遊女は少額で売られてきて、多額の借金を背負ったと聞いたことがあります。
実際にはどれくらいの借金を背負ったのでしょうか?
借金の額はどのような計算で決まったのでしょうか。
また身受けする場合はどれくらいの金額が必要だったでしょうか。

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A 回答 (3件)

こんばんわ。


私の「つたない」解説をお読みいただきありがとうございます。

>>1.遊女は実家に仕送りなどしていたのでしょうか?

仕送りをする・・・美談ですね。
でも、実際には「不可能」でした。
前回、
(2)揚代や酒色での代金の25%が遊女の取り分。75%が楼主の取り分でした。
と、記載しましたが、遊女は25%の中から、さらに、15%を借金の返済に取られました。従って、自分の自由になる銭は10%でした。
史料によると、揚代は以下のように変遷しています。
寛永18年(1641)頃
太夫=1両
明暦年間(1655~1658)頃
太夫=60匁、格子=26匁、散茶=金1分、局=3匁
元禄年間(1688~1704)頃
太夫=37匁、格子=26匁、局=3~5匁
享保19年(1734)
太夫=74匁、格子=52匁、散茶=1分、梅茶=10匁
延享2年(1745)
太夫=90匁、格子=60匁

時代により、現在の金銭の換算は変化をしますが、おおむね・・・。
1匁=約1500~2500円。
ただし、寛永18年の太夫=1両=約25万円。
その10%=2万5000円。
酒食のバックマージンがあったとしても、せいぜい、3万円位。
享保19年では、74匁=約19万円
10%=1万9000円。酒食のバックを入れても2万円少々。
太夫でさえそれ位ですから、太夫以下は押して知るべし。
とても、実家などへの「仕送り」などはできませんでした。
そして、15%を借金の返済に取られましたので、まあ、「苦海(苦界)10年」で、何とか、借金を返して、自由の身になれたのです。

>>2.遊女は吉原から外で出ることはなかったそうですが、本当にそうですか?花見とか月見とか、なじみの客とでかけたりしませんでしたか。

3月には「お花見」などで、主に「上野のお山」へ行きました。
「妓楼」単位で「若衆」の見張り付きで行われましたので、途中で「逃げ出す」ことなどはできませんでした。
次のサイトで吉原の「年中行事」が出ています。ご参考までに・・・。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/sukeroku/bangai/n …
馴染みの客とのデート・・・これは、「厳禁」でした。
遊女が、もし、その男と姿をくらましたら、折角の商売道具を取られたようなものですから、これはできませんでした。
もし、妓楼から逃げ出したり、男がそれを手伝ったりした時は、男は殺されました。
また、遊女も「遣手(やりて)」によって、竹刀でさんざんに叩かれたり、一晩立ち木に縛られたり、時には、攻め殺しにあうこともありました。他の遊女への「見せしめ」があったからです。
奉行所も、よほどの「たれこみ」がない限り、出張ることはせず、またもし、出張ったとしても、多額の「わいろ」でもみ消されました。

>>病気になって小石川養生所へ移されるとか。

「病」としては、大別して「瘡(かさ=梅毒)」と「労咳(肺結核)」でしたが、働きが良かった(客を大勢取った)遊女は、その妓楼の別宅で養生させてもらえましたが、大部分の遊女は、微熱があろうと、喀血をしながらも、多くの客を取らされました。
そして、いよいよ「ダメだな」となると、妓楼内の日当たりも良くない、薄暗い納戸のようなところへ閉じ込められ、食事もほとんど与えられずに遊女の「死」を待つだけでした。
遊女が死ぬと、腰巻一枚の丸裸にして、菰(こも)に包んで銭200文を付けて「投げ込み寺」へ。
寺では、「総墓」と呼ばれる大きな穴に投げ込み、簡単なお経を読んで供養を済ませました。
従って、小石川養生所などはもとより、医者にかかることさえできませんでした。

>>3.ご祝儀は自分のものにできましたか?

