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人は何故悩むのでしょうか?

A 回答 (55件中31~40件)

六根(五感と意)から得られるデータを捏造して、価値判断を下し、決め付ける。

ここに大きな原因があると感じますよ。

そこから始まって、「私は死なない」「私こそ正しい、他は間違っている」と言う見解に入ったり、論拠も証拠もない好き勝手言える見解にしがみついたり…強い欲や怒りが出てくる。

現実と見解が乖離するほどに思うとおりに行きませんから、それでも自分の見解にしがみついているから悩みが増えるのではないでしょうか。

データの捏造をなくして、過去でも未来でもなく「今この瞬間を精一杯生きる」これが出来れば悩むこともなくなると感じています。

と言うか悩む暇がなくなると、そう感じます。

何か参考になれば幸いです
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この回答へのお礼

何となく判りますね、判ります。

>何か参考になれば幸いです

有り難うございます

貴重なご意見有り難うございました。

お礼日時:2008/05/02 11:25

 No.22です。


 
 でも こうして問いかけ答えたりしているわたしたちは 好きで つまり 意志で そうしているわけですよね。
 哲学が好きで 考えることも好きで だから 好きで悩んでいるのではないですか。
 ですから 結果として余計な茶茶を入れることになると知りながらも 投稿致しました。みなさん あまりにも しかめつらをなさっている感じも受けますので。楽しんでいきましょうよ。《Q:哲学で悩んでも なぜたのしいか》といったふうに。
 (やっぱりわたくしは いじわるばあさんの親戚のようです)。
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この回答へのお礼

うん~ brageloneさんの言い回しは文章は、私みたいな学力では判りにくいですね。  
     有り難うございました。

お礼日時:2008/05/02 11:05

以前投稿した者ですが、やはり



一口に「悩み」といっても、レベルによって異なると思います。

「迷い」レベル(理由/選択肢が多いから、選択が難しいから)
「苦しみ」レベル(理由/逆に 選択肢が全くない&考えられないから)

前者は、クイズ・試験 等
後者は、 経済苦・病苦 等→生命を脅かすほど追い詰められる

従って「悩み」が多義化しているため、ご質問は
「人は何故 迷う のでしょうか?」
「人は何故 苦しむ のでしょうか?」
とも言い換えられるような気が致します。

飼い主のそっくりさん(あるいは三つ子等)を 何人か並べて
飼い犬猫 の前に立たされると その犬猫も一瞬
とまどいますから、一部の動物にも軽度の悩み「迷い」
くらいはあるのでしょう。

 従って、「人」を主体にすることにこだわるならば、
「人は何故 苦しむ のでしょうか?」
に絞られてくるような気が致します。

この回答は、(ダーウィンの進化論をベースとして)
進化に伴い、時間的&空間的 位置づけが人間の
脳に(遺伝子の経験的継承に伴い&教育の発達により)
先天的に後天的に備わるようになってきたから。
「時間的&空間的 位置づけ」というのは、
神の存在を前提とした神秘的考え方 から
科学を前提とした合理主義的考え方 に
変化したから とも言えます。

 一概にはいえませんが、近代合理主義的考え方
が生まれたルネッサンス期が その大きな分岐点に
思えます。
それ以前は、「個人」という考え方はなく、「集団の中の一人」
程度としか考えておらず、「神」や「集団」や「君主」に
思考の全てを委ねる(ある意味「洗脳」)ケースが多かったので
「個人」的悩みは皆無に近かったと感じます。
 今も 皮肉なことに 宗教団体&宗教に洗脳されている人
ほど 悩みが少ない感じですよね。
それは 前近代的思考 をしているからなのでしょう。
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この回答へのお礼

「迷い」「苦しみ」の定義の問題でもあるかもしれませんが

動物は(不安・苦)から(安心・楽)の変えようとし思案する事が出来ない或は基本的に出来ないと思われますから、苦悶する事はないと考えられます。赤ん坊もそれに近いかも判りませんが

ですから、おしゃる通り 従って、「人」を主体にすることにこだわるならば、「人は何故 苦しむ(苦悶) のでしょうか?」になると思います。

進化により脳が発達した為、動物よりも苦しみ(苦悶)が多く或は深くなり、それに伴い、人に神という概念が脳に或は心に生じたのかも知れません、神だけなく死もそうでしょうが、動物は死という概念がないでしょから、彼らには死は無いのかも知れません、無論人間から見れば死は有りますが、死と言う物を概念化できますから。

