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 前者だと考えるのですが もし

 ○ 生命を賭してでも これこれの使命を果たせ 

という存在理由を持ったとした場合 どう考えるでしょうか。
 A. 存在こそが大事なのだから その使命とやらが あやしいと考えるのか。
 B. いやいや おのれの生涯を賭けた使命としての存在理由なら 存在そのものなのだから おのづと答えは知れているとなるのか。

 * 人間は考える葦だとは よく言ったものですね。このことで考える余地があるということが 人間なのでしょうか。

A 回答 (43件中11~20件)

こんばんは、brageloneさん。



●存在と存在理由とは どちらが大切ですか



このお題を眺めてると、うちの母さんの胃にできた癌のことにふと気が向く。うん、胃の袋の外側から癌が浸潤、内壁が外から押されたように腫れ上がり瘤状に隆起、隆起が起こったのが胃の出口。瘤が大きく出口を塞ぐほど、食べたものの通り道は針一本通るか通らないかほどのわずかな隙間しかない。

はじめ、内視鏡でのぞいて調べてみると状態は悪性の癌の形状を呈しているのだけれど、胃の内側の細胞を何箇所か採取し検査すれど癌の腫瘍マーカーは低い値。血液検査も造影剤入れての検査でもそれらしき数値はあらわれない怪しい影も映らない。手術に踏み切るにたる理由がそろわないらしく様子見様子見と時間だけが過ぎていく。良性の腫瘍ならば薬で小さくとの様子見であったそうなのだけれど、いっこうに腫れは小さくならない。そうしてる間に2度極度の脱水症状にみまわれICUへ。状態が落ち着いたところで生命の維持を優先、開腹手術が行われた。開けてみると胃の外側の壁に癌ができており、あけた時点ですでに癌細胞は腹膜に飛び散っていたそうだ。取り切れないほど。胃の出口を塞いでいた腫瘍を切除。胃の3分1を切り取り、胃と十二指腸とを繋ぎ合わせ口から物が食べられる状態になるようには手を尽くしましたとのこと。その時点で余命宣告3ヶ月。その後、抗がん剤治療を月1回受けている。抗がん剤を投与すると投与してからの2週間ぐらいは口の中の感覚がおかしくなるらしく、何を食べても苦く感じ食欲が低下するのだそうだ母さんの場合は。抗がん剤を投与して20日を過ぎたあたりから口の中の感覚も徐々に戻り体のしんどさも和らいでくるとか。いくらかスッキリした状態でいれるのは月の内10日ないし7日ほどの間だけ。それが過ぎればまた次の月の抗がん剤投与の日がやってくる。抗がん剤を投与した後は傍で見ててもほんと辛そうなのが痛いほどよくわかる。何でそうまでして苦しくしんどい治療を続けるのか?母さんの選択肢には抗がん剤投与を止めることも選択肢のひとつにあるのに母さんは苦しくしんどい治療を続けることを選択した。月1回訪れる病院、病院の待ち時間は長い、その待ち時間の間に何ヶ月も入院していた病棟へ足を運ぶ。母さんが退院した後もまだそこに入院している患者仲間の見舞いに。病室から病室へ顔を出す。長く入院生活が続き闘病が続くと誰しも塞ぎがちに、そこへ病気しても口だけは達者な母さん「ほらみてみ、わたしまだ生きとうで」とあっけらかんと言ってのける。ともすれば道化のごとく頭にかぶった手編みの毛糸の帽子をとってハゲタ頭を人目にさらす。「やっとここまで生えてきたわ」とさらっと言ってのける。すると、さっきまで静まり返っていた病室から笑い声があがる。母さんが入院していた頃からいた人たちだけに母さんの最悪な状態を何度も目にしている。入院中の母さんを目にしてるひとなら退院していくとき「あのひともう長ないな」と、思ったことやと思う。なにせ、余命宣告3ヶ月。ところが、ひと月に1回こうしていまも抗がん剤を投与しに病院へやって来ている。同類相憐れみではないけれど、病に伏せる者は元気な者からの励ましよりも同じ様にどこかに病を負っている者からの励ましのほうが時に元気になる。というよりも、病に甘えているのをみぬかれるから早々仮病は通じない。入院が長くなるとネガティブにもなる、そうすると、本来の病とは別に病は気からの病を自ら纏ってしまう。「もう、わし(わたし)あかんのんちゃうか。。。」といった言葉を口にする。そこへ母さんの一言「大丈夫、大丈夫、わたしまだ生きとうし、毛ぇー抜けてもちょっとましたら生えてくるし心配せんで大丈夫、大丈夫。なんやったら毛糸の帽子編んできたろか?」と言った調子。



【腫瘍マーカー】
http://www.onh.go.jp/seisaku/cancer/kakusyu/syuy …

この回答への補足

 littlekissさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 主はマムレの樫の木の所でアブラハムに現れた。
 暑い真昼に、アブラハムは天幕の入り口に座っていた。
 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。
 アブラハムはすぐに天幕の入り口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った。
  ――お客様、よろしければ、どうか、僕(しもべ)のもとを通り過
   ぎないでください。水を少々持って来させますから、足を洗っ
   て、木陰でどうぞひと休みなさってください。
    何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お
   出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったので
   すから。

 その人たちは言った。
  ――では、お言葉どおりにしましょう。

 アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。
  ――早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえ
   なさい。

 アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。
 アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。
 そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした。

 彼らはアブラハムに尋ねた。
  ――あなたの妻のサラはどこにいますか。
  ――はい、天幕の中におります。
とアブラハムが答えると、彼らの一人が言った。
  ――わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころに
   は、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。

 サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。
 アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。
 サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。

 主はアブラハムに言われた。
  ――なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれる
   はずがないと思ったのだ。
    主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに
   戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。

 サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。
  ――わたしは笑いませんでした。
 主は言われた。
  ――いや、あなたは確かに笑った。

 その人たちはそこを立って、ソドムを見下ろす所まで来た。アブラハムも、彼らを見送るために一緒に行った。
(創世記18:1-16)

 * わたしの場合は のぞみがかなえられなかったので なんのもてなしも出来ず 面目ありません。

補足日時:2008/09/19 07:46
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何かごっちゃになってました。

ANO31です。 回答をここに続けます。

bragelone様がANO27にてのお礼文の最後に書いてくださった

>☆ ちょっと この結論に近いところを わたし自身にとってのこととして すでに 触れる機会がありました。それは No.25補足欄です。それをたたき台にしていただいても いいですし。と思いますが いかがでしょう。<

の文に、対応しつつ、結論の文へと移ってゆきます。

No25の補足欄読ませていただきました。

「キリスト教の修道院の方々の生活が = 存在へのありあまる感謝の心に貫かれている姿」かどうかは、 私には神様でないので解りかねるといった疑問は無いわけではないですが、