これは、自分のものになりました。
しかし、吉原ができた頃は、主に裕福な「武士」を対象としていました。これには、幕府の考えとして、金持ちの大名や武士が居ては、いつ幕府転覆をされないとも限らない、と、言う理由から、大名や高級武士、豪商などに限られていました。つまり、散財をさせて貧乏にする、と言う政策でした。
庶民が自由に大門を出入りできるようになったのは、元禄年間(1688~1704)頃からでした。
ですから、当初は「太夫」と言う「超エリート」が大名などにもてはやされ、「書」「読」「囲碁」「将棋」などの素養を必要としました。
だが、庶民が出入りするようになってからは、一晩抱くには、余りにも窮屈で、宝暦年間(1751~1764)頃には「太夫」は消滅をし、そこそこの器量で、そこそこの話題についていける「花魁」に変わりました。
しかし、京都や大阪では「太夫」の名称は残りました。
それは、江戸と違い、京や大阪では、「踊り」などの「芸」に優れた者を「太夫」と呼ぶ習慣があったからです。江戸の「太夫」ほどの教養は必要としなかった。
また、ご祝儀は「自分のもの」になったとはいえ、庶民にとっては、吉原で遊女を揚げるだけで精一杯でしたので、よほど、お大尽でもなければ、「チップ」はもらえませんでしたし、お大尽になれば、「花魁」や「格子」などの格の上位を指名しましたので、それ以下の遊女は、めったに「チップ」はもらえませんでした。
享保時代に実際に?あつた話として、大工が1カ月かけて、銭200文(約6000円)を貯めて、やっと、吉原へ繰り出した、という話もあります。まあ、せいぜい「次」などの下級の遊女でも買ったのでしょうね。
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>実際にはどれくらいの借金を背負ったのでしょうか?

うぅ~ん。これは難しい。

(1)まず、知っておいて欲しいのは、吉原の遊女は「奉公」と呼ばれ、基本的には親との直接取引で、借金の「かた」として勤めました。
人買などによって地方の幼女が売買されたのは、90%位は「岡場所」に売られましたので、吉原の遊郭へは、ほとんど、人買を通しての人身売買はありませんでした。

(2)揚代や酒色での代金の25%が遊女の取り分。75%が楼主の取り分でした。

(3)借金の額は、遊女の格(ランク)により違いますが、梅茶(うめちゃ・ランクについては、下記の「よもやま話」を参照してください)あたりで、時代にもよりますが、元禄時代(1688~1704)あたりでは、梅茶の「身請け」に40~50両かかったとの記録がありますので、遊女自身の借金は30両位で、後の10~20両は、楼主の「儲け」だと考えられます。

>>借金の額はどのような計算で決まったのでしょうか。

(1)衣装代や化粧品、さらには、蒲団、座布団、火鉢などなどの全てが「貸与」で、一日幾ら・・・と言うような「貸し出し料」を取りました。それも「ぼったくり」で・・・。
従って、遊女は、お客を取っても取っても、借金は減らない仕組みとなっていました。
「太夫」とか「格子」などになると、客からのプレゼントでなんとか、借金を帳消しにできる程度でした。
しかし、「太夫」や「格子」などにさえ、衣装を自前で作ったりすると、呉服屋と結託をして、「水増し請求」をしたりしました。

(2)遊女の食事は粗末で、少量でしたので、遊女はいつも腹を減らしていました。そこで、客にいかに奢ってもらうかを楼主は競わせました。酒色代が上がれば、それだけ、楼主は「儲け」があったのです。

>>また身受けする場合はどれくらいの金額が必要だったでしょうか。

(1)これも元禄時代あたりでは、「太夫」や「格子」で500~600両とありますが、楼主だけではなく、世話をしてくれた「禿(かむろ)」やこれまで世話になった「太鼓持ち」等々にも「ご祝儀」を出しましたので、約1000両かかった・・・との記録があります。

(2)天明3年(1783)秋に身請けをされた四代目「瀬川」では、1500両であった、と言う記録もあります。

(3)金銭の算出法(時代によっても違いますが・・・)、おおよそ、
☆金1両=4分=16朱=銀50匁=銭4貫文
      大工さんの賃金
寛永年間(1624~1643) 銀1匁6分(86文)
(銀1匁で米2升5合買えた)。
文化・文政(1805~1829) 銀3~5匁(330~550文)
慶応(1865~1867) 銀15~20匁(1100~1500文)
(銀1匁で米は約1升)。

