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刑法の根拠は何でしょう?
何の名の下に人は人を裁くことができるのでしょう?

全体の安全(や将来の安全=治安維持)のために人は人を
監禁したり、殺したりできるのでしょうか?

罪と道徳はイコールでは結べませんよね。
道徳に反していなくても罪を問われることはありますよね。

もう、時代遅れかもしれませんが、神による裁きのほうが
よっぽど説得力があります。人間の世界の外からの力。

回答よろしくお願いします。

A 回答 (16件中1~10件)

その説得力のある神が作った法はきちんと存在します。


それがシャリーアつまりイスラーム法です。
しかしそれはサウディアラビアで使われている法律や元アフガニスタンの法律とはイコールではありません。
現在は神の法シャリーアを100%そのままの形で使っている国も地域もありません。
シャリーアを一部(あるいは大部分でも)取り入れている法律は、人間の感覚で取捨選択しているので欠陥品であり、完璧な法は神の法そのままの形のものだけです。

シャリーアは創造主が被造物のために創った法であり、被造物に関しては創造者が最もよく知っていますから、それは被造物人間にとって完璧で最善なのです。
ただ、人間の知識は有限ですので、なぜそれが善なのか理解できない人間がたくさんいるのも不思議ではありません。
現在のイスラーム圏の法律やムスリムの現状ではなく、純粋な神の法シャリーアを一度学んでみてください。
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あっ、たしかに・・。

無意味ですが一応訂正します。

×>この説明が(悪い意味での)法万能主義や「悪法もまた法」という誤解を招く元にも
△ この説明がいわゆる法万能主義(悪い意味での)や「悪法もまた法」の誤った解釈を招く元にも

もっとも、こんな些細な部分を恥じるより先に私自身の無能さを恥じるべきですね・・・
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あっ・・・SCNKさん、No.13の書き込みがもし少しでも私に当てられているのであれば、ごめんなさい。


私はNo.10の時点で自分の意見を何ら言っていなかったためにNo.12で自分なりの意見を書いただけですので、ここで誰彼に対して議論する気はもちろんありません。
ここで自然法論(しかも聞きかじりの)を切り出したり、あるいは法実証主義について細かく論じてもいよいよ混乱してしまうでしょう。結局確答は得られませんから。
>主義などによって当然異なった答えとなるでしょう

 もともと非常に難しい問題ですので、本音をいうと修行中の身としては、あまり自分の考えを
 出したくなかったんですよね・・・。ただ、ここの印象が強かったので我慢ができずに思わず
 自分の考えをだしてしまいましたが。

もっとも、そのような領域に意識を巡らせることは必要でしょうね・・・。死刑一つとっても、突き詰めればどうしても究極的なレベルまで考えざるを得ません(ただ、それは答えなき答えを探すようなものだったりします)。逆にそのような意識がなければ、例えば非常に低いレベルで表面的に考えれば
>人工的に法という正義を作る必要があるのです
この説明が(悪い意味での)法万能主義や「悪法もまた法」という誤解を招く元にもなるでしょう。
いろいろ考えさせられます・・・。

最後にちょっとだけ気になったのですが
>自然権や自由権なども国家以前には実証できない、すなわち存在しないものであるから、
(もしSCNKさんが法実証主義の立場から論じられているのであれば)法実証主義によれば自然権は「存在しない」との説明は、おかしいとは言わないまでも、ちょっと言いすぎのような気がします(説にもよるのでしょうが)。
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この回答へのお礼

ううむぅ。
法実証主義。「悪法もまた法」(ソクラテス?)

