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死刑廃止論によくある意見の一つとして、死刑に犯罪抑止効果が無いという事が挙げられるのですが、そもそもどうして死刑に抑止力が無いといえるのですか?信頼できるデータがあるんでしょうか。私のような素人の考えでは、、もし死刑を廃止したとすると、人を殺す事がいけないという倫理そのものが希薄になり、また、死刑という重い刑罰を科せられないという事から、どんどん殺人が増えるのではないのかと心配してしまうのですが。また、そもそも罪も無い人を1人も2人も殺しておいて、死刑にならないのは、道徳的にもおかしい気がします。被害者だけ泣き寝入りして、加害者は社会復帰できる権利があるなんておかしくありませんか?死刑が殺人という一部の人権派弁護士がいますが、そもそも、悪人を罰するのは国家の任務であって、人を殺すという行為として人くくりにしてしまうのはあまりに暴論であると考えています。世論調査では、死刑賛成が80パーセントを超えていますし、素人は私のような思考の人間が大半です。でも、法律の専門家達が、死刑廃止を言うんでしょうから、おそらく私の考え方が間違いなのだと思います。納得できる形で正してもらえませんか?

A 回答 (23件中1~10件)

まずはじめに。


>でも、法律の専門家達が、死刑廃止を言うんでしょうから、おそらく私の考え方が間違いなのだと思います。

このような考えを持つのはよろしくないと思います。専門家が全てではないのですから。自分の考えに自分の考えに自信を持ちましょう。

本題ですが、死刑廃止国のほとんどで殺人事件等の発生率が低下しているというデータがあります。
極論ですが、もし「今日一日は何をしても犯罪にならない」という日があったとしましょう。あなたは何をしますか?家の中で一日中気を配りながら過ごすのではないのでしょうか?外にいたら誰が何をしてくるかわかりませんからね。
それに死刑があったら、「死刑になるから殺すのはやめよう」と考えるだろうという意見がありますが、「懲役くらいなら死刑にならないのだし殺そう」とまで考える人はまずいないと思います。
流石に、人を殺したことはないのでその場にならないとわかりませんが、ニュース等を見てると「ついカッとなってやった」というのもありますよね?
世論調査の件ですが回答した国民は上に挙げた、廃止国の犯罪発生率の減少のデータを知らない人も多いのでは?犯行の残虐性や犯人の人相等を上げるよりマスコミで大々的に上げるより、こういったデータを報道することも大事だと思います。
ニュース番組は「事実」を報道しますが、そこに出てくる「事実から言えること」が正しいとは限りませんよ。
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ご参考までに、↓のページを。


http://ww4.tiki.ne.jp/~enkoji/harada.htm

一部引用します。

>極悪人は死んで当たり前だ、死んで罪を償うのが一番良いんだ、よくそう言われます。じゃ、我々、残された被害者遺族は加害者が死刑になって気持ちが本当にすっきりするのかというと、そうじゃないんです。当事者としては、死刑になったからといってすっきりするもんじゃない。一生、事件のことがトラウマとなって生きていかないといけない。これが現実です。もしも死刑になってすっきりするんだったら、何でもっと早く執行が行われないのかと思いますね。


場合によっては、死刑が被害者にとって、より苦しみとなってしまう事もあるようです。
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No.16です。

みたび版汚しを失礼します。
No.19様のご回答をやっと理解できました。

>日本のような民主国家は本来、国家=市民です。(だから主権在民なのです)
>確かに、警察権などは国家として運用されていますが、国家を支え導いているのは本来、主権者たる国民のはずです。

全くそのとおりです。
なので、話はそれますが、よくテレビで、国を相手とする訴訟に勝ったとして、原告が喜んでいるのは分かりますが、
それを「国が控訴しないことを祈ります」などとしたり顔で評論するコメンテーターを見るにつけ、
「『国』ってあんたたちを含めた俺たちのことなんだけど」といつも思います。損害賠償金は税金ですから、
税金を支出する以上、因果関係も含めてきちんと審理しないといけないのに、必ず原告側に立ったコメントです。