(4)1匁=1200~1500円位。
従って、大工の年収は、400万円弱。
1両=75000円位。
75000円×1000両=7千500万円位。

(よもやま話)
(1)遊女の起源は古く、神社の「巫女(みこ)」が始まり。何も遊び場のない時代、神社は格好な遊覧地であったことから、神社の副収入だったのです。
そして、江戸時代になっても、神社は寺社奉行の管轄で、寺社奉行は、そのような「風俗取締り」の権限がなかったため、「安全地帯」だったというわけです。

(2)では、お寺は・・・というと、諸国勧進の「尼」が、いつしか堕落して、娼婦に落ちた者もいた。尼僧姿の娼婦というと何か「変」だが、坊主頭にお色気を感じる「変態男」もいて、江戸時代はなかなかの人気があった。
「三ケ日待たず 比丘尼は見世を張り」
と狂歌にうたわれ・・・正月の三ケ日も休めないほど繁盛したという。

(3)吉原の歴史:
慶長5(1600)年に徳川家康が、関ケ原の戦いに出陣したとき、東海道の鈴ケ森八幡の前に茶屋をつくり、揃いの赤ダスキに赤い手ぬぐいをかぶった遊女8人に茶を振舞わせた者がいた。
これが家康のお気に入りとなり、関ケ原の戦いののち、元和3(1617)年にこの男(=庄司甚右衛門)へ日本橋葦屋町に公認の遊女屋の場所を与えたのがはじめ。そのあたりは、まだ一面の葦野原だつたことから、めでたくもじって「吉原」とした。

(4)江戸の四宿(品川、千住、板橋、内藤新宿)には、「飯盛り女」という宿場女郎が許可されていました。1軒つき2名という決まりでしたが、表に出て客を引くのは2名でしたが、一旦、宿へ引き込んだら、裏にまわれば、ぞろぞろ・・・。

(5)明暦3(1657)年の大火をきっかけに、葦原町から浅草日本堤へ移転しました。これには、人口の急増で江戸府内が手狭になったこと、浅草近辺の開発をめざしたこと、千代田城(江戸城)の近くに遊女屋があるのは風紀上よろしからず・・・等々の理由でした。
以後、「元吉原」「新吉原」と呼ばれるようになりました。

(6)遊女の格式では、「太夫」「格子」「散茶(さんちゃ)」「梅茶」「五寸局(つぼね)」「三寸局」「なみ局」「次(つぎ)」の序列になります。
そして、「太夫」と「格子」に客がつくと、揚屋まで向かう時は、いわゆる「花魁道中」をして、客のもとへ向かいました。
従って、「花魁道中」は、「太夫」と「格子」の特権でした。

(7)「太夫」になると、「容姿」はもちろんのこと、「唄」や「踊り」「和歌」や「書」の素養「源氏物語」や「竹取物語」などを「レ(返り点)」なしに読む、「囲碁」「将棋」なども相手ができるくらいの教養が求められました。つまり、遊女の中の「超エリート」でした。しかし、一晩過ごすだけであると、余りにも「窮屈過ぎる」ということから、宝暦年間(1751~1763)以後は、「太夫」は消滅し、そこそこの「容姿」と、そこそこの「話題についていける」程度の「花魁」が登場しました。

(8)花魁の由来については、「おいらの姉御」「おいらの」から「おいらん」と転じ「花魁」という漢字が当てはめられたと言われています。

(9)見世で格子戸の中から客を呼び込み、しやにむに二階に上がるのは、「散茶」以下の遊女たちです。「太夫」「格子」は、絶対に見世の格子戸の前には座りませんでした。
ちなみに、「散茶」の由来とは、煎茶をたてる方法として、振ってたてるものと、振らないでたてるお茶があり、振らない方を「散茶」と呼んでいて、どんなお客も振らないことから「散茶」と洒落て呼ぶようになりました。

