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私の要素はほぼ外部から成り立っています。
私の肉体の構成要素は地球上に散らばっていた元素たち
です。私は自分の意思で生まれてきたわけではありません。
私の思想を構成しているもの、生活、友人関係、
テレビ番組、本、映画、ネットなどはすべて外部です。
しかし、すべてが外部であったなら「私」という意識
はないと思います。私の肉体を通して、私の内部と外部が
接している(せめぎあっている)と考えています。

そこで質問です。内部とはなんでしょうか?
私は、それを生命エネルギーととりあえず命名しました。
それは、現世では肉体として個別に収まっているように
見えるけれど、その根本は「大いなる混沌
(勝手になずけてすいません)」のようなものにつながっている
ような気もします。


誰かこの意見に対し、お考えをお聞かせください。
宜しくお願いします。

A 回答 (16件中1~10件)

Eviauusさんこんにちは。

回答になるかどうか分かりませんが一応ご参考まで。

ドイツの文学者ゲーテは、たしか戯曲「ファウスト」の中で哲学者に、我々を取り巻く世界を「大宇宙」、我々自身を「小宇宙」といわせています。また同じドイツの哲学者ヤスパースは人間を「宇宙の目」であると言いました。この問題は昔から哲学の大きな課題であったのです。
人間は経験により、まわりの世界のなかで空間的、時間的に変わらぬ事象を構造や法則として概念化し、蓄積し、世界観を作り上げます。これを体系的、意図的に行うのが科学です。科学は最初は想像や憶測によって概念を作りますが、それは仮説と呼ばれます。その仮説としての概念が事実と合っているかどうかは実験や観察によって常に検証され、正しいもののみが科学知識として構築されます。
我々のなかに積み上げられる概念はこの様な科学的なもののみではなく、個人的な経験や宗教的知識、占い、その他さまざまですが、これらの総体が我々の内部の世界を構成します。そしてこれらの概念に欲望や価値観などが絡み合って我々の人生観や行動が決まっていくのでしょう。

非常に抽象的で申し訳ありませんが、ご参考になれば・・・・。
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すみません!!ちょっと間違えました。



クリプトスポリジウム ではなく ストロマトライトです。
しかも、地球上に最初に発生した有機体はまだ分かっておりませんでした。ストロマトライトとは地球に酸素を発生させた有機体でバクテリアみたいなものです。クリプトスポリジウムは食中毒を起こす菌です。
ちょっとではなくだいぶ間違いでした。すみません。
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>乳飲み子は生まれたすぐ後に、母親の乳を飲もうとします。



その部分は遺伝情報によるものだと考えますので、人類の始まりから蓄積された後天的情報だと私は考えているのです。地球上に初めて発生した有機物といわれているクリプトスポリジウムという有機体がとる行動のみがEvianusさんのおっしゃる意味での先天的思考に基づくものとして最も近いと私は感じているのですが、それが意志をもつかどうかついてはまだ解明されていません。というか解明しようがない状態のようです。


>どうしてそのよどみが発生してしまったのかが知りたいですね。

それは私も知りたいですが、「元素で構成されたチリが集まり星が出来て」といった部分でさえまだまだ謎の多い状況なので、生物については3万年後(根拠はありませんが)位の人類はそのテーマでの研究を確立しているかもしれません。カオス理論が重要な鍵を握ってくるかもしれませんね。

>元素はエントロピーの増大の法則にしたがって平均的に分散していけばいいのに

ある意味分散しているから、毎日食事をとらなければ形を維持できないと・・。一人の人間が発する熱量は意外と大きいですしね。

>そもそも私たちの知的世界を作っているものだと思います。

では、理路整然と何も矛盾の無い世界は魅力的でしょうか?全ての人が同じ考えで同じ価値観を持ち同じ生活をする。私は今の生活を知っている以上はそういう世界には住むことは出来ないですねーきっと。
ですので、錯覚と誤解が知的世界を豊かにしてくれていると私は思っているのです。議論という娯楽が大好きなので、朝まで生テ○ビなどは中毒になっています。