それは、No.19様のおっしゃる、
>刑法に限らず、国民(市民)それなりの責任を負わなければならないのです。
・ということを意識したコメントではなく、「とにかく国家権力は悪い」という短絡的なものであるような印象を持つことが多いです。

>死刑賛成派がナゼ、論争になると負けてしまうのかは、要する国民(市民)の責任という点に対して明確なテーゼを持たないためです。

そういうことなんでしょうね。ただ、反対派はNo.19様のおっしゃる「罪を犯すものを作りだす社会を放置していてはならない」
といった、どちらかというとマクロの視点に立ったもの、一方、賛成派は「じゃあ遺族の気持ちはどうなんだ」とか
「愛する家族を殺されたら、そんなことは言っていられないはず」といった、どちらかというと個別具体的なミクロのもの、
という気がします(私も含めて)。ですので、「論争になると負ける」というよりも、そもそも議論がかみ合わない、
という方が当たっているのではないでしょうか。
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あくまで個人的な意見として読んでください。

犯罪抑止効果がないと言うのは、楽に死なせてしまうからではないでしょうか。「死刑にだけは絶対なりたくない」と人に思わせるほど残虐な死なせ方をさせれば、抑止力はあると思います。公開処刑や遺族に好きなように殺させちゃうのもアリだと考えます。今の日本の司法判断は「ふざけんな」ってのばかりなんでこう思っちゃうんでしょうね。こう考えている人間もいるんだという参考程度に。
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#15です。


「国家」の概念の補足です。
#16さんの「国家」の概念には全面的に賛成です。
私はその先のことを言いたかったのです。
その条件として、「民主主義」であることと「自治」の仕組みを持っていることを先に述べました。

国家は、国民が居なければ成立しません。しかし、国民が市民(有権者)である必要はありません。王制や貴族制をとっている国では、国民は居ますが、市民とは言えない場合もあるのです。

日本の場合は、先に#15で述べた理由により、市民が法治国家を支えている仕組みが明確であるといいたかったのです。

市民に関しては、いい説明がありますので引用します。
「あなたは市民ですか」森山秀二
http://www.gakugei-pub.jp/judi/forum/forum14/15. …

質問者さまの、お考えは「国家」と国民(市民)を別のものとして捕らえ、刑法的な問題について、国民の責任は一切無いんだという考えがおありのように感じられたのです。
日本のような民主国家は本来、国家=市民です。(だから主権在民なのです)
確かに、警察権などは国家として運用されていますが、国家を支え導いているのは本来、主権者たる国民のはずです。

ですので、刑法に限らず、国民(市民)それなりの責任を負わなければならないのです。
どういう責任かというと
・罪を償った者を差別してはならない。
・罪を犯すものを作りだす社会を放置していてはならない。
です。

死刑賛成派がナゼ、論争になると負けてしまうのかは、要する国民(市民)の責任という点に対して明確なテーゼを持たないためです。
これが王制(または独裁国家)なら、権力者が死刑と決めれば後は誰も責任を負わなくいいのです。
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#17の方のお答えに関してですが、少し誤認されている感じがするので、補足させてくださいね(お気に触りましたらもうしわけありません)



コンクリート事件や母子殺害事件は未成年の犯行かつ単純な殺人事件ではないので少し問題が複雑なのですが、成人の事件と仮定しても死刑に値すると思います。現に母子殺害事件は元少年には死刑の可能性が高くなってきています。

死刑になるかならないかは人数によってのみで決まるわけではなく、人数は死刑になるかならないか考察する要素に過ぎません。

ある程度の人数を殺害すれば死刑になる例が多いというのはあります。
ただ、2人殺して死刑になる例もありますし、3人で無期の例もあります。

そこが考察される点で、過去の判例、情状酌量の余地はあるか、と検討されます。この点を考慮すると介護疲れといった例では罪は軽くなります。

すでに出ているように、死刑に関する問題もあるので、裁判官もおいそれと死刑判決を下すことはできません。

1人殺して死刑判決が出る例は将来的にありえなくはないと思います。
ただ、その点の問題として考えられるのは、より重い罪に関してです。言い方は悪いですが、この程度の事件とあの事件がおなじ罪!という批判が出てくる恐れがあることです。