(10)なお、吉原の遊女は、幕府公認という「格式」をもっていたので、「女郎」とは決して呼ばせず「遊女」と呼ばせました。
ちなみに、私娼は「売女(ばいた)」と呼ばれました。
江戸では「夜鷹」・・・夜になるとゴザ一枚を小脇抱え、両国や柳橋、呉服橋、鎌倉河岸などに出没し、通りすがりの男の袖を引っ張って、川端に積んである材木の間などで「事」をすませた。
京都では「辻君(つじぎみ)」・・・何となく風情がありますね。
大阪では「惣嫁(そうか)」・・・何でも喰らいつくの意からとか。

(11)吉原の楼主は「亡八(忘八とも書かれた)」と呼ばれた。これは、中国の古典に「仁」「義」「礼」「智」「忠」「信」「孝」「悌」の8つの節度を失った人面をした「野獣」だと、いうところからきている。

(12)吉原の遊女は、17~18歳から客を取り始める。その歳よりも幼くして遊郭へ入れられた時は、「禿(かむろ)」として、遊女見習いで、主に「太夫」の世話役をした。

(13)年季明けは27~28歳の10年間。「苦海(苦界)10年」と呼ばれた。
ちなみに、「禿」は17~18歳になるまでは、年季明けの10年には数えられなかった。

(14)しかし、遊女の死亡する年齢は23歳位が多く、10年の年季明けまでは、中々、生きるのが難しかった。
そこには、「瘡(かさ=梅毒)」などで死ぬ者や「労咳(ろうがい=肺結核)」などで死ぬ者が多かった。

(15)子ども達の歌う「花いちもんめ」は、「人買い」を歌ったものであり、苦しい農家の娘などは「1匁=1500円」位で売買されたことを意味している。

(16)10年の年季があけると、ある程度「借金」があっても、楼主がこれまで「ぼったくり」をしていましたので、大概は、自由になれました。
例えば、実家に帰る・・・とか、好きな男と一緒になる・・・とか、行き先のない者は、「遣手(やりて)」として、楼主に代わって遊女たちの管理、監督や指導をしました。

岡場所とは、幕府が「非公認」の私娼であり、
「湯女(ゆな)」・・・銭湯で働く女が春を売った。(500~1000文)
「比丘尼(びくに)」・・・尼さんの娼婦。(100~299文)
「蹴転(けろこ)」・・・上野の山などを拠点としての娼婦。(200~500文)
「提げ重(さげじゅう)」・・・重箱を手に提げて餅や饅頭を売りながら、春も売った。(1000文)
「船饅頭(ふなまんじゅう)」・・・饅頭を売ることを表向きとして、大川(隅田川)など船の中で春を売った。(32文)
「夜鷹(よたか)」・・・前述。(24文)
金額は「およそ」ですが、「1文=25円位」で計算してみてください。

少しは、あなたのお役にたてたでしょうか。

この回答への補足

頭が下がるほどの大変詳細な回答ありがとうございます。
更なる疑問が浮かびましたので、質問させていただきます。
1.遊女は実家に仕送りなどしていたのでしょうか?
2.遊女は吉原から外で出ることはなかったそうですが、本当にそうですか?花見とか月見とか、なじみの客とでかけたりしませんでしたか。病気になって小石川養生所へ移されるとか。
3.ご祝儀は自分のものにできましたか?

よろしくお願いします。

補足日時:2009/05/27 14:47
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 質問に関して質問します。


ここでいう遊女とは、どのような商業のことでしょうか?
実は遊女にも種類があって、地方によってもかなり変わります。
いわゆる売春婦ではなく、遊郭の丁稚のような職業女性も遊女です。

そして、借金の担保で売られた女性ばかりが遊女ではありません。
花嫁修業の延長のように遊郭での仕事をこなす女性と、大名相手のお座敷担当の遊女では意味も違います。

現代風にいえば、TOPアイドル・AV女優・寮母さんでは世界が違うように、遊女の意味する部分は広いので、特定してくれると説明しやすいです。

この回答への補足

回答ありがとうございます。
吉原の遊女ということでお願いします。

補足日時:2009/05/25 23:00
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Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

