元禄時代、幕府は貨幣を改鋳しています。
そのときの貨幣の素材の事情ですが、「鎖国までに相当量の地金(金)が輸入されていたので、改鋳用の素材としては銀貨に比べてはるかに余裕があったといえる」と、ある本に書いてあります。
「鎖国までに相当量の地金が輸入されていた」ということですが、誰が、どこから、どのくらい輸入したのでしょうか。
ご存知の方、教えてください。
よろしくお願いします。

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A 回答 (4件)

根拠を示せない推測で申し訳ありませんが、考えられる合理的な解釈は幕末時と逆のことが起こったのではないでしょうか、アジア経済ばかりでなくヨーロッパも含めて。


世界遺産登録でもめた岩見銀山の発見後、日本では銀余りとなり金の価値が高騰します。ポルトガル、スペイン等が金を持込銀を買い中国で金に返還する。利ざやかせぎですね。
これだけでは、金がふえつずけ金の流出量の説明がつきませんが、鉄砲、奢侈品、特に硝石などの輸入品の支払いは金で行われていたのでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。  よいヒントになりました。
「金銀比価」で検索してみました。

戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、国内銀産出高の増加により,銀の価値が下がり銀を輸出,金を輸入したこともあった。

鎖国するまでの一時期、相当量の金を輸入したということは間違いなさそうです。
家康が「金」を溜め込んでいたということは、武力闘争だけではなく、世界経済の動向を把握して的確な判断ができる指導者ということになりますね。
驚きです。

お礼日時:2009/07/30 10:47

No.2です。


情報ソースを示して頂きありがとうございました。
きちんとした専門家の本ですから、それなりの裏づけを持って書いているはずです。
※ 私としては、No1さんと同様にやや疑問を感じる記述ですが…

この本は、各章ごとに執筆者がクレジットされているのではないでしょうか?該当する章の執筆者が分かれば、執筆者が現在どこの大学等に所属しているかをインターネットで確認して
「**大学**学部**学科 教授 山田一郎 様」
として、直接問い合わせの手紙を書くのが良いと思います。
書いた本人に聞くのが一番確実です。

なお、『90円切手を貼った返信用封筒(定形で最大の長形3号)』を同封するのを忘れないで下さい。
80円でなく「90円」とするのは、
「史料のコピーを何枚か添付すると、80円(25グラム)では足りなくなることが多い」
からです。僅か10円の差ですので惜しまない方が良いです。

執筆者とすれば、自分の本を真剣に読んでくれる人がいるのは嬉しいことですから、きちんと返事をくれると思いますよ。
もしかしたら
「あの記述は不正確で、正確には***でした」
という返答になるかもしれませんが。

教えを乞う手紙は、簡潔でよいですが丁寧に書き、本の該当部分のコピーを添えると良いでしょう。
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この回答へのお礼

いつも丁寧に回答してくださってありがとうございます。
ただ、執筆者に問い合わせる勇気はありません。

江戸時代を通して日本がまさに「黄金の国」であったことは私もよく理解しています。
家康は、開幕(1603年、慶長8年)に先立つ1601年に、三貨制度の中心となる金銀貨の鋳造を始めています。
佐渡金山の金鉱が発見されたのは、Wikiによれば1601年です。
土肥金山もまだ開発されていません。
それなのに家康は、新貨幣の鋳造を始めたわけですから、手元に相当量の地金があったのではないかと思って質問しました。

お礼日時:2009/07/29 20:43

「『鎖国までに相当量の地金(金)が輸入されていたので、改鋳用の素材としては銀貨に比べてはるかに余裕があったといえる』と、ある本に書いてあります」



「ある本」とは具体的に何でしょう?

「元禄時代、幕府は貨幣を改鋳しています」
ということからして「貨幣」とは「小判などの金貨」だと思いますが、鎖国以前の日本は当時の世界で有数の産金国であり、鎖国以後も佐渡金山などでかなりの金が採掘されています。

江戸時代の日本で、金や銀は「輸入品」ではなく「奢侈品輸入の対価としての輸出品(ハードカレンシー)」でした。
新井白石が、長崎貿易での金銀の流出を憂いてそれを止める政策を打ち出し、江戸時代半ば以降に日本での金や銀の産出が減ると、「銅地金や俵物(海産物の干物)」を金銀に代わる「奢侈品輸入の対価」としたのが歴史的事実です。

この回答への補足

山川出版社 『新体系日本史 12 流通経済史』
http://www.bk1.jp/product/02214494

もう少し詳しく、原文のまま書き写します。

鎖国制成立ごろまでのわが国金銀比価は、銀安・金高であったことに加え、当時の東アジア決済通貨が銀であったので、鎖国後も長崎貿易や対馬藩による朝鮮貿易の続行により銀貨の流出は続いた。
その量は慶長銀鋳造高120万貫目のうち約100万貫目にも達した。
これに対して、金貨流出は一割程度にとどまり、しかも鎖国までには相当量の…(略)

補足日時:2009/07/29 13:15
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え?


