痔になりやすい生活習慣とは?

大東亜戦争?だと思うのですが、日本が神風特攻隊を使って攻撃をしましたよね。あれは250キロの爆弾を載せて相手の空母へ突っ込むということが書いてありましたが、この件に関して質問です。

1.全機体(神風特攻隊の)そうだったのですが? あと、全部で何機くらい突っ込み、初めてこの戦争で神風特攻隊を出動させてから何日くらい飛ばし続けたのですか?

2. この戦争自体はとても短かったのですよね?? 特攻隊で突っ込んでも生存者はいたのですか?

3.神風特攻隊の乗っていた機体は軽かったから重い爆弾を積んでも飛べたというようなことを知りましたが、この機体は零せんとは関係ないんですか?

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A 回答 (6件)

1、 神風特別攻撃隊と名が付く部隊はすべてアメリカ艦隊への体当たりを目的としたものです。

攻撃隊の正確な機数はいまでも若干のずれがあるのですが(神風以前以後にも米艦隊攻撃時、被弾した機体で体当たりを行った海軍機があったことも関係しています)、神風特攻隊では1298機前後というのが現在ある程度固定された概念です。他に陸軍特攻隊(これは神風特攻隊ではありません)が出動しており、これも正確な機数は確定してはいませんが、1185機という数字が有力視されています。
 日数はということですが、昭和19年10月25日から昭和20年8月15日の5航空艦隊長官宇垣纏中将自らの特攻までということになります。ただしこの間常に出撃していたということではなく、太平洋上の島嶼侵攻を行う米軍を目標にした単発的な攻撃が主で、集中的かつ大規模な特攻作戦が行われたのは沖縄戦で、陸海軍特攻隊ともここで全損耗機の8割から9割前後を失っています。

2、「この戦争」というのが特攻作戦という意味でしたら、前述のように1年間弱でしたので短いということになります。もし太平洋戦争全般のことでしたら、開戦から終戦まで約3年8ヶ月続いていますので、短い戦争とは言えないかと思います。
 また最終的に目標に突入段階までこぎつけられた者で生還したものはいません。出撃途中で機体のトラブルや天候不良、さらには目標を発見できずに基地へ戻った者は多数に上ります。

3、軽かったから重い爆弾を積まれたということですが、当時の航空機は軽い機体イコール非力なエンジンを搭載していたということになりますので、重い爆弾を積んで何とか離陸できたとしてもその速度は時速200キロにも満たない超低速しか発揮できませんでした。
 宇垣司令官はその日記に、米海軍の駆逐艦が艦隊司令官に「時速85ノット(約160キロ)の特攻機に追いかけられている」と報告しているのを傍受した日本の司令部が、「駆逐艦が特攻機を追いかけているのだろう」と苦笑した、と書いているほどです。
 もっともこの機体は零戦であるはずもなく、末期に使用された水上機や練習機、さらには時代遅れの複葉機を指しています。そんな機体をあてがわれたパイロットたちは、零戦や他のまともな戦闘機に乗って特攻に行けるパイロットをかなり羨ましがったそうです。
 
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ちなみに生存者の証言によると、機体の故障で飛ばなかったのはもちろん、死にたくないがために理由をみつけて飛ばないように工作していた人もいたようです。



ただまじめというか当時の日本らしく、飛ばなかったら飛ばなかったでしっかり軍へ戻って(出頭して)おり、出発前のもとの兵舎まで送還されたそうです。
すると、意外に生きたままもどっているものが多く「おまえもか」とそれぞれの思いを語り合ったそうです。
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1)神風特別攻撃隊だけなら、24機です。

これは海軍のなかでも賛否両論があって、特攻はする、ただしする隊員に厳しいハードルを設定して、通常作戦とならないように、と折衷案がとられ、原則独身、軍歴の立派なもの、と選定していき、昭和19年10月21日に決行。悪天候などもあってこの24機は数度に渡って出撃します。この最初の特攻が敵艦5隻をしずめる戦果をあげたので、なし崩し的に陸軍も、海軍全体も特攻を日常的戦術にしはじめ、昭和20年8月15日まで続けてしまうことになりました。

2)1年未満しか特攻作戦は行われませんでした。太平洋戦争が大陸もカウントすると15年だと思えば、短いのかもしれません。飛行機の故障などで帰って来て死なないですんだ人はいましたが、突っ込んで生き残った人はいません。

3)あらゆる飛行機をつかいましたから、250積めないのも、爆撃機で800キロ積んだのもいます。零戦は基本的に250キロ積んでいました。陸上から発進するので、滑走距離が長くとれたからです。

蛇足
・特攻を邪道だと拒否した部隊もあります。
・燃料は満タンいれていきました。敵を発見できなくて帰る、敵を探す、レーダーに見つからないよう低いところを飛ぶ(これは燃料を多く消費します)、などの理由からです。
・命中しても、実はあまり効果がありません。爆弾たたきつけて装甲板破るのではなく、ぶつかるのが飛行機という風船のようなものに爆弾吊って低スピードなのですから、甲板で爆発しても中はなんともないことが多かったようです。沈没した正規軍艦はありません。が、大損害だした船もあり、やられるアメリカ側に理解不能の恐怖感を与え、本来沖縄の近くで作戦するはずの軍艦のかなりが、飛行機のとどかないところに退避する羽目になりました。ノイローゼになる兵士が続出したと言います。
・アメリカも、イギリスも、助からないとなったら敵に体当たりして道連れ、ということはありました。またナチス・ドイツ空軍には神風に影響されエルベ特攻隊というものを組織して、爆弾落としにくるアメリカの爆撃機に突っ込ませる作戦を企画した人物がいました。が、ヒトラーが難色を示しパラシュート脱出可、機関銃で戦い、体当たりは最後の手段として、一回出撃したのですが、戦果が上がらないので初回で中止になりました。
・米軍は日本の飛行機に、ニックネームをつけ、それを公式文書にも使っていました。零戦は中国大陸で存在が確認された段階でZeak(ジーク)と名前がつき、後に捕虜の供述からZeroとなります。