>この部分が理解できません。

「根源」とは何かの始まりのおおもと という意味ですよね。具体的事象ではその「根源」は確実に指し示すことができます。雨の根源は海水であるとかがその例ですが、「根源的」という表現の場合その所在はあいまいです。いわゆる空想となってしまいます。
「人間の意思や意志が発生する」という物理的な目的や必然性が確立したときに初めてその明確な「根源」を語ることが出来るのではないでしょうか。つまり、「存在する何かに目的や必然性があるとすれば根源みたいなものも存在するだろう。」という風にしか使えないということです。
「人間が何者で、目的があってこの空間に存在しているのか、それとも目的など無いのか。」という部分で人類はもう何千年と費やしている。
私自身は、人類が特別な生物だとは思いませんし、何者かに使命を授けられているとも全く思いません。ですから、人類の意志や意思に関しての「根源」は後天的に与えられる外部情報だと思っているのです。
生物としての人間の「根源」を指し示せと言われれば、「私たちを包む空間そのもの」と私は答えます。空間は元素で満たされていますし、情報も元素で成り立っている。

「私たちを包む空間そのもの」が私たちの体や意思や意志の根源だと考えると、Evianusさんのおっしゃる「すべて繋がっている」という考えにも繋がっていきます。
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はじめまして!




>私の要素はほぼ外部から成り立っています。
私の肉体の構成要素は地球上に散らばっていた元素たち
です。

「土水火風」でしたっけ。

>私は自分の意思で生まれてきたわけではありません。

それは、どうでしょう?
その意志を忘れ去っただけかも知れませんよ。
「意思」の意味が違うかも知れませんが。。^^;

>私の思想を構成しているもの、生活、友人関係、
テレビ番組、本、映画、ネットなどはすべて外部です。

そうですね外部ですね。でも、外部を外部たらしめているものは内部ではないでしょうか?

>しかし、すべてが外部であったなら「私」という意識
はないと思います。

私自身まで他人だと困りますね^^
みんな他人だー;;

>私の肉体を通して、私の内部と外部が
接している(せめぎあっている)と考えています。

肉体を通して。。ん~?
せめぎあっているのかな~?
仲良しだから生きていられるのかも。。

>そこで質問です。内部とはなんでしょうか?
私は、それを生命エネルギーととりあえず命名しました。

「生命エネルギー」とは、良い名前ですね。

>それは、現世では肉体として個別に収まっているように
見えるけれど、その根本は「大いなる混沌
(勝手になずけてすいません)」のようなものにつながっている
ような気もします。

現世でも寝てる時などは収まっていなかったりして。。。^^
大いなるカオス→宇宙生命エネルギーとか名付けるといいかも。
確かに、生命と生命、そして生命と宇宙は奥底で繋がっているとしか思えませんね。
つまり「内部」とは、外部とは別でありながらまた、外部と一体でしか『ありえない』ものですね。
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どうも!!MKです。



>生まれてから本質的に死を望む固体はありませんよね。

その部分が私自身も長い間考え続けているテーマでもあります。
私個人は、「生」を望む固体も無いのではないかと考えているのです。それは、死にたいと思っているわけではなくて、「生」とは永遠に不変のもので特に望まなくても永遠に続いていくものであるという考えからそう思うのです。
元素といわれる物質が宇宙の中に存在していて、無機物と有機物を構成していることになっています。人間も当然その元素が複雑に絡み合って形作られています。そうなると、物質的には永遠に消滅することはないことになります。「死」で消滅するのは何かと考えると、「ネットワーク」だと思うのです。体を構成していた元素のネットワークと思考を構成していた電子のネットワークのみが失われる対象で、物質そのものはバラバラに分解し他のものへと状態変化はするけど消滅はしないようです。つまり「生」は永遠であるといえないでしょうか?
その考えの上に立つと人間でありつづけたいと願うことがいわゆる人間の「生」への執着であり、それは根源的なものには結びついては行かない。他の生物も、その生物として生き続けたいという意思はやはり後天的なものであると私は思うのです。つまり、外部を取り込んで構成したものであると・・。
後天的に構築された情報とはDNAも含まれるので、生まれたばかりの赤ちゃんも当然意思は持ちます。ですが、根源的なものとは繋がらないように考えます。
「根源的」という表現もあくまでも「目的があるとすれば」という不確定な仮定の上でのみ語れるものなので、人間の娯楽の一種として発展してきたものではないかと思います。哲学とはもともと娯楽ですからね。
私たち生物は宇宙という大きなゆりかごの中でただ流されていくだけのものであり、ただそこに元素のよどみが一時的に形作ったものであると感じています。