そのように語りたい気持ちはよく解るつもりです。

まず、そのへんのところで、僧については、与えられてる命への謙虚さに欠けるとの指摘がありましたが、 それは神の概念がなければ、そこにはその必然性があってもしかたがないとも思います。 また、僧の中の誰だったか西行という名前だったか 「かたじけなさに涙ながるる」という詩を残してるわけですが、 これは神という概念なしにも 存在してることへの涙がながれてしまうほどの感謝ということではないでしょうか?(またまた その言葉の前後を知らない無学なものからの感想なのですが、その言葉はかなりはっきりしたものですので。)

いずれにしても、その感謝の心、がこの質問の答えのアルファでありオメガなのかもしれません。  

前者、つまり「存在」への感謝こそが 先でありつつ、 がゆえに同じ命に対する深い心をそこに見つけた時、  そこにのみ 真にその命をさへ思わず捨てるという行為が 同じ重さを持てる、 という感じの心の世界の事です。

あるいは これは数字とかでは測れない世界であり、 そのように人間として「友」と思え、「兄弟」のようにも思え、他に偽りの心なく純粋にそう思えての 本気の行為であったなら、  それが AB等しく極限の荘厳な重みを持つのでは といった感じです。

母親が子供が車にはねられそうになった時に思わずそこに飛び込んで子供を抱こうとする。 これが理屈ではないことは誰しも思うところ、 それはまた子孫を残す本能でもなく、かといってその義務感という意識でもなく それもあるにせよ、人間の人間としての ふるさとの心、 最も純粋な微笑みで出会い(ANO31で書きました赤ちゃんの最初の笑いのことです。)それがどんなにすばらしい存在からの恵みであるかを知った人間のその何がしかの人間意識からの無心さ、 だと思うのです。

消防士とかは 人間のそのへんの感覚が職業によって磨かれるという心理もあるのかなと思ったりもします。 責任感の力の好循環の世界です。
それによってそれが使命という道徳意思煮も意志にも昇華した姿かと思います。 この場合 自分の命をも助かろうと必死だと思いますが 逃げなかったということを意味します。  まさに尊い姿と思います。

殉教については、私は詳しくその例とかを知りませんが、盲目的でない限り、上に順ずると思われます。

母のような体験をすれば、その空間のかぎり 理屈では考えられないような深い強さを持てたりする時もあるかと思います。   また職業による責任感がうまく深められた時にも人は苦をも越えてゆくのかもしれません。

しかし、そのようでないときには、私たちはまるで木の葉のような意識の状態です。  極限の善どころか その逆の偽善者にも少なくとも心がそまってしまいます。そまりきらなければ、その行為とかは回避できるものであったとしてもです。  けして、 なんの混じりけも無い愛情での満ち足りているということは無いほんとに弱き存在だと思います。

無理すれば善は偽善の心の二重人格の世界へと陥ります。 それを回避するには、 けだし、感性の教育が可能ならば、という結論に私の場合にはなってしまうということです。 そこに行きついてしまうのです。

感性が深ければ 感謝せずにはいられなくなると思います。 それをすべきことすべてにおいてです。 そしてその分に応じて B「真の人間」に近づいてゆけるのではと思います。

ここで、最後のもう一度No25に戻ります。

すみません。その歌の題名は忘れました。 修道女が 聖ドミニコだったかの雄姿を歌っ歌です。  その感性は修道女というと淑女なのでしょうが、そういったことを越えた確かに純粋な すべてへの感謝の気持ちが信仰だということをリズムや声の中に表現されていた歌でした。

一方 確かに、現代人なのに、お坊さんたちはなんで、その静かな心の内を歌では示してくれないのか? これは神秘主義とか ヨガとかの人達にも同じことが言えてしまう疑問です。  下手だって もし本気でその歌の心を誰よりも深く解釈できるというのならば、 その心は歌いこむほどににじみ出てくるはずなのですから。   そう思うと、bragelone様の仏教とかへの批判は そのへんは解る気もする者です。

以上です。


  

この回答への補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。

 No.31へのお礼が 少しこのご回答には 間に合わなかったようです。そのNo.31のやり取りで かなり 煮詰まってまいったと思います。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 人間の人間としての ふるさとの心、 最も純粋な微笑みで出会い(ANO31で書きました赤ちゃんの最初の笑いのことです。)それがどんなにすばらしい存在からの恵みであるかを知った人間のその何がしかの人間意識からの無心さ、 だと思うのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この《存在からの恵み》のあたりのことも すなわち言いかえると
 ★ その感謝の心、がこの質問の答えのアルファでありオメガなのかもしれません。 
 ☆ というあたりのことも それが 必ずしも
 ★ つまり「存在」への感謝こそが 先でありつつ、 がゆえに同じ命に対する深い心をそこに見つけた時、  そこにのみ 真にその命をさへ思わず捨てるという行為が 同じ重さを持てる、 という感じの心の世界の事です。
 ☆ というときの
 ★ そこにのみ 真にその命をさへ思わず捨てるという行為が 同じ重さを持てる、 
 ☆ という事態へとは導かれていかない道 これを わたしは そのずるさから 追い求めます。

 ★ 修道院の方々の生活が = 存在へのありあまる感謝の心に貫かれている姿」かどうか
 ☆ これは わたしが 偽善と言いますか 《上げ底》として 言いました。
 ★ 僧については、与えられてる命への謙虚さに欠けるとの指摘
 ☆ は 故意におこなった《下げ底》です。でも 
 ★ 西行
 ☆ ではありませんが 一般に ブッダの徒は その自己表現が あいまいです。
 芭蕉にしても かれは 失意の果てのことではないでしょうが やはり 旅に出ます。このわれらが世の中は 人をして さまよわしめる何かがあるように思います。ふつうのまともなことを言っても 暖簾に腕押しのようです。功成り名を遂げて そのあと 初心を 自由に堂々と 述べるという人も いるように思いますが そのときには 初心が 息吹きとして 半減しているかに思われます。
 ★ 「かたじけなさに涙ながるる」
 ☆ あるいは 何でしたっけ 《「若葉して 御目(おんめ)の雫(しずく)拭(ぬぐ)はばや」 (芭蕉)》ですか これにしても どこか 内向的であり 昇華してゆく動きであり 《コミュニケーション》が 迂回するような恰好に映ります。
 迂回して来て 伝わったあと では どうなるか。どうするか。同じく 内面のいと高きところに こころの清きと美しきを見るという美学に行き着く。えらいさんに ふざけんな! の一つや二つを言っても いいと思うのですが。だんだん ガラッパチ振りが 現われてまいりました。それこそ 歌の一曲くらいは 歌ってみろと言いたいです。でも あまりきれいな歌だと みな 引いてしまうかも知れません。ずるずると 底なし沼に引きずり込む何かがあると言ったのは 遠藤周作でしたか。(かれを わたしは 買っていませんが)。
 まとめて もう一回は コメントをいただけると思っています。