戦闘機・偵察機・飛行艇:男性名
爆撃機・単発水上機:女性名
輸送機:頭文字がT
練習機:木の名前
グライダー:小鳥の名前

ABDUL, 三菱 97 式戦闘機, 架空 想像された 96 戦の発展型
ADAM, 中島 97 式複座水上戦闘機, 架空
ALF, 川西 97 式水上偵察機, 水冷・空冷とも同じコードネーム
ANN, 三菱 97 式軽爆撃機 キ-30
BABS, 三菱 97 式司令部偵察機 キ-15
BAKA, 空技廠 MXY-7 特殊攻撃機 桜花
BELLE, 川西 90 式 2 号飛行艇 H3K1
BEN, 名古屋戦闘機 001 式艦上戦闘機, 架空 零戦の誤認?
BESS, 中島 98 式陸上攻撃機, 架空 He111 のライセンス生産を想定
BETTY, 三菱 1 式陸上攻撃機 G4M
BOB, 愛知 97 式水上偵察機 E2N
BUZZARD, 国際ク-7 グライダー
CEDAR, 立川 95 式初等練習機 キ-17
CHERRY, 空技廠 99 式中型飛行艇 H5Y
CLARA, 立川 試作司令部偵察機 キ-70
CLAUDE, 三菱 96 式艦上戦闘機 A5M
CLINT, 中島 97 式戦闘機キ-27, のち NATE に統合
CYPRESS, 九州 2 式初等練習機 K9W1, Bu131 ユングマンのライセンス生産
CYPRESS, 国際 4 式初等練習機 キ-86, Bu131 ユングマンのライセンス生産
DAVE, 中島 95 式水上偵察機 E8N
DICK, セバスキーS式 A8V, 2PA-B3 の輸入
DINAH, 三菱 100 式司令部偵察機 キ-46
DOC, メッサーシュミット Bf110, 架空 ライセンス生産を想定
DORIS, 短鼻の双発中型爆撃機, 架空 フィアット BR.20 の誤認?
DOT, 中島 1 式急降下爆撃機, 架空 彗星の陸軍型を想定?
EDNA, 満州 試作 襲撃機 キ-71
EMILY, 川西 2 式大型飛行艇 H8K
EVE, 三菱「鳳」連絡機, 民間機の軽爆型を想定
FRANCES, 空技廠「銀河」陸上爆撃機 P1Y
FRANK, 中島 4 式戦闘機 キ-84
FRED, フォッケウルフ Fw190A, ライセンス生産を想定
GANDER, 国際 4 式グライダー ク-8
GEORGE, 川西「紫電」N1K-J
GLEN, 空技廠 0 式小型水上偵察機
GOOSE, 国際 4 式グライダー ク-8, グラマン・グースとの誤認を避けるため GANDER に改名
GRACE, 愛知「流星」艦爆 B7A
GUS, 中島 AT27 双発戦闘機, 架空 航空雑誌の夢欄を実在機と誤認
GWEN, 中島 0 式重爆, 97 重爆 II 型を新型機と誤認
HAMP, 三菱 0 式戦闘機, 零戦 32 型を新型機と誤認
HANK, 愛知 96 式飛行艇 E10A
HARRY, 三菱 0 式双発戦闘機, 架空 空冷串型双発の機体(立川キ-94 に似ている)
HELEN, 中島 100 式重爆 キ-49
HICKORY, 立川 1 式高等練習機 キ-54
IDA, 立川 98 式直協機 キ-36
IONE, 愛知 98 式水上爆撃機, 架空 空冷3発の双フロート機
IRENE, ユンカース Ju87, ライセンス生産を想定
IRVING, 中島「月光」夜間戦闘機 J1N
JACK, 三菱「雷電」局地戦闘機 J2M
JAKE, 愛知 0 式三座水上偵察機 E13A
JANE, 三菱 99 式重爆撃機, のち SALLY に統合
JANICE, ユンカース Ju88, ライセンス生産を想定
JEAN, 空技廠 96 式艦上攻撃機 B4Y
JERRY, ハインケル He112 A7H, ライセンス生産を想定
JILL, 中島「天山」艦上攻撃機 B6N
JIM, 中島 1 式戦闘機 キ-43, のち OSCAR に統合
JOAN, 99 式大型飛行艇, 架空 97 大艇と 99 中艇の情報が混同?
JOE, TK-19 単座戦闘機, 架空 航空雑誌の夢欄を実在機と誤認
JOHN, 中島 2 式単座戦闘機 キ-44, のち Tojo に統合
JOYICE, 中島 1 式双発軽爆撃機, 架空
JUDY, 空技廠「彗星」艦爆 D4Y
JULIA, 川崎 97 式重爆撃機, 架空 99 軽爆の情報を重爆と誤認?
JUNE, 愛知 99 式水上爆撃機, 架空 99 艦爆の水上型を想定
KATE, 中島 97 式艦上攻撃機 B5N
LAURA, 愛知 98 式水上偵察機 E11A
LILY, 川崎 99 式双発軽爆撃機 キ-48
LIZ, 中島「深山」陸上攻撃機 G5N
LORNA, 九州飛行機「東海」対潜哨戒機 Q1W
LOUISE, 三菱 93 式双発軽爆撃機
LUKE, 三菱「閃電」局地戦闘機 J4M,
MABEL, 中島 97 式 2 号艦上攻撃機 B5M
MAISIE, 双発中型爆撃機, 架空 正体不明
MARY, 川崎 98 式軽爆撃機 キ-32
MAVIS, 川西 97 式大型飛行艇 H6K
MIKE, メッサーシュミット Bf109, ライセンス生産を想定
MILLIE, 昭和 98 式軽爆撃機, ヴァルティ V-11 のコピー生産を想定
MYRT, 中島「彩雲」艦上偵察機 C6N
NATE, 中島 97 式戦闘機 キ-27
NELL, 三菱 96 式陸上攻撃機 G3M
NICK, 川崎 2 式複座戦闘機 キ-45
NORM, 川西「紫雲」水上偵察機 E15K
NORMA, 三菱 97 式双発軽爆撃機, 架空 正体不明 「Darai 108」という謎の型番を持つ
OAK, 九州飛行機 2 式高等練習機 K10W
OMAR, 涼風 20 双発単座戦闘機, 架空 航空雑誌の夢欄を実在機と誤認
OSCAR, 中島 1 式戦闘機「隼」キ-43
PATSY, 立川 試作長距離爆撃機 キ-74
PAUL, 愛知「瑞雲」水上爆撃機 E16A
PEGGY, 三菱 4 式重爆「飛龍」キ-67
PERRY, 川崎 95 式戦闘機 キ-10
PETE, 三菱 0 式水上観測機 F1M
PINE, 三菱 90 式機上作業練習機 K3M
RANDY, 川崎 試作複座戦闘機 キ-102
RAY, 三菱 0 式艦上戦闘機 A6M
REX, 川西「強風」水上戦闘機 N1K
RITA, 中島「連山」陸上攻撃機 G8N
ROB, 川崎 試作戦闘機 キ-64
RUFE, 中島 2 式水上戦闘機 A6M-N
RUTH, フィアット BR.20 イ式重爆撃機
SALLY, 三菱 97 式重爆撃機
SAM, 三菱「烈風」艦上戦闘機 A7M
SANDY, 三菱 96 式艦上戦闘機 A6M, のち CLAUDE に統合
SLIM, 渡辺 96 式小型水上偵察機 E9W
SONIA, 三菱 99 式襲撃機 キ-51
SPRUCE, 立川 95 式中間練習機 キ-9
STELLA, 国際 3 式指揮連絡機 キ-76
STEVE, 三菱 試作戦闘機 キ-73, 架空 H 型 24 気筒 2600hp エンジンを持つ高速戦闘機
SUSIE, 愛知 96 式艦上爆撃機 D1A
TABBY, ダグラス 0 式輸送機 L2D
TESS, 中島 DC-2 輸送機
THALIA, 川崎 1 式輸送機 キ-56
THELMA, 川崎ロ式輸送機, 軍用型
THERESA, 国際 1 式輸送機 キ-59
THORA, 中島 97 式輸送機 キ-34
TILLIE, 空技廠 試作中型飛行艇 H7Y
TINA, 三菱 96 式輸送機 L3Y
TOBY, 川崎ロ式輸送機, 民間型
TOJO, 中島 2 式単座戦闘機「鍾馗」 キ-44
TONY, 川崎 3 式戦闘機「飛燕」 キ-61
TOPSY, 三菱 100 式輸送機 キ-57
TOPSY, 三菱 0 式輸送機 L4M
TRIXIE, ユンカース Ju52/3m, ライセンス生産を想定
TRUDY, フォッケウルフ Fw200, ライセンス生産を想定
VAL, 愛知 99 式艦上爆撃機 D3A
WILLOW, 空技廠 93 式中間練習機 K5Y
ZEKE, 三菱 0 式艦上戦闘機 A6M
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1の質問に解答いたします


 基本、練習機から、偵察機まで使用しました特攻に出撃した総数は、海軍航空隊で1298機、陸軍航空隊で、1184機くらいです
何日かと言われると、神風(しんぷう)特別挺身隊自体は、米軍のレイテ島上陸作戦で行われており詳しくは、わかりません ※かみかぜではなく、作戦当初はしんぷうと呼ばれていました、かみかぜと呼ばれるようになったのは、ニュース映画で、かみかぜと呼ばれたため
2の質問にお答えします
突っ込んでの生存者はいません
3の質問は
零戦とは、海軍の戦闘機(零式艦上戦闘機)のことです。
確かに零戦は、軽量で高速でしたが、エンジンの馬力はあまり無かったために250キロでも離陸するのにかなりの滑走距離が必要でした
なので、恐らく他の機体と思います
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1.色々な機体の寄せ集めです。

戦争末期の1944年10月の時期には敗戦色が強く、日本軍の優秀なゼロ戦の殆どは失われていましたから、そんなに優秀な飛行機はなく、無防備な軽量化(飛行士を守る厚手の鉄板を取り外した)を図って引退飛行機も寄せ集め数だけそろえては数機から10数機の編隊を組んで目測飛行で飛び立っていったという事です。飛行訓練も数ヶ月のにわかパイロットの編隊で出撃され、目的地に辿り着く前に行き先を見失う飛行機もかなりいたそうです。

