ふと思ったのですが、我が家ではというか、私の父方の祖父母は「南無阿弥陀仏」を「なんまんだぶ」と発音していたように思いますがこれは全国的にこの発音がメジャーなんでしょうか…。考えてみると「なんまんだー」とか発音されている人も見かけるような気もします…。思えば、もちろん、はっきりと「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」ともごもごではなく、きちっと発音されて、合唱して頭を下げてからお寺に入られたり出られたりという方というのもいらっしゃいますね…。これは地域によってちがうものなのでしょうか?丹羽文雄さんの小説では確か「なもあみだぶぅ」だったかなんだかだったような。(丹羽文雄さんは高田派だというような話を聞いたような気がしますので、これは高田派だとnamasの次が母音だったらnamoだとかいうことがあるのか…。)

皆さんのお宅ではどうなんでしょうか。

あと、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、……、回数は何回言われてますか?

A 回答 (3件)

うちは、本願寺派なので「ナモアミダブツ」です。


もちろん「なんまんだぶ」とも称名します。
勤行では、「ナモアミダブツ」と単念仏は「なーまんだーぶー」ですね。
回数は勤行ではその勤行ごとの定められた勤式での回数で色々ですが、日常の称名念仏では回数に定めはないんでそのときによります。

「南無」はサンスクリットの「namo」の音写語なので「なも」と発音します。浄土系「時宗」の開祖一遍上人の『一遍聖絵』(一遍上人絵伝)=国宝にも「なもあみたふ」と表記されているように鎌倉時代までは浄土真宗以外でも「なも」と発音していたと言われています。
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この回答へのお礼

有難うございます。
「なんまんだぶ」やはりメジャーなのかと思いました。

お礼日時:2009/11/29 10:49

うちは本願寺派なので、ナーモアミダーーンブ  と、「勤行集」【正信偈】にふりがながうってあります。


(ただし、草譜や行譜で発音は変わるし、同じ「勤行集」でも、【仏説阿弥陀経】には「なまんだぶ」とあります。

元はサンスクリット語ですが、そもそも「外国語」を「日本語読み」する段階で発音は変わります。
唱えやすさ、の問題でしょうか?

「回数」は、経本を広げられたら、その通りの回数になります。
その他の場合は、とくに決まりなし。

線香を折るのは、香炉にあわせて、ですが、
もともとの「焼香」を携帯便利に改造したのが線香である、という理屈からいえば、
 香炉いっぱいに広がらず、中央にまとまるぐらいにしたらいいんじゃないでしょうか。
 (トータル本数にもよりますが、短く折ると、集中して煙が出て、早く消えちゃう)

ちなみに、線香は死んだ人のためではありません。
(仏前結婚式でも焼香します)

おまけにNo.1
浄土真宗で「水子」はいいませんし、「お題目」は(「南無妙法蓮華経」=日蓮宗ですから) お念仏ではありません。
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この回答へのお礼

返事が遅くなりました。有難うございました。

私は大谷派なのですが、東本願寺の報恩講にお参りしたところ親鸞聖人七百五十回御遠忌グッズの一つとして真宗お線香というものが売っており、???と思いましたが、最初から短い(折らなくて良い)というものでした。

お線香を折る5秒節約してどうするという気もしますが、今しか買えない記念グッズとして購入しました。(他は御影堂の古い木材から作った念珠とか、記念略肩衣[門徒式章]とか…売ってました。お念珠はちょっと心が動いたのですが、お念珠というもの一生に一つあれば良いかなというのでやめました。お線香は使えばなくなりますから。)

お礼日時:2009/12/06 22:02

子供のころは「ナンマイダ―、ナンマイダ―」と


訳も知らずに言っておりました

今はきちんと「なむあみだぶつ」と唱えております
3回です。
お線香も3本上げます
何かで読んだのだと思いますが
御先祖様の為、父母の為、水子の為…に、とのことで
お題目もお線香も(3)です
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この回答へのお礼

有難うございます。

私は幼い頃は「まんまんちゃん」とか祖母に言われて、「まんまんまんまん」とか言っていたような気がするのですが、今日、インターネットで検索したら、実は、案外、メジャーだったので、驚きました。勝手にうちだけか?と思っていたのですが…。