逆じゃないですか?
輸出はしてなかったと思うけど、その当時の日本は世界最大の金の産出国だったはずですよ

『小さな親切大きなお世話、アナタの悩みママンが解決』
from maman
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
江戸時代を通して日本がまさに「黄金の国」であったことは私もよく理解しています。
家康は、開幕(1603年、慶長8年)に先立つ1601年に、三貨制度の中心となる金銀貨の鋳造を始めています。
佐渡金山の金鉱が発見されたのは、Wikiによれば1601年です。
土肥金山もまだ開発されていません。
それなのに家康は、新貨幣の鋳造を始めたわけですから、手元に相当量の地金があったのではないかと思って質問しました。

お礼日時:2009/07/29 20:46

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Q江戸幕府の改鋳によるインフレと金の流出対策について

当時 江戸時代の日本の金は安く、大量に海外に金が出て行ったらしく
それを食い止めるための『海外に出て行く金を減らす』
というのが目的で、幕府は金貨の質を大幅に下げた(改鋳)とテキストに書いてあるのですが、今ひとつ腑に落ちません。

・『金貨に含まれる金の量を半分にすると、その金で買えるものも、元の半値分になる』とも書いてあります。
これは『額面』ではなく『金貨』自体に価値がある構造になっていて、現代の貨幣制度とは異なっているということでしょうか。

金貨の価値が下がると物価が高騰するということは分かっていますが、海外に出て行く金の量を減らすことと直接に繋がるのはよく分かりません。
金貨に含まれる金の量を減らす→金貨の価値が金を減らした分だけ相応に下がる→海外に出て行く金貨1枚あたりの金の量は減っているが、それに応じて積む枚数も増えるので 結局は同じ金の分だけ出て行く

外国人が日本の商品を買いまくる→日本では品不足で物の供給が減るので物の値段が高くなる→改鋳して更に物の値が高くなる(だけ)

こういうことではないのでしょうか。

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当時 江戸時代の日本の金は安く、大量に海外に金が出て行ったらしく
それを食い止めるための『海外に出て行く金を減らす』
というのが目的で、幕府は金貨の質を大幅に下げた(改鋳)とテキストに書いてあるのですが、今ひとつ腑に落ちません。

・『金貨に含まれる金の量を半分にすると、その金で買えるものも、元の半値分になる』とも書いてあります。
これは『額面』ではなく『金貨』自体に価値がある構造になっていて、現代の貨幣制度とは異なっているということでしょうか。

金貨の価値が下がると物価が...続きを読む

Aベストアンサー

背景として少なくとも以下があります。
[浪費の果て]
・幕府が歴代将軍家の浪費で金蔵が空になったこと。
・金を生む手品として金貨の改鋳を思いついたこと。
  何回かやっていますが、いつ誰がどのくらい 等はお調べ下さい。
  金貨ばかりではなく、庶民の使う銭(ゼニ=原則は鉄銭)や小粒(銀=秤量貨幣)
  の改鋳の許認可で、幕閣が裏金稼ぎもしています。
[外貨との交換レート]
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とりわけ、幕末の惨状は甚だしく、幕府倒壊の間接的ながら重要な因となっています。
この間の詳細は、『大君の通貨』副題-幕末円ドル戦争- 佐藤雅美 文春文庫に詳しいので
是非一読をお奨めします。
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 *一方で英国公使オールコックが不当な通貨条約内容に気付き、英本国の指導の下に
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 などにも触れています。
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  但し後になってからこのことの意味に気付いた。
 といったエピソードもあるようです。

背景として少なくとも以下があります。
[浪費の果て]
・幕府が歴代将軍家の浪費で金蔵が空になったこと。
・金を生む手品として金貨の改鋳を思いついたこと。
  何回かやっていますが、いつ誰がどのくらい 等はお調べ下さい。
  金貨ばかりではなく、庶民の使う銭(ゼニ=原則は鉄銭)や小粒(銀=秤量貨幣)
  の改鋳の許認可で、幕閣が裏金稼ぎもしています。
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Q江戸時代は、金貨・銀貨・銭貨の3種類が併用して流通しており、幕府は、なぜ、3者を一本化しなかったので

