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江戸時代の秤量貨幣(銀貨:丁銀や豆板銀)は,なぜ,金貨である小判のように整った形をしていないのでしょうか。
教えてください。

A 回答 (2件)

 例えば現在の日本の貨幣のように、本物であるかどうかを形の上から判断するような場合には「整った形」である必要があるわけですが、秤にかけることによって判断するような貨幣の場合には、形は問題ないからではないでしょうか?


 秤量貨幣とは形を問題にしない貨幣という意味を含んでいるのです。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。

 「秤量貨幣」であることから,非定型であってかまわない点,おっしゃるとおりです。
 ただ,金貨については慶弔小判金以下江戸早期から,銅銭については江戸期前から定位貨幣が存在(※銅銭については,その交換価値について混乱が続きましたが)するのに対し,銀貨については,地方貨を除き,18世紀半ば以降まで登場しなかったのが不思議ですね。

 

お礼日時:2008/09/30 23:53

古代から銅銭(国産および多くの輸入品)共に砂金が通貨として使われて来ました。

   ただし砂金は秤で量目を測り、流用されました。
経済が進み取引に大量の銅銭を扱うようになると、少量で済む金貨が必要になり、砂金を固めた小判の原型となる「竹流し金」が使われました。  ただこれも量目不定で秤が必要です。
室町後期から戦国時代にかけて、各大名が領量目一定の金小判が使われ始め、天下統一した秀吉は通貨の統一も図り、十両大判金、一両小判金、二分小判金、一分小判金(以上俵型)、角型の一分判金の定位貨幣のほか量目不定の「丁銀」「豆板銀」の秤量貨幣を作りました。  

つまり秤使いに慣れた者たちの便宜を図ったという事です。
徳川幕府になり、十両大判金、一両小判金、一分判金(のちに二分判金、二朱判金、一朱判金を追加)を作ったほか、丁銀、豆板銀の秤量貨幣も作り流通させました。
秤量銀貨は主として西日本での流通が多いのです。
全国的に経済がのび、東日本でも銀貨の流通が増え定位の角型銀貨が登場するのは江戸中期です。  五匁銀で試行後、二朱銀、一朱銀、一分銀が作られました。
秤量貨幣は今考えるより、慣れていた当時の人には便利だったようです。   非常に大量なので形を揃えるのは無理で、検印を刻印するだけでした。
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この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。

 なるほど。

「徳川幕府はたしかに中央政府の性格を持つが,しかしながら,現在の日本のように,貨幣制度を全国的に共通にするまでの力はない。
全国的には江戸のある東日本で通用していた定位貨幣としての金貨を主軸としつつ,西日本では銀貨の使用が多く,かつ秤量に慣れているため,秤量貨幣としての銀貨を残した。
しかし,江戸中期になると,全国的に経済がのび、東日本でも銀貨の流通が増え定位の角型銀貨が登場した」というわけですね。

 今後とも,貨幣を通じて,日本史世界史を学んでいきたいと思います。

お礼日時:2008/10/01 00:24

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