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一度この場でお披露目していますが怖い怪談です。
非業の死の解釈です。
死後があり、彼岸にわたるならば、そこでは誰もが業因がないことを悟り苦もないであろうと考えます。この非業が判るゆえに安らかな死を迎えるならば、それが非業の死です。
念を押して説明しますが、非業の苦痛でなく、業そのものの苦痛です。良性の業をあるようですが、ならばそのような業を失う苦痛でもあります。
ところが未だ現代にでも業がまかり通っているゆえに、苦痛に満ちた死を想起して実際にそのような死を迎える人もいます。
非業の死に苦の響きがあるのは「死」の一言で生得的に、この世に生を受けたものなら誰でも、本来の死が直感できるゆえに、業があげる痛みです。死が苦痛でなく業が苦痛です。
現代の死の(観念でなく)イメージではこの死を知らない業の痛みが死のイメージに二重写しになっています。そして本来の死は宗教的な言葉で「往生」と表現されています。
本来の死がないがしろにされ違う解釈がなされています。
ならば、苦痛を伴う恐怖の死は「死」ではなく別の解釈をすべきではないでしょうか。
その偽者の死は生きている間だけの幻であり、死を知らぬまま生きる生き様です。
むしろその生き様をもって「屍」の字を当てて解釈するのもいいかも知れません。ゾンビのことです。
宗教論争をするよりも概念を二分するほうが簡単ですっきりします。
いかがでしょうか。

A 回答 (4件)

>宗教論争をするよりも概念を二分するほうが簡単ですっきりします。



既にあなたの考えは仏教的だと思いますけど。
キリスト教やイスラム教に彼岸なんてありませんし、往生も仏教用語。
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
いやー、申し訳ありません。
日常語で死について語ったつもりだったんですがうっかりしていました。

お礼日時:2009/04/17 17:41

「苦痛を伴う恐怖の死は「死」ではなく別の解釈をすべきではないでしょうか。



死に方を分類するという話ですかね。
宗教に関係なく「非業の死」や「安らかな死(往生)」はありますね。
歴史上の人物でいえば半分ぐらいはろくな死に方をしてませんから「非業の死」ですかね。キリスト教でいえばイエスも弟子も獄門死ですから「非業の死」ですね。明治維新の志士や元勲はほとんどが暗殺死ですから彼らも「非業の死」ですね。最近でいえばイスラム教過激派の爆死も「非業の死」といえますかね。交通事故死、自殺などなどみんな「非業の死」ということでしょうかね。
そういう見方も正しいように見えますが、三途の川を渡った「あの世側」からの見方はまったく違うんですよ。
三途の川はどの宗教にも形は違えどもありますからね。
(註:キリスト教もイスラム教にもありますね。たとえ教祖がそのことを教えていないとしても、教えてないから無いと思うのは間違いですね。)
信じる宗教あるいは葬式時の宗教が何であれ、三途の川を渡ってくる人、あるいは渡れる人は死に方には無関係なのですね。「非業の死」であろうが「安らかな死(往生)」であろうが渡れない人は渡れないし、渡れる人は渡っているのですね。渡れない原因は死の原因にあるのではなく心のこだわり(執着)がゴムひものようになって引き止めているだけですね。
不思議なことに「非業の死」と呼ばれる死に方をした人が三途の川を飛んで渡り、大往生という死に方をした人がお墓に座ってゾンビになっていたりするんですね。つまり、死後の価値観は生前の価値観とはまったく違うということなのですね。
英雄や立派な人だと称される者が地獄にいたり、ゾンビになっていたり、裏切り者として「非業の死」を遂げた者が天国にいたりするのですね。これは宗派に関係なく宗教家や僧侶もまったく同じですよ。間違った教えを広めた者はあの世では悲惨ですからね。一般人より一層厳しいですね。非業の魂ですね。
このようなあの世の真実を考慮すると死に方を分類する意味はないように思いますね。

この回答への補足

ご回答を募るためにN3さんの補足要求を引用します。


>>この世に生を受けたものなら誰でも、本来の死が直感できる
>ほんまですねー。これはまさに生きる実感です。

>で、ここで、業の痛みで苦しむ死は、本当の死ではない、ということですか?
>それは・・単に定義の問題では? 