江戸時代は、金貨・銀貨・銭貨の3種類が併用して流通していたのですね。円・ドル・ユーロが、国内で使われていたようなものです。短期間には、相互の勘算レ―トが決められたようですが。
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Aベストアンサー

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つまり幕府のみが貿易をし、諸藩に貿易をさせないことによって、貿易の利益を独占し諸藩に対して経済的な優位を築くことが目的です。
さらにいうと、輸入超過は金銀の流出を招き国力を衰退させます。
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Q「鎖国」という言葉の幕府と幕末の認識の違いについて

「鎖国」という言葉の幕府と幕末の認識の違いについて


「鎖国」という言葉は幕府と幕末では大きく認識が違っています。
その認識の違いには何か理由があるのでしょうか?そもそも幕府は鎖国するつもりがありませんでしたよね。

よかったら教えてください。

できればそれについて記述されている書物なども教えていただければ幸いです。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>そもそも幕府は鎖国するつもりがありませんでしたよね。

その通りです。

「鎖国」と聞くと、まずは、長崎の出島だけでの交易が思い描かれると思いますが、「四口(よつのくち)」と呼ばれる方法で、鎖国時代(江戸時代)でも、海外との交易の路は開かれていました。
1.中国から琉球へ、そして、薩摩藩を通じて幕府への路。
2.中国から朝鮮へ、そして、対馬を通じて幕府への路。
3.中国やオランダから長崎(出島)へ、そして、幕府への路。
これが、一般的に知られる鎖国時代の正規のルートと、多くの人に知られている路です。
4.蝦夷地(アイヌ)から松前藩を通じて幕府への路。


(よもやま話)
これまでの考え方:(通説)
(1)「神の下では、万民が平等」という教えが、徳川幕府を頂点とした「封建社会の秩序」を乱しかねない。などの理由が挙げられていますが、戦国時代あたりから日本に「布教活動」を活発に行い始めたのは、主に、イギリスやポルトガル、スペインを中心としたキリスト教の中でも、カトリック系の宣教師たちであった。
(2)そして、確かに、私たちは、学校教育などの現場で「キリスト教徒」の進出に恐れて、日本が植民地化されるのではないか、と言う「懸念」から「鎖国」をした・・・と、習ってきましたね。
(3)しかし、長崎の出島においてはオランダとの交易は「許可」をした。
これには、オランダも植民地化を推進する国ではありましたが、一言で言うと、日本から「輸入」する「産物」が乏しかった。つまり、東インド会社などのように、当時、ヨーロッパが欲しがるような「香辛料」などは、日本の風土の中では、全くなかった。
さらに、金銀などにしても、当時は「銀」が主な流通貨幣でしたが、メキシコにおいて銀山の開発が本格化して、大量に輸出されたため、「黄金の国ジパング」とは言われても、その産出量は比較にならないほど少なかったためにスペインはいち早くメキシコとの交易に転じた。
なお、当時の日本の「銀」の産出は「石見銀山」が世界市場でも2%位を占めていたといわれています。
そして、オランダはキリスト教の中でもプロテスタント系が多く、東インド会社を巡っては、オランダはイギリスに勝利をしイギリスは排除され、日本からも撤退せざるを得なかった。しかし、すでに、日本が戦国時代頃から布教がされていたカトリック系をプロテスタント系に改宗せよ、と言っても、すでに根付いてしまったものを覆すことは、非常に困難であり、無理だと考え、布教活動に対する「魅力」は何もなかった。
(4)そこで、布教活動をするよりも、交易による利権に目を向けた。

もう一つの考え方:(日本側)
(1)どのような国の支配者たちも、自らの権力の「維持」「強化」を目指すものであり、海外との交渉で諸問題が発生するよりも、「閉ざされた社会」の方が「管理」をしやすい。
(2)当時の諸外国と言えども、中国や朝鮮でも同様に「閉ざされた社会」であり、例えば、明にしても、朝貢以外を排除し、中国人の海外渡航を禁止している。
(3)幕府としては、「開国」することにより、日本の諸藩が貿易による「財力」や「兵力」の拡大を強く恐れた。
(4)ただし、こうなると、諸外国の「情勢」が何も見えなくなって、いわゆる、「独裁国家」になるため、幕府権力だけでは日本を「独裁的」に統治する力は、まだ「完全」とは言えず、とは言っても、幕府権力という独裁的立場を確立するために、「布教活動をしない」という約束のもとで、長崎の出島のみでのオランダとの交易を許可した。
そこには、日本の諸藩を介入させず、幕府だけが「富」と「情報」を独占するためであった。
しかし、幕府の力が、まだまだ弱いことを印象付けたのは、寛永14年(1637)10月25日より発生した「島原の乱」では、幕府軍は苦戦をし、オランダに依頼をして、海上から原城への砲撃をさせています。
(5)「鎖国」をする・・・と、言うことは、とりもなおさず、国家の中だけで「自給自足」をすることになるわけですが、秀吉の頃からは、日本国内でも「灌漑」「治水」事業が発達して「新田開発」なども盛んになった、また、「農業技術」や「農機具の発明」などで徳川幕府としては、「国内生産」「国内消費」だけでも統治できる・・・と、考え「鎖国」に踏み切った。

