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「瞬間」というものは実在しないとなぜ言えるのでしょうか?

A 回答 (28件中11~20件)

 意識や知性に入ったことはみな過去です。

経験結果です。
 足跡です。そこには自分が生きていません
 自分がいて、究極であるとき、現在です。永遠であり、瞬間です。
 微小とか長大という量に関係のない次元です。
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「瞬間」というのは「概念」だと思います。


「時間」というのも「概念」だと思います。
「物質」というのも「概念」だと思います。
「実在」というのも「概念」だと思います。

従って、「瞬間」というものが実在する/しないは、以下の(1)と(2)のどちらの立場をとるかで結論が異なったくるように思います。

(1)その「概念」の外に、それが表象する何らかの「実在」があると考える。
(2)その「概念」の外に、それが表象する何らかの「実在」はないと考える。

この回答への補足

kobareroさん、ご回答いただきありがとうございます。

外的な現実性のバランスですかね。

補足日時:2008/06/03 10:17
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この回答へのお礼

といっても、質問の趣旨としては、どのように説明するかをお聞きしたかったのですが。
元々は、持続の無い存在というものは矛盾概念である、となぜいえるのかという説明をお伺いしたかったわけなんですよ。

お礼日時:2008/06/03 10:50

瞬間を定義するのに難しいのは時間の長さの問題でしょう。


「0に限りなく近い長さ~X秒の間」としても
0に限りなく近い長さ(数字は永遠に続くので)が定義出来ない。
括弧書きの部分が定義出来ないので、瞬間の存在は有り得ない。
と、いったところでしょうか。

しかしながら瞬間という言葉を最初に使った人間はいるはずです。
ですから、その人が感じた時間の長さ=瞬間 ではないのでしょうか。

瞬間は数字での長さ定義こそ出来ませんが、人それぞれの感覚(短いと感じる)の上に存在しています。
よって存在していると思います。

この状態をはっきりとした形で存在させるならば、瞬間とは「X秒~XX秒の間に起こる出来事」と定義付けてあげれば解決ではないでしょうか。
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う~ん、哲学には詳しくありませんが、


一つ言えることは「瞬間」という言語を人間が発明したから、「瞬間」は存在するようになったんじゃないんですか?

つまり観念の世界にだけ存在している概念なのでは?

例えば、虹が何色に分かれているか?というのは国によって様々、鶏の鳴き声がどのように聞こえているのかも国によって様々、しかし、「コケコッコー」「クックドゥルドゥー」など、様々な言語の響きがそれぞれの地域に生まれ、その地域の人々は確かにその響きのように聞える。
どれが本当の虹の色なのか?なにが本当のにわとりの鳴き声なのか?そんなものは誰にもわからない。
しかし、「言語」で定義付けることによって確かに捉えられるようになった。

「瞬間」も同じように、なにが、どこが、どうして、「瞬間」なのかは誰にもわからない。
しかし、「瞬間」という言語がある以上、少なくとも「観念的」には実存する。

しかし、所詮それは観念の世界の話であって、「神」と同じように、やっぱり現実的には実存しない。

回答おわり。

う~ん、なんだかな。
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 ANo.13様のお話に関連して。


 確かにサマディ(三昧)においては、永遠、これは瞬間という極的短時間ということではなく、一つの瞬間という場面がありえます。永遠なる瞬間、瞬間なる永遠。極的短時間であるという場面ではなく。
 何事の遂行においても、時に現出することでもありますが。
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瞬間と永遠に違いはありません。


光速で移動するものの時計は停止し、
永遠は一瞬で過ぎ去ります。

宇宙開闢と終焉は同時に起こっています。
それこそが瞬間で、それ以外にはありません。
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 ANo.11のご回答はまことに明快に私たち、ヒンドゥ系の理論をよく説明できるのであります。

といっても、ANo.11様のお話を誤解しているかも知れないという危惧はあるのではありますが。
 微小時間と瞬間は異なる。これは私たちもそのように教えられております。まったく言葉の意味も内容も異なるといわれております。実践でもそうなってきます。
 瞬間はない。時間の中に瞬間はない。時間という観念を持つなら、その中に物という客体が現出させられている。物体の時間的存在とは瞬間とはかかわりがない。飛ぶ矢が静止している。人間の勝手に決めた、位置というのはない。空間という観念を持たされ、その空間の中を移動するだけ。空間を区切ることはできない。時間も同じである。
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>もっとかんたんに云うとなぜ物質は時間的な延長を持つといえるのか