ですから、おしゃる通り、進化した事に伴い神と言う概念が出来、その神に全てを委ねる事により苦悶しなくなると考えられますね。

神に委ねないと言う事は悩み・苦・苦悶が多い・・・

ただ神という概念も人・宗教により違うでしょうが、仏教では或は悟・自覚。  

  神(宗教)というのが反社会的でなければ委ねる事も良いかも知れません。

私などは宗教要は生死の問題・心の問題を委ねるものでは、ないかと思ったりもします。

人はいつ何処で死ぬか判らない、のも事実ではないかと思います、

残念ながら良い人が、良い人には何の問題もないのに殺されたり、交通事故で飲酒運転の車にはねられ、亡くなる事も珍しくなく報道などでよく見かける事ですが。

心の問題もそうです、悩みやすい人は多くの悩みを背負い。


再び回答頂き有り難うございました。

お礼日時:2008/05/01 12:10

 No.21です。


 えらそうに述べすぎましたね。えらそう過ぎました。

 あとから振り返ってみると このようにも 捉えられるということを ふんぞり返って しゃべっています。なぜ そうするか。

 最悪の時期にあっても 終わりから その現在の状態と情況をながめていたからです。終わり( end )というのは めざす目的( end )ないし目標のことです。

 もう一点は こうです。最近は ものごとの奥にあると思われること・奥底に横たわるとかんがえられる事柄 これを 以前のように 真正面から 全身で受け止めていこうという姿勢と意気込みとに欠ける部分があるのではないか こう思うようになっているからです。

 苦しみも うんと して来ました。落ち込むときには 海底何万マイルをさまよっています。そして さいわいなことに――字面の上では矛盾するのですが――それらの苦悩の終わりをも どこかに見ていました。という意味は 途中で 解決がないのではないかと思ったら もうその悩みは 止めにしたということです。どうでもよいものは どうでもよいと決めつけたという意味です。(まちがっていたら 再起動すればよいのですから。どうでもよいことも 意外と多いと思います)。

 こんな思いのことでした。
 でも 人は やはり 好きで悩むのではないでしょうか。そうでなければ 何かに取り憑かれているのではないかと考えます。
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この回答へのお礼

 >えらそうに述べすぎましたね。えらそう過ぎました。

そんなことは思ってませんよ、質問回答文で時々お会いしますが、優しそうな方だと思ってます。
文章と言うのは感情の部分が判りにくいですから、誤解が生じやすいですね、故に絵文字が使われいるのだと思います。


有り難うございまいた。

お礼日時:2008/05/01 09:11

 えらそうに述べます。


 最近 悩みが薄くなって来ました。量は ますます多くなるのですが その度合いは 薄く低くなって来ました。

 三度の飯よりも悩みが好きでした。と自覚していたわけではないですが そのように生きて来ました。
 
 好きだからだと思います。おもしろいからだと考えます。もし悩むために悩むのでないならばです。
 でも 解決のあてもないことで悩むというのでしたら それも やはり悩みたいから悩むのではないでしょうか。自虐なのかどうか分かりませんが 好きだからでしょう。解脱は次の世にとっておこうというのかも知れません。好物は最後に食べるというくせも ありますから。
 (茶化したひびきがありますが よろしく受け取っていただければ幸いです)。

この回答への補足

宗教の本質はどんなに必死で学んでも、苦しまないと解らないのではないでしょうか。

苦しむ者は幸いであるあなたは神を見るであろう・・でしたか。

苦しみも行くとこまで行きますと選択の余地が無くなり、経典(理屈)ですら不必要に、真宗的に言いますと、阿弥陀様に「すべてお任せする」或は「すべてお任せ」られない自分自身もお任せる」  

お礼文と前後しました。          
  

補足日時:2008/04/30 16:08
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この回答へのお礼

brageloneさん解決出来ないと、うすうす判りながら解決した(悩みたい)、性分と言う事でしょうか。

>三度の飯よりも悩みが好きでした。

この文書をそのままと解釈したら、羨ましいですね、深刻な悩みが無く宗教に触れたのであれば、そいうお方も居られるでしょうが。

自力(理屈)では解決出来ない壁にぶち当たり、のた打ち回り、血反吐き、全てを失った時・・・理屈でないものが、心に「気づきとして」「自覚」入って来る様な気がします。

有り難うございました。

お礼日時:2008/04/30 15:48

絶対にコレ!という決まった答えが無いからじゃないでしょうか。


どれが正解かなんて分からない、だから考えるし悩むんだと思います。
そういう意味で、強烈に宗教を信仰できれば、悩みは無くなるかもしれませんね。教えどおりに生きればいいんですから。
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この回答へのお礼

ごもっともご、もっともだと、思いますね。

正解かなんて分からないから、人の悩み苦しみが有ると思います。

正解かなんて分からない=絶対者(人智を超えている)

人間は悩むように出来ているのかも知れませんね。

有り難うございました。

お礼日時:2008/04/30 00:22

こんにちは、ri-zyuさん。



●人は何故悩むのでしょうか?


