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今は標識があちこちにあるので天候がよければ中学生の体力でも岩手から宮崎まで歩いて旅行できます。
あちこちに交番がありますし、電話がありますので家族や友達に連絡を取って交通費を貸し手もらうことも可能です。
しかし昔は?
今でも県や市では砂利道のような公共の道路があります。
昔はまともな道があったんでしょうか。
戦国時代あたりたとえば、
故郷に近い場所で拉致され、故郷からとても離れた場所に連行され奴隷、炊事や掃除係りの使用人として働かされている人間がいたとして、
知り合いもない場所から、自分の故郷に帰るとき昔の人はどういう手段を使ってたんでしょうか。
高知から新潟まで帰るとして一文無しの場合どうやって帰ってたんでしょうか?

A 回答 (3件)

 戦国時代でも、日本各地の人や物の往来はけっこう盛んでした。


 織田信長の政策で有名なものに「関所の撤廃」がありますが、これは
街道に有力者が勝手に関所を作って通行料を取るので商人や旅人が困っ
ていたから実施された政策です。ということは、当時からすでに、街道
があって人や物が行き来していいたという証拠ですよね。

 高知から堺までは、商人の船に乗せてもらうのがいいと思います。
 代金は払えないので、船人足として働くことで勘弁してもらえば大丈
夫かな?
 安土桃山時代~江戸時代前期になると、大阪から瀬戸内海を抜けて、
山陰沖を通って日本海を北上して蝦夷地まで抜ける北前船があるのです
が、残念ながら戦国時代はまだ北前船ができていません。
 そこで、陸路で京都まで向かいましょう。
 堺から京都までは、人の往来も多いので、迷わず行けるでしょう。
 京都から新潟までは、北陸道をひたすら歩いて行け着きます。
 戦国時代とはいえ、このルートは当時の大街道のひとつなので、人や
物の往来があるので、なんとかなるでしょう。
 徒歩で行く場合も、単独で行くのは危険なので、商人の一行に下働き
や荷物運びとして雇ってもらって、目的地まで同道するのがいいと思い
ます。

 また、京都から日本海側の港湾都市・敦賀や金ヶ崎に出れば、日本海
を北上して行く商人船があるはずですので、それに乗れればもっと早い
と思います。


 もっと古い時代、7世紀あたりでも、防人として関東に人間が九州に
行って、また関東に帰って行ったりしていたわけで、当時は当時なりに
なんとかなっていたのだと思います。
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この回答へのお礼

アスファルトではないけどちゃんと道も、併設した設備もあるんですね。
具体的な方法をありがとうございます。

お礼日時:2009/08/14 20:22

国を作るとはじめに道路を整備します。

江戸時代に五街道を習いましたよね。そのはじめは大和朝廷時代から街道が整備されました。東海道は当時東山道といい、奈良・京都から現在の宮城県あたりまで延びていました。当時は武蔵周りではなく、上総下総(千葉県)周りでした。だから、京に近いから上、遠いから下です。
初めの頃は駅舎を何キロおきに設置していました。
そして、その道の補修はその近くの人たちが賦役としてしていました。
江戸時代ころになると道の両側に木を植えたりして、光よけなども作りました。また、あちこちに茶屋なども設置する人が出てきました。
ただ、最初から最後まで無一文では帰れなかったと思いますよ。何らかの形であっちこちですこしでもお金をもうけて旅していたか、はじめから金を持参して旅をしていたのでしょう。
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まず、瀬戸内海を渡ることができないので、海岸に出たところで、途方にくれると思います。

この回答への補足

瀬戸内海さえ何とかわたってしまえば帰れますか?

補足日時:2009/08/12 19:08
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