>錯覚についてですが、錯覚は非常に大事な感覚だと思います。

同感です。錯覚と誤解こそが私たちの知的世界を豊かにしてくれているものだと思います。真実なんて大して面白くないとます。これは、ああではないのかこうではないのかと考えることが良いのだと思っています。

色々、述べましたが、私は前にも申しましたとおり科学には否定的な人間です。なので、科学を盲信すれば上のような考察も哲学的には可能なのでは?という視点から書いております。なので、なんらEvianusさんの意見を否定するものではありませんので!!私的には「生きようとする根拠は人類みな同じ」という視点も好きですので!!では!
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

後天的に生きる意志が生まれたというところがどうしても
理解できません。
乳飲み子は生まれたすぐ後に、母親の乳を飲もうとします。
私は乳飲み子は意志を持っているとは思いません。意思は
言語と密接なつながりがあると思っていますから、乳飲み子
は意思以前のレベルで生きようと行動していると考えます。
これは先天的な問題だと思います。

私たちの存在がただ単なる元素のよどみでネットワークである
というところには賛成ですが、どうしてそのよどみが
発生してしまったのかが知りたいですね。元素はエントロピー
の増大の法則にしたがって平均的に分散していけばいいのに
どうして、一つの場所に集中するのか。これにはものすごい
エネルギーを必要とすると思うのですが。。。


錯覚と誤解は私たちの知的世界を豊かにしてくれるのではなく、
そもそも私たちの知的世界を作っているものだと思います。
真実はある一定の形式で存在しているのではなく、
そのつど姿を変え存在しているような気がします。
言葉のレベルで考えると何でもすぐあいまいになってしまう
と思います。「真実」という言葉をとってもすぐに
あいまいになってしまうような気がする。。。

>「根源的」という表現もあくまでも「目的があるとすれば」という不確定な仮定の上でのみ語れるものなので

この部分が理解できません。



回答ありがとうございました。

お礼日時:2003/05/10 12:53

>生きようとする意思の根拠はなんでしょうか?



私自身は、「生きようとする意思の根拠」も外部情報によってもたらされるものだと感じます。
国や住む環境が異なれば、それぞれの生きたい理由も様々ですのでそう思うのですが。
もし、人間の「生」への執着が意識を超えた根源的なものとして存在するのなら、教育や宗教などなくても全人類は同じ「生」の認識を持つはずですがそのような事実は今のところ確認されてはいないですよね。同一価値観を持っているような錯覚はあるかもしれませんが、それは現実的にはやはり錯覚でしかないのです。
しかしながら、宇宙の全ては原子レベルでお互いのバランスを保ちながら関わりあっている可能性も否定はできません。つまり、戦争によって流される血や涙も大きな宇宙の対流の中の必要な動きなのかもしれない。私たち人間の目には悲惨に写る事象も実際には全く異なる性質のものかもしれないと・・。
とにかく、私は「生」というものに関して考察する時に思うのは、「人間にはもともと生きる意味はない。しかし、生きる価値のみがある。」ということです。何が真実かは私ごときには分かる訳も無いのですが、自分の内的宇宙の外側から人間を見る「負のマクロ」の視点と外的宇宙の外側から物事を考察する「正のマクロ」の視点からいろいろなことをこれからも考えてみようと思っております。
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この回答へのお礼