そこに あなたが いないから





小さな恋のうた
http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND48171/index. …
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この回答へのお礼

>そこに あなたが いないから

浅い意味での言葉だと思いましたが、回答暦を拝見すると哲学カテが多いので深い意味ですね。

「あなたとは絶対者」、だと思います。個(自我)が悩み

「自我と絶対者」が二つの時、迷いの世界、一般の価値観で生きている人々。

「自我と」と「絶対者」一つに成った心境でしょうね(迷いから悟の世界)或は絶対信

「絶対者」=人智を超えている

私も宗教の」安心の要は」この辺ではないかと私も思ってます。

有り難うございました。

お礼日時:2008/04/29 23:28

primeapeです。


面白いトピックスを思いつきました。
二元論への見解です。

テレビで有名な霊媒師に江原某というのがいますが,その有名な格言に「愛の反対語は無関心」というのが有ります。
これは霊媒師ならではの知恵でして無関心を愛と対立させると暗闇に蠢く者は自動的に救いの言葉に耳を傾けるようになります。
実は「愛」といえば絶対でそこには対立する言葉の無いただのはったりに過ぎません。
これは二元論の実態をよくあらわしています。
二元論は自己の同一性を保つための方便です。
対立する双方は善悪にかかわらづ両方とも真実から遠ざかります。
嘘つき放題の応酬が二元論です。
自らの心に欠けている物を探すためです。

17番の
>質問者様が今の望んでいるのは効率のいい悩み方です
これが正解です。
欲望を救うために自らの暗闇に赴こうとする姿です。
成り行き任せや仕方なくでは無く、自らが望んで生れ落ちた運命そのものです。

>自らの存在に絶対の確信があれば迷わなくなります。
>確かな自分がいないので、それを探して悩む。

同じ意味のこの二つを比べてどちらが判りやすいかでハッキリしています。
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この回答へのお礼

再びご意見を伺え有り難うございます、楽しく読ませて頂きました。


不安安心は生死は一元で有る、迷いの人は分別で二つに見るが、自覚者は一つに観る、禅ですね。不安安心は生死の底を観る。

有り難うございまた。

お礼日時:2008/04/29 20:02

13、primeapeです。



>自らの存在に絶対の確信があれば迷わなくなります。

この言葉にご自分の意見が持てない前提でご説明します。
このように言い換えればいかがでしょうか。

確かな自分がいないので、それを探して悩む。

各ご解答のお礼のコメントを見る限り、欲望を肯定しているようですね。
この欲望のうそや矛盾を解消するまで悩みます。
それを実は自らが望んで悩んでいることを肯定してください。
実際に
>確かな自分がいないので、それを探して悩む。
これなら納得してもらえる物言いだと思いますが、質問者様が今の望んでいるのは効率のいい悩み方です。だから13番のコメントが意味を成していません。
欲望を否定しても二元論的な対立を生むだけです。
自らの欲望を自らの意思で理解してください。
それが終われば悩みから開放されます。
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悩みは個別具体的な性質なものに限らず、漠然としたものをも対象にするんですが、原因系や解決策、および思うこと、思考することと切り離して、不快、苦、不安、恐怖等の精神的な不安定そのものを悩みとしてしまう場合には、それが何故かとされると精神構造とか脳科学的解析になりますよね。



つまり、原因、不安、思考が悩みの要素で、
何故悩むかと言われると、
原因があるから、
不安があるから
思考するから
ですね。
(なぜ、思考するのか、なぜ不安が生じるのかはまた別の話ですよね。)

で、最初に原因があって、それに反応して不安とか違和感が発生して、
思考が始まり、不安の解消に向けて原因の排除とか何らかの解決策の模索をするのか正しい思考なんだと思いますね。
解決策を意識して思考しなくとも、例えば、失敗や不幸な事象を反復して思い出しては、記憶を固定化して、同じ状況になったときに忌避行動をとれるようにしてするとか動揺しない免疫作りが原始的思考なんでしょうね。
この痛みを伴ういわば免疫作り(←これは動物的レベル)が、いわゆる悩みなのではないでしょうかね。
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この回答へのお礼

中々興味深く読ませて頂きました、精神構造とか脳科学とかを少し触れたく成ってきました。

有り難うございました。

お礼日時:2008/04/30 00:01

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