今の子供は、「公共の利益のための活動は、大人からいわれて嫌々やるものである」とかなんとか、まあ、そういうふうに育てられちゃってますからねー。俺もそういう世代ですし。
 それを何とかしようってだけのことだとは思いますが。
 ちょっと言葉が行きすぎてる感はありますけれども。
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この回答へのお礼

 ご返事、どうもありがとうございました。
>...ちょっと言葉が行きすぎてる感はありますけれども。
 そうですね。私はそう感じています。むしろ、人はそれぞれ自分の周りの
自然・社会と調和していけるようなベシックな行動の仕方みたいな言い方の
ほうがわかりやすい感じがします。

お礼日時:2002/10/18 17:00

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