まずは、遊女の位ですが、
「太夫」(または花魁)「格子」「散茶」(さんちゃ)「うめ茶」「五寸局」(ごすんつぼね)「三寸局」「なみ茶」「次」の順となります。
「太夫」「格子」は、遊女の中のエリートでしたので、身請け金額も1,000両近くかかりました。
従って、かなりの豪商でなければ身請けすることはできませんでした。
そして、身請けされても、本妻の場合もあり別宅での妾の場合もありましたが、使用人が家事一切をしてくれていましたので「太夫」「格子」では、自分で家事をする必要はありませんでした。

「散茶」以下は、300~400両程度でしたので、まあまあの商人なども見受けできました。

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遊女(吉原の花魁などの幕府公認遊興場の売春婦=女郎;深川・辰巳などの岡場所の売春婦は売女と言った)の世界では妊娠は恥とされていた。当時は絶頂を迎えると妊娠しやすいと言われていたため「男に負けた」的な捉え方をしていたようです。
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廓屋が大枚を叩いて徹底的な教育を仕込む所なんざ映画「プリティ・ウーマン」を思い起こさせますが、あの程度の金の掛け方では花魁の簪ひとつ分くらいじゃない?というくらい破格のものでした。今風に言えば伊東美咲に叶姉妹やマリエやデヴィ夫人や西川先生の持っているそれぞれ10倍くらいのものを与えちゃった、って感じです。
おまけにこれだけのスーパーウーマンだから、誰でも床入りできるような「安い女じゃない」のです。なんと花魁が気に入らなかったら床入りを拒否出来ちゃったんです。「いっくら金積んだって、あちきはあんたみたいな下衆とは、お断りでありんす」だったんですな。それだけに花魁目的で廓屋に通う男達は身だしなみに気を使いセンス良く知的におしゃれして花魁に気に入られようと必死だったのです。事実一生処女のまま生涯を閉じた花魁もいたのです。

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吉原細見というHP(http://yosiwarasaiken.net/)に「遊女と避妊(http://yosiwarasaiken.net/moyou/hinin.html)」というサイトページがあります。それによりますと…

遊女(吉原の花魁などの幕府公認遊興場の売春婦=女郎;深川・辰巳などの岡場所の売春婦は売女と言った)の世界では妊娠は恥とされていた。当時は絶頂を迎えると妊娠しやすいと言われていたため「男に負けた」的な捉え方をしていたようです。
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Qもし現代人が江戸時代で1ヶ月生活するとしたら、何で困るでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? それとか、今のように肉食はそんなにしなかったはず。 せいぜい鳥や兎の肉くらいでしょうか? あと、お酒もそうですね。 現代人に飲めますか?

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風呂。 現代人が躊躇なく当時の銭湯に入れますか? 当時は毎日入っていたんでしょうか?

トイレ。 現代人に当時のトイレで大・小できるでしょうか? 特に女性の場合。

人によって感じ方が違うと思いますが、上に挙げた以外で 「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?

空想の話で恐縮です。

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 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

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>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
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・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキ...続きを読む

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皆さんこんにちは。

江戸時代、遊郭で遊女を足抜けさせようとして失敗した男は、どうなるのでしょうか?また遊女はどういうお仕置きをされるのでしょうか?

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

>遊郭で遊女を足抜けさせようとして失敗した男は、どうなるのでしょうか?

遊郭内の警備一切を行なう「廓者」「亡八」達によって処刑される場合が多かったようです。
公の番屋も遊郭入口にありましたが、遊郭内での出来事は「見ざる・聞かざる・言わざる」が暗黙の了解でした。

>また遊女はどういうお仕置きをされるのでしょうか?

体表面に傷を付けないように、せっかんにかけます。
一種の見せしめですね。
寝させない、食事(水)を与えない、煙管・棒で下腹部を叩く、丸裸にして縄で縛り上げそのまま水につける等があったようです。