補足日時:2008/09/18 22:27
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ちょうど、ある失敗から ともかく「ゆっくりじっくり」一つ一つ進めていこうと反省したばかりだったので、  たいへん細かい補足要求の形となってしまいました。

  

ありがとうございます。 よく解りました。

パスカルについては「その言葉」しか知らなかった無学な者からの 面倒な補足要求を書いてしまいましたが、 にもかかわらず丁寧なコメントありがとうございました。

ご質問文の>~とは よく言ったものですね。<という文脈からも、 生死の境を問題としているのだから、力も頭脳も役に立たないような状況下にても人間はそれでも命をさへ顧みず、出来る出来ないにかかわらず、純粋に前に進む時がある。 その時の在り方のあたりをこそ質問されてるのだな

とは感じてはいたのですが、(そうだろうと思ってはいたのですが)一応そのへんも確認させていただいたしだいです。

そして そうであれば、すでにAやBの質を問う必要もなく、意味合いの深みは理解できるところだと思います。

わざわざ、「極限の場合か?」などといった極端な言葉を使ってしまいましたが、 その意図までよく読まれて汲み取ってくださってありがとうございます。  

御例示の【「母親の例」「チェルノブイリでの例」「殉職の例」】は すでに読んでいた上での質問だったので、よけいに、必要の無い補足要求をしてしまったという気持ちになります。

結論の方を書く紙数があって助かったという気持ちです。

正式に回答しなおします。

***

まず、動物の場合はどうでしょう? 例えば、集団と集団の食べる以外の勢力争いにても 一見仲間のために命を落とすような行為はありえるかと思います。(すみません、たしか戦争の場合は除外されてるかと思うのですが、動物は純粋なので人間との比較から思索をすすめることができるように思いましたのでとりあげました。)また、 母親が子を守って命を落とす場合もあるでしょう。

くわしい生態学やその実例は知りませんが、 仮にそのような場合があったとして それは、人間が他の人間のために命を落とす、あるいは捨てるという時と どのように違うのでしょう。

私自身は この問題をここにて深追いしたい気持ちなのではないのですが、 本能にて生きるための意志のみがすべてでゆとりというものをそこに持たない動物たちにとっての「仲間」という集団行動心理とかは、 

「自他を見つめる」までに脳がおそらくいきなり進化した人間(これは猿が地上の降りて苦労の末獲得した能力であろうと、まるで突然変異的だと私には思えてしまいます。)、それによって反省し、進歩し、とうとう言葉まで獲得し、かえって複雑となり「自他を見つめる」人間意識のあたりは薄れたかもしれなくても、 あいかわらず、赤ちゃんはいきなり“動物より最初は劣るかもしれない人間性の能力”を発達させ、 希望という名の最初の笑いという第二の誕生を向かえ(荒削りな考えでしょうか)、人間となっていきます。

そんな人間が、他の人間のために命を捨てる時には、 恐怖その他、おそらくまったく違うものがあるかと思うところです。

母親の場合はどうなのか?というあたりが問題だと思います。

というふうに、一応問題提起させていただきました。

***
人間の場合、命を捨てるという場合、心のどこかに人によってはかもしてませんが、未来永劫過去幾百億年他に存在しなかった、そういう存在である自分(ここでは厳密に記憶意識体の主体として捕らえられる存在。 魂という時には神が関係してくるはずだと私は思っていますが、ここでは略してもいいと思います。あるいは、仮に記憶意識体の主体を魂と呼んでおいてもいいと思います。)というその意味での絶対個が、まったく別の個に対して命を捨てるわけです。    それだから いつもそれは厳粛で荘厳な何かだというわけではないという考えも 私の中にはあるわけですけど(細かく書けばです。)、  御例示の3点のような場合は  ほとんど荘厳な何か、あるいはそれを教えてくれる何かという気がします。

その深さを問おうとすると、再びキリストの「人のために命を捨てる以上の愛は無い」(高校時代にての たぶん何度もよんだ記憶ですので箇所とかは解りません。) という言葉の探索になるのではないかと思うところ、  やはり、「人間の弱さ」がいかなるものかを考えると、 そこへの一歩一歩の深さ、またその過程の大切さという論議になっていけたらと思ってしまうところです。

このあたりの 逆の「人間の弱さ」についての論議は まだ出ていないかとおもいます。

***

そこからの結論という形の回答を考えていたのですが、 その前に、ひとつ、ここに付け加えます。 

共産主義の可能性と関わるOKウェブ上での私の質問は、ご回答の中に「粛清」の現実を私の中に呼び起こす一言があり、 いきなり閉じてしまったわけですが、  それを閉じるご挨拶をしている間に、私は涙が後から後からでてきました。   それは、過去の共産主義であれ、そこに「なんとかそのほんものさへやってきたらみんなが愛し合えるようにもなる。」とそれこそ魂のそこからの叫びのように祈っていた人達を 私自身が知っているからでもあるのです。  共産主義のカモ達なんて言葉でくくれるような庶民の姿を越えています。    日本の方々(ご夫婦)です。  おそらくロシアにもそういう人達がたくさんいて 

そういう人達こそ、その犠牲者たちでもあったのだと思うと どんな絶望がそこにあったのだろう? どんな無念さ、心の苦しみ、もがき、    底知れないその何か。      言葉をこうして私は失いました。  あとからあとから涙が出てくるだけでした。

彼らは 唯物論者だからといって キリストのいわれる命を人のために捨てた人達ではない でしょうか?   彼らは失敗者でしょう。  でもだれがそうした庶民の涙を非難できるでしょう。

それだけ付け加えておきました。

なお、哲学にては なおのことであるほどに共産主義の新しい可能性を探るべきという考えを捨てたということではないのですが、   私は哲学よりも、もしなんとかできるものなら、    今苦しんでる人が 助かることに自分の生きてることがつながることのほうがだいじなのです。
何が出来るかは、ともかく 私には命を与えるという行為は生物の恐怖ゆえ出来ないでしょうけど(いざという時どうなるのかは私にはまったく解りませんが、私は自分の弱さを知りすぎています。)、せめて、 すべてはそこに向かうのです。