<続きへ>

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>そもそも幕府は鎖国するつもりがありませんでしたよね。

その通りです。

「鎖国」と聞くと、まずは、長崎の出島だけでの交易が思い描かれると思いますが、「四口(よつのくち)」と呼ばれる方法で、鎖国時代(江戸時代)でも、海外との交易の路は開かれていました。
1.中国から琉球へ、そして、薩摩藩を通じて幕府への路。
2.中国から朝鮮へ、そして、対馬を通じて幕府への路。
3.中国やオランダから長崎(出島)へ、そして、幕府への路。
これが、一般的...続きを読む

Q鎌倉幕府、室町幕府の直轄領

江戸幕府の直轄領(天領)は400万石くらいあって、いかなる雄藩もはるかに上回るものでした。
それでは鎌倉幕府や室町幕府の直轄領はどのくらいあって、それは有力な御家人や守護大名
と比べてどれだけの規模だったのでしょうか?
どの範囲までを直轄領とみなすかにもよりますし、江戸時代と鎌倉時代や室町時代では土地の制度も
政治制度も違うから、一概に比較は難しいかもしれませんが。

Aベストアンサー

鎌倉 室町 江戸
三つの幕府ともでき方が違うので、一概には言えませんが。

鎌倉幕府では、関東御料が将軍直轄領になりますがこれの中核になったのが、平家没官領500余所になります。
500というのがどんな感じかというと
東大寺の荘園数が80
大覚寺統の基盤になった八条院領が152
持明院統の基盤となった長講堂領が180
これを見ると、ああ平家はすごかったんだな、頼朝もねとなりますが、関東御料の各荘園も御家人に分配されたので、直轄なのかというとあやふや。特に摂家将軍や宮将軍になると将軍直轄領はなかったようです。
直轄領に裏付けられた直轄軍がありませんでしたから。

室町将軍家は、直轄軍としては奉公衆がおり、最大で一万程度と言われています。逆算すると江戸時代の換算では、35万石くらいになります。
室町期の人口が1000万≒1000万石(全国)だったはずなので、江戸期の3000万人≒3000万石 に換算すると江戸時代における100万石くらいではないでしょうか。

結構、鎌倉将軍も室町将軍も、直轄軍を持っていません。
結果として鎌倉将軍も、室町将軍も江戸期の将軍よりも専制的でなかった、鎌倉期も室町期も内乱だらけですが、江戸期は内乱がほぼありませんでした。
逆の見方をすると、鎌倉将軍は主敵である平家を滅ぼして、建前上は、武士の統領(=つまり、みんな部下)であり、室町将軍も主敵である南朝を滅ぼして、建前上はすべての守護大名の上司でありました。比較の仕様ありません。立ち位置が違うので。
ところが、江戸将軍は関ヶ原の後も江戸=大坂二重公儀制を保ち、豊臣家を滅ぼしても、完全には仮想敵を滅ぼしきっていません。全部が部下になりきらなかったから、徳川家直轄領が残ったのかもしれません。
最後の二重公儀制にかんしては、戦争の日本史 17 (17) 笠谷 和比古よりです。

鎌倉 室町 江戸
三つの幕府ともでき方が違うので、一概には言えませんが。

鎌倉幕府では、関東御料が将軍直轄領になりますがこれの中核になったのが、平家没官領500余所になります。
500というのがどんな感じかというと
東大寺の荘園数が80
大覚寺統の基盤になった八条院領が152
持明院統の基盤となった長講堂領が180
これを見ると、ああ平家はすごかったんだな、頼朝もねとなりますが、関東御料の各荘園も御家人に分配されたので、直轄なのかというとあやふや。特に摂家将軍や宮将軍になると将軍直轄...続きを読む


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