うむー。
でもね、「生きようとする根拠」は人類皆同じだと
思います。人類だけじゃない。最も原始的なバクテリア?
(単細胞生物?)だって生きる意志はある。ただ、生物と
無生物の中間的存在(ウイルスにはないらしいですが...)
を除いては。

考えてみてください、生まれてから本質的に死を望む
固体はありませんよね。これは頭で理解する以前から
決まってる種類のことなんだと思います。(乳飲み子の例)。

したがって、「生きようとする意志(意思という言葉の
意味が揺れてきました)」という大陸があって、その
上で様々な「生きる意味」が議論されているのではないで
しょうか?

あと、錯覚についてですが、錯覚は非常に大事な
感覚だと思います。この世界がこのような形で
成り立っているのは世界の人々の錯覚の総体として
だと思うからです。


回答ありがとうございました。
(眠いのでちょっと文が読みにくくなってしまったかも
しれません。お許しを~。)

お礼日時:2003/05/09 02:10

外にもいろんな種類わけできるようなものがあって、


そうだな、
家があったら、
家の中の世界が内的世界。
家の外が外的世界。
家を基準にした分け方だ。
自分は、家の外にも、家の中にもどちらでも居れるし、その両方を、把握はできないが、俯瞰できる。
 
主体とは、境目というよりも、
内も外もないもの、かな。
主体だから。
 
>誰かこの意見に対し、お考えをお聞かせください。
気持ちは分かる。
そういう気持ちを汲んだ感想を述べると、
 
内側とは、穴、トンネル、の入り口、そういったもので、それを通ってしまうと、「側」というのがない、真の外ともいうべきところになる。真の外とは、解放されているというところだ。
自分とは、トンネルを構成してるものと、それを満たしているもの。ただ、入り口が「内側」にある。出口は、マジに出口。
!?って感じ。出口の前に立ったときを言葉にすると、「広がった?」「あれ?」「出た?」そんな感じがぎりぎりの形容だ。
トンネル的自分を満たしているものは、出口にでたら、その出たところを、満たしているものになる。
自分とは、自分と、主体、つまり、君の言う外部と、内部でできている世界のことで、
内部世界も外部世界も何も、自分存在が既に、世界なのです。
世界が自分だと思ったとき、自分というものは随分居なくなる。どちらかというと、在るという感じになっていく。
それが、肉体と共に滅びても。
 
端的に言えば、
世界とは、随分、思っている以上に遥かに計り知れず、考えることにおさまらない世界だ。
浮き沈み、回転、点滅、行き来、諸々。
内側外側とは、端的に、世界把握の一つのかたよった見方、決定、枠組みではあるが、それも、トンネルの作用する対象になる。
二元論に、かたをつける。
一元論にも、かたをつける。 
内側が、外側よりもえらいということなど一切合切全く無く、端的に、外への「入り」口が、内にあったように思えるというだけの話だ。

なぜこういうフェイクと見えるようながあるのかを考えたとき、そこには、嘘があったからに他ならない。
嘘を暴いて、やっとスタート地点。
それから、もう一歩。
さらに、どこまでも。
そして、今。
さらに、どこでも。
そして、今。
それで、どこにも。
そして、今と無。
それで永遠。
 
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まず、最初に、、


わたしはそこら辺を歩いている普通の人なので、
あまり、自信はありません!!
(こんなことを書いている時点ですでに、十分わかっているとは思うけど)

内部と外部の境界条件について一つ考えてみましょう
・自分の肉体(皮膚よりうちがわ)とその他
・自分が考えているという意識とその他

まずここで条件があいまいですねぇ
精神的な面から考えていきましょう
(つまり2番目)