…。多分法のことを勉強している人には基本的なことだと思うのですが…。やはり、門外漢にはちょっとわかりにくくなってきました。
やっぱり、一つ一つの語の理解が足りないと、物事を正確に
理解することがしずらくなりますね。

ただ、いろいろな議論を見ているととても面白いですが。


回答ありがとうございました。

お礼日時:2003/01/22 16:51

まず最初に断っておきますが、この問題は法哲学の問題であって法の条文解釈の問題ではないので、一つの答えにはならないものであるということを述べておきます。

主義などによって当然異なった答えとなるでしょう。

前国家的権利というものがありえるかどうかは議論の分かれるところでしょう。確かに現日本国憲法には前文にそのようなことが記載はされています。しかしながら法実証主義の立場から言えば、アプリオリな国家成立以前の、あるいは人類普遍といった、自然法は否定されるものでしょう。

社会構成員内の、権利を調整する契約的なものならば、自然権や自由権を保障するものは存在したでしょうが、これは強制力を持つ法とは別物です。

死刑に関して言えば、法に基づいて執行されるものであって、刑法35条の正当行為であるわけです。これが合法であることを国家そのものが保証しています。殺人罪が適用されるのも国家が刑法199条で規定しているから違法なのです。これはなんら自己矛盾するものではないでしょう。つまり人命を断つことそのものは、法以前には、法が無いわけですから当然、違法合法を問えるものではないわけです。そうでなければ正当行為で人を殺傷することはできなくなってしまいますので、死刑の執行や、合法的な武器の使用などができないことになってしまいます。

正義というものも、正義を主張し始めますと、正義と正義の衝突という事態が生じます。これはもともと普遍的正義というものは実証できないものだからです。したがって人工的に法という正義を作る必要があるのです。私は死刑問題については、国家が法という正義に基づいて実施しているものであり、自然権や自由権なども国家以前には実証できない、すなわち存在しないものであるから、そのような問題そのものが生じないと考えます。

国家の秩序を維持するためには、正義を独占しなくてはならないわけで、法以前の正義を一度否定する必要があると考えます。
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この回答へのお礼

大変わかりやすい回答ありがとうございました。

○この手の問いは法哲学の範疇にある。

○法実証主義の立場からいえば、アプリオリな国家成立以前の、あるいは人類普遍といった自然法は否定される。

○死刑は憲法35条に記載してある「正当行為」である。国家が合法と保証している。

○刑法199条に、殺人罪が適用されることが記載されている。

○普遍的正義は実証できない。

○国家とは限定されたものである。限定されているがゆえに、自然権や自由権など国家以前に存在しているものを実証することができない。国家は、限定された範囲内で自ら定めた法という正義に基づき、その秩序を維持する。

要素を抽出すると、このような感じですかね。
なにぶん、門外漢なのでほとんどのことが大事なことのように思えてきました。(ほとんど原文の繰り返しです。)


回答ありがとうございました。

お礼日時:2003/01/22 16:47

N0.10です。

個人的に気がかりな点がありましたで、死刑についてちょっとだけ・・・

およそ人は自身の幸福を追求しつつ生きて行くことが認められています。自然権や自由権などと称されますが、ご存じのようにこの権利は、本来国家の存在の有無に関わらず自明として存在するものです。
ですが、人は他人の自由、権利を不当に害してまで自分の権利・幸福を追求する事は認められていません。にもかかわらず、人は時として他人の自由、権利を侵害する過ちを犯してしまいます。
このため、人はこの自由、権利を保護するために国家を通じて実効的な仕組みを確立しました。
憲法や法律をはじめとした強制的な約束事である法規範と、それに従って構成される刑事機構がそれです。

かくして、法益(自由、権利)を不当に侵害した者は犯罪者として制裁を受けることとなります(ここで注意すべき点は、この制裁は、犯罪者が国家の構成員でないにも関わらず発動されることです(刑法1条(属地主義)))。

そして、時にはその制裁として死刑が選択されることもあるでしょう。

制裁としての刑罰の存在は、自由、権利を保護するための手段としてその意義を認めることができると考えます。

ですが、死刑についてはまた別に考えなければなりません。死刑の選択が、制裁の側面はともかくとして、理由の如何を問わず人の前国家的権利であるはずの「生きる自由、権利」を恒久的に奪うことになるからです(この部分は重要です)。
それは、国家は私人に対しては殺人を禁止(刑法199条)しておきながら、その国家は国家による殺人を認める(同35条)という自己矛盾(?)を生じさせることにもつながります。
また、百叩きでたとえられる身体刑等残虐な刑罰が否定されている(憲法18,31,36条)にもかからず、死刑が認められている点もあわせて考慮しなければなりません。