光市の事件では殺人のほかに強姦と言う要素が入っています。
死刑になる例としては放火罪、国家転覆罪、内乱罪などがあります。

単純な1人の殺人で死刑となると、これらの罪の場合に罪の程度が同じなのか?という議論が起こることが予想されます。

新しい判例ができるということはその後の裁判に大きな影響がでるので、ある程度は慎重になると思います。

日本では死刑が一番重いですが、海外では懲役2万年とか、死刑+懲役刑ということも可能な国もあるので、その辺の適用はどうかな?と思います。
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面白い、そして深いテーマだなと思いました。



死刑になる罪状といえば、まず殺人ですが、自分としては
死刑にしていい(表現が稚拙ですが)加害者とそうでもない加害者
がいるんじゃないかなって思います。
前者は例えば女子高生コンクリート事件の加害者や山口県光市の
母子殺害事件の犯人などです。
後者はNo.15さんが挙げた「介護疲れの精神的ストレスの限界」から
殺してしまった・・等です。要はもっと外部の要因・環境が原因と
なってるような場合です。

確かに殺人といえど、この2つのケースで死刑にするべきか、すべきでないか考える余地はあると思います。(実際そうなってるのかな?)

個人的に問題なのは、この前者にあたるケースへの罰が少し軽くなってるのではないかなと思います。

自分でも不思議なのは、何故人数で死刑になるのかならないかが
決まるのかなぁって思います。
むしろ一人でも殺したら死刑になるんだぞ!って判例が欲しいのです。

ただNo.15さんの意見を見ると、一概には死刑賛成できないなぁという考えが湧きます。

だから死刑を「廃止」する必要はないが、「適用」するケースについて
再考すべきだって感じです。

ただ死刑以外に社会・被害者も納得できる刑罰がないものかと思ってしまいます。
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No.13です。

再び失礼します。
No.15様のご回答について、別に議論の場ではありませんから反論するつもりはないのですが、

>最後に明確に誤まりな点を指摘しておきます。それは民主国家では「悪人を罰するのは国家の任務」ではないということです。
警察権は公安委員会により監督されています。公安委員会は、地方自治の一機関です。検察は行政・立法から独立しています。
司法、裁判官はその職務を独立した個人(持ちろん資格と経験を有した人ですが)として行います。
このようにして、国家(と呼べる権力構造)から、可能な限り裁判を独立させ、為政者や権力者の恣意的な力を排除するように努めています。>>>

の部分について、私のNo.13に関連する部分ですので、若干述べさせていただくことをお許しください。

No.15様と私とでは「国家」の定義が異なるわけです。No.15様のおっしゃる「国家」とは行政のことを指していらっしゃると思います。
私のNo.13で述べた「国家」とは、行政はもちろん、司法も立法も地方自治体も含めたものです。
言葉の定義の問題なので、どちらが正しいということはありませんが、私は国家権力というのを立法権力、司法権力、行政権力の3つの切り口でみて、それぞれ別の機関に分散させることを「三権分立」と思っています。
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反対派の論点というか、刑法(刑罰)の多少を誰がどのように決めるかをきちんと論じなければ、死刑廃止論の本当のところは見えてきません。



まず、つい先日に行われた裁判員制度の模擬裁判の結果をお知らせします。
東京と千葉でほぼ同時期に行われ、裁判審理の内容はまったく同じものでした。このとき検察側と裁判官の両プロフェッショナルは、どちらも量刑判断にブレが無く、判決内容も同一でした。しかし裁判員のくだした判断は、まったく逆のものでした。
つまり、(死刑に限らず)量刑というものを推し量ったときに、誰もが納得できる判断などありえないということが浮き彫りになってきたのです。
また、模擬裁判に参加した裁判員の方々は、一様に「人を裁くのがこれほど重いことだとは思わなかった」と言っています。

