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こんばんはー。
概念の定義みたいなのをいつも考えてるので、
いくつか他の人の意見も聞きたいです。

1.幸福=無
2.リラックス=集中状態
3.感覚は、抽象的

今気になって考えてるのがこの3つなんですが、
どう思われますでしょうか?

何でこう言えるか、細かい説明省いていますが、概要しか書いてないのですが、
ただ、これはこう決める、ということは、事実を表現する、という面以外に、それぞれの言葉を、こうやってイコールで結ぶことで定義しませんか? ということも言いたい、というか、そのあたりを決めないと、いろいろ難しいような・・・、と普段思っています。
もちろんこの決めつけが絶対の訳はないのですが。
方法論的に、暫定的にでもこのように決めないと、目に見えない自己や心の仕組みについて、意識で分析することは不可能だと感じます。

難しく言うと、用語同士の相関関係を決めることを持って、相対的な定義をする、というような方針です。
それは、一個の単語の意味を極限まで追求する哲学的なやり方とは、また違うのですが。

何だからまとまらない主張なんですが、何でも感想いいのでお待ちしています。

よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

これらが定義であるとするなら、私はこう考えるね。


1の条件より、苦戦は必ずあると。
3の条件から、体験することが具体的。と言い換えられる。
したがって、この定義の意味は苦戦は必ずあって、苦戦というのは感覚でなく体験するのが主に目的、そのためにも感覚的思考や準備があってリラックスという苦戦のための集中状態のものがあると。
人間には嫌いでもやらなくてはならないことが人生において必ずある。
生きている以上、それを避けては通れない。したがって、この定義は
こういう状況の時に必要で、人間にはこの定義なしでは避けられないことが100%どこかに出てくると考える。よって少なくとも1回はこの定義が正しいという状況は必ず存在する。
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この回答へのお礼

こんばんは。
お返事ありがとうございます。

この文章だとaoookさんは外向的な人ですね。社会情勢に興味があるような?
説明不足ですが、質問文は、内面的な話なので、こういう外向きの解釈はほとんど考えていませんでした。必要ないとかではなくですが。

実のところ、文章の意味がまじめに読んでるんですがつかみきれません。
ただ、僕と性格が違う人の手にかかると、たぶんこんな解釈になるんだあー、と思いました。

たとえば
>リラックスという苦戦のための集中状態
と書かれてますが、確かにそうだなーと思います。
僕に言わせればリラックスはリラックスそのものであって他の何者でもないのですが、でもそれは使い方としてみれば、苦戦のために集中するんだ、というのはもちろん普通に世間一般でそうなので、正しいなーと思いました。
この場合、抽象的なリラックスや集中状態を、具体的な意識の使用道具としてみたときの視点では、この表現は当たってると思いました。ある種の応用編、のような見方ですね。

あとaoookさんが、どう感じてるのかちょっと感情がわからなかったので。
それはつまり、解釈や思考の裏には、必ず感情がある、ということからそう感じたのですが。
ただ、少し、苦戦や、嫌い、避けて、など、つらさを感じる単語がちりばめられており、それに対する対抗策のようなものとして、質問文を使われたのかな? と想像しています。

回答ありがとうございました!

お礼日時:2009/02/27 20:03

その後も私はよく考えた結果こちらの方が私自身こちらの方がよい回答だと思ったのでこちらの回答を主に参照してください。



回答は1という概念のみ変えて、あとは同じです。人間というのは必ず誰にも目標というのがある。人間は目的、目標を持って生まれたものなので。その目標は人それぞれだが、ある目標をクリアしても高い目標を目指す挑戦というのが必ずある。その高い目標を目指す挑戦という場合においてこの定義は成り立つ。ある目標が達成したときには人には幸福というのは味わえるであろう。ところがさらに上を目指す目標というものが限りなくあるのでそちら側を見れば幸福というものはないに等しい。つまり高い目標を見れば幸福というものは消えて挑戦するという気持ちになるのである。それぞれ目指す物事には限界はないので。例えば世界新記録という目標を達成しても、まだまだという違和感、高い目標というのが限りなくある。こちらを最大に考えると幸福は無に等しい。あとは2の条件は高い目標を超えるために必要なリラックスで3の条件は高い目標を実行すること(この2つは先ほどの回答と同じ)。分かりやすくこの定義を述べれば、人は常に限りなく高い目標というものを見ているので、幸福というものはなく、高い目標を生かすためにリラックスで
思考し、高い目標を実行することで具体的な結果になる。
先ほどの回答は幸福がないから辛さが必ずあると考えたが、辛さでも
幸福でもない状態もあるので必ずしも成り立たない上に、苦戦という
状況だけでなく、人には常にある場合においても示した。苦戦というよりは上記の回答が一般的だと私は思いました。