***
((結論はお礼のスペースのほうへ続きます。))

この回答への補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。

 じつは じつはですね じつに わたしの考え方は ひじょうにずるいと思います。きわめて 醒めています。次が それです。
 ☆☆(No.27補足・お礼欄)~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ 問題は どうしたら人は そこまで真心だけになれるかだ。 その一歩一歩は?   逆から書くとそうなるのですが。?     
 ☆ という問題に突き当たるのですが わたしの姿勢としましては あらためて
 ○ 存在かつ生命を どこまでも とうとぶためにも 〔使命と言うか言わないかを問わず〕 このような或る意味で特殊な事態について 考えを及ぼしておきたい。
 ☆ という まだ 醒めた状態ではいます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ このことが 次のようにおっしゃるところと 同じであるかどうか。
 ★ このあたりの 逆の「人間の弱さ」についての論議は まだ出ていないかとおもいます。
 ★ (いざという時どうなるのかは私にはまったく解りませんが、私は自分の弱さを知りすぎています。)、
 ☆  わたしが 自分について《ずるい・醒めている》というところを arayata333さんは 《人間の弱さ》として 捉えておられるのかどうか。・・・
 ★ 私は哲学よりも、もしなんとかできるものなら、    今苦しんでる人が 助かることに自分の生きてることがつながることのほうがだいじなのです。
 ☆ これが 次の文章と同じ趣旨であるかどうか なのですがけれど。・・・
 ☆☆(No.13お礼欄)~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・やはり
 ★ 他者から見る
 ☆ ことをしておかないと なにもかも 主観的なおこないになってしまうと まぁ 存在理由と存在とが 合わさったということでしょうけれど それでも 殉職や或る種の犠牲もないようになるということでないと やはり 《その一瞬》にも 自己の命にも顧慮して欲しいのだから やはり勇気をたたえるだけではなくて 何か対策なり何か 人に注意を促すために 超能力はないものかと 少しは考えてみてもいいかと 《ぬちどたから》をやはりつねに顧みて欲しいと思ったりしたりなので。

 ということは 日常生活において 危機に導かれていきそうなその思想(* 生活態度のことです)の段階で なにか 注意を促すような 互いの関係性としての存在から 光のことばを 発するほどの魂の磨きを心がけておかないと。
 そういえば ここの場で けんかはいけないと あまり言わないで やり取りをしていけば いいのではないかと思ったり。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すでに質疑応答を読んでいただいていたのに 読んでくださいと言って すみませんでした。全体として 確認したほうがよいかなという感触がありましたので 整理しておこうと考えました。失礼しました。

 使命という言葉は それを出せば 話が早いと思ったので出しましたが このようであってみれば(つまり 上のように醒めた見方をしているのであれば) 将来の先の方に見据えようとしていることは 《〈隣人のために 命を投げ出すことの貴さ〉を超えて 互いに 犠牲を出さないようにするには どうすればよいか》 こういう問いであるのでした。考えてみれば そうなります。

 * ちょっと 質問の仕方にあいまいさがありました。つまり たぶん はじめから 醒めた姿勢はあったのだと思いますが そのことを 一向に表現出来ていなかったようです。なぜだかと考えるのですけれど。そして 途中で さも自然に その姿勢を出して来ています。事情を明らかにし得るのみなのですが。

 * わたしの場合は その昔 チェルノブイリ職員の殉職に接して 感じるところがあったようです。

 * コミュニズムの代わりに 《ヤシロ(社)イスム》くらいは どうでしょうか。

 * 無神論は 有神論と 同等・対等なる広義の信仰類型であるというわたしの持論があります。有神も無神も その信仰の対象(つまり 非対象)は 表象し得ないものでないといけませんが。表象し得るものは 偶像であり しかも 偶像は偶像として 神ないし無神の 仮りの代理の表現であると 分かっていればよいわけだと思います。

補足日時:2008/09/18 21:24
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★ 「存在理由」の・・・深さと、実体性


 ☆ とは どういうことでしょう? 特に
 ◎どういう存在理由を意識しているか、その理由と意識が、事物的存在の根本にどこまでせまっているか。ということ。
 ◎実体性とは、理論でそう演繹していくのと同時に、実際にそういう自分になっているか、ということ。そのような自分が生きているか、生活しているか。ということ

 ★ 実体性
 ☆ とは いったい 何のことでしょう?
 ◎上記をご覧ください

 ★ 自分をどういう存在として・・・有らしめている
 ☆ この意味が 理解できません。
◎自分を何だとしているか、そのように自分を生きているか。存在させているかです

 ○ 自分が 自分を 存在させている。
 ☆ ということなのでしょうか?
 ◎自分が自分の存在をどう認識し、そのように自分を生きているかということです。ことばや論理演繹、ものの本ではなく。

 ★ 創造の当為
 ☆ というとき 《創造》およびその《当為》とは いったいどういうことでしょう?
 ◎世界が自然に出来て、今日にあるのか。何かの理念や当為があるのか。ご質問は理由を云々しています。理由をいうなら、最後まで問い詰めることになるでしょう。そしたら世界のこの存在という状況のりゆうまでいくのでしょう。そしてそれの生まれた理由まで。理由とは当為の中のカテゴリでしょう。仮にも理由を云々するなら、存在は当為であるということを言わないですむのですか。そしたら世界は創造にかかるものであり、それは当為による。と行かないで、そういうことからの、理由云々の問いかけとしないと、中途半端、不十分の追求ではないですか。そういう世界の一部が、全部かな、が質問者さんでしょう。そしたら世界の創造の当為と関係ない、存在の理由などをどうして問題にするのでしょう。問題には為りえないでしょう。世界というものを堂見るかですね。

 ○ 自己が 何ものかによって《創造》されたと 分かる・自覚する ◎ことができるということでしょうか?
これを回答することは、今は一定の宗教の問題に為り、ご自分で世界と自分のご思索をしてください。

 ○ その被創造において 創造の主体が 人間に何らかの《当為》を与えているということでしょうか?
 ◎上記回答を思索してください。

 ☆ その《被創造》ということと 先の《〔自分が〕自分をどういう存在として・・・有らしめている》かということとは 矛盾していませんか?
 ◎矛盾はありません。

 ★ 究極理念、存在理念
 ☆ とは おのおのが抱くいろんな《存在理由》のことで いいですか? 
 ◎世界創造を自己の思索の中でどう捉えるかの問題でしょう。

 ★ 理念たる当為
 ☆ もし《各自が自由に抱く存在理由のその理念》のことであれば それが その人にとって 《為すべきこと》となるという意味ですね?
 ◎理念というもの、それはあなたの理由の中で目指すものであり、理由が立脚しなければならないものですね。そしてそれは自然にそこらにころがっている、たまたまのものではなく(全てはそんなものではないが、)、必然のなかの当為、つまり実現要求命題という形になるでしょう。理念とは当為が立脚し、実現を要求している価値でありましょう。

 ★ ご自分という《存在》を、本当に〔* 《存在理由》かつその〕当為だとしてい・・・いれば、同じものですから、二者択一は存立しえないと存じます。 
 ☆ そういう論理になるでしょうか。ところで そういう場合には
 ◎新たな回答、イエスのことを思ってください。私は伝統的クリスチャン(しそうとしてのキリスト信奉者)ではありますが、既存のクリスチャンではありません。

 ★ 深さと実体性
 ☆ があるということなのでしょうけれど それらは いったい そういう現実の事態であるでしょう?
 ◎先にお応えしてありますので。ひたたくいえば、自分の本物になっているかどうかなのですが。