ますます、意味わかんないというか.....
「瞬間」というものは実在しない、というのと、 物質は時間的な延長を持つ というのが、どこでどうつながるのかがさっぱりわかりません。

物理学の立場からは、「法則は普遍的である。そして、それは観測事実と矛盾しなければ(限定的には)真実である」
ということから、
「物質は時間的な延長を持つ」は、観測事実であり、議論の余地なし。
「瞬間」は、そんな概念自体古典物理学にさえ存在しません。
すなわち、概念が存在しない以上実在しません。
※古典物理学に存在するのは、「微小時間」であり、「瞬間」でない。

要するに、
「瞬間」という概念は、ゼノンのパラドクスを引きおこすから間違いであり、
「微小時間」でないとならない。

まあ、普段は、「微小時間」のことを「瞬間」と表現しているから、どうでもいいといえばどうでもいいことだけど、
本質問に限り、「瞬間」「微小時間」の2つは、全くの別のものとみなします。
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仏教では、完全に自性を否定する学派や、最小単位のものの自性のみは認める学派など、それぞれあります。


仏教の聖者ナーガルジュナ(龍樹)の「中論」では、時間の自性が否定されています。
私なりに解釈すると、以下のとおりです。

時間は、過去・現在・未来という三時として認識され、三時から独立した「時間」の自性は存在しない。
三時は、独立としても、依存しても、自性がない。
なぜなら、
独立して三時があることはない。例えば、「現在」と設定することで過去・未来が設定できるから。
依存としても認められない。
三時がそれぞれ自性をもちつつ依存することはできない。なぜなら、別々の自性をもつということと、依存することは互いに矛盾するから。「過去」と「石」の関係のごとく。
三時が同じ自性をもちつつ依存することもできない。それでは三時が同一のものとなってしまい、区別ができないから。
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 私は経験から述べて、ご批判をいただければと存じます。


 瞑想中、未熟な私は常に思考を頼りにしがちですが、それを排するにはそれが来てしまってからでは、もう過去で、その中にとらわれた意識となります。
 それで、機会は前髪をつかめということわざがあるとおり、一秒前、つまり太刀風三寸でしか対応し、防御できません。ぐっと油断しないで、とんでもない遠くでも、来てしまっているものなどは放り出さなければなりません。
 こういうことは意識の機能ですので、意識が経験やその内容のない意識自体を意識していることなのです。
 それで、現在と思っている、いや現在の過去と、太刀風三寸よりもっと近い太刀風五分、一分の時との間はあるか。
 それはないのです。人が、知的機能区切っているだけです。
 創造のブラフマが、創造の意識、父なる神、パンドゥになり、人間の能力にたよるとき、まっさかさまに落ちました。そして地上のこと事に依拠するドルヨダナが現れました。
 それで、パンドゥに血筋的には繋がらない、分別、区別、個別認識のヴィアサが替わって、パンドゥ的子孫をのこすことをした。
 それが私たちの意識がつかっている機能ということなのです。
 だから、区切るということは実在的存在としては存立していない。
 私たちが地上界とか外部世界に何か証拠を、頼るものを求めて、認識していく意識のアプリオリな用具なのでしょう。
 私たちはいわれています。実在は永遠の現在である、と。
 過去というのも、現在も、そして未来もない。
 ただ永遠の意識だけがある。永遠の存在だけがある。
 それが私たち(自分自身)であるのを、気づけない。
 私たちに死んでいる、パンドゥを起こし、その意識になるのだ。と
 マハバーラタとバガヴァッド・ギータとはそういうことをいうための、その道を示すための隠喩も含まれている文学である、と。
 人々はそれを文学として楽しむことにより、知らず識らずに、その手招きに入る素地が形成されていく。そしてその隠喩を説かれるとき、膝を打って、納得し喜ぶ。
 結論。瞬間は区切りですから、勝手に大洋や大空を区切っても、それは人間のご都合での見方に過ぎない。意識を個別も、時間も、経験も区切ることはできない。大空があるが、あそこは私の空よ、ggyy636座と命名しよう。といっても、実在には関係ない。大空は大空。
 経験も個体も意識は分離してはいない、区分してはいない。
 というご経験をお持ちでは御座いませんでしたか?
 
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