2.神風特攻隊は1944.10から終戦1945.8まで続きました。
http://www.geocities.jp/torikai007/1945/tokkou.h …
私の叔父も少年航空隊に志願し、九州鹿児島の知覧飛行場からゼロ戦に乗って東シナ海の米国の軍艦に体当たりして戦死しました。知覧の特攻隊の戦死者を祀った特攻博物館に遺影が飾られています。僕も慰霊祭に出席して来ました。知覧町は今は合併して南九州市となって慰霊祭の様子のパンフレットが来ました。非常に沢山の人が特攻に参加して亡くなっています。特攻隊も1944.10から1945.8までに数十回にわたり数機から20機程度の編隊を組んで出撃して言ったそうで、飛行機も終戦末期で中古機や現役を退いた飛行機を修理したものも沢山あったそうです。特に終戦末期ほど故障する飛行機も結構あり途中で引き返してきた飛行機も合ったそうです。途中で海に不時着して沈んだ飛行機や、島に不時着した飛行機もあったそうです。250kgもの爆弾を搭載して、敵の軍艦のいる海域までの燃料しか積ます、機銃もはずしできるだけ多くの爆弾を搭載して出撃していったとのことです。
当然、戦場の海域まで故障や不時着で辿り着けなった特攻隊兵は再度特攻隊の編隊に組み込まれ出撃させられたそうです。でも不時着で負傷したり恐怖で精神的におかしくなって戦意を失ってしまった特攻兵もかなりでて、九州の一箇所に集められ、監禁されて終戦まで収容されていたそうです。神風特攻隊の飛行士は祖国のため敵の軍艦に体当たりして戦死するのが使命で、生きて帰ってくるのは日本軍人として恥ずべき行為とされ、特攻兵が生き残る事が許されていなかったため、特定の場所に犯罪人のように収容されて故郷に帰ることも許されなかったということです。
性能の劣化した現役を退いた飛行機を集めて特攻機に仕立てて、天皇陛下の下された戦闘機という事でそういった飛行機に積めるだけ爆弾を積み、機銃も帰りの燃料も下し、飛行士を守る機体の鉄板も付けないで、日本の国民を守る為(日本軍は天皇陛下のための出撃としていましたが)出撃して戦死していきました。

3.特攻機が軽かったのではなく、爆弾を最大限に積む為に機銃もはずし、飛行士の周囲を守る敵の機銃よけの厚手の鉄板も取り外したそうです。敵の戦闘機からは、ゼロ戦に機銃はあたると飛行士がなくなったり燃料タンクも貫通しすぐ炎をあげて墜落・炎上して行ったとの戦後の米軍からの話です(米戦闘機は、飛行士の周りやエンジンの回りなど厚い鉄板で作られて、攻撃用の機銃も積んでいたそうです。)。日本の戦闘機は全て、胴体と翼に赤く塗り潰した丸を白い線で周囲を囲ってあったそうです。日本の日の丸の真ん中の赤丸を現すマークですね。それを数字のゼロと見なしてゼロ戦の呼んでいたわけです。つまり日本の戦闘機は全てゼロ戦ということです。実際は色々な形式の戦闘機の種類があり、それぞれ正式名称が付けられていました。

もし興味がおありなら、鹿児島県の南九州市の特攻記念館にいって見てください。戦死者の遺書や遺品や写真や家族とやり取りして手紙や寄せ書きなどを集められ展示されています。出撃して行ったゼロ戦の原寸大の機体や機体のエンジンなどの陳列や、色々な機体の種類の性能や特徴など資料や解説が展示されています。直ぐ隣には特攻兵を祀った慰霊碑や社があります。
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1)単発機は250キロ爆弾ですが戦局が悪化した昭和20年は500  キロ爆弾を搭載しました。


  双発の爆撃機は1トンや重爆飛龍は2トンの爆装していたそうで   す。(靖国神社で元隊員に聞きました)
  突入しての成功例は全体の5%だそうです。
  昭和19年の10月から敗戦の昭和20年8月15日まで続きまし  た。

2)近代戦争で4年は長いですよ。
  特攻隊で突入後の生存者はいないそうです。
  ただ突入前に撃墜された飛行機の搭乗員での生存者はいます。

3)重い爆弾を搭載したら動きが悪くなり敵の集中砲火を浴びて撃墜さ  れますよ。
  実際戦争末期は敵の標的になったそうです。

一度靖国神社に行って元隊員たちの話しを聞いたらいいと思いますよ。今の平和はこの人たちのおかげですから。 
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Q特攻隊の人数って?

特攻隊で特攻し死亡した人数は4000~7000人と言われています。
そこで気になることがあるのですが、特攻予定者は何人くらいいたのでしょうか?
周りに特攻する予定だったという人が多すぎて気になっています(3人くらいですが)。

また、特攻隊が特攻していた期間を教えてください。

Aベストアンサー

 神風特別攻撃隊が初めて実戦投入されたのは、昭和19年10月21日です(大和隊・久能中尉がこの日に戦死)。ですが、彼は海軍兵学校出身では無かったことと、戦果確認がないため25日に特攻した敷島隊の関行雄大尉が第一号とされました(この公報発表の翌日、続いて特攻した久能中尉・21日戦死と発表になっています)。
 それから昭和20年8月15日の宇垣纏中将の特攻まで約2900機の海軍機が従軍しました。陸軍でも実施され700機ほどが参加しています。戦果としては約1割が突入に成功しており、米国海軍では約1万人がPTSDに罹っています。

 終戦時、本土に温存されていた攻撃機は陸海合わせて1万機と言われており、特殊潜航艇1000隻他、特攻用兵器は1万5千ほどあったようです。

Q特攻は通常攻撃より有利だったのですか?

「特攻-還らざる若者たちの鎮魂歌」(神坂次郎著)を読んで思ったのですが、
特攻は、通常の飛行攻撃に比べてどう有利だったのでしょうか?
この本に「われ特攻を拒絶せり」という章があり、特攻を拒絶した美濃部少佐率いる芙蓉部隊が奇襲攻撃を繰り返して成果をあげています。
飛行機のまま体当たりするのと、途中で爆弾を落とすのとで、命中精度がだいぶ違ってくるのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>飛行機のまま体当たりするのと、途中で爆弾を落とすのとで、命中精度がだいぶ違ってくるのでしょうか?

急降下爆撃(水平爆撃ではない)の命中率で言うと、日華事変当時の艦爆隊の命中率は60~70%、錬度が頂点に達していた昭和17年のインド洋海戦のころは急降下爆撃命中率は80~90%です。
これはインド洋海戦の九九式艦上爆撃機53機(赤城17機、蒼龍18機、飛龍18機)の巡洋艦への爆弾命中率88%、九九式艦上爆撃機85機(赤城17機、蒼龍18機、飛龍18機、瑞鶴14機、翔鶴18機)から航空母艦への爆弾命中率82%、また17年のコロンボ攻撃などでの江草隊の命中率85%などからも確かでしょう。
恐るべき命中率で、パイロットの高い錬度の賜物でしょう。

ただしその後は激戦を重ねる中で熟練パイロットが消耗し、命中率は低下していったと思われます。
元々戦闘機乗りでWW2では航空参謀、また剣部隊の司令となった源田実は、戦艦・航空母艦の議論の中で、「一方航空機の場合は水平爆撃の命中率が12%,急降下爆撃が50%,雷撃が75%である」と分析していますから、一般的及び充分な錬度での艦爆(急降下爆撃)の命中度は50%ほどと考えるのがいいかと思います。

特攻での命中率ですが、米軍の資料で56%と言う資料がでましたが、これは書類上で正確には命中効果率であり、命中率とは違います。米軍が視認した機数を分母に至近命中まで含んだものです。
下記データの中から
http://www.geocities.jp/torikai007/1945/kamikaze-statistic.html
日本海軍の特攻機(1944年10月から沖縄戦まで)
出撃数 2,314
帰還数 1,086
損失 1,228
の帰還数は戦闘に参加しなかった数なので、損失(未帰還)1228の中で
損害を与えた322を計算すると26%となります。
日本側の特攻初期の推定26~28%と重なりますね。

また安延多計夫大佐の調査での比島作戦~硫黄島作戦の数字、奏功率(奏功率とは命中機数と至近弾機数の合計)27.1%とも重なります。
命中率では19.5%です。
しかし米軍の特攻対策により、大戦末期の沖縄戦では特攻の命中率も極端に下がり、奏功率13.4%、命中率6.8%となっています。6.8%…もうボロボロですね。
http://d.hatena.ne.jp/fuldagap/20070220