お線香の本数は、天台宗と真言宗が三本とかで、これは仏・法・僧を表すとかどこかで聞いたような気もしますが、臨済宗、曹洞宗と日蓮宗は一本という話もあるようなので、仏法僧というのは本当かどうかは分かりません。(わが宗派ではお線香をいくつかに折って火をつけて寝かせるのですが、三つに折らないといかんとか、四つに折るのは縁起が悪いとかはありません。土香炉に上手く寝かせて入ればいくつに折っても全く問題なし)

お礼日時:2009/11/28 00:19

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Q南無阿弥陀仏の意味

南無阿弥陀仏ってどういう意味ですか?「阿弥陀様、阿弥陀様」って言ってるだけとは思えなくて・・・。

Aベストアンサー

「南無」とは「帰依します」という意味です。
よって「阿弥陀仏に帰依します」という意味になります。

Q【真宗大谷派】お内仏の法要などについて

自宅に祖母が亡くなった時に求めた古い仏壇があるのですが仏具屋におまかせだったようで、
とても真宗大谷派としてのお内仏といえる状態ではありませんでした。
来週、手次ぎ寺で身内の骨葬・四十九日法要・納骨をするので、この機会に
ご本尊・脇掛などをお受けして、古い仏壇ながらきちんとしたお内仏にしたいと思っています。
そこで質問です。
1.東本願寺のHPには30代のご本尊と脇掛(九字十字名號)で礼金は65,000円とありましたが、
手次ぎ寺で求める時も同じぐらいの金額を考えておけばよいでしょうか。

2.この「礼金」と入仏法要のお布施は別のものと認識していますが、
お布施はいくらぐらいお包みすればよろしいのでしょうか?
また、骨葬・四十九日法要・納骨を1度にするのですが、
そのお布施とは別にお包みしたほうが良いのでしょうか?

3.本当ならこの機会に仏壇も買い替えたかったのですが、
時間と金銭的余裕がないことから買い替えは後日にいたしました。
後日、仏壇そのものを買い換えた時にはどのような法要やいくらぐらいの
お布施が必要になるのでしょうか。
古い仏壇は「お精抜き」の法要が必要なようですが、
入仏法要は仏壇(入れ物)にするものではなく、ご本尊にするものだと
書かれているところもありましたが、新しい仏壇にもまた入仏法要を行うのでしょうか。

4.古い仏壇に対しての法要はご住職に自宅に来ていただく以外に
方法はないのでしょうか?
家が手狭でとてもご住職をお迎えできるような所ではないので悩んでいます。

自宅に祖母が亡くなった時に求めた古い仏壇があるのですが仏具屋におまかせだったようで、
とても真宗大谷派としてのお内仏といえる状態ではありませんでした。
来週、手次ぎ寺で身内の骨葬・四十九日法要・納骨をするので、この機会に
ご本尊・脇掛などをお受けして、古い仏壇ながらきちんとしたお内仏にしたいと思っています。
そこで質問です。
1.東本願寺のHPには30代のご本尊と脇掛(九字十字名號)で礼金は65,000円とありましたが、
手次ぎ寺で求める時も同じぐらいの金額を考えておけばよいでし...続きを読む

Aベストアンサー

1.東本願寺のHPの礼金額とご質問に記載の金額は異なります。
表装によっても異なります。
http://www.tomo-net.or.jp/cere/juyolist.html
手次ぎ寺で取次ぎをしてもらう場合には、その教区や組の決まりごとで別の冥加金が賦課されることもあります。最低限送料分高くなりますがそれぞれの寺院で取り扱いは異なり全国一律ではないの、ここで聞いても答えは出ません。所属寺にお尋ねください。