 論理の空想を 虚構として 抱くことが 現実だという意味でしょうか? それでは 《当為》も何も 関係ないですね。虚構であることが いけないのではなく 虚構の中に わざわざ 何も行なわないのに 《当為》などという概念を入れていることは おかしいと思いますが いかがでしょう?
 ◎そういうことは申し上げていません。事実が事実であるという意識をご検討ください。理由を云々する方は、いかなる物事にも理由があるのだという思考をお持ちください。それは当為という存在であるという思索をしてください。そしてそれは究極まで、現に支配している当為に依拠しなければ、存立・現存しないのだという、思考に到ってください。

 一言で言って いったい何を言おうとしている内容なのでしょう。
 ○ 人それぞれだ。こんな質問 やめてしまえ。
 ☆ ということでしょうか?
 ◎そういうことは申しておりません。こういう風にいってきたことは決して無駄な言葉をつらねていませんし、省けるものはありません。
 全て凝縮し、選び、研ぎ澄まし、磨いたことばであります。
 それを一言でいうことは出来ません。
 何を言っているのか判らない、というのであれば、ご自分でご自分の質問をもっと何十年以上も思索してみてください。
 ご質問に全ての答えは正に、存在しております。それを申し述べているだけです。ご質問の意識化が出来ていないのです。
 もちろん、質問をやめよ、となどとは言っていません。
 自分をとるか、思想や志操を、追ってきた理想をとるか。
 これは人類の中の意識できた人の、長い間のテーマです。
 暴漢に襲われた、板垣が、板垣死すとも自由は死せずとか。
 イエスやソクラテスが従容として死についたこと。
 山宣が、あえて暴漢に面会したこと。
 死を予告されたガンディー・マハトマが合敢えて夕べの祈りに、群集の前に姿を出したこと。
 それは私たちのテーマでしょう。質問をやめてしまえ、などと誰が言っていますか。
 自分の質問を自分で意識化してください。
 もっと本当に自分の問題としてください。
 もっと自分で考えてください。本当に死を直面して、選択の場においてください。人生は、この真剣な選択の連続でしかないでしょう。

この回答への補足

 ご回答をありがとうございます。

 ★ ◎どういう存在理由を意識しているか、その理由と意識が、事物的存在の根本にどこまでせまっているか。ということ。
 ☆ こちらの問いは
 ○ どういう存在理由を持つときに その理由の単なる意識が すでに(=まったく)存在と等しいかたちになるのか。
 ☆ です。
 ★ 事物的存在・その根本
 ☆ これは いったい なんですか? という問題もさることながら 質問趣旨を ただ なぞらえただけの回答になっています。
 ○ 事物的存在の根本に どこまで迫れば その存在理由が あたかも存在やその生命と等しいまでになるか。
 ☆ このような場合を 具体的に 考えてみましょうという質問です。《親が子を守る / 鉄道事故からの命がけの救出 / チェルノブイリ事故の献身的処理》の例が これまで挙がっています。
 このように しっかりと質問に答えようという気がないなら 回答はやめてください。質問趣旨を読んでもいないのでしょう。あぁ あいつが質問している 適当に作文しておけばいいだろう ひやかしておいてやろう こんなところでしょう。
 ★  ◎実体性とは、理論でそう演繹していくのと同時に、実際にそういう自分になっているか、ということ。そのような自分が生きているか、生活しているか。ということ
 ☆ この場合 あまり《実体》という言葉はふさわしくないと考えますが それでももし このように《実体性》がある場合というのは 具体的に どういう現実ですか? こういう質問です。上の場合と まったく同じです。
 以下も すべて 同じです。
 なんで 《創造 / 当為 / 理念》が 無条件に 誰にでも あてはまるのですか?
 誰だれが 死に就くか就かないかで どうして 存在じたいに迫る存在理由の話になるのですか? 
 選択をする場合であれば 質問に答える内容があるというのは どうしてですか? 
 何が 具体的な内容になっているのですか? これに触れずに 同じことを繰り返し回答とするのは 質問をやめてしまえと言っているに過ぎません。
 一例として ソクラテスが 自死をえらんだことが いったい どうして 存在理由と存在とが一致したことになるのですか? かれの中では そうであったと もしすれば それを吟味するのが この質問の場です。どういうかたちで普遍性があるのか。
 自分が考えられないからと言って 近い例を出しておけばいいだろうというのは いちいち こういうふうに対処しなければならないのです。

補足日時:2008/09/15 08:10
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この回答へのお礼

 おもしろい言葉を見つけました。

 このような回答は――もうすでに 百回・二百回に及ぶのですが―― こちらからの門前払いではなくて そうではなく 門前いちゃもんと言うべき性質のもののようです。

 ここまで言うのですから どうか 心を見つめ直したまいて 話し合いのなせるまでに。

お礼日時:2008/09/16 08:32

 ANo.28補足


 イエス・キリストが人間何某なにがしという自分という人生存在に重点をおき、そこから抜けられないで、十字架を避けたとしたら、それは存在理由をより択一したことでしょう。そして彼はそこで、自己を喪失して、また自己探索の、実現の長い道を歩むことになるのでしょう。

 常人の場合、存在理由に従うか、己の肉体存在、生きることを大事にするかという選択、つまり極限的に選択をする状況は普通はこないが、常に何を大事にするかは、眼前に直面させられています。そうやって、普段に、向上と、だんだん高い選択をするようになっているのではありませんか。未熟な時代にイエスのような選択をする場面が訪れたら、ある意味では酷であり、ある意味では恵みかもしれません。

この回答への補足

 ご回答をありがとうございます。

 ☆☆(No.28お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ★ ご自分という《存在》を、本当に〔* 《存在理由》かつその〕当為だとして・・・いれば、同じものですから、二者択一は存立しえないと存じます。 
 ☆ そういう論理になるでしょうか。ところで そういう場合には
 ★ 深さと実体性
 ☆ があるということなのでしょうけれど それらは いったい どういう現実の事態であるでしょう?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この作業仮説に基づき 今回のご回答を解釈すれば どういう内容になるでしょう?

 ○ イエス・キリストは いったい どういう《存在理由》を持っていたというのでしょう? 
 ○ 《十字架に架けられる》道が その存在理由だということのようですが それは いったい どういう内容でしょうか?

 ★ 人間何某なにがしという自分という人生存在に重点をおき、そこから抜けられないで、十字架を避けたとしたら、それは存在理由をより択一したことでしょう。
 ☆ けれども 上に再掲した仮説には
 ★★ 自分という《存在》を、本当に〔* 《存在理由》かつその〕当為だとして・・・いれば、同じものですから、二者択一は存立しえない。 
 ☆ とあります。

 ○ キリスト・イエスにおいて その《存在》とそして〔まだ何であるかについては 説明を受けていないところの〕その《存在理由》とは まづ 二者なのですか?
 ○ つまり 二者択一は ありえないかたちで 《存在》と《存在理由》とが一致していたというのではないですか? どうですか?
 ○ しかも そういう場合とは いったい どういう現実でしょう?