精神的に考えてみると、自分の内部と外部の境界は
外部からの情報をインプットされたところ
および外部へ情報をアウトプットされたところと
簡単に定義できます。

さて、難しいのがここから、情報を自分で認識した瞬間がきっと。インプットされた瞬間で、何かしら行動したときがアウトプットと考えられます。

んで、情報を認識するということは、たとえば映像ならば、
外部→目→のうみそ
みたいな感じで情報が流れます、
目で受信したとき、情報を認識?
(目で見たことすべて認識できません)
脳みそにたどり着いた瞬間が認識しているということ?
たぶん違います。
(目で見たことすべて認識できません)
脳みそのなかで情報を受信したとき
必要な情報だけをきっとフィルタリングしているのでしょう
このフィルタリングの結果認識するということになるのでしょう。

でもあれ?
フィルタリング以外が外部?
フィルタリング以内が内部?

多分これは半分本当で半分うそですね。
定義の問題だけかもしれませんが、
内部と外部の境界はきっと、フラクタル的に上位が下位に入り組んでいて、どこまで調べてもわからないのでしょう。

視点をマクロに切り替えてみると、
自分の目、自分のコンピュータのディスプレイ、ネット
すべて内部なのかも知れない、、

え~と、すごく長くなるので端折って、最後に結論!
「情報の流れ、そのものが意識ではないのか?
つまり、ネットワークこそが意識であると定義できる
よって、内部および外部の境界など存在しない?」

んー難しい、いっててよくわからなくなってきた。。。
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>それがもし内部だとすれば、私たちは完全に外部によって成り立っているということにはなりませんか?



構成する”物質”にこだわれば完全に外部で成り立っていると考えられます。
私が考えるのは、その外部が構成するネットワークこそが内部ではないかと考えているのです。
例えばコンピュータのソフトウェアなどは 0 と 1 という外部の組み合わせを処理装置に計算させることによって様々な結果を得ることを可能にしている。つまり、構成する物質はどのようなコンピュータでも同じだけれど、その機能はプログラムによって異なってくる。その、プログラムこそが人間の”内部”と同義だと思うのです。
その考え方から行くといづれコンピュータが意思をもつ日が来るのではないのか?という疑問と、それは人間と呼ばれるのか?という疑問が発生しますが、私はそういう日がいづれ来ると考えているし、それは、人間と呼べると思っています。
さて、プログラムが内部とするなら結局インプットされる情報は外部ではないだろうか?という疑問が湧いてくるかもしれないですが、これは完全に外部とは言い切れないと感じます。
なぜなら、自分にとって不都合な情報は加工されるからです。加工されたデータは外部ではないですよね。加工するという部分がいわゆる神の領域といわれる部分とも微妙にシンクロします。
人はなぜ死ぬ間際に同じようなイメージを感じるのか?
単なる電気情報のネットワークがなぜ自我を形成するのか? 等々・・。
それらもいづれ明確に解明されるのでしょうけどね。取り込まれた情報がポジティブにせよネガティブにせよ加工されればそれはもう立派な内部と言えるのではないでしょうか。

>私の肉体を通して、私の内部と外部が
接している(せめぎあっている)と考えています。

この感覚は私にもあります。宇宙が無から生まれたという仮説を考える時、特異点の問題は常にあります。私は、無限に広がる宇宙と無(特異点)を対にして広がる宇宙を考える時、無こそが人間ではないだろうかといつも思うのです。そして、人間は宇宙の分岐を担うがゆえにカオス(混沌)を内在しているとも思います。
しかし、その宇宙が無から生まれたという考えこそが人間の作り出した壮大なファンタジーなのかもしれないですよね。カオスなんてないかもしれない。説明できないものを逃がす空間として創出されたものなのかもしれない・・。
何か言ってることが混沌としてきましたが、両方の意見とも私の”内部”はきちんと把握している。物事を客観的に見るという部分が実は”内部”の本質かもしれませんね。