2.本山に納める授与礼金と、法要を行う寺院への御布施は別です。
入仏法要は慶讃法要なので正式には紅白の水引を付けた金封で御布施を包みます。入仏法要は、本来、お仏壇を安置しその仏壇にご本尊様をお迎えしたお祝いの法要なので、自宅の仏壇前で行います(原則)。
したがって、骨葬・四十九日法要・納骨と同日と言うことはあっても、同時ではありません。
御布施は法要別に包むのが正式で、また寺院会計上も区別して入金科目が異なることがあるので、「骨葬」、「四十九日法要・納骨別」(これは一つの包みでも問題はない)、入仏で分けたほうが良いでしょう。
「御布施」の文字の右上に、○○法要とか小さめの字で書けばよいです。
3.後日、仏壇そのものを買い換えた時に、御本尊をそのまま移すのなら新しい仏壇に移した後に「遷座法要(遷仏法要)」を行います。(ほぼ入仏と同じような法要)
古い仏壇は「閉扉法要(「お精抜き」とは真宗では言わない)」を行うことがありますが、必須ではなく、判断は所属寺がします。
入仏法要、遷座法要、年回法要、仏前結婚式、各種奉告法要、葬儀などすべての法要がご本尊にするもので、ご本尊以外に行う法要は存在しません。
4.古い・新しいに関わらず、仏壇のご本尊に対しての法要はご院家さんに自宅に来ていただく以外に基本的にはありません。自宅で行う法要ですので・・・
あとは、所属寺のご院家さんと相談してください。ネット上なので原則論しかかけませんので・・・・
南無阿彌陀佛 合掌

1.東本願寺のHPの礼金額とご質問に記載の金額は異なります。
表装によっても異なります。
http://www.tomo-net.or.jp/cere/juyolist.html
手次ぎ寺で取次ぎをしてもらう場合には、その教区や組の決まりごとで別の冥加金が賦課されることもあります。最低限送料分高くなりますがそれぞれの寺院で取り扱いは異なり全国一律ではないの、ここで聞いても答えは出ません。所属寺にお尋ねください。

2.本山に納める授与礼金と、法要を行う寺院への御布施は別です。
入仏法要は慶讃法要なので正式には紅白の水...続きを読む

Q「南無阿弥陀仏」を唱えるタイミング

20数年前に祖母が亡くなった時、
自分の家は浄土宗で「南無阿弥陀仏」を唱えるとわかりました。

それ以来、私は自分がつらい状況になった時に(早く打開できますように)という意味で
「南無阿弥陀仏」を心の中で唱えたり、悲しいときや、嫌な人と向かい合わなくてはいけない時に
心の中で「南無阿弥陀仏」とつぶやくとなんだか気持ちが落ち着きますので
ときどき、そうしてきました。
また、車の運転中、犬や猫が道路で死んでるのを見かけたときにも、
(南無阿弥陀仏)と心の中で言いながら通りすぎます。
何もできないで申し訳ない、せめて唱えるだけでも、っていう気持ちです。
(自分で言うのもなんですが慈悲の気持ちではなく、憑かないでっていうビビりの気持ちからです。)

数か月前、父親が亡くなり、お寺やお墓に行く機会、和尚さんからお経を聞く機会が増えました。
そうしてあらためて「南無阿弥陀仏」の意味についてネットで少し調べてみました。
で、あまりきちんとは理解できたわけではないのですが、
私が今まで「南無阿弥陀仏」と唱えてきたタイミングが正しいのだろうか?と疑問になりました。

私が上記のような事柄で「南無阿弥陀仏」と唱えるのはやってもいいでしょうか?
もし正しくない、そんな事柄で唱えるのはやめたほうがいい、とわかりましたら、
今後は唱えないつもりです。
皆様のご意見を聞かせていただきたいです。

20数年前に祖母が亡くなった時、
自分の家は浄土宗で「南無阿弥陀仏」を唱えるとわかりました。

それ以来、私は自分がつらい状況になった時に(早く打開できますように)という意味で
「南無阿弥陀仏」を心の中で唱えたり、悲しいときや、嫌な人と向かい合わなくてはいけない時に
心の中で「南無阿弥陀仏」とつぶやくとなんだか気持ちが落ち着きますので
ときどき、そうしてきました。
また、車の運転中、犬や猫が道路で死んでるのを見かけたときにも、
(南無阿弥陀仏)と心の中で言いながら通りすぎます。
何も...続きを読む

Aベストアンサー

南無阿弥陀仏の意味ですが、南無→「あなたに帰依します」 阿弥陀仏→「阿弥陀如来」
阿弥陀様を信仰するのは難しい修行などせずとも、南無阿弥陀仏と唱えればそれだけで救われる。
「一遍」は名前の通り、一遍唱えればいいと主張していたようです。

そうゆうことなので、いつ唱えてもOKです。 

Q南無広博身如来の使用場所

お盆の後に、竹串に赤い紙で「南無広博身如来」と書かれたものをいただきました。
「農業をしている方は、畑に刺してください。」と言われたのですが、私は農業をしておらず、どうしたらよいかわかりません。どなたか教えてください。

先日、墓参りに行った時、墓地に刺してあるのを見ました。

Aベストアンサー

大日如来のことです。
仏壇などの清浄で失礼にあたらない場所なら、どこに置いておいても大丈夫です。

Q十一面観音を祭っているのに南無阿弥陀仏?

