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此地へ罷り下り候の条、餘久く申し承ず候間、
御茶を申し、相積もる儀咄申す可と存じ、度々御宿相尋ね申し候へは、
紀州へ御越し之由候、是非に及不候、早い近日に罷り上り候、・・・・
恐々謹言、  十二月十八日  光寿

この教如の手紙は、誰宛に出されたものでしょうか。また、その要約
、歴史的背景について教えて下さい。

A 回答 (2件)

何かの活字の本にこの手紙が収録されているなら


「この教如の手紙は、誰宛に出されたものでしょうか。また、その要約、歴史的背景」
はその本に書いてあると思いますが。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。私の質問の仕方が悪かったようで・・・出典がわからないので苦労しているのです。もし、出来るのであれば現代語訳していただくだけでもありがたいのですが。

お礼日時:2009/04/06 21:46

文面より父の顕如上人宛てと思います。


「この地へおいでなされたとのこと、(実は通り道だったのですが)久し振りのことと存じます。
お茶でも飲みながら積もる話でもしたいと、たびたびお泊りの場所を探しましたが、既に紀州へ向けお立ちになったとか(お会いできず)残念でした。    (お帰りになったら)近日(京に上り)こちらからお伺いしたいと思います。」
織田信長の石山本願寺攻めで父顕如と意見が衝突して、和睦した顕如は紀州へ別れて退去、教如は石山に残り戦ったが敗れ、堺あたりに逃れて以来の再会を願った手紙と思います。
秀吉の時代になり、京に顕如が本願寺を築いたあとの時代でしょう。
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