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- 回答日時:
当時の国際状況、つまりビスマルク引退後の国際関係において、ドイツはイギリスの脅威になりつつあった。
特にヴィルヘルム2世の新航路政策による、3B政策はイギリスの3C政策との衝突をうんでした。さらに南アフリカ戦争をおこし、深刻な財政難に陥っていたイギリスは自力でロシアの南下を食い止める力がなかったので、東洋の小国にロシア対策をしてもらう必要があった。この結果、日英同盟が成立した。
要は、日本がドイツと仲良くすると、イギリスが嫌がることくらい分かっていた、そして、栄光ある孤立を保っていた、イギリスと組めるのならドイツとは組まなくてもよい、という判断だったんだと思います。
またこれは分かりませんが、ドイツ領青島とかもこの時期から日本は狙っていたのではないでしょうか?
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