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撃墜王なる言葉がありますが
調べて見ると5機墜とすと与えられた称号らしいです、もちろん諸説ありますが
5機墜とす位は熟練パイロットなら出来るのでは?なんて思いましたが
たぶんこれはTVゲームしてる感覚で捉えての結果だと思います
全然ピンときません
生涯戦闘で5機でエースなんて呼ばれるって事は
ものすごく生還率が悪かったと予想出来るのですが・・・

撃墜王って呼ばれるにはかなり大変だったのでしょうか?
また太平洋戦争までの生還率など
素人に解りやすく教えて頂ければ幸いです
よろしくお願い致します

gooドクター

A 回答 (6件)

直接的な回答ではありませんが、


アメリカ軍の集計では
・エースは総パイロットの1%に満たない
・しかし、全撃墜数に於けるエースのシェアは40%位
・トップ・エースは生存率も高い(米軍の場合、20傑中戦死者は3人だけ)
という結果が出ています(これがアレグレッサーなどの摸擬空戦を重視する訓練へと繋がっていく)。

 つまり、パイロットになると、大体は戦果を上げることなく敵に喰われる。その時点で運が良いか、技量がいいものは生きのこり、やがてエースになるか、運が良いだけでなんとか生きのこる「その他大勢」になるか、という事になるわけです。

 ただし、生存率に関して言えば、国によって条件が異なり、落とされても歩いて自陣に返ってもう一回出撃、なんて恐ろしいことが平気で起こるWW2のドイツ(3桁級がゴロゴロ。肋骨負っても再出撃した奴もいた)、ローテーション態勢がしっかりしていて、それほどスコアを伸ばせないアメリカ、洋上を長距離侵攻が多く必然的に死にやすい日本など、「その国の事情」があるので、一概には言えません。

 なお、現在ではそもそも空戦自体がほとんど発生しないので、撃墜経験のあるパイロットの方が希少です。最後のエースは1986年のイラン空軍人でした。もう20年以上前の話です。
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第二次大戦の撃墜王はベスト23まで全部ドイツ人です。


そのあとの24~46位を見ると、日本人が12人でこれに次ぐ。
しかも1位であるエーリッヒ・ハルトマンが落とした数、なんと352機!
この片寄りは何なのか。一人の人間がなぜこんなに撃墜するのか。
理由はふたつあって、まず第一に、当時のドイツ軍や日本軍では
交替がきかず、技量のある戦闘機乗りが前線に出されっぱなしだったこと。
その証拠に第一次大戦と比較すると、このときベスト4の国籍は、
ドイツ(80機)・フランス(75機)・イギリス(73機)・カナダ(72機)とまったく平均している。
ふたつめの理由は、ドイツの対戦国であるソ連の軍用機の質が劣っていたこと。
ベスト7までが東部戦線でのスコアだということがこれを裏付けています。
エースたちの生還率は調べてないのでわかりません。
先のエーリッヒ・ハルトマンは、ソ連の戦犯として重労働25年を宣告され、
10年余りの抑留生活を送りました。
「撃墜王列伝―大空のエースたちの生涯」http://www.amazon.co.jp/%E6%92%83%E5%A2%9C%E7%8E …を参考にお答えしました。
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TVゲームと実戦との違い。


・3次元でくるくるまわると遠心力で血液が体の中でかたより、目が回ってしまい、身体能力の限界になる。ジェットコースターよりはるかにひどい状況。
・後ろに付かれて射撃を受けると急降下と左右への切り替えしで遁走するが、一度それをやると心理的に逃げ腰になる。また再度の攻撃のために高度を取り直したり戦闘空域に戻るのは数百キロの速度での移動後なので難しい。
・敵機が太陽方向から下降攻撃してくると発見が困難。
・弾丸も燃料もすぐなくなるので瞬間芸である。
・相手もこちらも数百キロのスピードで動いているので相対速度は音速並みであり、照準器で真ん中に敵機があったとしても弾が届くとは限らない。
・腕がいい、と思われると、すぐ本国へ呼び戻されて飛行学校の教官に
されるので、撃墜数を伸ばせない。
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No1さんが良い回答をしておられますね。