この回答への補足

またまた回答ありがとうございます。
今回のを読んで前回よりよくわかりました。

最初に、幸福は無に等しい、というのは、幸福は存在しない、という意味でしょうか?もしそれなら誤解されています。
下にも書いていれますが、人は依頼心がなければ、目標を達成しようとしているときも、休憩してるときも、寝てるときも、幸せだという意味です。それは、幸福とは無なので、幸福を得るために何かをしたりする必要はない、という意味です。
目標を達成しないと幸せになれないなら、赤ちゃんはみんな不幸に生まれてくることになるような気がします。


では、
文章を読んで最初にまず思ったのが、何かをやる、成し遂げる、という、この世の、娑婆の人格の特徴について言われてるなーと思いました。
「男子たるものこの世に生まれたからには・・」という感じでしょうか?
何かを「やる」人格こそ本質、と感じるのは、外向的な人の一番の特徴、と思っています。
僕の身の回りでもそういう人がいるからですが。
では僕みたいな内向的な人は何を本質と思うか、というと、「何もしない」人格、こそ本質と感じます。先天的に。

それは定義の1に書いた幸せと無の人格です。
何もしないから幸せ。さんまさんがよくいってる「生まれてきただけで丸儲け」という感覚です。

それは、何もないのがー無こそが、丸儲けー幸せなんだ、というものです。人生は、生まれただけで、超ハッピー、という感じです。理屈では。
どんなに何かをやることに燃えてる人でも睡眠をとったり休憩せざるを得ません。寿命がきたらあきらめざるを得ません。
事故で足を失ったら、人生を変えざるを得ないですし、その世界観が大きく変化する可能性のある人生、というものの性質について考えるなら、
内向的、というより宗教的な人??は、外の世界に向かって何かをやることではなく、ただ存在し、人と絆があることが本質的、とどうしても感じます。

もちろん逆に、内向的な人でも、宗教者でも、食べていかないといけないですし、生きるために何かを必ずやりますが、
へりくつっぽいですが、目標、つまり何かやることに依存しない、頼らない、というのが僕の目標?みたいな感じです。


無については、いくつか普通の民間のたとえ話を聞いたことがあります。
木鶏、の話があります。最後に鍛えられた闘鶏はもはや何にも動じない。でもその同時なさは、努力と研鑽の果てにある、と同時に、いらないものを捨てたからこその不動な感じだと思ってます。
確か、同じような話を、剣の達人の話でも聞いたことがありますが、最後には刀が何なのかもわからなくなってしまった、というような話です。 それは、無、といえます。
何かを積み重ねること=いらないものを捨てること、ともいえないでしょうか? 
目標を極限まで追求していったら、必ず目標自体が消滅する、と考えています。

あと、高い目標を目指すことについて、僕は目標設定は間違っていないのかな? というリスクを感じます。
それが間違いでないことを、本能と勘で確かめて、それで間違いないのだろうか? 間違ったときにやり直しはきくのだろうか?
そのとき人生の終着駅近くだったら大丈夫なのか?
などなどです。

スポーツで、楽しんでやることが大切、と最近は高校野球でも言いますが、それはふざけてやるという意味ではなく、真剣に楽しむ、子供が無心に遊ぶように、という意味です。
それは、いろんな表現がありますが、一つには、そのやる、ということ目標を求めることに依存しない、ということだと思ってます。依頼心なく、目標に邁進できるなら、本当にすごいと思います。

もしそういう心の姿勢持ちようを追求するのが目標なら、何かをやる追い続けるだけが、その目標を達成する唯一の手段、というわけでもないのでは? と思います。

僕は内面を考えるので、aoook さんの回答を読んで、そんないらない心配というか、不安を持ちました。
個人的に、僕ならそれが気になるのです。
またその問題は、考えることで解消できる、とも感じます。それは考えれば「何とかなる」という直感が通るのです。
それは、天性の直感ー内向や外向、神か自己か、等々からくる、心配事の視点や、あるいは解消法がどういう形をベストと感じるか? の違いに由来している、と考えます。

再びの回答どうもありがとうございました。

補足日時:2009/02/27 22:40
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この回答へのお礼

追加です。
考えれば何とかなる、というのは僕の依頼心ですし、
回答者様が言われるところの、目標の現れかなーとも思います。
個人的には、目標ははじめからないに超したことはないのだけど、
それは、目標を達成したい、と発想する自分という人格が、
ある種の不満や、不完全さ、矛盾などから発生してる場合が多いので、そう問題が世間になくて、故に目標も発生しない、という地球であれば、なおいいのに、とは夢想します。
現実を追いかける外向の人と、理想を追いかける内向の人の違いが、とてもよく現れたような気が、するのですが、どうでしょうか?(そんな単純なものでもないか・・・)


追加でしたー。

お礼日時:2009/02/27 22:47

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