プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

昔はグループで討議するとか、発表するとか、そういう形式の授業は少なかったのですが、今は多くなっているのでしょうか?もしそうだとしたら、その狙いはどういうところでしょうか。

というのも、私はこの形式では学力は低下すると思われるからです。

A 回答 (14件中1~10件)

恐らく、欧米式=ディベートがうまくなると勘違いしてるんじゃないでしょうか?

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この回答へのお礼

そうでしょうね。欧米かぶれの一端なのでしょう。

お礼日時:2008/06/28 10:52

どちらかというと講義する側、聴く側という一方的な形が多すぎた部分はあるでしょうからね。

ただディベート力は学力を高める訳ではないという研究結果はありますからね。あくまで積極的な関わりを促すためという部分なんでしょうけどね☆
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この回答へのお礼

そうですね。なにか教育が一方通行ではだめだという脅迫がどこから出たのかまた不思議です。

お礼日時:2008/06/28 22:00

最近は多くなったのか知りませんが、いわゆるバズ形式というやつですね。



このスタイルのメリットは、クラス全体の中で発言するのは遠慮がちな生徒でも、そのグループの中でなら、気軽に意見を出せる、という点です。普段、受身で授業を受けていた生徒に、積極性を出させる効果があります。

また、プリントに取り組むような、作業的な学習でも、このスタイルだと、生徒が、ちょっとわからないことがあっても、気軽に?グループの人に聞ける、と言うメリットがあります。

サラリーマン教師だと、このスタイルをとることで、授業中は教室内を散歩しているだけで授業をやったことにしてしまえる、と考えている人もいるでしょうかね。本当はこまめに各グループの指導に当たらなければいけないのですが。
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この回答へのお礼

なぜ、学習する時間であるのに、発表する練習などしなくてはならないのか、そこからしておかしい話だと感じます。それは、もっと違う機会に持てばいいのでは。
こういう学習形式を導いた考えがどうもわかりません。

お礼日時:2008/06/28 22:02

>というのも、私はこの形式では学力は低下すると思われるからです。



なぜそのように思われるのでしょうか?

この回答への補足

ない知恵を出し合うことになるからです。

補足日時:2008/06/28 14:52
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 今70代の元中学教師が「昔、自分のクラスではグループ形式で授業をさせ・・・」といっていたので昔からやっていたのでしょう。
 
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この回答へのお礼

端緒でしょうかね。

お礼日時:2008/06/28 22:02

#3です。



私の回答では、発表云々までは触れませんでしたが、グループで学習するということよりも、グループで「発表する」ことに問題を感じているのでしょうか?

>なぜ、学習する時間であるのに、発表する練習などしなくてはならないのか、そこからしておかしい話だと感じます。

学習指導要領に明記されています。(笑)
発表する、表現する、と言う要素も、大事な学習内容となっています。
昨今は、とりわけ、この発表・表現の能力の低下が叫ばれているようです。グループ討議と言うのも、自分の意見ばかり主張して、「ほかの人の言うことに耳を貸さない」ような人が増え、集団生活に支障をきたしている?からかと思われます。

教員採用試験の集団面接でも、グループ討議と発表は、面接科目に入っていますよ(笑)。

質問者さんの前にいる、その教師の授業のやり方がいまいちで、やる意味を感じていないだけでは?

>もっと違う機会に持てばいいのでは。
授業以外と言う意味でしょうか?授業以外でやらされるほうが、かえって迷惑な気もしますが・・・

#4での補足に質問者さんは、
「ない知恵を出し合うことになるからです。」
と答えていらっしゃいますが、ない知恵を出し合うと、学力が下がっていく理由がわかりません。また、ない知恵は出し合わないでいた方が、学力が上がるというのでしょうか。


ところで、グループ討議が増えただの減っただの、どこで仕入れた情報でしょうか?その辺りからして???なのですが。

この回答への補足

お例な後ほど書きます。
ない知恵を出し合うよりも、ひとつでも教科書に書いてあることを覚えたほうが、各人のためではないかと感じます。それが究極的に不要でも何か残ります。学んだことという意味で。しかし、ない知恵を出し合って時間をつぶしても何も残りません。

補足日時:2008/06/29 13:12
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この回答へのお礼

おっしゃるような意図を学習要領に盛り込んであると走りませんでした。昨今は自分の話しをするばかりで人のを聞かないという雰囲気が多いですからね。その点は評価できると思います。

で、もちろん発表するということにも意義があるでしょう。しかし、私の印象では、それはかなりあとでもいいのではないかと。自分では煮詰まるところまでに詰まって、あとなにか出口が見えない。みんなの中でそれを発散させたい。そういう動機があってこそ生きる気がしますね。

要は、今のグループ形式授業は、形式のための形式に過ぎないのではないか。

お礼日時:2008/06/29 13:18

小学校に勤務しています。



>今は多くなっているのでしょうか?