仏教に詳しい方、教えて下さい。

六波羅蜜寺の御本尊は空也上人が刻んだと伝わる十一面観音です。

しかし六波羅蜜寺に伝わる空也上人像は
口から六体の仏がほとばしり出ており、これは「南無阿弥陀仏」の六字をあらわしているといいます。

また年末に「隠れ念仏」が行われていますが
南無阿弥陀仏と唱えて踊躍念仏を行います。

(1)南無阿弥陀仏と唱えるのは阿弥陀仏に対する信仰なのではないでしょうか?

(2)十一面観音に対して南無阿弥陀仏と唱える例は他にもありますか?

(3)一般的に十一面観音に対してあげるお経は何ですか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

(1)南無阿弥陀仏と唱えるのは阿弥陀仏に対する信仰なのではないでしょうか?

親鸞は阿弥陀仏に対する純粋な他力信仰だと説きましたが、親鸞以前の仏教では精神力鍛錬を目的とした自力修行の手段でした。
http://kyoto.jr-central.co.jp/kyoto.nsf/doc/story_2_3_2
十一面観音を本尊としている理由ですが、十一面観音と阿弥陀仏を同一視して十一面観音に阿弥陀仏を見ていたのではないでしょうか。ではなぜストレートに阿弥陀を本尊にしなかったのか? それは信仰の目的に現世利益があったからではないかと思います。阿弥陀の守備範囲は来世であって現世まではカバーしていません、現世は観音が担当します。阿弥陀と観音は互いの守備範囲を補完する関係にあります。

(2)十一面観音に対して南無阿弥陀仏と唱える例は他にもありますか?

ご本尊が釈迦だろうが観音だろうがお稲荷さんだろうが気にせずに南無阿弥陀仏と唱えるこだわりのない人はよく見かけます。そういうこだわりのなさは、ある意味悟りの境地かもしれません。

(3)一般的に十一面観音に対してあげるお経は何ですか。

十一面観音専用は知りませんが、普通に観音菩薩だったら『観音経(法華経普門品第二十五)』か『延命十句観音経』です
http://www.osoushiki-plaza.com/library/kyouten/kannon-k.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%8F%A5%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E7%B5%8C

(1)南無阿弥陀仏と唱えるのは阿弥陀仏に対する信仰なのではないでしょうか?

親鸞は阿弥陀仏に対する純粋な他力信仰だと説きましたが、親鸞以前の仏教では精神力鍛錬を目的とした自力修行の手段でした。
http://kyoto.jr-central.co.jp/kyoto.nsf/doc/story_2_3_2
十一面観音を本尊としている理由ですが、十一面観音と阿弥陀仏を同一視して十一面観音に阿弥陀仏を見ていたのではないでしょうか。ではなぜストレートに阿弥陀を本尊にしなかったのか? それは信仰の目的に現世利益があったからではないかと思い...続きを読む

Qこの仏像は、阿弥陀如来でしょうか?

私の祖先が、今から約130年くらい前に、真言宗豊山派の長谷寺に何度も通って、そこから15センチほどの仏像を頂きました。

この仏像は、いま仏壇に収められていますが、釈迦如来なのか、阿弥陀如来なのか、大日如来なのかが分かりません。

鑑定をお願いします。

Aベストアンサー

如何も明瞭さに欠ける画像ですが
鎌倉の大仏と同じ印を結ばれていますので
阿弥陀如来だと考えられます
個人的には釈迦仏陀の印を知りませんが
大日如来ならば宝冠を必ず戴いており
又印も両方の拳を上下に重ねて結んでおられる事からも
大日如来ではないことが判ります

ご参考になれば幸いです

Q南無阿弥陀仏って、正しいの?間違ってるの?

