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私の要素はほぼ外部から成り立っています。
私の肉体の構成要素は地球上に散らばっていた元素たち
です。私は自分の意思で生まれてきたわけではありません。
私の思想を構成しているもの、生活、友人関係、
テレビ番組、本、映画、ネットなどはすべて外部です。
しかし、すべてが外部であったなら「私」という意識
はないと思います。私の肉体を通して、私の内部と外部が
接している(せめぎあっている)と考えています。

そこで質問です。内部とはなんでしょうか?
私は、それを生命エネルギーととりあえず命名しました。
それは、現世では肉体として個別に収まっているように
見えるけれど、その根本は「大いなる混沌
(勝手になずけてすいません)」のようなものにつながっている
ような気もします。


誰かこの意見に対し、お考えをお聞かせください。
宜しくお願いします。

A 回答 (16件中11~16件)

内部とは後天的に構成された電子の結合(ニューラルネットワーク)のことでしょう。



私は科学は信じないことにしているので、上の意見はあくまでも脳科学における成果が本当だとすればの話ではありますけどね。

私たちを構成するものがほとんど外部であるという意見にはおおむね賛成です。
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この回答へのお礼

ニュートラルネットワークについてはよくわかりませんが、
それがもし内部だとすれば、私たちは完全に外部によって
成り立っているということにはなりませんか?
後天的に構成された電子の結合は肉体から形成される
わけです。肉体は外部ですから、内部とはいえないような
気がします。


私は、内部はもっと根源的な生のエネルギーのような
気がします。生きようとする意思だと思います。

お礼日時:2003/05/04 21:31

参考程度に



内部というのは心の世界ですね。外部というのは、肉体のことですが、特徴的には眼・耳・鼻・舌・表面意識の五感のことでしょうね。肉体感覚器官からいろいろな情報が入ってきますが、それをどう捉えているのかは個別の問題ですね。心は個人個人違いますから、捉え方も十人十色なんですね。だから肉体的な五感は主体ではなく個人個人の心が本当は主体なんですね。心はほって置くと自由奔放に跳ね回りますので、よく管理しないといけないんですね。内的世界の勉強は学校ではしませんので、なかなか気がつきませんね。でも内的世界が本当の自分なんですね。
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※前記の方の意見を踏まえさせていただく事、お詫びします。

m(_ _)m

▼「内部は外部の世界を解釈するための
   かりそめの手法のようなもの」(←引用部)
……なるほど、納得!!基本的に私もこの意見と同意見です。私なりの+アルファを少々。

▼逆にしたらどうなるのかな~と思いました。つまり、「外部は内部の~…」と。するとコレがデカルトの【我思う、ゆえに我あり】をどことなく思わせるではありませんか。

▽何も「思う」ばかりしなくても、「見る」「聴く」「感じる」事によって外部を解釈し、その解釈の主体における同一性を認める(【さっきの自分】と【いまの自分】のように)事により、【内部】と言いましょうか、【自己】の発見に至るのではないでしょうか。

▼……とココまで考えたは良いのですが、コレをさらに発展させよ~とすると、個体の現実存在を存続させる手段としての自己認識、及び外部認識となり、結局は【システムとしての内部認識】という考え……つまり、
 「内部は外部の世界を解釈するための
  かりそめの手法のようなもの」(←引用部)
……となってしまいます。(あれぇ~…?)

▼いづれにせよ、内部という概念をお考えなら、必然的に【外部】とも向き合わねばならないのでしょう。そして、内部・外部の優位性の問題にたどり着く事が解りました。それは困難であると同時に、ヒョットシタラ大して意味を成さない事なのかもしれません。

(質問者・回答者の皆さん、沢山の示唆を受けました。ありがとうございます)
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私は、


内部は外部の世界を解釈するための
かりそめの手法のようなものだと思います。
「せめぎあい」というイメージはちょっとないかも。
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内部とか外部とかって表現がイマイチよくわからないのですが、私なりに解釈して回答しますね。


 自分を構成しているものの出所が外部にあるから、それが外部であるという風に解釈できますが、
 外部からの情報を取り入れ、自分の知恵や思考になったのなら、それはすでに自分の内部なのではないでしょうか?
 例えば、私が牛肉を食べたとします。
皿の上にある段階では、それは牛ですよね。
焼いてたれをつけて咀嚼している段階でもまだ牛ですよね。
 胃に入って消化され始めたあたりから、牛と言っていいかどうか難しくなってきますよね。
 それが腸に送られて、栄養素として体内に吸収されたころにはそれはもう牛ではなく、私の体の一部です。
 もし仮に、体内で栄養素として吸収された牛肉が断固牛だと考えてみると、牛自体が外部から何かを取り入れて吸収し成長しているのだから、私の食べたものが牛かどうかもわからなくなりますよね。
 この仮説だと、牛の食べ草などが牛の栄養となっても草のままだということになりますので、草についても考えなくていけません。草は太陽光線で光合成しますので、牛の食べたのは太陽エネルギーと炭素ですよね。太陽は最初から自分で勝手に燃えているのではなく、何らかの力で高エネルギー状態になったようですので、そもそもの原因をいろいろ考えてみると、どうしてももビッグバーンにたどり着いたりします。
 変な仮説ですみません。
やはり、外部からの情報はあくまで自分の内部を構成するための材料で、その材料によってどんな人格を構成するかは自分自身なので、断固人格(内部)が存在できるのではないでしょうか?
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宗教的観点ですね・・・。


体は土で作り、魂を入れたと・・・。
私は、無宗教なので・・・。
生きてるって、今を大事にし。全ては灰になって消える。
自然とともに生きて自然とともに死んでいく。
でいいと思うんですが・・・。
私的には・・・・。
私の思想を構成しているもの、生活、友人関係、
テレビ番組、本、映画、ネットなどはすべて外部です。
とありますが、これを使って初めて人間らしくなれるのでは?内部は0で外部によって、内部も形成されていく。そんな気がします。
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この回答へのお礼

僕は外部に対抗するような形で内部があるような気がします。
そして、その内部はどこか未知の力の根源のようなところ
につながっているような気もします。

語彙が少なくて説明が不明瞭ですいません。
誰か、僕のイメージに形を与えてくれませんか?

(私は無宗教ですよ。感じたことをうまく言葉にしたいんです。。。)

お礼日時:2003/05/04 00:52

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