まぁ、遊郭内での遊女の平均寿命は23歳。年季明けの元遊女の平均年齢は27歳です。
遊郭内にいる事自体が、お仕置きですね。

Q大正時代の花街遊郭街で働いていた娼妓芸妓から生まれた子供の人権について

大正時代の花街遊郭街で働いていた娼妓芸妓から生まれた子供の人権について。
お聞きします。
娼妓・芸妓に旦那がつき、ひいきする間柄になり、関係を結ばされ、子供を産まされたとします。
そして娼妓・芸妓は借金返済のため休みももらえず過酷な労働をし、病気にかかり30代で死んでしまったとします。
父親は認知するわけもなく、逃げて行方をくらまします。関係者に正体は一切あかしてはならないと、娼妓・芸妓には当時は厳しい掟もあります。
その孤児となった子供は、身売りをされた貧しい母の実家からも食べさせられず(もともと食べれないから売ったので、その子の面倒をみる余裕があるはずがない。)、旦那となっていた父からも縁を切られています(行方をくらますため)。
児童はその後どのような扱いを受けていったのでしょうか。賃座敷業者が食べさせたのでしょうか。
女中をあてがったのでしょうか(その場合誰がお金をだしたのでしょうか)。
それとも稼げないからお金が無いため、面倒を見る者が無いため、野たれ死んでいく児童が大半だったのでしょうか。飢餓状態で死んでしまい、遺棄されていたのでしょうか。(私の祖母が実際見てきた近所にあった遊郭で生まれた子供の場合は、乞食となって、ドブに落ちたものを食べ、赤痢等になり、ばたばた死んでそこらへんに沢山倒れていたとのことです。)

大正時代の花街遊郭街で働いていた娼妓芸妓から生まれた子供の人権について。
お聞きします。
娼妓・芸妓に旦那がつき、ひいきする間柄になり、関係を結ばされ、子供を産まされたとします。
そして娼妓・芸妓は借金返済のため休みももらえず過酷な労働をし、病気にかかり30代で死んでしまったとします。
父親は認知するわけもなく、逃げて行方をくらまします。関係者に正体は一切あかしてはならないと、娼妓・芸妓には当時は厳しい掟もあります。
その孤児となった子供は、身売りをされた貧しい母の実家からも食...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>児童はその後どのような扱いを受けていったのでしょうか。

基本的に(建前上)は、娼妓や芸妓のいた「置屋」で育てられました。
しかし、食事などはロクに与えられず、常に腹をすかした状態でした。

娼妓や芸妓にしても、置屋の食事は粗末で、常に腹をすかせた状態で、付いたお客にねだって酒食をおごらせるかを競わせ、揚げ代の他に、酒食のバックマージンがもらえるかを競わせていました。

従って、私生児などは、置屋でも「余分な者」「厄介者」以外の何者でもなく、姉女郎(母親の元同僚)などからの「おすそ分け」をもらったりして、かろうじて生きていくことができました。

>>(私の祖母が実際見てきた近所にあった遊郭で生まれた子供の場合は、乞食となって、ドブに落ちたものを食べ、赤痢等になり、ばたばた死んでそこらへんに沢山倒れていたとのことです。)

その通りです。昨今の「ホームレス」と同じ状況です。
ただ、第二次世界大戦以後は、衛生状態も管理されるようになりましたので、疫病の爆発的な流行はありませんが、昔は、コレラ、赤痢などは、日常茶飯事でした。こうした病を「流行病」(はやりやまい)と呼んでいました。

それでも、子どもが7~8歳位になると、
男子は、置屋の「若衆」の見習いとしてコキ使われました。
女子は、禿(かむろ)となり、姉女郎(姉娼妓や姉芸妓)に仕え、娼妓や芸妓の見習いとなり、ゆくゆくは娼妓、芸妓にさせられました。
そして、ロクに育てられてもいないのに、「お前を育ててやったのだ」と、置屋からは言われ、多額の借金を背負わされました。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>児童はその後どのような扱いを受けていったのでしょうか。

基本的に(建前上)は、娼妓や芸妓のいた「置屋」で育てられました。
しかし、食事などはロクに与えられず、常に腹をすかした状態でした。

娼妓や芸妓にしても、置屋の食事は粗末で、常に腹をすかせた状態で、付いたお客にねだって酒食をおごらせるかを競わせ、揚げ代の他に、酒食のバックマージンがもらえるかを競わせていました。

従って、私生児などは、置屋でも「余分な者」「厄介者」以外の何者...続きを読む

Q女郎屋ってどんなところだったの?