仏教徒の家に生まれ育ち、今までなんとなく仏教を信じてきました。

でも、興味を持って仏教をいろいろ調べてみたところ、
三蔵の量が莫大すぎて、また宗派がわかれすぎて、
どれを信じたらいいのかわかりません。

また、いろいろな経の中に、「この経が最高である」という表記があるようで、判断に困っています。

そこで質問させてください。

(1)いろいろ調べたところ、日蓮と法然が、
一切経を読んだらしいのですが、それは本当でしょうか。
また、他に一切経を読んだ人というのは、いるのでしょうか。
逆に「この人は一切経を読まずに、自論を持ち出した」などはありますか。
(たとえば、親鸞、竜樹、世親、天台、伝教、空海、空也、カタエンニシ、などなど)

(2)日本で一番広まっているのは、南無阿弥陀仏のようですが、
南無阿弥陀仏の教義は、
「今世の人生は苦であり、地球は穢土であり、南無阿弥陀仏を唱えることで、死んで後に阿弥陀仏の浄土に生まれ変わる」であると
考えていいのでしょうか。

(3)南無阿弥陀仏を信じる立場から言って、
「今世」にはどのような意義があるのでしょうか。
また、南無阿弥陀仏を信じる立場から言って、
「今世」の人生の幸福とは一体どういうものなのでしょうか。
理論の上からでも、実際にお念仏を信じておられる実体験からでも、
どちらでも結構です。

(4)理論の上からでも、実体験の上からでも結構ですので、
南無阿弥陀仏を批判してみてください。
(極楽を求めるあまり、自殺する人が多い、五逆罪と誹謗正法の人は救われないなどの記述がある、浄土三部経よりも優れた経がある、など)

(5)理論の上からでも、実体験の上からでも結構ですので、
南無阿弥陀仏を擁護してみてください。
(たとえば、来世の幸福を約束されたことで、今世を安心して生きられる、来世以降、永遠の幸福を獲得できる、仏典の中に念仏が最高だとか、念仏以外は地獄に落ちるなどの表記があるなど)

(6)南無阿弥陀仏を信仰されている方に質問したいです。
実際に南無阿弥陀仏を信仰されることで、どのようなプラス面(ご利益と言っていいのかな)を感じられますか。

以上、(1)~(6)の中で、少しでもご存知のことがあれば、
教えてください。

まだスッタニパータと法華経しか読んでいないので、
未熟なところはご容赦ください。

みなさんのご意見を伺いながら、岩波文庫の浄土三部経を読んでみようと思っています。

仏教徒の家に生まれ育ち、今までなんとなく仏教を信じてきました。

でも、興味を持って仏教をいろいろ調べてみたところ、
三蔵の量が莫大すぎて、また宗派がわかれすぎて、
どれを信じたらいいのかわかりません。

また、いろいろな経の中に、「この経が最高である」という表記があるようで、判断に困っています。

そこで質問させてください。

(1)いろいろ調べたところ、日蓮と法然が、
一切経を読んだらしいのですが、それは本当でしょうか。
また、他に一切経を読んだ人というのは、いるのでしょ...続きを読む

Aベストアンサー

 何度も失礼します。あなたの質問はなかなか好きです。
(1)
>>いろいろ調べたところ、日蓮と法然が、一切経を読んだらしいのですが、それは本当でしょうか。
 法然上人は五回一切経を読み、大切だと思うところをそこから三度読み直したといわれています。この回数に関する真偽は私自身は、勉強不足のためこの場ですぐに答えることは出来ませんが、法然上人が一切経を読破したのは事実のようです。
 それは、法然上人が一切経を読破したという記述は『醍醐本』の中に載っています。まず、『醍醐本』は大正六年京都伏見区醍醐にある、真言宗醍醐三宝院の法蔵から発見された。義演という醍醐寺の八十代座主が法然上人に関する記述を見て書写したという。『醍醐本』を書写した義演の日記『義演准后日記』の中には、法然は浄土宗の開祖であって真言宗から見れば、直接関係のない枝葉のような部分に属するが、これを浄土教にとって貴重な書物とおもいかきのこしたという。
この『醍醐本』の本となるものを書いたのは、諸説あるが法然上人の弟子で亡くなる前に「一枚起請文」を書くことを頼んだ源智が中心になっていたことは確かなようです。この源智という人物は、異説もあるがどれも平家の出の人物とされ、源頼朝の厳しい平家狩りの後の生き残りであるという。それを法然上人が引き取り弟子とし、「一枚起請文」を頼んだいきさつも踏まえて法然上人が亡くなるまで身の周りの世話をしていました。言うなれば、法然上人の最も近くにいた愛弟子といえます。
このように成立した時代やいきさつなどからして『醍醐本』に関しては、宗教学的にも歴史学的にも史料として信憑性は高いものであると考えられています。その中に、「黒谷の経蔵に籠居して一切経を披見す」とあって、法然上人伝記には黒谷において一切経を読破したことになっています。

