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講談社学術文庫 立川武蔵著「空の思想史」
~イエスの十字架上の犠牲は自己否定そのものだ。自己を犠(いけにえ)にして人々の罪を贖(あがな)ったと考えられてきたのである。~

イエスの磔刑は自己否定ですか。聖書だけを資料とすれば強烈な自己肯定そのものに思えますが、どんなものでしょうか。
仮に自己否定でないとしても、筆が滑ることはありがちなので著者の鑑識眼を云々するものではありません。必要ならば自己肯定と読んでいる私の認識を改めなくてはならないとの動機で質問します。

よろしくお願いします。

A 回答 (11件中11~11件)

当時の彼の判断で、そうすべきと決定をして概ねの状況や、それをすることによる先行きの見通しや必要性が加味されたことと思いますので、肯定的に捉えた方が正解と思います。



広義に於いて正解でない事柄でも、ある目的が本人の魂の命ずる処であるならば全ての観念は凌駕される内容と結果をもたらすでしょう。

人のために命を捧げる行為は短期的には当人や周囲に影を落としたり、葛藤を生み出す側面を持ちますが、長期的には多くの人に良い影響や指針の柱となりうるモチベーションとして残ります。

志というものが、秩序を守り続けた事例として大切に思えればいいですね(^-^)
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この回答へのお礼

著者は儒教、キリスト教、イスラム教、仏教のいずれもが自己否定を迫るとの見解をもっていて、キリスト教が自己否定を迫る端的な例としてイエスの磔刑を挙げた模様です。私自身は引っかかりを感じて読み飛ばせませんでした。いずれにしても著者の真意を確かめられない場所での話題ですから深入りするつもりはありません。
私自身はキリスト教が自己否定を迫る例としてイエスの磔刑を挙げるのには賛同しないので、皆さんの見解をお聞きしたかった訳です。
ご回答は私の見解と同方向にあるのかなと読みました。
有り難うございました。

お礼日時:2009/07/25 22:12

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