ちなみに水平爆撃と急降下爆撃を混同されがちですが、攻撃目標に対してのベクトルをあわせて急降下し500メートルの高度から爆弾を投下すると3秒後には目標に激突しますので、ある程度の錬度の航空隊ならば急降下爆撃の命中度は非常に高いです。

また特攻を始めた時の急降下爆撃のほうが命中率は数%だったようですから、そうなれば特攻のほうが命中率は高いです。
つまりその当時では、錬度の低い兵士を各地に投入せねばならなかった悲しさですね。
その上で軍内部での対立(陸軍・海軍)などもあり、戦果があがらない上層部が「ウチはこんなにまでしているという」という言い訳、責任回避にさせられた面もあります。

戦略面で言うと、特攻は敵との戦闘までいけば死亡率100%ですから、米軍側からすれば、命中しようが海に落ちようが攻撃機はすべて落ちます。つまり敵機迎撃率100%と同じです。

日本側からすれば、攻撃をするごとに確実に機体とパイロットを失い兵力が減少していくわけで、ただでさえ苦しい戦況がその後どうなるかは自明の理です。正に負ける事を前提に、負けに向かって進んで行くだけの時間稼ぎの戦略になります。そんなものに使われた若者たちはたまった物じゃありません。

もちろん「君たちだけを死なせはしない。最後には私も君たちの後を追う」と言って若者を特攻に向かわせた上層部の多くが、戦後に国会議員や政治顧問になっていたりします。
逆に特攻に批判的だった、あるいは責任を感じていた上官が後を追ったり、腹を切ったりしているのは皮肉です。

という事で単純な比較はできませんが、ある程度の錬度の航空隊なら急降下爆撃のほうが命中率が高い。しかも艦船への爆弾の激突時の速度、ダメージも上です。
特攻を始めた当時のみでみれば、体当たり攻撃のほうが命中度が上です。

>飛行機のまま体当たりするのと、途中で爆弾を落とすのとで、命中精度がだいぶ違ってくるのでしょうか?

急降下爆撃(水平爆撃ではない)の命中率で言うと、日華事変当時の艦爆隊の命中率は60~70%、錬度が頂点に達していた昭和17年のインド洋海戦のころは急降下爆撃命中率は80~90%です。
これはインド洋海戦の九九式艦上爆撃機53機(赤城17機、蒼龍18機、飛龍18機)の巡洋艦への爆弾命中率88%、九九式艦上爆撃機85機(赤城17機、蒼龍18機、飛龍18機、瑞鶴14機、翔鶴18機)から航空母艦への爆弾命中率8...続きを読む

Q原爆・長崎・広島の被害者数は一体どれくらいなんでしょうか。

鳥インフルエンザ、新型(鳥)インフルエンザが流行してしまった場合、最悪の事態の予想を、新型インフルエンザ対策検討小委員会が明らかにしたという数値をみて、死者、患者共にその数の多さに驚きました。あくまで最悪の場合の予想とはいえ、ものすごい惨事であると思いました。そこで、生物兵器という言葉を思い出しました。兵器には核兵器もあると。そこで気になりました。原爆・長崎広島の被害者数はどれくらいなんでしょうか。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

広島は当時人口42万人、死者、行方不明合わせて
12万2338人、長崎は、人口24万人、
死者、行方不明合わせて7万3884人と言われています。

被爆後5年間の間に広島で20万人、長崎で14万人
です。

Q末期癌~死ぬまでの状況を教えてください。 

末期癌~死ぬまでの状況を教えてください。 
末期癌の母は現在ホスピスケアを受けています。
これから母の面倒を見るのは私の役目なのでこれからどうなるのか不安です。

母がすいぞう癌だと宣告されたのはおよそ1年前です。
肝臓にも転移しており既に手遅れでした。
今年の3月頃までは癌だと思えないほど元気な母でしたが
4月頃から急に階段を転げ落ちる様に容態が悪くなってしまいました。
あらゆる箇所の骨に転移し、強い痛みも出てきました。
肺へも転移し、咳がひどいです。
今ではほんの少し動いただけでも息切れがひどく、時々咳き込んで嘔吐してしまいます。
急に食欲もなくなりました。
一日、一日ごとにどんどん体力がなくなり弱くなっていきます。
母はこれからどうなっていくのでしょうか。
苦しみが増しますか? 
意識は最後まであるものですか?
自分でトイレにも行けなくなったらどうすればいいのですか?
この状態で、あとどのくらいと考えていればいいでしょうか。。。

文章がうまくまとまっていなくてすみません。
少しでも心の準備ができればと思います。
宜しくお願いします。

Aベストアンサー

「人はがんでは死なない」という言葉があります。
がんが特別な毒素を出すわけではありません。
では、なぜ、人はがんで死ぬのか?
それは、がんが増殖することで、臓器に様々な障害が起き、
その障害が引き起こす様々な症状によって、死にいたるのです。

様々な症状の一つには、疼痛もあります。
これは、モルヒネなどによりかなりコントロールできるようになってきました。

気管支のがん細胞が増殖して気管支を塞げば、窒息の危険があります。
肝臓のがんが増殖して、肝臓の機能が低下すれば、体内の様々な化学作用
が止ることになり、肝性昏睡などの様々な症状を起こします。
大きな血管にがんができて、血管が破れるということも起きます。
腎臓の機能が低下すれば……
脳の機能が低下すれば……

つまり、がんがどこにあり、その臓器は、どんな仕事をしているのか、
ということです。
何が起きても不思議ではない、ということです。

「苦しみが増しますか?」
軽くなるということはないでしょう。
出てきた苦しみを押さえるということになります。

「意識は最後まであるものですか?」
わかりません。
先に昏睡状態になる場合もありますし、最後まで、意識がはっきりしている
場合もあります。

「自分でトイレにも行けなくなったらどうすればいいのですか?」
状況によりますが、オムツということも考えてください。
尿はカテーテルを留置することになります。

残酷な言い方ですが、何らかの理由で昏睡状態になった場合、
「それを治療して、昏睡から醒めさせて、延命をする」ということを
しないという選択肢もあります。

末期症状は、医師や看護師がよく知っています。
まずは、医師や看護師と相談してください。

「人はがんでは死なない」という言葉があります。
がんが特別な毒素を出すわけではありません。
では、なぜ、人はがんで死ぬのか?
それは、がんが増殖することで、臓器に様々な障害が起き、
その障害が引き起こす様々な症状によって、死にいたるのです。

様々な症状の一つには、疼痛もあります。
これは、モルヒネなどによりかなりコントロールできるようになってきました。

気管支のがん細胞が増殖して気管支を塞げば、窒息の危険があります。
肝臓のがんが増殖して、肝臓の機能が低下すれば、体内の様々な化...続きを読む

Q特攻隊(特別攻撃隊)について

特攻隊(特別攻撃隊)について

■昨日NHKのテレビ番組でゼロ戦の特集がありました。

何気なく見ていましたが、その中で聞き捨てならない解説がありました。

-----------------------------------

特攻隊は3機一組で編成され、実際に突撃する隊員は特攻前夜に知らされました。

ゼロ戦一機は片道の燃料で、残りの二機は見届け役でしたので燃料は満タンでした。・・・・・・・・・・・・・

------------------------------------

■実は、この話は私が以前から持っていた重大な疑問に光を射すものでした。

以前、知人のカナダ人を特攻記念館に案内した時、そのカナダ人が、特攻隊員の生き残りの人と文通しており、

その人の写真を見たいと言い出したのです。それで、館長にそのことを尋ねると、

「この記念館には、戦死した隊員のみが展示されています。生還した隊員の写真はありません。」

というものでした。

大体、戦争記念館の館長などは、生還した兵士などが最も適任のはずなのに、そういった人々を無視して、戦争を知らない人が物知り顔で講義する。おかしな話だと思いました。

-------------------------------------

■これらの話を総合すると、特攻出撃はイジメではないかと疑うようになりました。

次のように話すサイトもあります。

http://www.senyu-ren.jp/SEN-YU/02092.HTM

離陸した特攻機は、飛行場の上空を旋回しながら隊列に三機編隊を組み、編隊を組みおえると機首を戦闘指揮所へ向けて急降下しました。そして、みんな一様に三回翼を左右にふりながら最後の別れを告げると、急上昇して開聞岳の彼方へ消えていきました。