裁判は、人が人を裁くがゆえに非常に罪深く、社会の公平・公正を守るために最低限にしなければならない。というのが、刑法の根幹にあります。ですから「疑わしきは、被告の利益に」という言葉があるのです。

また、刑罰の方法の問題もあります。
日本の刑法で規定されている刑罰の中で、唯一死刑だけが「肉体」で払う刑罰です。
なぜ、他の刑罰、たとえば、”駐車違反なら鞭打ち10回”とか、”万引きは5回目には手首を切り落とす”とかいう刑罰が無いのでしょうか?
罪の無い人を殺して、”死刑”なら、罪の無い人からモノを盗んだら「肉体」で払ってもらってもいいでしょう。
このような主張は、現代では野蛮であるとして、また先ほどの「誰が裁くのか」という命題に対しての、長い間(成文法が出来てから2000年以上になります)の議論の末に、ようやく先進国ではこのような「肉体」で受ける刑罰がなくなったのです。

また、量刑を受ける側の公平性もあります。
ついこの間、無罪判決の出た三菱自動車がいい例です。あの事件では、何人もの方の命が失われています。
これが個人の犯罪であれば、すぐに死刑という論調が出るでしょう。しかし、会社など組織では誰を死刑にすればいいのでしょう。
会社を潰しますか?

このように、犯罪を犯すというのは個人に限りません。組織であるからこそ、犠牲者が増えるということもあるのです。(HIV訴訟・水俣病訴訟など)

このようなこともすべて含めて考えたとき、「社会の公平・公正の為に」人を処罰するという観点から見て、死刑制度は非常に多くの問題点を抱えているのです。

また、質問者様のいう悪人とは誰ですか?
殺人者の中には、介護疲れで仕方なく殺したとか、失業して子供を養えないので仕方なく殺したとか、そういう殺人もいっぱいあります。(子供が被害に会う殺人事件の加害者は、ほとんど親か親近者です)
このような状態を作り出した社会政策・福祉政策には、社会の公平・公正、という観点から見て問題はなかったのでしょうか。(例えば児童相談所が保護していたら救われたとか、そういうことです)

一人殺したから死刑という、単純な図式では割り切れない社会的なゆがみまで、すべて個人の責任にし、死刑にすれば終わりという考え方には、私は同調できません。
もちろん、本当の悪人もいるのでしょうが、生まれたときからの悪人は居ないはずですので、その生い立ちまでも含めて、裁判員として貴方が量刑を判断しなければならないとしたら、死刑とすぐに判断できるでしょうか。

このように、死刑を含めた刑罰というのは常に、「社会の公正・公平」に対して、目の行きとどいたものでなければならないのです。
これが、死刑制度の反対論の骨子です。ただ単に死刑だけを問題にしているのではないのです。

最後に明確に誤まりな点を指摘しておきます。
それは民主国家では「悪人を罰するのは国家の任務」ではないということです。
警察権は公安委員会により監督されています。公安委員会は、地方自治の一機関です。
検察は行政・立法から独立しています。
司法、裁判官はその職務を独立した個人(持ちろん資格と経験を有した人ですが)として行います。
このようにして、国家(と呼べる権力構造)から、可能な限り裁判を独立させ、為政者や権力者の恣意的な力を排除するように努めています。
 国家の任務として行っている国、中国・北朝鮮などの共産国や独裁者の国家などの裁判がでたらめなのは、貴方もご存知の所だと思います。
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>死刑にならないのは、道徳的にもおかしい気がします。



と云いますが、私は、逆に、死刑があること事態がおかしい気がします。
だって、死刑の宣告や執行は「人」がするのでしょう。
その人を決めるのも人でしょう。
人が人を殺すわけでしょう。
人は誰でも善人として生まれてきます。
その善人を悪人とするのは社会です。
その社会の一員が人を殺す(死刑)ことはよくないことです。
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