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人は何故悩むのでしょうか?

A 回答 (55件中11~20件)

 No.22&24です。



 希望があるからだと思います。
 ただし《かたちあるものは 希望ではない》と言います。

 具体的な目標に向かって進むときにも 考え悩むでしょうが たぶん そのような希望と悩みとは別のことを 問うておられるのでしょう。

 夢というときには おそらく売上目標を達成しようとする悩みを超え マイホームを持つという具体的な夢をも超え たとえば社会についてのあり方を思い描くといったことまでを含むと思います。

 それらの根底に 《かたちのない希望》があって わたしたちは それゆえに 時には苦しい目に遭うのをいとわず 悩むのだと思います。

 でも 好きで悩むのだと思います。そうでなければ 少し悪口を交えますが 難行苦行のパーフォーマンスや これ見よがしの教養修得につながるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

貴重なご意見有り難うございました。

お礼日時:2008/05/08 01:42

 一言でのご質問でしたが、考えるととても奥深い悩みだと私も改めて


感じました。悩みについてですが、色々な考え方が私の中でもありますが、それは考えるという行為と、条件付けをするからではないでしょうか??条件付けとは過去の経験や、周りの影響で、本来持っている自分の可能性を否定してしまうような考え方です。
 色々なことを考えていくなかで、夢や希望を持っても、この条件付けが働くことにより「自分には本当にできるのだろうかと」いった考えをしてしまう。結果悩んでしまうと私は思います。
 一言で、悩むのかと言っていますが、私はこの問題については単一原因論ではないと思います。今回の場合は、悪い悩みについて感じたことをあげてみました。
 共通していえるのは、根本にあるのは「考える」という行為の結果、反面(副作用)として悩みが生じる。というのがあると思います。一人で考え込んでしまうのも、なやむ原因ではないでしょうか?一人で考えていると悪いほうへと考えがちになりますから。
 
 
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この回答へのお礼

なるほどなるほどですね。

御回答有り難うございました。

お礼日時:2008/05/07 16:27

No42の補足ですが



つまり
人は何故悩むのでしょうか?
を考えてるあたりが
生きてるってことじゃないでしょうか?(笑)
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この回答へのお礼

ON42、43拝見しました。

真宗の親鸞なども80歳になって、煩悩盛ん成り(悩む不安が多くなった)と言ってます、息子を勘当したりもしてますが。

今も昔も変わるませんね。

おしゃる通り、悩まなければ、人間ではないかも知れませんね。

親鸞も煩悩具足の此の身と大悟してましから、悩みを嫌がる必要はないのかも知れません。人間に備わったもの、生きてるってことじゃないでしょう、かだと思います。  

でも悩みたくないな。(笑い)

有り難うございました。

お礼日時:2008/05/07 15:02

人間の本質が


悩むために生まれる
ところにあるからだと思います。

つまり
悩みがない人は
人間ではないと思います(笑)

生きている以上
悩みは絶対条件ではないでしょうか?(笑)
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この回答へのお礼

お礼が大変大変遅れた申し訳ありません。

>生きている以上悩みは絶対条件ではないでしょうか?(笑)

先人は悩みは無くならないと大悟したのかも知れませんね。

有り難うございました。

お礼日時:2008/06/01 00:25

人間には思考力が与えられていますから、その副産物として「悩み」が生じるのは仕方のない事だと思います。



もし…
交差点では必ず右に曲がる
物を買うときは必ず一番安いものを選ぶ
などとあらかじめプログラムされていたとしたら悩む必要はなくなります。

でも私たちはその時々にあわせて自由に決定することが出来ます。
その際色々な要素を考慮しますから、すべての方面において満足のいく決定を下すことは簡単ではないでしょう。
多くの選択肢の中から決定していくわけですから悩むのは当然だと思います。
また実現不可能な理想的な結末を思い描くこともありますから、そういう場合はどんな決断をしたとしても理想と現実とのギャップに悩むことになるでしょう。

たとえ悩むことになっても、自由に考え決定する能力を与えられてい事は感謝すべき事だと思います。
また、どういう事に悩みどんな決断をしていくのか、それがその人の生き方そのものという事になると思います。
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この回答へのお礼

なるほどそうかも知れないですね

御回答有り難うございました。

お礼日時:2008/05/07 14:43

”悩みの大きさ”=”理想と現実のギャップ”


と言えるでしょう。

自分の場合、世の中をひとまとめにする様な理想は思い募らないようにしています。
小さな個別のテーマに分けて考え、それらが一つでも多く理想に近づいていれば、善しとすることで救われるものと思っています。 
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この回答へのお礼

”理想と現実のギャップ”、  私もそう思います

人間と言うのは”理想と現実のギャップ”が離れる様に創られているのかも知れないですね。

 >自分の場合、世の中をひとまとめにする様な理想は思い募らないようにしています。
小さな個別のテーマに分けて考え、それらが一つでも多く理想に近づいていれば、善しとすることで救われるものと思っています。 


なるほどですね。

御回答有り難うございました。 

お礼日時:2008/05/06 11:10

その時と場合によって、生まれ、育ち、年齢、性別、環境、教育、ひいては言語、人種などの違いによって、考え方、捉え方が異なるために、悩むのではないでしょうか。

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この回答へのお礼

そうかも知れないですね

御回答有り難うございました。

お礼日時:2008/05/06 10:58

人は何故悩むのでしょうか?



長年考えて出した私の結果は・・すでに答えを自分の中に持っているか

らです。だけどその答えに自分自身納得出来ず、受け入れたくなくてそ

の為に「悩む」のではないでしょうか。

考えて動く物ならば時間をかけて考えてもいいと思うけど、考えても動

かない物ならば、自分が出した答えを受け入れ、プラス思考で納得する

しかないのでは???
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この回答へのお礼

>長年考えて出した私の結果は・・すでに答えを自分の中に持っているか

らです。だけどその答えに自分自身納得出来ず、受け入れたくなくてそ

の為に「悩む」のではないでしょうか。


中々深いですね、私などnochitase様の考え方は「宗教の要」ではないかと思いますね。

キリスト教徒の人でも神と契約したから、苦しみがなくなるとは到底思えません、ただ苦が降りかかったからと言って、それに対し答えを出さない(神み委ねる)ではないかと浅学の私は考えます。  それまでに到るまでには信仰の思案思案思案が必要でしょうが。   最初から思案もなく、神み委ねるでは。反社会的なオカルト的なにのめり込む危険がある様に思います。

自覚を得た禅者でも、自分とっての悩みからは解放されるでしょうが、苦がないとは到底思えません  悩みとは考え巡らす物でしょうから、禅者はそれをしなくなるのではないかと考えます。

親鸞などは「煩悩具足の此の身」と大悟してましから。

御回答有り難うございました。

お礼日時:2008/05/06 10:56

過去の嫌な記憶があるからだと思います。


人は嫌な記憶はなるべく思い出そうとしません。だから嫌なことや苦手なことはほんわりしか覚えていないことになります。だからなかなか決断できず悩んでしますのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

そうかもしれませんね

人間と言うのは悩むように創られているのかもしれません、どうでしょうか。

御回答有り難うございました。

お礼日時:2008/05/06 00:42

こういう質問を思いついてしまうからです。

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この回答へのお礼

最初の方のご回答は哲学的宗教的な深い回答でしたが、少し軽くなってまいりました、と言えば失礼でしょうか・・・だけどある意味言えてますね。

シャレの気いた御回答でした、有り難うございました。

お礼日時:2008/05/05 21:57

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