江戸時代に女郎屋というところがあったそうですが、どんなところだったのでしょうか?

飲み+セックスのところでしょうか?

今の物価に換算するといくらぐらい下埜でしょうか?

Aベストアンサー

#5さんのお話に便乗して、夜鷹話。
ちなみに、夜鷹というのは立君(いわゆる路上売春婦)のことです。
女郎屋というと、お店があって、…みたいな吉原のようなかんじになりますかね。
参考アドレスは現代のものですが、内装等を知りたければいくらか足しになるかもしれません。


夜鷹が食べに来るくらいの時間(夜)にやっていたことから
夜鷹そば、といわれた という節もありますね。

落語の「時そば」にもあるように、おそばはだいたい16文が相場だったようです。
で、
「客二ッつぶして夜鷹三ッ食い」
(夜の屋台の蕎麦が16文(=二八そば)で、夜鷹の花代が24文 な川柳。
 お客を二人とればおそばが三杯食べられたってことでしょうね)

落語の時代からわりだすとしたら、江戸後期として
一文=20円~30円くらいでしょうか…
25円くらいと見当をつけるひとがおおいのかな。
とすると、

おそば 400円
夜鷹  600円。

安…

ちなみに
金1両が4貫文だから、
25×4000で、10万円。

吉原の花魁が金一両一分だから、
125000円。

高…。

また、同じ吉原でも最下層の局女郎などになると、
1000円~2000円だったみたいです。
とにかくピンキリ。

参考URL:http://allabout.co.jp/travel/yado/closeup/CU20030419A/index.htm

#5さんのお話に便乗して、夜鷹話。
ちなみに、夜鷹というのは立君(いわゆる路上売春婦)のことです。
女郎屋というと、お店があって、…みたいな吉原のようなかんじになりますかね。
参考アドレスは現代のものですが、内装等を知りたければいくらか足しになるかもしれません。


夜鷹が食べに来るくらいの時間(夜)にやっていたことから
夜鷹そば、といわれた という節もありますね。

落語の「時そば」にもあるように、おそばはだいたい16文が相場だったようです。
で、
「客二ッつぶして夜鷹三ッ食...続きを読む

Q江戸時代の色街での行為って・・・

江戸時代の色街での行為って、女の人に挿入したのでしょうか?中に出していたのでしょうか?
今はゴムとかあるけど、よく考えたら昔はないので妊娠してしまいます。
タブーな内容なので、質問するところが分かりませんが、どこまでの行為だったか知っていたら教えてください。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>江戸時代の色街での行為って、女の人に挿入したのでしょうか?中に出していたのでしょうか?

ずばり、「中出し」でした。

では、避妊は・・・と言うと、妓楼には、トイレ(厠・かわや)と風呂場に水桶が必ず用意されており、女郎はそこで局部を洗浄しました。そして、懐紙を丸めて局部に入れておくと妊娠しにくいとも言われ流行しました。現代で言う「ペッサリー」のような役目をすると言われていました。

また、朔日丸(ついたちがん)と言う、何やら「いかがわしい」薬を毎月1日(ついたち)に飲むとその月は妊娠しない・・・と言われていて大変な人気だったとか。

さらに、本当に妊娠してしまった場合には、「遣手婆」(やりてばばあ)という、元女郎で歳をとっても見受けされなかった女がいて、階段から飛び降りさせたり、高い所から飛び降ろさせたりして、「流産」するように仕向けました。そして、「堕胎専門」の医師もいました。

それでも「生まれちゃった」の時は、妓楼で遊女自身の責任で育てたり、直ぐに「養子」に出したりしました。
遊女の責任で育てられた子どもでも、8歳くらいになると、ちゃっかりと妓楼では、女の子は女郎の見習い(禿・かむろ)として、男の子は見世の若衆の見習いなどをさせられました。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>江戸時代の色街での行為って、女の人に挿入したのでしょうか?中に出していたのでしょうか?