大東亜戦争の多くの海戦で戦闘機隊長として出撃して生還し、戦後は「ノーベル工業」という警察関係の装備等を作る会社を興して91歳の天寿を全うされた志賀淑雄海軍少佐の単独撃墜数は「6機」だそうです。恐らく「戦争を生き抜いた戦闘機乗り」としては最も出撃回数が多い方ではないでしょうか。

下記で、志賀氏と懇意であった危機管理評論家・作家の佐々淳行氏が雑誌に書いた文章が引用されています。
http://blog.goo.ne.jp/cbi70410/e/7b1fb8ea01e587f …
<引用開始>
謙虚な人柄だった。ある時、「志賀さん、零戦の星として四年も最前線で戦い抜いたんですから、さぞ沢山敵機を撃墜したでしょう。撃墜記録は何機ですか?」と聞いてみた。
答えは「単独撃墜は六機でございます。あと協同撃墜はもっと多うございます。ある程度撃っておいて、まだ撃墜記録のない新参の列機に墜させるんでございます」
これには筆者は恐れ入った。ハワイ空襲、ミッドウェイの支援作戦だったアリューシャン作戦、珊瑚海海戦、南太平洋海戦等々艦上戦闘機零戦の分隊長、飛行長を四年間第一線の艦隊勤務で、最期は松山の柴電改第三四三飛行長として、勝ち誇る米高速機動部隊のパイロットたちをして「日本にまだこんなに強い戦闘機隊が残っていたのか」と驚嘆せしめた志賀淑雄少佐のことだ。撃墜五十機といおうが百機といおうが、流石「源田サーカス」の列機だった名パイロット、当然のことと世人は納得するだろうに、「六機」ときた。この人は「本物だ」と思ったものだった。
<引用終わり>

思いますに、志賀少佐は
「隊長から獲物を譲られてでも、一機でも敵機を撃墜した戦闘機乗りはその後も生き残って行く」
と考えていたのでしょう。No1さんが示唆されるようにそれは正しいのだろうと思います。

士官である志賀少佐が単機で出撃することはなく、必ず列機を従えています。部下に戦果を譲り続けた結果、膨大な出撃回数にも係わらず、志賀少佐の単独撃墜数は「僅か」6機ということになったのでしょう。
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戦闘機のパイロットの生存率はとにかく戦闘を避ける事できまります。


米軍は当初劣勢であった頃はゼロ戦とは2倍以上の数的優勢でなければ戦闘してはいけないなどの規則を作りましたが、日本軍は現敵必殺でとにかく好戦的に行動し被害の増大に拍車をかける状態でした。

生き残る事を重視する国民性と死ぬことを名誉と考える国民性の差異の影響がありました。

燃料の残量や弾薬の残量を考慮せず、戦闘を継続する姿勢では生還率は論外だったでしょう。
しかも日本軍ではなにかミスがあると戦死するように死地に派遣し早く戦死するようにし向ける傾向が強かったのです。
山本連合艦隊司令官の護衛任務を果たせなかったゼロ戦パイロットはこうして処分されました。

生き残る為には天性の才能と共に、勝てない戦闘を避ける才能が必要だったのです。  これは日本軍にはない才能でした。
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生存率、具体的な数字は覚えていないのですが、予科練に関係する資料館などで卒業者数と戦死数がでていたりします。

戦闘機だけではなく爆撃機などに乗った人も含めてですが、年度によって違いますがかなり低い数字でした。ほとんどの人が戦死、という年もあったと思います。

第二次大戦については書籍が多数出版されています。出撃数回までに少なからぬ人が撃墜されてしまったような記述もありました。その数回に生き残る技術が学べるかどうか、ということのようです。

さて、撃墜数ですが、ゲームと違って実機では弾数に制限があります。口径の大きな銃では1つあたりせいぜい150発とか・・・。打ち続けると数秒で撃ちつくしますね。これがゲームと一番の違いかもしれません。
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