 ☆☆(No.28お礼欄)~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  論理の空想を 虚構として 抱くことが 現実だという意味でしょうか? それでは 《当為》も何も 関係ないですね。虚構であることが いけないのではなく 虚構の中に わざわざ 何も行なわないのに 《当為》などという概念を入れていることは おかしいと思いますが いかがでしょう?

 * 《当為》を容れたとすれば その当為すなわち存在理由は 存在とは 別のものとしてあることになります。二者択一なのですね? キリスト・イエスの場合には いったい どういう現実なのでしょう? 
 ★ 未熟な時代にイエスのような選択をする場面が訪れたら、ある意味では酷であり、ある意味では恵みかもしれません。
 ☆ どういう《選択》なのでしょう?
 
 一言で言って いったい何を言おうとしている内容なのでしょう。
 ○ 人それぞれだ。こんな質問 やめてしまえ。
 ☆ ということでしょうか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

補足日時:2008/09/15 06:47
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 ご自分の考えている、或いはこれだとしている「存在理由」の如何によりましょうし、深さと、実体性によりましょう。



 そしてご自分をどういう存在として自覚し、有らしめているかによりましょう。

 一方は究極理念、存在理念に関るでしょう。
 もう一方は本当にその理念たる当為を実現しているか、即ちご自分という存在を、本当に当為だとしているか、その当為を究極の当為、創造の当為に一体化しているかの問題でしょう。
 そうなっていれば、同じものですから、二者択一は存立しえないと存じます。

 これから皆さんのご回答を拝読する上で、ご挨拶として投稿します。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 「存在理由」の・・・深さと、実体性
 ☆ とは どういうことでしょう? 特に
 ★ 実体性
 ☆ とは いったい 何のことでしょう?
 ★ 自分をどういう存在として・・・有らしめている
 ☆ この意味が 理解できません。
 ○ 自分が 自分を 存在させている。
 ☆ ということなのでしょうか?
 ★ 創造の当為
 ☆ というとき 《創造》およびその《当為》とは いったいどういうことでしょう?
 ○ 自己が 何ものかによって《創造》されたと 分かる・自覚することができるということでしょうか?
 ○ その被創造において 創造の主体が 人間に何らかの《当為》を与えているということでしょうか?
 ☆ その《被創造》ということと 先の《〔自分が〕自分をどういう存在として・・・有らしめている》かということとは 矛盾していませんか?
 ★ 究極理念、存在理念
 ☆ とは おのおのが抱くいろんな《存在理由》のことで いいですか? 
 ★ 理念たる当為
 ☆ もし《各自が自由に抱く存在理由のその理念》のことであれば それが その人にとって 《為すべきこと》となるという意味ですね?
 ★ ご自分という《存在》を、本当に〔* 《存在理由》かつその〕当為だとしてい・・・いれば、同じものですから、二者択一は存立しえないと存じます。 
 ☆ そういう論理になるでしょうか。ところで そういう場合には
 ★ 深さと実体性
 ☆ があるということなのでしょうけれど それらは いったい そういう現実の事態であるでしょう?
 論理の空想を 虚構として 抱くことが 現実だという意味でしょうか? それでは 《当為》も何も 関係ないですね。虚構であることが いけないのではなく 虚構の中に わざわざ 何も行なわないのに 《当為》などという概念を入れていることは おかしいと思いますが いかがでしょう?
 
 一言で言って いったい何を言おうとしている内容なのでしょう。
 ○ 人それぞれだ。こんな質問 やめてしまえ。
 ☆ ということでしょうか?

お礼日時:2008/09/14 20:15

ちゃんとした回答になるかどうかわかりませんが、 ゆっくりあわてないで書いていってみたいと思います。



>存在と存在理由とは< というタイトル文自体に「存在」という言葉の定義の不明確さを感じてしまったのですが、

(1)単純に「自分の命を何かの使命のために捨てることは是か非か、」ということですか?

>前者だと考えるのですが、<という文は、

(2)「自分の命を何かの使命のために捨てることは、どんな使命でも命の重さを考えたら間違いではないか?、あるいはその意味の熟考が必要なのではないか?」
というふうなお考えであって、

つまり「存在」という言葉は、ここにては「自分の命の存在」というふうに考えていいものですか?

「存在」と一言で言った場合、普通、それは宇宙全体とその意味を感じる命の可能性の全体を意味すると思います。  個人の命は 其の「存在」の計り知れなさを知るにいたる時があります。  そうでない人にとっては「存在」すら意味が無いとすら思うかもしれません。 尊いとも思わないひともいるでしょう。

この場合は、同じ尊さを問題としていても、上記の「存在」という意味合いでの使い方は、していないと受け取ります。

ひとまず、この定義で回答していってみます。

そして、私のほうからは、

* ~。このことで考える余地があるということが 人間なのでしょうか。

という最後の文に対応して、 

この事を考える余地はたくさんあるけれども、 それは「人間が考える生物でもありかつ奥深い感受性ももった生物」だからで、「考える葦」だからではない。という点について 思索を展開してゆきたいと思います。

パスカルでしたよね。 其の方の事、歴史的背景、著述などをまったく知らないで批判するのはおかしいですけど、 この言葉は独り歩きしてるみたいに多くの人に知れ渡っていますから、 無視できないと前から考えていたところなのです。

この事自体は、
葦だったら、其の命に重みは無いので、考える葦であっても 考える余地のまえに、こんなこと考えないでしょう、 という簡単な単純なことにすぎないのですけどね。

「個人の命」は 二つに解りやすくそれを捕らえる観点を分けて考えてみますが、

(1)一つは、連綿とした命の連鎖の中に引き継がれた中に精子とかの争いにてか偶然の確率にてか 生まれてきた「個人の命」、

(2)もう一つの観点は、その命に気がついた命(記憶意識体)としての「個人の命」です。

まず、(1)が尊いと感じる、あるいは「すごい」と感じる感動は(2)の感性の中にあります。

では、肝心のそれを感じる可能性を宿した「記憶意識体(これが、bragelone様のここで使われている「存在」として考えています。)」自体の尊さは、 私たちはどのようにして感じるものなのでしょか?

