私は、プロテスタントの信者です。
信者暦は、1年ほどです。
生きていると、いろいろな宗教をお持ちの方に
お会いします。不思議ですね。
ところで、私は「エホバの証人」の方にお会いしました。
厳密に言うと、その信者の娘さんです。
ここからが、本題なのですが、「エホバの証人」と私たち「キリスト教(カトリック、プロテスタント)とどこが違うのでしょうか?
よく、キリスト教会のHPを見ると⇒(エホバの証人、モルモン教、統一教会とは無関係?)のような、記載がありますよね。
しかも、ウィキペディアで調べたのですが、キリスト教信者にとっては、
彼らは「異端」だと・・・・。でも、彼らにとっては、こっちが「正統」と思っていると、簡単に記載がありました。
宗教者同士の対立は避けたいと思います。
理由:(1)信じることは、大事である。
(2)信仰は、自由である。
(3)信じることに、対立があってはおかしいから
ということで、簡単にご説明願います。
A 回答 (9件)
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No.9
- 回答日時:
キリスト教もいろいろ宗派がありますが
原則的な教えは(三大教義等)どの宗派も同じです。
が、エホバ・モルモン・統一教会等カルトはキリスト教の
根本からずれていってキリスト教ではなくなってます。
こうしたカルト宗教の共通した事に、独自の聖書のような物があったり
教祖がいたりします。
キリスト教は旧約と新約聖書にキリストの全てが書かれてあり他の
書物などはなく、旧約新約聖書を読めば十分なはずなのに
例えばモルモンの宣教師等はそれでは十分ではないといいます。
あとモルモン教は昔のモルモン書によると
肌の色は神の祝福に反映されてるといった人種差別的なことが書かれて
いたのですが、アメリカで公民権運動が活発になると教祖が神のお告げ
があったなど言いモルモン書を書き換えて人類平等みたいな節を加えたり、
そういった事をあわせるとモルモン書は最初の初版から現在のを
比べると何千箇所も訂正があるらしいです
No.8
- 回答日時:
うーーん。
どっちも似たようなものだと思いますが・・・。
どっちかというと、エホバの方がユダヤ教に近い。
イエスはユダヤ教徒という設定です。
当初はそうでした。
イエスは人間か 神であったか。
これは論争となり、どういういきさつだったか はっきりは覚えていませんが、勢力争いにおいて、圧倒的に不利で勝ち目が無いとした派が、採択の場を棄権したか、遅れていったか、あるいは妨害され入場できなかったかで、(ちと忘れました)、結局 茶番会議の結果、イエスは神だとされ、今後 イエスは神だったか 人間だったか話し合ってはならないと 決めたんです。
ああ、 これ関係だったかな?
↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E5%9B%9E …
『しかし、3世紀にアリウス派の思想が論議になるにいたって、地域の司教や地方教会会議だけでは解決が難しい事態となった。これは放置すればキリスト教の分裂を招きかねず、当時キリスト教をローマ帝国の一致に利用しようと考えていたローマ皇帝コンスタンティヌス1世にとっても頭の痛い問題だった。ここにおいて皇帝の指導と庇護の下に初めて全教会の代表者を集めて会議が開かれることになった。
会議への参加者の数は諸説あるが、カイサリアの司教エウセビオスは司教が250人であったといっている。しかし、このうち西方教会から参加したのはカラブリアのマルクスなど5名に過ぎず、ほとんどが東方地域からの参加者であった。司教のほかに司祭や信徒など数百名の参加者があったと考えられている。』
で、 この宗教は使えるとなり、コンちゃんが力技でイエスは神で、これ以上 このことについて話し合った駄目 って決めちゃった。
とうわけで、、、、昔は今と比べ物にならないくらい 多様なイエス観があったわで、正しいからじゃなく、論争に勝った側が、勢力を拡大したわけで、エホバの証人側は、間違いとかじゃなく、勢力争いで押さえ込まれた側の生き残りじゃないか と。
で、エホバの信者はイエスは神の子(神の義にかなう人間)としたんですね。
今の主流なキリスト教も神の1人子といか言ってますが、意味が違う。
エホバ側は神の義にかなう人間を神の子としているようなんです。
だから あくまでも イエスは人間だとしている。
で、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9B% …
の中に『エホバの証人の信条によると、初期キリスト教徒たちは聖書の教義からそれ、ギリシャ哲学や他宗教の教えを取り入れ始めた。』
とあるように、プラトン主義がそっくりそのまま、キリスト教になっています。
プラトンは、イデアというものを究極の善(義)だとしたんですね。
で、プラトンはイデアは人間の外にある とした。
そして、イデア(究極の善)を認識できるほんの一部の哲学者(知識者)の意見に従うべきだ とした。
そうすることで、究極の善を認識できない者も、過ちを犯すことない善人になる とした。
それをエホバはイエスだとした。
カトリックはイエスではなく教皇だとした。
だから、教皇の言うことは、神の言うことであり、従って教皇の言うことを疑いもせず信じることが、神の望む善人になるとして、神の理にかなうものになる だから 無防備に 教会の権力者の言うことを、ただただ 信じて従いなさい なんですね。
教皇だってイエスは神だとしているから、神イエスに従っているんじゃないか?