その定義の問題だからこそ分化したほうが効率的に説明なり理解なりができるのではないかと言う試みです。


>幸せに死ぬことが本来の死で、苦痛に満ちた死は、死ではなく、別の言葉がいいという話。ですよね。

ソレが質問の主題です。ご理解いただきありがとうございます。

>>死を知らぬまま生きる生き様
>本質的に死を恐れているので、その恐怖を抑圧封印してしまっているので、その抑圧のふたの上に成り立つ人格は、死を感知しない、という意味でしょうか?

「屍」の仮設に立つ限り抑圧もありましょう。ですが「人はいずれ死を迎える」これは誰も否定できませんから本来の死を迎える準備の類をするにしても、そこに抑圧する要素はないと考えます。
死の抑圧は不要ですが、屍は抑圧しないと恐慌があるでしょうね。
ところが抑圧に成功できるならまだしも、たとえば天国はこんなところ、神様とはこんな人、なんて麻薬のような妄想でごまかすなら、その妄想は幽霊のように生存中から伝播感染します。
宗教の形で業を意識的に伝播感染させようとする積極さすら人は見せます。

補足日時:2009/04/18 21:45
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。面白く読めました。

お礼日時:2009/04/17 17:50

こんばんは!


本文が激しく難しかったので、ついて行けた部分だけということで。

非業の死とは、激しく望まない死に方をした、という感じですか?
なんか冒頭の解釈を見てると、違う様な。
とても答えにならないですが、思ったことだけ書きます。

>業そのものの苦痛
そうですねー。
>死を知らない業の痛み
これがいまいちよくわからないです。
業の痛みは、この世の人生が終わると理解することで極限までリアルになりますから、知らないと言えば知らないですが、思い切り関係あると思うんですが。
業の痛みを抑圧できなくなる死の瞬間ーーは迎えたくないなー。

>この世に生を受けたものなら誰でも、本来の死が直感できる
ほんまですねー。これはまさに生きる実感です。

で、ここで、業の痛みで苦しむ死は、本当の死ではない、ということですか?
それは・・単に定義の問題では? 
幸せに死ぬことが本来の死で、苦痛に満ちた死は、死ではなく、別の言葉がいいという話。ですよね。

>死を知らぬまま生きる生き様
本質的に死を恐れているので、その恐怖を抑圧封印してしまっているので、その抑圧のふたの上に成り立つ人格は、死を感知しない、という意味でしょうか?

概念を二分する・・ん~~~~~~~~~~~~~~~
なんかめっちゃ微妙です。
おもしろいテーマだなーとは思ったんですが。

済みません、なんか、回答でなく、質問文の質問ですね、これは。

この回答への補足

死を二分する意義です。
業は死者(故人)に留まれない為に幽霊の形をした幻で他者へと伝播感染します。
ニセモノの死から死へと渡り歩く姿がまさにしかばねであり、だからこそ「屍」と表現します。噂の幽体のことを屍と定義しているのかもしれません。
実のところ、これは業の言いだしっぺたるお釈迦様を信仰する姿の幻です。お釈迦様そのものは苦痛の概念化に成功した功労者ですが、語り継がれた信仰が本来の概念をゆがめているんです。屍が仏にすがり信仰すらするのは当然です。生みの親ですから。実のところ屍の信仰は信仰のニセモノでとりすがりなんです。
あっ屍の生みの親が仏というのは違いますね。間違った信仰の結果ですから勘違いです。
無関係だから幽霊となりさまようんです。

補足日時:2009/04/18 19:31
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
軽快でわかりやすい文章でご説明いただき、楽しく読めました。