--------------------------------------

■NHKの話は、一般人の会話ではなく、アナウンサーの解説でした。

もし、二人のパイロットが見届け役であれば、話は全く違います。そもそも戦況が絶体絶命の時、見届けも何もないはずです。現場を見届けるといっても、特攻の成功率は限りなく0で、艦船に接触できる確率だけでも5パーセントでした。

すると、見届け役の二機は、撃墜された戦友を確認し、黙って報告のために帰っていったことになります。

一体、事実はどうだったのでしょうか。

質問1. 特攻機の編成はNHKの説明のとおり、三機一組だったのでしょうか。

質問2. 特攻機は一機のみで、他の二機は見届け役だったのでしょうか。

質問3.特攻機の統計はウィキペディアなどにもありますが、一体、こういった見届け役の特攻機は統計上、どのように扱われているのでしょうか。

質問4. もし、NHKの言う上記の件が事実であれば、私は、特攻の真の目的は、米国に打撃を与えることではなく、気に入らない日本兵を始末するためだったと考えざるを得ません。それでも、特攻を正当化する理論的根拠がありますか。

質問5. その他、何でも結構です意見を下さい。一部の回答でもかまいません。私は、この分野は素人です。よろしくお願いします。

特攻隊(特別攻撃隊)について

■昨日NHKのテレビ番組でゼロ戦の特集がありました。

何気なく見ていましたが、その中で聞き捨てならない解説がありました。

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特攻隊は3機一組で編成され、実際に突撃する隊員は特攻前夜に知らされました。

ゼロ戦一機は片道の燃料で、残りの二機は見届け役でしたので燃料は満タンでした。・・・・・・・・・・・・・

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■実は、この話は私が以前から持っていた重大な疑問に光を射すものでした。

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Aベストアンサー

特攻には、航空機、潜水艇、小型ボート、人によるものがあります。

一説では航空機による特攻命中機は、450機であり、陸海特攻機数が約3450機、戦死者数が約3600人、航空機による特攻命中率は約10%です。

39%と17%という説は、特攻命中率が高くなる計算方法らしく、だいたいの説で5%のようです。
特攻の被害は、沖縄戦だけで撃沈26隻、損傷164隻、ある時期の戦死者数が4907人で負傷者数が4824人のようなので、多少は増えます。

出撃機数は、出撃回数の場合もあり特攻機が帰還を繰り返す例も多く3450機より多くなります。

潜水艇と小型ボートによる被害は数隻で命中率は数%のようです。

航空特攻がおこなわれたかについては、パイロットの能力低下や護衛機の減少により、通常攻撃の成功率が絶望的になったからです。

マリアナ沖海戦では、航空機378機の損害で大型艦6隻の損傷だけで、台湾沖航空戦では航空機300機の損害で大型艦2隻を大破壊しただけです。

それに対して、第一回の航空特攻隊は14機の損害で大型艦1隻撃沈、大型艦1隻を大破壊、大型艦4隻に損害です。
14機が出撃して命中が7機の命中率が50%です。
同時期の通常攻撃では、250機で大型艦1隻撃沈、小型艦2隻撃沈、1隻大破壊だけです。

特攻隊の命中率が低いといわれますが、航空攻撃や砲撃による命中率は数%が普通であり、末期の日本軍では数%の命中率も低下しました。

人道的に無視すれば、指揮官には合理的な戦術と考え、無駄死にするより良いと考えて特攻を選びましたが、後に特攻しか考えなくなります。
現在では理解しにくいですが、上官と部下は体当たりしかないという気持ちであり、信頼する上官の命令により体当たりすることに、あまり抵抗がなかったという隊員の証言があり、特攻に否定の人もいました。
見届け役は、特攻機の護衛と被害確認のためで重要な役です。
これがないと特攻機が全滅したり、効果的な作戦ができません。
特攻機と同じか2倍の数の例もあり、特攻隊に何度もついて行くつらい役であり、修羅の翼という有名な本があります。

戦後、軍の上官や部下は敗戦責任や戦死者に対する思いから軍の仲間で集まることが多く、世間に積極的に体験を知らすことを遠慮する人が多く館長になりにくい状況でした。

映画の『あゝ、決戦航空隊』、『最後の特攻隊』、本の『大西瀧治郎 生出寿』が理解しやすいです。

特攻には、航空機、潜水艇、小型ボート、人によるものがあります。

一説では航空機による特攻命中機は、450機であり、陸海特攻機数が約3450機、戦死者数が約3600人、航空機による特攻命中率は約10%です。

39%と17%という説は、特攻命中率が高くなる計算方法らしく、だいたいの説で5%のようです。
特攻の被害は、沖縄戦だけで撃沈26隻、損傷164隻、ある時期の戦死者数が4907人で負傷者数が4824人のようなので、多少は増えます。

出撃機数は、出撃回数の場合もあり特攻機が帰還を繰り返す例も多く3450...続きを読む

Q特攻隊の司令官は約束を守ったか?

私の父が亡くなりました。
88歳でした。
父は先の大戦に行きましたが戦争体験を
聞いても口をつぐんでほとんど話しません。
数少ない話として
父は大学の工学部に在学していたため学徒動員を免除されていたのに
大学を休学し志願して予科練に入隊したようです。
木更津で訓練を受けその後九州の航空隊に配属され銀河と
いう爆撃機に乗っていたようです。
多くの同期の人が沖縄方面に出撃し戦死、同期の生き残りは
ほとんどいないと言う事を聞いたことがあります。

多くの指揮官は特攻隊員に「自分たちも後から必ず行く」と訓示していたが
宇垣中将や大西中将や他の上級将校たちの終戦の日の行動は調べると解かりましたが、
実際現地で特攻隊員を送り出した現地司令官たちはどうしたのでしょう?
実際約束を守って出撃したのでしょうか?
それとも約束を反故にして戦後恩給をもらい続けたのでしょうか?
解かる人がいればお教え下さい。
学徒動員された人や予科練に志願した多くの人は沖縄の海に眠り
生き残った人も「苦労をかけた]という感謝状一枚もらっただけなのに
実際送り出した司令官は生き延びて、ずっと恩給をもらったというなら
なにかやりきれない気分となります。

私の父が亡くなりました。
88歳でした。
父は先の大戦に行きましたが戦争体験を
聞いても口をつぐんでほとんど話しません。
数少ない話として
父は大学の工学部に在学していたため学徒動員を免除されていたのに
大学を休学し志願して予科練に入隊したようです。
木更津で訓練を受けその後九州の航空隊に配属され銀河と
いう爆撃機に乗っていたようです。
多くの同期の人が沖縄方面に出撃し戦死、同期の生き残りは
ほとんどいないと言う事を聞いたことがあります。

多くの指揮官は特攻隊員に「自分たちも後から必...続きを読む

Aベストアンサー

「父は大学の工学部に在学していたため学徒動員を免除されていたのに大学を休学し志願して予科練に入隊したようです。木更津で訓練を受けその後九州の航空隊に配属され銀河という爆撃機に乗っていたようです」

父上様は、海軍の「飛行予備学生」を志願して士官搭乗員(少尉以上)になられたのでしょう。
「飛行予備学生」については、下記の本を読んで頂けるとどういう制度か分かります。

海軍飛行科予備学生学徒出陣よもやま物語―学徒海鷲戦陣物語 (光人社NF文庫)
http://www.amazon.co.jp/dp/476982324X/

「予科練」というのは、今で言うと高校生くらいの「少年」を教育し、下士官搭乗員にする制度です。父上様のような、大学レベルの教育を受けていた方は対象外です。

さて、特攻隊が編成される際は、海軍なら航空艦隊司令長官、陸軍なら航空軍司令長官といった中将クラスの指揮官が出向いたようです。こうした人が、特攻隊員に訓示をします。

また、質問者さんは「現地司令官」と言っておられますが、佐官クラスの「航空隊司令」や「航空隊飛行長」
といった立場で、特攻隊員を選考したり、実際の出撃を指揮したりする将校がいました。また、海軍や陸軍の中央で特攻作戦に関わった将校もいました。