私が子どもの頃(私は50代です)より確かに多くなっていると思います。

>もしそうだとしたら、その狙いはどういうところでしょうか。

活用能力を育てるためです。知識は答案用紙の空欄を埋めるためだけにあるのではありません。私たちの身の回りに活かせてこそ学ぶ喜びも感じ、学習意欲も増します。討議では「○○の答えは何ですか?」ということはなく、根本も含めて様々な展開が期待されます。

>この形式では学力は低下すると思われる

確かにそんな面も心配なのは教員も感じている、それは事実だと思います。効率よく知識を注入するよりは無駄も多いのです。私もやり方や条件によっては学習とは呼べない事態も経験しました。でも、一長一短なのです。こんな学習のねらいは課題に主体的にかかわること。「迷いながらでも自分自身で辿った道と他人に案内されてた行った道とでは、前者の方が我が身に付いていると感じる」のと似たものだと思います。

>欧米かぶれの一端なのでしょう。

このごろは「学力の国際比較」により、国内の教育に対する要求もかわってきていますから、「欧米かぶれ」という感情的な表現はどうかと思いますが、「日本だけに通用する学力観」では社会に受け入れられなくなったというのはあると思いますね…。
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この回答へのお礼

一人で学習するという普通の勉強は、それこそ「迷いながらも自分自身でたどった道」ではないかと感じます。人から教えられようと読書で手に入れようと。むしろ、郷というか集団の中で埋もれてなにかやったつもりになるのが「案内されて」ということのニュアンスも多いのでは。

わたしの場合、聴覚に問題があり、集団討議(しかも同じ教室で何グループにも分かれて話し声の音響がすさまじい)状況で、コミュニケーションに支障をきたす事情もあり、こういう考えを助長するものなのですが、ほかにも、吃音とか弱視とか色々障害もあるかと思い、その考慮がなされないことに危険性を感じています。児童は、それこそ一律に扱えるのだという基盤でなっている話らしいので。

お礼日時:2008/07/01 08:22

学力とは? 体力(体育)・徳力(徳育)・知力(知育)をバランスよく高めることでしょうか。



 「知力」についても、単に知識を得ることが重要なのではなく、知識を得る過程で、頭脳を働かせて鍛え、得た知識を活用・応用できるようになってこそ意味があるのです。
 もうひとつ、知識を得て教養(Culture)を高める=心を耕すとは、情緒を豊かにして人間性を養っていくことも大切です。これらは直接、知識そのものがもたらしてくれるのではなく、知識の活用・応用へと、もう一歩前進させてこそ得られるものです。
人間、知識の量では、百科事典や電子辞書にはとてもかなわないので、知識の量を競っても意味はありません。大切なのは得た知識を活用・応用すること、それも[社会人」として他人とのかかわりの中においてそれが実行出来ることにあります。
 質問の趣旨に戻りますが、私の経験と知る限りでは、日本人(子供)は知識をベースにペーパテストではそこそこの成績をとっても、人お前で話すことは決して上手とは言えず、国際社会で軽んじられることが多いようです。
 現代(過去も)日本人の弱点のひとつであった人前で自分の考えを話す能力の醸成こそ、知識教育以上に現在の学校教育で力を入れるべき課題と考えます。  同時に 体育・徳育 の重要性も忘れてはならないでしょう。
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この回答へのお礼

知力はもちろん知識を得る家庭で頭脳を働かせですが、それは普通の一人学習で十分に発揮させることです。そして、教養もまた叱りです。

確かに、そのベースがあって、それを共有しましょう発展させましょうという趣旨でグループが出てくる過程は分かります。しかし、そのベースを付ける過程からそれをやるのはナンセンスではないでしょうか。つまり、
「話す内容を自分に醸成させて始めて討議するに足ることになる」

お礼日時:2008/07/01 08:25

私は50代ですが、(昭和40年代初め)私の通っていた小学校(九州の県庁所在地にある普通の公立小学校)ではグループ学習(バズ学習)が盛んでした。

そのころのことを考えても、グループ学習自体がいいとか悪いとかいうものではなく、そのやり方がうまくいくかどうか(教師の指導力や児童の資質)によって学力が伸びたり伸びなかったりするのだと思います。私自身についていえば、グループ学習だから特に学力が伸びたとか、逆に学力が伸びなかったという記憶はありませんが、理科のモーター・ベルの工作など、自分の分は速攻で作ってしまい、友達の(特に女の子の)分をたくさん作ってあげた記憶はあります。

現在の職場の若い人を見ていると、メールや携帯電話など便利なツールが身近過ぎるせいか、人と直接向かい合って話をしたり、自分の考えを他の人にわかるように説明したりするのが苦手な傾向があるように感じます。たいていの職場では個人ではなくグループで協力して仕事をしていることもあり、そうした意味ではグループ学習を昔とは違った意味で大切にしたほうが良いのかもしれないと考えています。
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この回答へのお礼

理科のモーターベルで、回答者さんご自身は、足止めを食らったんですね。そこで、学習以外のコミュニケーションがあったのだが、それは学力とは関係ない話です。いわば、遊びコミュニケーションに近くないでしょうか。
なにか、「学習」の場と「討議」練習の場と、なぜ一緒にしなくてはならないのか、どうも結び付けられません。

お礼日時:2008/07/01 08:28

勉強は暗記とか自分ひとりで考えることだけでなく、


みんなでひとつのことを考える。
それに対してグループの意見をまとめる。
なども立派な勉強です。

暗記などの時間が減る分そういう学力は減るかもしれません。
その代わり、別の学力がつきます。

過ぎたるは及ばざるが如し。
今までの記憶させることに偏った勉強が良くないと考えられているから、他の部分の勉強にも力を入れるようになりました。
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この回答へのお礼

みんなで考えて答えを出しやすいでしょうか?それは結局「できる子」が一方的に開示するだけじゃないでしょうか。
確かに、グループで集団的に形作る、それはひとつの勉強でしょうが、それは「学力」とは関係ないいわば体育の授業でやるような「集団行動」の一種ではないかと。

お礼日時:2008/07/01 08:30

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