ではなぜ死刑が存在しうるのでしょうか。 国家が人の生殺与奪の権利を握る根拠は何なのでしょうか。
なぜ国家は刑罰という手続きによって人を殺すことができるのでしょうか。
---------------------------------------------
・・・と、ここまでは私が述べるまでもなくこれがご質問の趣旨であったと思われます。

これに対して私などが安易に意見することはためらわれますが、私はこの死刑の存在する根拠を「正義」に求めます。正直に白状しますが、この「正義」、実は先に挙げました植松先生の言葉を借りています。(どうでもいいことですが私はこの正義の名において死刑を肯定しています。)

ところが困ったことに、この植松先生(や団藤先生)の能力をもってしても、死刑の存在に対する明確な解答は得られないようです。一方的な正義だけでは語り尽くせないということなのでしょう。
では、果たして(少なくとも私のような)初学者にこの答えを導き出すことができるでしょうか。
この点から、この問題を考えるに当たっては、まずそのヒントを得るために過去の蓄積に当たることが不可欠ではないかと考えて先の書き込みをさせていただきました。私はこの程度のアドバイスしかできません。ごめんなさい。

ちなみにヨーロッパでは、多くの国において死刑が廃止されているようです。
参考として、死刑廃止条約のリンクを張っておきます。
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国家権力は国民に対する生殺与奪の権利を握っています。

それが国家主権というものです。それがあるからこそ暴力機構を独占して治安を維持しているわけですし、戦時に兵役を命じることができるわけです。国によって程度の違いこそあれ、国民の生命に関する権利を独占し、それを国家に預けることで国家と国民が一体化しているのだとも言えます。その反射物として国民の権利を受ける事ができるわけです。

もし国家にこれらの権利がなければ、法を施行する担保を失うことになるでしょう。近代国家にとっては法が正義であり、それを国家が決め、強制力をもって守らせることを独占しているのです。あるいみ正義を独占していると言っても良いでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2003/01/19 15:20

本が何冊かかけてしまうくらい難しい問題ですね・・・。


(もちろん私にそんな能力なんてありませんが)

otafukutigerさんの問題の答えを知る手がかりを得るには、過去の蓄積に頼るのが正攻法ではないでしょうか。
私としては、そのヒント(検索用キーワード)を提示するにとどめたいと思います。
お断りしておきますが、私は哲学とはまったく無縁の人間ですので、間違いがありましたらごめんなさい。


>何の名の下に人は人を裁くことができるのでしょう?

どうでしょうか。「正義」といいたいところですが、それ自体が非常に難しい概念です。
時代や洋の東西などでいろいろな正義が存在します。
正義といえばとりあえず「ロールズ」ということになるでしょうが・・・
それ以前に、正義といってよいものかどうかもわかりません。


>国家の権力が人を殺す資格を持つのかどうか

いまだに解決を見ない、古くて新しい問題です。

「ルソー」、「ヘーゲル」、「カント」などについて、お調べになるとよいでしょう。
「団藤重光」、「植松正」も、(書籍を手にするならば)手っ取り早くていいかもしれません。
それぞれを「死刑」でAND検索をすると、何か引っかかると思います。
ちなみに、この5名の中では団藤氏のみが死刑否定(廃止)論者だったとおもいます。


>道徳と法の違いもよく分かりません。
「イェリネク」、「ルソー」、「ヘーゲル」、「カント」・・・
重要な人物、思想はいろいろ存在しますが、とりあえずこの方々を検索すればほかにも関連する手がかりが見つかると思います。