日蓮聖人に関しては、私は専門ではありませんが、日蓮聖人も一切経を読んだ一人といえるでしょう。それは『安国論御勘由来』には、「四季に亙つて已まず、万民既に大半に超えて死を招き了んぬ。日蓮世間の体を見て、粗一切経を勘ふるに、道理文証之を得了んぬ。終に止むなく勘文一通を造りなして、其の名を立正安国論と号す。文応元年七月十六日、屋戸野入道に付して、古最明寺入道殿に進め了んぬ。これ偏に国土の恩を報ぜん為めなり。」
と、日蓮聖人自身が「体を見て、粗一切経を勘ふるに」とおっしゃているのですから、一切今日を読破していると思います。

>>また、他に一切経を読んだ人というのは、いるのでしょうか。逆に「この人は一切経を読まずに、自論を持ち出した」などはありますか。
龍樹菩薩は読んでいると思いますよ。彼は小乗仏教を学びつくしていい気になっていたところ、龍王に竜宮城に拉致まがいの連れて行かれ方をされて、竜宮城において全ての大乗経典を勉強したことになっています。これはあくまで伝説ですが、龍樹が全ての経典を読破した記述であることも確かです。また龍樹の『十住毘婆沙論』易行品は大乗の修行者が、不退転の位を得るのに難行・易行の二道があることを説いて、難行道は五濁悪世、無仏の時代には悟りを得ることは難しいとし、易行道は水路を船で行くように不退転の位に入ることができるとして、東方の善徳佛以下、西方阿弥陀仏を含め多くの諸仏諸菩薩の名を出して、これらの諸仏諸菩薩を憶念し、敬礼して、その名を称えれば、早く不退に至ることができると説いています。このような教相判釈をしているということは一切経を読んだ上でしかいえないことでしょう。教相判釈ということでは天台大師智顗(ちぎ)も全ての経典を読破したと考えるのがでとうでしょう。
また、一切経は全て読破したということは聞きませんが親鸞聖人などは『教行信証』のなかで浄土三部経以外のお経もかなり引用しています。一切経にかなり近い経典郡は読んでいたはずです。まぁ、少なくとも私には読みきれるものではありません。また、どこまでが一切経なのかという疑問もあります。お釈迦様一代の教法は八万四千といわれていますが、八万四千の法門は法然上人も日蓮聖人も読んではいないでしょう。ですから、一切経といっても言葉にはばらつきがありあ、一定のものと判じることは出来ないように思います。