うーん 神イエスに従っていたら、あんなことや こんなこと信者にさせなかったはずですよね?
アリストテレスは違うんです。
究極の義は、人間の外にあるのではなく、内にあるとした。
ここがプラトン主義=キリスト教 と違うところです。
で、究極の義はともかく、少しづつ義をやっていけば、1回目はできなかったことが、何百回目かにはできるようになると、経験を通して究極に義に近づけるはずだとしたんです。
なぜかとうと、石は1万回上に投げたところで、上に行く性質をもっていないので、いつか上に向かうようにならないですよね。
でも、アリストテレスは、イデア(究極の善)は人間の外じゃなく中にあるとして、その性質を内部に持っているので、やっていくうちに、いつか 神の義にかなう者になりえる としたんです。
で、究極の善は、数字的なものではなく、両極にあるのではなく、中間にあるとした。
例えば、神の義により迫害されたものは幸いなり~ となにがなんでも自分の信仰を貫き、風車につっこんでいくドンキホーテ。
これを騎士道にかなう つまり神の義にかなうとするか?
無謀 と呼びます。
じゃあ、ここはというとき、風車につっこまないのは、、、、臆病。
無謀と臆病は過剰と不足の結果もたらさせるので、どっちもよくなく、、節制をもって、悪になるのを中和できる としたんです。
そういったわけで、中間がなんたるかを知ってやっていくと、やがて究極の人間にとっての幸福になる としたんです。
で、究極の幸福とは何かを考えるのではなく、実行することこそ、人は幸福になれる としたんです。
で、ネットなどで、キリスト教はいかにすばらしい宗教かと口先だけは達者な信者になるのではなく、無言実行である人が、幸福になれるとした。
だって、正しい人は正しくあるために、正しいことをする相手を必要っとするけど、真に正しい人は、その人自身が正しいので、相手を必要としない。
その本質が正しので正しいふるまいをするだけ。
これがプラトン主義(キリスト教)とアリストテレスの違い。
で、今のキリスト教の主流派は、プラトン主義です。
教皇がその一部の神の究極の義を認識できる者としている。
エホバの証人の場合は、人間イエスを それとしている。
ここが違うところ。
教皇かイエスか どっちに従うか ということなわけです。
いずれにせよ、両者とも、イデアは人間の外にあるとしている部分では一致している。
で、エホバの証人派は、、、、どちらかというと、原始キリスト教に近いかも。
でも、アリストテレス派でもなさそうだし。。。。
>3)信じることに、対立があってはおかしいから
要するにわかりやすくいえば、本質がそうだから。
キリスト教って男の宗教ですよね。
男の本質は支配欲です。
万回逆のことをやったところで、人を支配しなくならない。
節制をもってすれば、過剰という醜悪なことをしなくてすむのですが、中庸が何かを認識できないので、過剰になり、結果 自らを苦しめることになり、他人がいなければ、支配者になれないので、布教活動を通じて、自分に従う奴隷を獲得していこうとするわけです。
アリストテレスは、それら宗教を善がなんたるかを知る能力を持ち合わせていない者の、幼稚な神学だと批判しています。
その後、まだまだ政治学に続くのですが、結局 本質が義をもっておらず、過剰と不足により災いを起こす人を、罰という恐怖を与えることで、悪に向かうのを留まらせるしかない としているですね。
要するに、動物は神の義を知る能力が無いので、主人は鞭打って、動物が人間に逆らわないように支配しようとするのに似ている。
だから、信じなければ地獄に落ちると脅すことで、他の人間を支配しようと多くの宗教はするんです。
No.7
- 回答日時:
No.5です。
週一回 三ヶ月ちょっと エホバの証人の教科書について講義を受けました。途中で もう説得できないからだけではなく 何も答えられないと認めて 退席して行きました。
その後も 時々 二人一組で 家々を巡回するようなかたちで 別の組織から 来ましたので 話を聞き ここは こうではないか そこは ああではないかと こちらからも話しました。
★ ??って思うところがありますが / 結局どこで、線?をひっぱるか?ってところですかね。
☆ そうではないということを 一点 具体例で示します。深い溝があるということを証します。
▼ 《この人々(* ことば=子なる神=キリスト・イエスの名を受け容れ 信じた人々)は、血筋によってではなく、肉の意志によってではなく、人間の意志によってでもなく、神によって生まれたのである》。( ヨハネ福音1:13)