参考URL:http/www.goo.ne.jp/
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

やはり、とても難しい問題のようですね。
でも、その問題の解決を待つ時間などないので、慣習で決定
しているのでしょうね。

お礼日時:2003/01/19 15:24

国家です。

制定過程の違いは別として国家が制定した法によって裁くのですから国家です。特に大陸法の国は法治主義ですから、国家主権である施政権に基づいて法を適用するのです。英米法では法による支配といって、法は裁判を通して発見されるものとの立場をとっていますが、これにしても国家が成文法として適用するのですから、実定法に違いはありません。
神の裁きというのは、ドイツやフランスで近代的な法がつくられるまでカノン法、つまり教会法というのがあって、キリスト教に基づいて裁いたという歴史があります。しかし古い実定法であるローマ法も同時に適用されていて選択することができたようです。
これらは近代国家が成立する前のものであって、宗教的権威や皇帝の権威が交差する多元的世界のものです。現在では国家が主権行為として法を制定するのです。
イスラム圏では今でもシャリーア、すなわちイスラム法を適用するところもあります。サウジアラビアとか、少し前までのアフガニスタンがそうでした。
神を持ち出すと、人によって信仰がことなりますから、それぞれが別の法を持ち出すことになります。そうなると衝突が生じて収拾がつかなくなるでしょう。ドイツ30年戦争というのがありましたが、そのような状況だったわけです。そこで国家というものを作って、一つの主権により一つの地域を治めたわけです。
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この回答へのお礼

わかりやすく回答ありがとうございました。

国家の権力が人を殺す資格を持つのかどうか教えていただけると
ありがたいです。

お礼日時:2003/01/09 23:26

No.5です。



後半とは、道徳の規範に従えば・・・でしょうか?

人は向上心を持っています。現状に満足してなにもしないことなどありませんね。

この心理は、「もっと」と言う欲望に置き換えられます。

聖なる欲望は向上心であり、悪しき欲望は我欲であると思っています。

この欲望の対立を解決する手法?として神仏の御教えがあり、これに近づかんがため、人は信仰し、修行を重ねてきたと考えます。

神の裁きは、人の理解を超越し、人に恐れられてこそ本来の効果があります。 勿論、絶対的な正義と命あるものの幸福につながる裁きであることと思います。

人は、外的圧力、攻撃、力が自分たちに解明できるものであれば、誰かの謀略だとして侵略行為を盾に人を扇動するかも知れません。

私の個人的な思慮です。
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まずは、「宗教の教えに従って殺されたとき、それは人間の世界の外からの力によって殺された」


という考えについて述べましょう。

たとえば、私(あなたでも良いが)が教祖になろうとしたとしましょう。
さて、自分の考えを人に説いたとて簡単に布教できるのでしょうか?
その考え(教え)がもしも人(他人)が共感でき、どのようなメカニズムで発生した
かわからない考えであったとします。そのような条件が重なって初めて「考え」が
「教え」になっていくわけです。
そのような教えが複数の人が共感し、たくさんの人が共感すれば、それが宗教となっ
ていくわけです。これは法が作られるメカニズムと同様です。
結局、偉い人が考えた事が元になっているわけで、
「人間の世界の外からの力」というのではなく、教祖(つまり人)の考えそのものなんです。

次点に気になった、
曰く>「個人の利益のために人を殺す。 ということの方が理解が簡単です。」
ということについて述べましょう。
私は「個人の利益のために人を殺す」、というほうが理解不能です。
たとえば、殺人鬼がいたとします。その人は焦燥感に迫られて人を殺すとします。
ところが、実はその殺人鬼の考えは、「こいつが生きていたんでは世のためにならん、だから殺す」
と考えていたとします。それならば、理解は可能ではありませんか?
ただ、それが、殺人鬼の思い込みに過ぎないというだけです。
武将を例にとっていますが、なぜ戦国武将?
彼らも規律(社会の法則を尊守する)を思って殺したと考えられませんか?

個人の利益、つまりたとえば保険金目的殺害。人を殺してまで金が欲しいの?
そんなの理解不能です。
そんなやつこそ、監禁して死刑です。
世のためになりません。もしかするとあなたの親族が殺されるかもしれません。
そこまで社会が判断したとき、死刑は確定するのです。

道徳と法の違い。
これは私もよくわかりません。
法とはルールですよね。
道徳とは正義なのかな?
それとも、倫理の集合?
うーん、質問している根拠もわかりません、悪しからず。
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