この回答への補足

うーん、むずかしいですね。

私なりにmktoolさんのおっしゃられていることを咀嚼
してみると、「外部によって形作られるプログラム
的なものが内部と意識されるものであるのではないか」
といったところでしょうか。私はmktoolさんの意見に
賛成します。私たちは自分自身で物事を考えている
ように錯覚していますが、実際はコンピュータのように
動かされているだけなのかもしれません。私が自律的
に考えている、と思っている行動も実はただ単にネット
ワークの作用かもしれませんね。


私はmktoolさんの意見には賛成ですが引っかかるところが
あります。それは、生きる意志ということです。生きよう
とする意思の根拠はなんでしょうか?私にはわかりません。
その生きる意志が内部(目に見える世界とは違う形で
どこか大きな根源とつながっているというイメージ)
なのではないかなと思います。

それとも、私たちを形成するプログラムの特性で意味もなく
「生続ける」という命令がインプットされているだけかも
しれませんね。

回答ありがとうございました。

補足日時:2003/05/06 03:25
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この回答へのお礼

今は疲れているので、きちんと回答できません。
しかし、mktoolさんの意見を拝観してなるほどと思い
ましたよ。



私は、最近人間(内部)というものは翻訳装置(または
ろ過装置)のようなものだと考えています。ろ過の
方法は歴史が作りました。私たちは周りの環境を
言語・イメージなどに絶えず変換するものです。そして、
その変換点、ここに自己があるような気がしています。

この観点で、私は以前細胞なら細胞膜、人間なら
皮膚に精神が宿ると考えたものです。


すいません、二日酔いで文章が読みにくくなっている
かもしれません。
あとで、きちんとmktoolさんの文章に対する私の
考えを述べたいと思います。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2003/05/06 01:07

 人間の内部と外部の違いは、人間の意識が


常に届いているところとそうでない部分という
分けかたが出来ると思います。

 簡単に言うと、体の一部をつねられたりすれば
分かりますよね。これが内部だと思います。

 物質、あるいは物の存在というのは、人間の意識と
別に、つまり人間が見たり、触ったりするかどうかとは
別に客観的に存在しているというのが日常的感覚と
思いますが、物理学の理論、実験結果を見ていると
必ずしもそうではない可能性があるのです。

 あなた前にある机は、あなたが見ていないときには
存在していない可能性があるのです。
(超自然現象とかじゃなく、真面目な話)

 人間の体、つまり内部には神経が行きと届いて
いますから、人間がその存在を常に監視している
領域と考えることができます。

 また人間の脳とその内部の思考も、外部から
完全に独立したものではありません。薬を
使うなどして、全身の神経を麻痺させ、外部からの
刺激を一切遮断してしまうと、人は眠ってしまう
ことが知られています。


>そこで質問です。内部とはなんでしょうか?
私は、それを生命エネルギーととりあえず命名しました。

 脳の活動は脳内部の神経が出す電気的なパルス
で、手足の刺激を脳に伝えているのも、手足の
中にある神経を伝わる電気的パルスです。
脳からの命令、それにって動く筋肉も電気的な
パルスで動かされています。

脳が感じている電気的パルス、これがあなたの
感じているエネルギーで、内部とはこの電気的
パルスが直接行き来している体の中という
ことではないでしょうか?

 外部の存在も脳は感じとりますが、それは
手足の接触、目が受ける光のように、電気的
なパルス以外の方法で体が受け取った情報を
末端の神経細胞が電気的パルスに変換し、脳に
伝えているので、上に挙げた内部のように、
電気的パルスが直接届いているわけではありません。

こんな違いではないでしょうか?
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この回答へのお礼

おっしゃることはわかったつもりです。
ただ、僕はapple-manさんが言っていることはすべて
外部に関することのように感じます。
僕が感じる内部というものは、肉体に納まりきらないような
気もします。


物理学の世界でのものの存在論について、できればもう少し
教えていただけないでしょうか?
宜しくお願いします。

お礼日時:2003/05/06 03:38

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