そうした人たちの、敗戦時・戦後の身の処し方を述べます。最初の3名が、敗戦時に自ら死を選んだ人です。

大西瀧治郎 海軍中将:
レイテ沖海戦の際に、第一航空艦隊司令長官として特攻隊を編成し、送り出した。敗戦時には軍令部次長。特攻隊員に詫びる遺書を残して自決。

宇垣纏 海軍中将:
軍令部次長に転じた大西中将の後任のような形で、第五航空艦隊司令長官として、九州から沖縄方面への特攻作戦を指揮。8月15日に「玉音放送」を聞いた後、最後の特攻隊に同乗して戦死。「最後には自分も行くという、特攻隊員への約束を果たした」という擁護意見と、「死なないで済む若者を道連れにした」という批判意見が常にぶつかる。

寺本熊市 陸軍中将:
陸軍航空本部長として敗戦を迎え、玉音放送が放送された8月15日に自決。陸軍では数少ない「知米派」で、高い見識で知られており、寺本中将の自決を知った人は「寺本中将が自決するなら、先に自決しなければならない者がいくらでもいる」と驚いたそうです。
一般に、寺本中将の自決と、陸軍航空特攻の関係が指摘されることはありません。陸軍航空本部長は、陸軍航空隊を「直接に」指揮する職務ではないからです。私見ですが、寺本中将が自決したのは「陸軍航空の特攻について、誰かは責任を取らねばならない」と考えたからではないかと考えます。

富永恭次 陸軍中将:
レイテ沖海戦の後、陸軍の第四航空軍司令官として、特攻隊を編成して送り出した。米軍がルソン島に上陸して自分の身が危なくなると、上級司令部に無断で、部下を置き去りにして飛行機で台湾へ移動。「敵前逃亡」とみなされる行動です。その責を問われて予備役に編入され、即日召集されて、ずっと格下の職である「臨時編成の武器もない師団の師団長」として満洲に送られ、敗戦後にソ連軍の捕虜となる。10年後の1955年に日本に帰還して恩給生活を送り、5年後の1960年に68歳で死去。「帝国陸軍の恥さらし」という意見以外は見た事がないです。

菅原道大 陸軍中将:
1944年12月に第六航空軍司令官となり、敗戦まで、陸軍航空隊の特攻作戦を指揮。長崎県出身ですが、戦後は、埼玉県の飯能で農民となり、養鶏に従事しました。ジャーナリストが取材に行くと「自分はどんなに罵倒されても良い、だけど特攻隊の若者を悪く書かないでくれ」とだけ言い続けたそうです。1983年に95歳で死去。

源田實 海軍大佐:
この人は「特攻の指揮官」ではなく、海軍中央の参謀です。もともと、戦闘機パイロットでした。大西中将が第一航空艦隊司令長官としてフィリピンに赴任する前に、軍令部参謀の源田大佐が、「もはや、飛行機が爆弾を抱いて敵に体当たりするしかない」と全てお膳立てをしていたというのが定説です。源田大佐は、その後、海軍の精鋭を集めた343航空隊司令として防空戦闘を指揮しましたが、この時に部下の飛行長(戦闘機パイロット)と下記の問答をしました。下記は、飛行長の証言によります。ジョークではありません。
源田「ウチの隊も特攻隊を出さねばならないか」
飛行長「分かりました。では、私が特攻隊長となって、海軍兵学校出身の士官搭乗員を引き連れて特攻します。その次は司令が特攻隊長となって残りの者たちを率いて下さい」
源田「・・・慎重に考えよう」
源田は戦後は航空自衛隊に入って航空幕僚長に上り詰め、退官後は参議院議員となり、帝国陸海軍将校として一番幸せな戦後を送った人と言えるでしょうが、「源田さんが、軍令部で特攻を立案したんですね?」という質問には一貫して「ノー」と言い続けました。個人的には、富永と同じくらい卑怯だと思います。

山本栄 海軍大佐:
「最初の特攻」とされる、関行夫大尉の上官(201航空隊司令)。戦後はカソリックに帰依し、伝道生活を送ったが、自分が海軍大佐であったこと、最初の特攻隊を送り出したことは、信者には一切話さなかったそうです。

玉井浅一 海軍大佐:
上記の、201航空隊の副長。のち、航空隊司令として特攻作戦に携わる。戦後は日蓮宗の僧侶になった。特攻隊員の慰霊に尽くしたとされています。

中島正 海軍中佐:
フィリピンや台湾で、航空隊の飛行長、副長として「特攻隊員を選定し、出撃の順番を決める」という、特攻隊員の死ぬ順番を決める仕事に携わる。当時の部下の印象は「軍人と言うより役人のような印象」だったそうです。フィリピンでは、「中島中佐がいる基地には降りるな。降りたら特攻隊にされる」と、搭乗員の間で恐怖を持って騙られたそうです。当時、ある航空基地に着陸した搭乗員は、その航空基地の指揮官の指揮下に入るとされていました。
戦後は航空自衛隊に入り、空将で退官。特攻については何も語らなかったようです。
なお、中島中佐は戦闘機のパイロットであり、太平洋戦争の前半は、「飛行隊長」として、操縦桿を握って数多くの戦闘に参加しています。その頃については、特に悪い評判は聴きません。

「父は大学の工学部に在学していたため学徒動員を免除されていたのに大学を休学し志願して予科練に入隊したようです。木更津で訓練を受けその後九州の航空隊に配属され銀河という爆撃機に乗っていたようです」

父上様は、海軍の「飛行予備学生」を志願して士官搭乗員(少尉以上)になられたのでしょう。
「飛行予備学生」については、下記の本を読んで頂けるとどういう制度か分かります。

海軍飛行科予備学生学徒出陣よもやま物語―学徒海鷲戦陣物語 (光人社NF文庫)
http://www.amazon.co.jp/dp/476982324X/

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Q最後の特攻隊

昭和20年8月15日朝、宇垣纏中将は最後の特攻として出撃されましたが、その後はどうなりましたか?

沖縄の米艦隊に突入した。という本と、玉音放送で、すでに明らかになっていた天皇の終戦の意思に従って、沖縄伊平島の海岸に突入し落命されたという本があります。

前者が[日本海軍指揮官列伝]別冊宝島、後者が[特攻作戦]新人物往来社です。

どちらが正解なのでしょうか?よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

 翌日の玉音放送によって日本が無条件降伏をしたことは承知した宇垣中将は、前日に決意した沖縄への出撃を取りやめようとはせず、結局総勢11機の彗星によって出撃しています。
 いくつかの資料を総合してみますと、その際の搭乗員の全ての氏名も判明しており、なおかつその戦果も一応確認されています。

 それによりますと、その日の午後6時30分、まず磯村堅少尉機から「敵水上部隊見ユ」という電文が入電し、その後すぐに「突入」という無電が入ります。そして午後7時24分には宇垣中将の搭乗した1番機から、宇垣中将の決別電が入り、8時25分「ワレ奇襲に成功ス」との入電が入っています。

 さらに他の機からも突入電が次々と入っていますが、結局出撃した11機の中で突入を認められたのは、宇垣中将搭乗の中都留機、伊藤機、北見機、池田機、内海機、磯村機、中島機、吉田機の8機といわれており、残る3機のうちの2機はエンジン故郷のため鹿児島県内に不時着し、最後の1機は沖縄上空までには到着しましたが、敵艦船を発見できず、陸上部隊に爆弾を投下した後、燃料不足で不時着したということです。
 
 この記録は、当日7機の特攻機がアメリカ艦隊の艦船に向かって突入してきたというアメリカ側の無線を、日本側が傍受しているということですので、信憑性はあるかと思われます。

 さらには宇垣中将の搭乗機がアメリカの水上機母艦に突入したという、アメリカ側の非公式情報がありますが、この確証は私は持ってはいません。出撃当時、宇垣中将は日本の海軍将官の死をアメリカ側に知られることを恐れ、襟章をはじめ身分を明らかにするものを一切身に帯びていなかったので、その確証をアメリカ側がどうやって手に入れたかが不明だからです。

 

 翌日の玉音放送によって日本が無条件降伏をしたことは承知した宇垣中将は、前日に決意した沖縄への出撃を取りやめようとはせず、結局総勢11機の彗星によって出撃しています。
 いくつかの資料を総合してみますと、その際の搭乗員の全ての氏名も判明しており、なおかつその戦果も一応確認されています。

 それによりますと、その日の午後6時30分、まず磯村堅少尉機から「敵水上部隊見ユ」という電文が入電し、その後すぐに「突入」という無電が入ります。そして午後7時24分には宇垣中将の搭乗した...続きを読む

Q自分が在日かどうか調べる方法

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証明)を取れば両親のこともわかるのですか?
母親の祖母が在日で帰化していた場合、その事はどの世代まで表記されるのでしょう?