☆ この《神によって生まれた》という表現をめぐって わたしの会ったほとんどすべてのエホバの証人は 《わからない》と答えます。
その意味は 《聖書にかんする〈正しい知識〉を知ることによって 証人=としてのクリスチャンになった》というものです。強いて問いつづけると そう答えます。
そこで 《〈知識を得る〉ということは 〈人間の意志によって〉ということではないのか?》と問い質します。《それでは 違う。いけないと ヨハネはここで言っているのではないのか?》というわけですが ここでは かれらからは もう言葉が出て来ません。
良いか悪いかを言う前に かれらは 《信仰》という言葉を口にしていても 《信じる》ということが クリスチャンであることの要であるとは 思っていないということです。文章を正確に覚えること(その知識に則って 生活すること となるのでしょうが)が 一番の問題ですし 実は 二番三番は ないのです。少なくとも 実質的には 信仰は どうでもよいのです。
もっと 実態に即して言えば 《あなたの信仰は いつ どのように始まったのか?》と訊くと 友だちから誘いを受けたからだとか そのいきさつを説明しますが 信じるとは どういうことかなどとは ついぞ考えたこともなかったと 中には打ち明ける人もいるのです。打ち明けない人もいますが そうではなく きちんと《信じる》ということに つまりは キリスト・イエスに 向かい合ったという人は――そうですね その二十人強の中で――いませんでした。
《正しい知識》が すべてのようなのです。それによって・つまり その試験の成績によって 地位と言いますか 役職が上がっていくようです。
結論として 違いは 信仰の対立ではないということです。信仰とは別の社会運動であり聖書学習会なのです。宗教のよそおいを持っていますが。
この回答への補足
ありがとうございます。
難しいです!!
信仰は自由であることを信じて
かつ、生きていく。
出会った、キリスト教が僕の命のみなものと
なることを祈りたいです。
No.6
- 回答日時:
一般のキリスト教徒の定義をご存知でしょうか?
キリスト教徒とは、ニケーア信条(ニカイア・コクスタンティノス信条)か信徒信条の信仰告白をした者をいいます。
しかしながら、エホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)は、それを否定します。
そのために、エホバの証人は、「キリスト教ではない」とされます。
ニケーア信条と信徒信条は、ほとんど同じもので、おおきな違いは、ニケーア信条の主語が、「我々」と複数になっているのに対し信徒信条が、「私は」と単数になっている事です。
エホバの証人は、ニケーア信条にあるキリストの神性を否定し、キリストの復活も否定します。
そのため、聖書も独自の物を使っています。
また、初期のキリスト教においてキリスト教の中に取り込まれた慣例のいくつかも否定します。
イスーターやクリスマスなどです。
それゆえ、一般のキリスト教では、異端とされています。
しかしながら、エホバの証人では、エホバの証人こそが正統なキリスト教であり、エホバの証人の使う聖書こそが正統な聖書であると信じています。
ただし、エホバの証人と同様キリストの神性を否定しているネストリウス派(アッシリア教会)は、キリスト教に含まれています。
これは、ネストリウス派が、長い間キリスト教の集団とは切り離されて存在していたため、ネストリウス派としての統一教義が失われました。近代以降のキリスト教との再接触において、各個にキリスト教の再定義を受け入れた事によります。
そのため、信仰の実際と建て前の間に、不一致がみられてしまっています。(キリストの神性を否定した典礼をしながら、神性を肯定する聖書を使用するなど)
これは一部の単性派教会にもいえる事ですが。
(シリアのヤコブ派は、キリストの三位一体を認めているのにそれを規定したカルケドンの公会議を否定しています)
これら単性派やネストリウス派は、長い間イスラムに包囲された状況にあったため、近世のヨーロッパのキリスト教との再接触にあたり、それらを取り入れる事ができましたが、常に一般のキリスト教と接触しているエホバの証人においては、一般のキリスト教の教義を受け入れる事は、自派の存続にもかかわる事ですから、簡単に受け入れる事は困難であると思います。
No.5
- 回答日時:
エホバの証人の場合 道徳運動かつ聖書学習会というのが その実質的な中身です。