ずばり、「中出し」でした。

では、避妊は・・・と言うと、妓楼には、トイレ(厠・かわや)と風呂場に水桶が必ず用意されており、女郎はそこで局部を洗浄しました。そして、懐紙を丸めて局部に入れておくと妊娠しにくいとも言われ流行しました。現代で言う「ペッサリー」のような役目をすると言われていました。

また、朔日丸(ついたちがん)と言う、何やら「いかが...続きを読む

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q吉原(遊郭)についてですが、江戸当時はHIVはなかったようですが、所謂

吉原(遊郭)についてですが、江戸当時はHIVはなかったようですが、所謂本番をどのようにしていたのでしょうか。
避妊具もなかったと思います。
遊女が懐妊などざらにあるような気がするのですが、堕ろしまくってたのでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>江戸当時はHIVはなかったようですが

HIVが発見されたのは、1983年(昭和58年)にパスツール研究所で初めての報告がなされました。
江戸時代は、「梅毒」が主流で、その他にも「淋病」や「麻疹」(はしか)などの感染症が主でした。

麻疹?と言われるかも知れませんが、
子どもの頃の麻疹は、「三日麻疹」(みっかばしか)と呼ばれ、治りも早く「抗体」ができるので、それほど恐ろしい病気ではありません。
ところが、幼少の頃「麻疹」にかかったことのない大人が罹ると、別名「命定め」と呼ばれ、3~4日発熱が続き、吹き出物が全身に発症します。一旦、熱は下がるのですが、5~6日後からは、熱が再び上昇し、「咳」や「くしゃみ」なども出て、風邪に似た症状ですが、最悪の場合は「死」にいたることもありました。

>>避妊具もなかったと思います。

コンドームの歴史を見ていくと、日本でゴム製のコンドームが出回るのは1909年(明治42年)とのことです。世界の歴史をみてみると、1671年に、チャールズ二世が牛の腸膜を利用して、精子の侵入を防いだ記録が残っています。

>>遊女が懐妊などざらにあるような気がするのですが、堕ろしまくってたのでしょうか?

<洗浄法>
避妊の基本は、やはり洗浄でした。遊女用の浴室や便所には、必ず洗浄用の場所がありました。

<薬>
「朔日丸」(ついたちがん)というものが爆発的に売れました。
これは一般にも服用されていた薬で、毎月朔日(ついたち)に服用すれば妊娠しないというものでした。長屋の総後架(共同便所)などに広告が貼られている絵が残っています。

<お灸>
二月二日、臍下に灸をすえると妊娠しないという言い伝えがあり、廓ではこの日こぞって灸をすえました。

<道具>
甲形(かぶとがた)という男性が使用する、現代のコンドームに近いもので、薄い油紙で男性の性器形をしたものと、詰め紙という女性が使用する、現代のペッサリーに近いものがありました。
甲形は「笑い道具」、つまり現代の大人のおもちゃとしての用途もありました。また、詰め紙というのは、御簾紙という薄い紙を丸め、つばで湿らせて挿入しました。これは生理中、現代のタンポンのような用途でも使われました。男性の精液がその紙に浸み込んで「妊娠はしない」とのことで、流行しました。

<中絶>
農村部などでは日常的に間引きが行われていたように、当時中絶に対してはそれほど否定的な状況ではなかったようです。
よほど売れっ子の高級遊女であれば出産も可能でしたが、妊娠した遊女のほとんどは中絶せざるを得ませんでした。
また、遊女の産んだ子供は、女の子であれば「禿」(かむろ)として遊女屋で育てることもありましたが、たいていは養子に出されました。当時江戸には「中条流」という堕胎専門の医者がいて、妊娠した遊女はその医者によって堕胎させられました。ひどい場合には、遣り手が強引に堕胎させる場合もありました。さらに、何回も階段や箱を積んだところから飛び降ろさせたりもしました。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>江戸当時はHIVはなかったようですが

HIVが発見されたのは、1983年(昭和58年)にパスツール研究所で初めての報告がなされました。
江戸時代は、「梅毒」が主流で、その他にも「淋病」や「麻疹」(はしか)などの感染症が主でした。

麻疹?と言われるかも知れませんが、
子どもの頃の麻疹は、「三日麻疹」(みっかばしか)と呼ばれ、治りも早く「抗体」ができるので、それほど恐ろしい病気ではありません。
ところが、幼少の頃「麻疹」にかかったことのな...続きを読む


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