非業の死にけろっとしていられる心境は伝わったでしょうか。
少し修正してみました。

死後があり、誰もが彼岸に行き着くならば、そこでは誰もが業因がないことを悟り苦もないであろうと考えます。この非業が判るゆえに予め安らかな死を迎えるならば、それが非業の死です。
ところが未だ現代にでも業の観念というか噂の類が、まかり通っているゆえに、(これは信仰ゆえでしょうか?)苦痛に満ちた死を想起して実際にそのような死を迎える人もいます。
そして冒頭に戻り死後があるならば彼岸は非業です。

非業の死に苦の響きがあるのは「死」の一言で生得的に、(この世に生を受けたものなら誰でも、)本来の死が直感できるゆえに、業があげる痛みです。死は苦痛でなく、業が苦痛です。
念を押して説明しますが、死に際しては、非業の苦痛でなく、業そのものの苦痛です。良性の業をあるようですが、ならばそのような業を失う苦痛でもあります。

現代の死の(観念でなく)イメージでは、死のイメージが業の痛みに覆い隠されて判らなくなり、何が苦痛であるかについて、死に勘違いというか濡れ衣のような間違った解釈がなされています。そして本来の死は宗教的な言葉で「往生」と表現されています。
本来の死がないがしろにされ違う解釈がなされていることになります。

本文の論理の大前提は本来業などないという「非業」です。
業は私なりに表現するなら自らを理解できない苦しみです。
「心」「魂」の空白なり欠損とも表現できます。
自己の同一性に対する障害で統合失調症の火種が業です。
死は自分に帰ること、天国が本来の自分らしさがわかることなら、非業の証明です。

お礼日時:2009/04/18 18:31

補足お礼と、質問文読んだのですが、


表現方法はずいぶん違うものの、おそらくほとんど同じことみたいです。
少なくとも僕が理解した部分については、なんも違和感を感じないので。
ただ一部表現が、独特で、理解できないところについては、よく分からないんですが。
言葉の定義とかは実に微妙で、難しいなーと思いました。

概念の2分については、普通こんなこと考えたことがない人にはさっぱりわからないし、宗教や哲学をする人の間だけであれこれ定義するのはいいんですが、
言われてる本来の死がないがしろにされ、というのは世間一般を対象にした話なので、難しいだろうなーと、ぼんやり思います。

この回答への補足

哲学的検証の意見や挑戦の類が一切ないので補足です。
無神論を貫いた立場からして、誰もが非業であり死後は誰もが入滅します。この世とおさらばします。
日本人の信仰の代表として、仏教と観念を一致させた上で考察していますが、仏教とは願いを叶えてくれるまで仏像を拝み倒すことじゃないと考えます。
何を信仰するのかと考えると仏教には信仰の対象がない。
仏を信仰する事ではない。
無を信仰する事ではない。
涅槃にいきたいですか?
信仰のない願とは何者なのでしょうか。
信仰を表ざたにしないのならわかります。
信仰の対象がないゆえです。
そのように仏道を潜り抜けてやがて神に合うでしょう。

補足日時:2009/04/20 23:25
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この回答へのお礼

ご回答有難う御座います。
業などないとの実感があれば、そものも今回の質問は怖い怪談で脅かす形をとった思考実験です。とことん怖いほうが効果的かなーと思って幽霊も引用しました。全てはったりですが、信仰形態としてその幻の幽霊のような思いが伝播感染する様は見かねてしまいす。この幽霊は理性が業についての情報の整合性を取るためにはじき出した無意識的な計算結果で本人主観は無自覚なまま業などないことを本人が解明するまで付きまといます。
幽霊は主観的には本人の意思でままならないまま理性の作り出す幻です。

発案者のお釈迦様はあらかじめ答えを教えています。
全て無です。
あり得ない話であり、はったりの怖い怪談です。
仏教徒として信仰を体現しきれない立場なら無は解脱とも言うことを了解してしまうことでしょう。実際には解脱たる敵前逃亡はありません。留まって心を浄化する試みが必要です。
それでこそ導きのままに歩む道のりです。
お釈迦様は観念的な言葉で心の世界を判りやすくしてくれた偉い哲学者です。

お礼日時:2009/04/19 15:27

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