気軽に自殺してしまう人がいます。 もちろん自殺が最大の悲劇であるような場合もあるでしょうが、そうでない場合もあります。

また、一度、こんなことがあったのですが、 仕事中、あるフェンスを乗り越えようとしたらそのフェンスが かりにあたかも完成品であるかのように置いたあっただけだったので 後ろの深い側溝の中に3メートルぐらい落っこちていってしまったことがあるのですが、   

その落っこちるすこし前に一見た景色は 畑が逆さまに映った景色。

さて、落っこちてる時はもう気を失った状態でした。  

コンクリートに衝突した時に はっと気がつきその瞬間に あっ頭打ってないと脳がかってに考えていました。 それから数秒後に普通の意識が「あっ やっぱりほんとに生きてる、頭打たないでよかった」とか思索を始めました(^^)。

言いたいことは、 もし頭がコンクリートに直撃していたら、最後に見た逆さの景色を最後に「存在」が消えていたわけです。  すみません、この「存在」の使い方 使いづらいですね。  厳密性にかけるように思えてしまいます。  抽象的な論議の場ですと、けっこう通じそうですけどね。

ここは言い直します。 それを最後に 消えていたのはもちろん「私」という自己記憶体、 私の命の意識です。 永久にそれはもう消えたままという考えの人もいるそういう消え方でです。

なんの痛みもつらさもなく そんなふうにこの命 この「存在」は未来永劫の消えていたかもしれない。 その時点では まるで「葦」みたいに。

軽い気持ちの自殺者の感覚は こんな死を予想してのことなのかもしれませんね。

しかし、この逆を考えれば、 「「特攻隊の命令されて死に向かう場合の命のことも、」」また明らかに命を尊いと感じるからこそ主君のためにはその命をささげる思いで切腹もした武士たちのことも(いろいろと別なケースとかもあったはずでしょうが、語りたい点を理解してください。)

簡単には、この質問からはずせないテーマとも言えそうです。

が、ここは、やはり、その尊い命を助ける場合に命を賭けることは正しいのかどうか? という設問の流れに 添って話しを進めてゆきます。

広大な「存在」への学習謙虚さはとても大事な心ですけど、コミュニケーションの中では、的をしぼって話しを進めて行くべきところでしょう。

*****
すみません、 ここまでバーーッと書いてきて、書こうとしている起承転結は結まで頭にあって筆を起こしているのですが、手短に書き終わる文ではないことが解ってきました。  どうせ、ゆっくりいかないと 哲学の対話は一方通行になり勝ちとも思えますので、  ここにて 補足要求のこちらからの、ここまでと関わる質問に変えて、 今回は終了しておきます。
*****
二つ質問です。

ア、 「命を賭してでも これこれの使命を果たせ」という存在理由は 個人の命(記憶意識体)の中で、 上記の浅い命感の人達の中にあるそれなりの使命感とは  最初から違う前提で書かれていることは Bの>おのれの生涯を賭けた使命としての存在理由という言葉で解るのですが、

極限の場合、 命の尊さを深く知りつつ、その命を人のために、または人の命を助けるために、命を捨てることの矛盾について、  と絞っておいていいのですね。

イ、しかし、極限の場合にしても「使命」という言葉には 道徳、人情といろいととれるので、「使命」ということについて、 もうすこし説明のコメントが欲しい。(そうすると、 「うむ、この場合は使命のほうが客観的にはあやしいかな。 命に関わることはもっと慎重であるべきだ。とかいろいろ出てくるのではないでしょうか?)

***

まだ紙数があるようですので、「結」から書きます。何を議論したいのかです。
「善いことをする時は、右の手でしていることを左の手にさへ知らせないように」という聖書のキリストの言葉がありますよね。

そこまで無心な善の姿が浮かびあがってきます。

そこにそこまで純粋な心であるならば、 このABに、なんであろうと矛盾は無い。 

問題は どうしたら人は そこまで真心だけになれるかだ。 その一歩一歩は?   逆から書くとそうなるのですが。?     

もう一つ であってキリストはこうも言っていますよね「善は人前で輝かしなさい」 哲学はどうやって善を進めてゆけるのか?

結論は、この二つの具体的は何かの道筋が浮かび上がれば、命を賭けてもいいような世界が見えてくるかもしれない。という感じのものです。







 

この回答への補足

 arayata333さん ご回答をありがとうございます。

 まづ 全般的に言って この質疑応答は 一件を除いて そうとうよく仕上がっております。なかなか読ませる内容になっているとみなさんと共に自負します。時間がありましたら 最初から読んでいただくとおもしろいと思いますよ。

 パスカルの言葉は 次の文章として述べられています。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 人間は一本の葦にすぎない。自然のうちでもっともか弱い存在である。だが それは 考える葦である。

 かれを圧しつぶすには 全宇宙が武装する必要はない。一吹きの蒸気 一滴の水でも かれを殺すに十分である。しかし 宇宙がかれを圧し潰しても 人間はかれを殺すものよりなお高貴であるだろう。なぜかといえば かれは自分の死ぬことと 宇宙がかれを超えていることとを知っているが 宇宙はそれについて何も知らないからである。
(B.パスカル:パンセ  第六編・347)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★ 存在と生命と存在理由と使命;それらの定義の問題
 ☆ は 存在理由を考える主体を 存在と捉える。むろん この存在の基礎は 生命である。という簡単な捉え方です。使命という言葉を出すと 存在理由のことで 考えやすいという・これも 単純な捉え方です。
 ちなみに このわたしの質問は 《QNo.4291837: 人は何のために生きているのか?=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4291837.html》への投稿から派生したものです。
 質問趣旨として 次のようにまとめてもいます。
 ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ○ 基本的に 存在は 存在理由に 飽くまで 先行する。
 ○ と同時に と言わなければならないほど 後者のレゾンデットルが――つまり 単に頭の中で考えたことがらが―― 存在や生命を凌いでしまう事態 これが ないとは限らない。
 ○ 存在かつ生命を どこまでも とうとぶためにも 上の特殊な事態について 考えを及ぼしておきたい。(No.20お礼欄)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 補足要求を受けてですが
 ★ ア・・・極限の場合、 命の尊さを深く知りつつ、その命を人のために、または人の命を助けるために、命を捨てることの矛盾について、  と絞っておいていいのですね。
 ☆ はい。そして 広げてもらっても よいと思います。
 これについては これまでに 三つの場合が挙がっています。
 (1) 親が 命がけで 子を守る。(2) 鉄道事故の危険から救出すための行為。(3) チェルノブイリ原発事故のときの職員の献身的な処理の活動。(以上 No.11補足欄)
 
 ★ イ その極限の場合におけるにしろ 《使命》とは何ぞや。
 ☆ これは 《結》の部分での
 ★ そこにそこまで純粋な心であるならば、 このABに、なんであろうと矛盾は無い。 
 ☆ にかかわっているようです。shift-2007さんのご回答から引用します。
 ● ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 育児、命がけの救出、殉職・・・・
 その瞬間において当人にとっての自己という存在は無い、と思います。
 存在しないのだから〔* 存在理由などとして〕考慮する必要がありません。
 自己が存在していないのですから、当然命さえも考慮する必要はありません。
 それゆえ他者から見ると命がけの行為と映るのではないでしょうか。
 (ANo.13)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これについては
 ★ 問題は どうしたら人は そこまで真心だけになれるかだ。 その一歩一歩は?   逆から書くとそうなるのですが。?     
 ☆ という問題に突き当たるのですが わたしの姿勢としましては あらためて
 ○ 存在かつ生命を どこまでも とうとぶためにも 〔使命と言うか言わないかを問わず〕このような或る意味で特殊な事態について 考えを及ぼしておきたい。
 ☆ という まだ 醒めた状態ではいます。