ちなみに私は両親の戸籍から分籍(転籍)しており、本籍は東京ですが、出身および両親の本籍は大阪です。


在日か調べたい→戸籍を取れ、という解答はよく見るのですが、
具体的な方法が見つからず困っています。


また在日がどうのという質問に非難が集中している様子を見ることがありますが、
まぁ私のアイデンティティを明確化させたいだけですので、今回はご容赦ください。
日本生まれの日本育ち、ここ数世代の直系は全員日本人の日本人!と、
日本生まれの日本立ち、でも曾祖母は朝鮮人だから87.5%はチョッパリニダ!では、
やはりちょっと心持ちが変わるので、はっきりさせたいのです…。

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証...続きを読む

Aベストアンサー

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで韓国併合政策により在日朝鮮人はもとより、朝鮮半島にいる朝鮮人まですべて大日本帝国臣民扱いで法律上、外国籍ではなかった(両者とも本籍は半島にある)。
昭和20年の終戦を迎え在日の多くは半島に帰国しましたが、日本に残ったり、また朝鮮から戻ってくる人達もおりました。
明治時代から昭和26年までの間に朝鮮より日本へ渡って来た朝鮮人達は昭和27年にそれまであった日本の国籍を失って正式に外国籍となる。そして、在日朝鮮人の日本国への帰化が始まったのも昭和27年。

古来からの日本人家系なら苗字漢字に制限なく明治時代からの苗字漢字を継続できます。
在日朝鮮人の帰化が昭和27年に始まり、名前の漢字制限(上記)は昭和23年に始まってますから、朝鮮籍、韓国籍から日本に帰化した者は旧字体漢字で帰化するチャンスがなかったんです。

簡単な調べ方としては『住民票』での苗字名前漢字が旧字体で表記されてるなら明治時代からの日本人家系。
新字体ならば、
「戦前の家系状況が分かる戸籍みせて」と役所に言ってみること。
戦前の家系状況が記されていて朝鮮人を思わせる記述がなければ日本人。
戦前の家系状況が分かる戸籍を見せてくれない場合や戦前の戸籍が日本以外にある場合は帰化人だと判断できます。

戸籍取得方法は先に回答されてる方法をやるといいでしょう。

ただ、例え純粋な日本人でなかったとしても質問者さんが日本が大好きで在日の方々のように反日感情を露わにされるのが不快に感じるなら、心はちゃんと日本人ですよ。

…私も可能性はあるかもしれないんで経済的に余裕が出来れば戸籍を追ってみたいです。


以上、参考程度に

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで...続きを読む

Q第二次大戦中に現代の自衛隊を投入したら

くだらない質問ですが、気になったので書いてみます。

第二次世界大戦末期の1945年1月1日時点に、現在の最新鋭の自衛隊(航空・海上・陸上)の全戦力を日本本土に投入したら、日本軍は勝てるのでしょうか?兵器の生産設備などは投入しないものとします。

いくら最新鋭の戦力を持っていても核と資源がないのでアメリカが多大な犠牲を出しながらも勝つだろうという見方もできるし、当時の日本はインドネシアを占領していたので資源不足を克服し日本の勝利という考え方もあると思います。

Aベストアンサー

戦争に「絶対」は無いですから必ず勝てるとは言いませんが、面白い勝負にはなるでしょう。

近代軍では補給が重要な要素を占めるので、どれだけの弾薬や燃料、整備、補給品を保持しているかで、戦い方も変わってきます。自衛隊のそうした物資の正確な保有量が不明なので、推測するのは困難なのですが、とりあえず・・・

1945年1月の時点なら、できるかどうかは分かりませんが、まずは自衛隊の戦力を秘匿します。
2月の米軍による硫黄島攻略あたりで航空自衛隊の全力出撃です。
この次期、米艦隊は正規空母12隻、護衛空母17隻を含む大艦隊を出撃させてきており、このうちの正規空母12隻、護衛空母4隻が日本近海に現れ本土空襲を行っています。これを狙います。ちなみに、この当時の米艦隊の正規空母の数は14隻ですから全部撃沈できれば、後がかなり楽になります。
F2攻撃機、約80機を中心とする対艦ミサイル攻撃で、空母を撃破します。現代の対艦ミサイルを当時の米軍艦艇がそれほど迎撃できるとは思えないので、うまくいけばかなりの空母を撃破できるのではないかと・・・
また、B29への迎撃にもF15を出撃させます。最大で4発のミサイルを別々の目標に連続発射できるF15の戦闘力に、B29の部隊は大打撃を受けるのではないかと・・・
さらに海上自衛隊の潜水艦部隊によるハワイの真珠湾攻撃を行います。ハープーン対艦ミサイルは対地攻撃にも転用可能とという事なので、ハープーンで真珠湾の燃料施設や艦艇補修設備などに攻撃を行い、打撃を加えます。
要は自衛隊の進んでいる兵器を一挙に出して大打撃を加えるとともに、米軍にショックを与えます。
これでうまくいけば、アメリカは空母艦隊とB29の部隊とハワイの後方施設に大打撃を受け、直ぐには大きな作戦をできなくなるのではないかと思います。

その後は、まずシーレーンの確保です。九州から中国沿岸、そして台湾海峡を通ってシンガポールへの海上交通路の守備に海上自衛隊のP3C対潜哨戒機の部隊や、一部航空自衛隊の戦闘機部隊を派遣します。輸送船団には海上自衛隊の護衛艦隊も付けます。航空部隊の根拠地の設営は大変でしょうが、部隊が稼動すれば米潜水艦隊の脅威へ大きな力になると思います。日本の輸送船の撃沈された半数は、米潜水艦隊の通商破壊戦によるものだそうですが、当時の旧式な潜水艦なら現代の対潜哨戒機と護衛艦でかなりの確率で防ぎ、逆に戦果をあげられるのではないかと思います。
日本本土の防空は航空自衛隊の戦闘機とPAC3ミサイル部隊と、陸上自衛隊の高射特科団(改良ホーク地対空ミサイル部隊)が守ります。
攻撃には海上自衛隊の16隻の潜水艦部隊を使います。潜水艦隊で通商破壊戦を行います。第二次大戦末期のドイツで建造されたUボート21型は連合軍の対戦哨戒部隊にも察知されにくかったそうです。それよりさらに技術の発展している現代の潜水艦なら数は少なくとも大きな戦果を期待できると思います。
未だフィリピンの日本軍の抵抗は続いており、米陸軍20万人が投入されている時点で、米空母艦隊が大打撃を受け、さらに通商破壊戦を仕掛けられたら・・・米軍は楽勝とはいかなくなるでしょう。

米軍としてはこうした進んだ技術の兵器対策に苦慮する筈です。簡単には有効な対抗策は出てこないのではないかと思います。まずは打撃を受けた艦隊の再編と、戦略爆撃部隊の戦術の見直し、フィリピンへの海上補給路の守備を固め、真珠湾の設備の再建をしなければなりません。
建造中のエセックス級空母の建造を急いでも、半年以内に戦闘に参加させる事ができるのは5隻です。
大西洋から部隊を回す必要も出てくるかもしれません。

一方、自衛隊を除く日本の連合艦隊の状態はよくありません。
戦闘可能な空母は小型の鳳翔1隻ですし、戦艦は2隻、巡洋艦も数隻、駆逐艦も二十数隻というありさまです。
南方から資源が入ってきたら、まずは艦隊の増強が急務でしょう。まずは空母で建造途中の伊吹、天城や損傷状態の龍鳳、準鷹、葛城を戦闘可能な状態にしなければなりません。
他にも損傷を受けている戦闘艦艇があるので、大至急修理が必要です。
また、輸送艦の建造も急務です。1945年1月から終戦時までに約180隻の輸送船が建造されています。
しかし、同じ期間に実に700隻が沈められているのです。
まあ、自衛隊の参戦で、その数は減るでしょうが、しかし、1944年だけでも約970隻の輸送船が撃沈されています。
日本の造船所はとにかくフル稼働しなくてはならないでしょう。
また、航空機パイロットの育成や、戦闘機などの生産も必要でしょう。
時間は幾らあっても足りないくらいです。