精神的な生活相互扶助の会という側面もあります。教義についても 大きな違いが ほかのクリスチャンから見て あるのですが(たとえば どなたかが触れておられたように 人間であり神であるキリスト・イエスが 神ではなく人であるということなどですが)
いちばんの特徴としての違いは 信仰ではないというところです。その意味で道徳運動やら学習会やら生活助け合いというふうに言いました。
簡単に説明しますが たとえば愛という場合 その概念は 人間の理性で認識するものです。実践としての愛もありますが そしてそのほうが大事ですが これも 言葉で表現して認識します。つまり かれらは 《正しい知識》ということを 基本に据えています。
神についても 同じくです。たとえば 《神は愛である》という聖句があります。この知識が かれらにとっては 大事なのです。少なくとも この命題を自分の理念として 行動します。
どういうことかと言いますと 理念・理性・認識また知識 これらは すべて 人間の経験合理性の範囲におさまります。精神の天井までです。至純の意識と言っても その美が ほんとうは 神ではないはづです。もしその美や至高の論理が 神だとすれば 精神が神だということになります。
つまり イエスも人間であり精神でありますから イエスが(というより すべての人間がということですが) 神であるとなります。神であり得るということです。
これは かれらの教義に反します。イエスは ただの人であり 神ではないという大きな柱があるからです。(なぜそう解するのかは かれらに聞くしかないのですが 特に明確な理由はないだろうと思われます)。
したがって 神について勉強するのですが 神を信じるということは――言葉では そう言うと思いますが それでも―― ありません。精神の天井を超えません。なぜなら 信仰がではなく それよりも 《正しい知識》が第一ですから。
ちなみに 一般のクリスチャンでも 《キリスト教を信じる》と言う人がいます。これは ありえません。教義は 思考の対象です。信じるの対象ではないからです。
信じるの対象は むしろ 非対象です。表象し得べからざるゆえに 考えるのではなく また 考え得ず 信じるのですから。
有対象なら それは 信じる必要はありません。考えます。概念や理念も 心の目に見えるところの有対象です。愛にしても 知恵にしても その経験的な事態を 表象し得ますから。
したがって 《キリストなる神を信じる》 そして 《キリスト教なるおしえを認識し考える》というのが ふつうの態度です。エホバの証人には 後者しかないと言いきっても よいはづです。
No.3
- 回答日時:
宗教は自由で良いとは思うのですが、。
。。。。。私の小さい頃、小学校の帰り道、エホバ信者に声をかけられる事がたまにありました。
独自に作成した絵本を見せて、世界の終わりや地獄絵みたいなのを見せられるわけです。人間が逃げ惑ったり、死んでいたりの絵。正直、子供だったのでただ怖い、世の中は恐ろしい事になると思ったりもする訳です。
子供に声かけて、
今の時代だったら、事件だとおもいました。
宗教者に声をかけられて、小さなこが青ざめて帰宅するわけですから。
あとは、輸血しないとかじゃなかったでしたっけ、エホバは。
あとは、カンパして下さい、、、って言われました。
もう、昔のはなしですが。
ちょっと怖かった。
No.1
- 回答日時:
同一経典でも、経典の解釈次第で抗争や戦争になることはよくあります。
仏教でも日蓮宗は浄土宗・浄土真宗と抗争を繰り広げてきたことは有名
ですし、キリスト教だって「カソリック」と「プロテスタント」で血で
血を洗う抗争があったのは否定できないでしょ?
宗教って言うのはそういう「危ない」側面を持っているんです。
私としては「宗派同士が対立して抗争するの当たり前」でしかないんです
けど、信者ってのはそういうことで悩むんですねえ・・・。
この回答への補足
私が、たまたま出会ったのが、キリスト教であるのだなぁと
考えますし、もちろん、これが、神の導きだと感じます。また、信じます。
でも、これは、自由の上にあるものであると思いますし
もし、そこで、「プロテスタント」ではなく「エホバの証人」であったら
その道を信じていただろうとも思います。
どうであれ、信仰者は、それぞれ神の導きや、仏教であれば御縁?
が、そこであったのだろうと見ています。
なんらかの働きかけがあったのだろうと信じますね。
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