 ★ キリストはこうも言っていますよね 「善は人前で輝かしなさい」 哲学はどうやって善を進めてゆけるのか?
 ☆ まづ 原文を確認します。
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 《あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
 《あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。

補足日時:2008/09/14 18:01
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この回答へのお礼

 《また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
 《そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである》。( マタイ 5:13-16 )
 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 《見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
 《だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
 《施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
 《あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる》。( マタイ 6:1-4 )
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ○ あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。
 ○ 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
 ★ 結論は、この二つの具体的〔な総合とは〕何かの道筋が浮かび上がれば、命を賭けてもいいような世界が見えてくるかもしれない。という感じのものです。
 ☆ ちょっと この結論に近いところを わたし自身にとってのこととして すでに 触れる機会がありました。それは No.25補足欄です。それをたたき台にしていただいても いいですし。と思いますが いかがでしょう。

お礼日時:2008/09/14 18:15

オコリザルです。


反論ではなく自分の経験したことです。
高校時代地学の先生の本職がお坊さんでした。
話を聞く機会といえばこれが一番だったんですが、悪ガキに自らの本質に気づかせるという意味で達人でした。明らかに今の私自身の経験と照らし合わせてその先生は同じような自覚の上に行っていました。
むしろ教育者としてですが。
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この回答へのお礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 何か一つ挿話を披露されると みなさんも 納得して聞けるのではないかと思いました。

お礼日時:2008/09/14 16:59

オコリザルです。


ご返事読みました。
今日私自身、長らく言いたくても口に出せなかったことお書き溜めたので終末の予感に教われました。
まだお問い合わせに答えを書ける感じではないのですが、ただ1ついえるのは私の知っているbrageloneさんの行いや考え方に間違いはない。
それだけです。

この回答への補足

 primeapeさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・そしてある日つき物が晴れるように吹っ切れる。・・・
 このような事例は宗教を問はないで高徳な僧侶が公にもしないで人知れず行っている世界の浄化です。昔から僧侶の本分です。(ANo.23)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これには 異議があります。
 そもそも 個人の信仰と集団として組織化した宗教とは 別物です。組織を通じて――と言っても けっきょくは 儀式を通じてなのですが―― さらに個人が信仰を得られるように・保てるようにと動くわけですが そしてその行ないは きっかけとしてだけなら いいのかも知れませんが 管理し得べからざる信仰自由を きっかけとなった後にも 管理の下に置くという恰好です。それが 基本となってしまうようになっています。つまり それは 個人の信仰の自殺行為です。

 ただ わたしの知る限りで この信仰のめぐみを溢れるほど受けて 《あぁ われは この恩恵に対して 一生を祈りに費やしても悔いはない。生涯にわたって 祈りを通じて 感謝を述べるおこないにこの身を捧げたい》という人びとが現われても おかしくありません。
 《修道院》という名称は 適切ではありません。《祈りの場・感謝の家》として 或る種 自給自足の生活を送る。自給自足なのですが 多少は 複数の人が集まって 協力することも 考えられるでしょう。
 そういう《祈り》についても わたしも 知っています。それこそ その人たちの存在は その感謝――そういう意味での《告白 confession 》・祈りです――の生活を送っているというただそれだけによって わたしたちに 語りかけてくるものがあるからです。

 これは 《高徳》だの《修行》だの《どれだけの法蔵を究め知識を積んだ》だのとは まるっきり 関係ありません。すでに《めぐみ》を受けているから 祈るのです。一生の感謝をもってしても その恵みには 答えきれないと思うから 祈りつづけるのです。
 《世界が 平和で幸せになって欲しい》と その人たちも たしかに 思っていることでしょう。しかし それだから 祈るのではありません。
 僧侶が つまりあるいは いわゆる教会の聖職者をも含めた世界中の僧侶が たとえ《人知れず》 精進しているとしても 《世界の浄化》のためにそうしようと意図していたり そのことを《本分》とするに到るなら それは そうするのも勝手ですが いささか 大きなお世話なのです。

 《われは すでに 過分のめぐみを受けている。ゆえに 祈らざるを得ない》という原点が 大事です。つまり 原点だけで いいわけです。

 このような存在理由は 存在そのものだと考えます。存在が先行するというそのものが 存在理由となっています。
 
 僧侶の並大抵の修行ではない修行 人一倍の精進に継ぐ精進 これは――それこそ やはり鬼になって言いますが―― 後づけとしての存在理由でしかないように 映ります。《わたしたちが これほど祈っているのだから 世間で活動するあなたがたも がんばってください》という押しつけがましさを感じます。

補足日時:2008/09/14 08:25
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オコリザルです。


鬼について動揺がないように補足します。
鬼が実際に殺していたのはわれこそは人間と言い張る「滅びの子」ありえない人類進化の選択肢です。人間の頭に角が生えるで想像してください。
そして神と言うよりは、自らの魂の願いとして滅びの子と分かり合い救おうとしたのが光の子、健康な無意識です。
自然界から自由になった人間の知性の暴走として長らく続いた歴史、内面の葛藤や人類の犯した過ちの内情です。
終わらせるのではなく判らせるだけの行いが残っています。
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この回答へのお礼

 ★ 終わらせるのではなく判らせるだけの行いが残っています。
 ☆ 《判らせる行ない》は いまもやっています。これまでも やって来ました。
 衝突した場合に どのように対処するか これで 見方や処し方が 分かれたわけです。その点で わたしの対処の仕方については 説明して来ました。
 了解したのなら そう言ってください。そうでなければ さらに批判を重ねていただくか もう度し難いとして放っておいてください。
 ★ 《終わらせる》というのは 大きな目標として 掲げているものですが 実際の具体的な行動としては やはり 個々の対話だけなのです。衝突が起きれば それに対して どう対話するか あるいは 対話の継続がむつかしくなったなら どう対処するか こういう個別の動きに集中するはづです。
 《闇の子ら》だから 《闇に葬ればよい》ということにはなりません。衝突しけんかをしながら 大きくは《愛》の関係の中にあります。
 その情況の進展を待っています。

 ★ 鬼
 ☆ という規定は その人じしんについて 規定するとするなら 必ずしも よい対処の仕方ではなく よい結果を得るとは限りません。表現として 鬼にしても 何にしても 使うかも知れませんが 問題は 自己表現の交わし合いです。具体的な表現に対して それは 鬼のようであり デーモン作用が込められているよと指摘したりするわけです。自省を促します。
 つまり 《判らせる行ない》です。このおこないが ゆくゆくは 闇の子らの行ないを《終わらせる》ことにつながるとは思いますが 直接に 終わらせようとして 衝突するのではないと理解します。
 
 というような事柄を 思いました。

お礼日時:2008/09/14 00:29

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