こうした中で、日本の潜水艦隊がどれだけアメリカに打撃を加えられるかが重要だと思います。
そしてフィリピンの米軍を孤立させ、ハワイを孤立させる事ができれば、新たな展望が開けるかもしれません。
時間が立てば、連合艦隊の戦力もある程度は回復してきます。そうなれば、新たな作戦を立てる事も可能となるでしょう。

なお、そのうち満州にソ連軍が侵攻してくるでしょうが、これについては航空自衛隊の支援を受け、東満山地で持久戦を行えば、かなりの機間、持ち堪える事ができるのではないかと思います。

戦争に「絶対」は無いですから必ず勝てるとは言いませんが、面白い勝負にはなるでしょう。

近代軍では補給が重要な要素を占めるので、どれだけの弾薬や燃料、整備、補給品を保持しているかで、戦い方も変わってきます。自衛隊のそうした物資の正確な保有量が不明なので、推測するのは困難なのですが、とりあえず・・・

1945年1月の時点なら、できるかどうかは分かりませんが、まずは自衛隊の戦力を秘匿します。
2月の米軍による硫黄島攻略あたりで航空自衛隊の全力出撃です。
この次期、米艦隊は正規空母12隻、...続きを読む

Q戦争に行かなくて済んだ人達って?

昭和10年代後半、大学生でさえ召集されたあの時代に五体満足で健康な20~30代の男子で
戦争に行かなくて済んだのはどんな人達なんでしょうか?
わざと徴兵回避して村八分になった人達を除いて召集されなくても
堂々としていられた人達の場合です

Aベストアンサー

『軍事板常見問題』のキャッシュより
http://mltr.free100.tv/index02.html
(現在、上記サイトの項目が閲覧できないので…)
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08k03.html#draft

【質問】軍に召集されなかった人には、どんな人がいますか?

【回答】旧日本陸軍に於いて、召集を担当するのは、各県にほぼ一つ配置された連隊区司令部です。この連隊区司令部で、参謀本部、陸軍省と言った中央が決定した動員計画に基づき、該当者を召集令状を作成します。
 これは、充員召集令状と言い、前年度に作成し、予め警察署に保管、動員令が下令されると発行するものです。
 また、中央とは別に、その地区を管轄とする師団から、戦死、戦傷、戦病などの要員で人員の不足があった場合、管轄地域で召集令状を発行しました。
 これを、臨時召集令状と言い、師団毎に随時作成されています。
 比率から言えば、日中戦争勃発後、後者の令状が多く発行されています。

 この発行の基礎資料になったのが、各市町村役場の兵事課から提出された在郷軍人名簿です。
 これには軍隊の経歴、召集回数、健康程度、家族関係、思想関係、治癒見込(病気の場合)などが記述され、このほか体格等位に徴兵検査の結果を記入、役種に兵役種類が記入され、更に特・分業、特有の技能が記入されています。

 充員召集令状を発行する場合、特・分業、特有の技能に注目し、中央が作成した動員計画の必要技能召集する部隊の練度、任務の軽重なども勘案して、召集を決定します。
 他に、体格等位、健康程度などを重視して必要兵を抽出していきます。
 海軍の場合は、更に思想関係も重要視されたようです。

 さて、召集記録の欄の末尾に「召集延期者」略して「召延」という朱印が押されると、召集対象外となり、召集令状は来ることがありませんでした。
 これには甲、乙と二つの区分があり、甲は絶対召集しない人、乙は人がいない時に初めて召集対象となる人です。
 この召集延期の制度は昭和2年から開始され、制度が年ごとに拡大していっています。
 ちなみに、この規定は、陸軍動員計画令(永年動員計画令)に記載されたものです。

 例えば、1943年当時の戦時召集延期者は以下の通りです。

1.侍従、侍医、東宮傅育官、皇宮警察官吏、皇宮警察部消防夫
2.陸海軍部隊に在職し余人を以て代うべからざる者、及び特種の雇用人、工員にして必要欠くべからざる者
3.鉄道又は通信業務に従事し、必要欠くべからざる者(一般国民対象)
4.船舶(50t以上のもの)乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象)
5.民間航空乗組員にして必要欠くべからざる者(一般国民対象)
6.国土防衛に直接関与する業務に従事し必要欠くべからざる者
7.陸軍大臣の指定する工場又は事業上に従事し必要欠くべからざる者(一般国民対象)
8.都道府県、地方事務所、警察署、市区町村の官公吏にして兵事事務を主管する者各一名(一般国民対象)
9.帝国外の地に於いて執務を執行する帝国官吏中、必要なる者、並びに外地最高司令官、朝鮮台湾軍管区司令官
10.帝国議会の議員
11.国民学校教員中必要なる者(一般国民対象)
12.上記の外、国歌総力戦遂行の為に緊要なる業務に従事する者にして、必要欠くべからざる者

 つまり、一般人は輸送、通信関係の職員、陸軍大臣指定工場技術者、兵事係などの召集業務担当者が全面的に免れ、教師も一部が召集対象から外れています。
 また工場の熟練労働者も対象となっています。
 但し、工場などに於いてその選出は各工場に任されていた為、工場幹部の親戚が事務屋として入っていて、召集延期者として選出させた事例もあります。
 この場合は、発覚すると即座に召集されるようになっていました。

 1944年からは、臨時召集延期制度が始まります。
これは、航空機工場、特に重点機種(疾風とか飛燕とか言った戦闘機、飛龍などの爆撃機)の生産従事者は全員この対象となって、召集を延期されています。
 また、これ以外の航空機生産従事者、交通関係従事者、鉱山技師、炭坑夫、造船関係従事者、特攻兵器製造従事者は、例え徴兵検査で入営することが決まっていても、一定期間その入営を延期する「入営延期制度」対象者となっています。
 この制度も1944年から開始されています。

 これより先、1943年3月からは、既に入営した人で、軍需生産に必要な人でなおかつ、「軍の統率、団結、軍の士気上差支えなき範囲内に於いて」召集解除し、職場に復帰させると言う「特別召集解除制度」がありました。

 また、本土の食糧不足が深刻化していた1945年には、根刮ぎ動員があった反面、「召集要考慮制度」というもので、軍需生産だけでなく、農林水産業従事者も対象にしています。

 これらの総数がどれくらいあったかと言うと、召集延期制度が、1941年には10万人程度だったのが、1945年には85万人、臨時召集延期制度は不明、入営延期制度は、1944年で20万人、1945年で6万人、特別召集解除制度は1943~45年で4。3万人、召集要考慮制度は160万人が対象となっています。
 戦時中の在郷軍人数は約500万人、召集要考慮制度を除くと、総数で115万人以上に上っています。
 また、充員召集計画で召集令状を発行されていたのに、その充員召集計画自体が取りやめとなった為、結果的に召集されなかった人も多かったようです。(眠い人 ◆gQikaJHtf2)

うちの母方の祖父。福井出身で戦争当時大阪にいた。
薬剤師だったので徴兵されずに済んでいた。(戦局が悪くなっても製薬する人が内地に必要だったので)

 休みの度に薬をたくさん持って福井に帰り、薬を配って換わりに越前米をもらう。
 ↓
 福井から船でまだ稲作技術が発達していない北海道へ渡る。
 ↓
 米を売ってお金に換えて大阪に戻る。

と、いうのを延々とやっていたそうです。(生活板)

『軍事板常見問題』のキャッシュより
http://mltr.free100.tv/index02.html
(現在、上記サイトの項目が閲覧できないので…)
http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08k03.html#draft

【質問】軍に召集されなかった人には、どんな人がいますか?

【回答】旧日本陸軍に於いて、召集を担当するのは、各県にほぼ一つ配置された連隊区司令部です。この連隊区司令部で、参謀本部、陸軍省と言った中央が決定した動員計画に基づき、該当者を召集令状を作成します。
 これは、充員召集令状と言い、前年...続きを読む


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