(2)
>>日本で一番広まっているのは、南無阿弥陀仏のようですが、南無阿弥陀仏の教義は、「今世の人生は苦であり、地球は穢土であり、南無阿弥陀仏を唱えることで、死んで後に阿弥陀仏の浄土に生まれ変わる」であると考えていいのでしょうか。
おおまかのところでは間違っていないでしょうが不十分です。
 まずなぜ娑婆を穢土ととらえるかですが、時代背景としては末法思想が大きくかかわってきます。末法については「釈尊が法を説いた順番」でお話したとおりです。もう一つは時代背景を踏まえた凡夫自覚です。わかりやすくいえば完璧になりきれないという自覚です。この二つが、厭離穢土の理由になります。
またお念仏の救いに関して親鸞聖人は『教行信証』行巻の末尾にでてくる『正信偈』のなかで「往還廻向由他力」と説き「往相迴向(おうそうえこう)と還相迴向(げんそうえこう)も阿弥陀仏の他力に由る」と説いています。まず「往相」とは行くすがた、「還相」とは帰るすがたのことです。浄土教の解釈で言えば、極楽浄土へと往生することが「往相」、浄土から再び衆生を救うためにこの世に戻ってくる(生まれ変わるという意味ではありません)ことが「還相」です。すなわち、阿弥陀佛の救いは二つの働きがあることになります。末法に住む完璧にはなりきれない自分が阿弥陀仏を信じ念仏によって往生し、極楽浄土において成仏する。ここまでを往生し往相迴向。そこから、全ての衆生を救う仏となる。これを還相迴向といいます。つまり、阿弥陀佛の救いに関しては1念仏→2往生→3成仏→4衆生救済の四段階になります。
 つまり、「今世の人生は苦であり、地球は穢土であり、南無阿弥陀仏を唱えることで、死んで後に阿弥陀仏の浄土に生まれ変わる」というような、浄土に生まれてはい終わりというのでは不十分です。極楽浄土は死んだ後行けるパラダイスではなく、死しても自分を高めて悟りを開こうという修行上のニュアンスが強いように思います。そのことをどうぞご考慮ください。

(3)
>>南無阿弥陀仏を信じる立場から言って、「今世」にはどのような意義があるのでしょうか。また、南無阿弥陀仏を信じる立場から言って、「今世」の人生の幸福とは一体どういうものなのでしょうか。理論の上からでも、実際にお念仏を信じておられる実体験からでも、どちらでも結構です。
 私は来世主義も現世主義というのもあまり好きではありません。浄土教は両方を持って浄土教なのであるから、両方を大切にするべきであると思います。浄土教を信仰する人の中にも、現世主義を徹底するあまり本来の味わいを失っているような人が見受けられます。それを踏まえて読んでいただけると助かります。
 浄土真宗をお開きになった親鸞聖人はお念仏をしながら生きる上で大切なご信心の中でも、至誠心(裏表のない心)をとく部分において善導の『観経疏』を引用してこのように説いておられます。「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐ければなり(外側で真面目で堅実に仏道修行を励んでいる姿を見せてはいけません。内側には自分自身をかっこよく見せたい見栄を張りたいという気持ちを消すことが出来ないのですから。)と説いています。
普通宗教と呼ばれるものはそうは説きません。対外の宗教は「かっこよくおなりなさい。」と説くはずです。キリスト教であれば神の信仰に入り悔い改め「右のほっぺを殴られたら、左のほっぺを出してなくってもらえ」「人はパンのみに生きるにあらず」といえるようなかっこいい人になりなさいと説くのです。儒教もそうです。小人ではなく仁義礼智信を兼ね備えた君子になりなさいと説きます。仏教であってもそうです。戒律を守って、座禅をして、お題目を唱えて、六波羅蜜の修行をして、仏というかっこいい人になりなさいと説かれています。こういった宗教をわかりやすく言えば「かっこよくなりなさいという宗教」であると思います。イギリスの評論化ホルロイドという人は宗教を「あらゆる宗教は自己超越の手段であって、宗教的経験を他から区別する特色は拡大の意識である。」と評しているように、通常宗教というものは自己超越の手段であり、今の自分自身を越えてかっこよくなって強さを得るものである。
しかし、親鸞聖人は「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ」といって、外側にかっこよさを見せてはいけないと説いている。親鸞聖人に言わせれば「凡夫に清浄心なし」であり、心の中に嘘を抱き続ける存在である凡夫が心から嘘いつわりを抱くことなくまじめで堅実に仏道修行に励むようなことは出来ないとするのです。つまり、凡夫のもつ真実の心とは「真実ではいられないという真実の心」となるのです。しかしこれは、親鸞聖人自身の悲痛な叫びのようにも思えます。真実でありたくも真実ではいられない、理想の自分と現実の自分の狭間にもがき苦しんで悩みぬいた結果でもあるでしょう。この「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐ければなり」の言葉にはかっこよくなることによって得られる強さではなく、「自分自身の弱さやかっこ悪さに堪える強さ」を身に付けなさいということが説かれています。自分のかっこ悪さを背負って生きていく強さと言い換えることも出来るかもしれません。それについては、役者であり、親鸞役もこなしたことのある三國連太郎は「私は親鸞さんの偉大さは「人間を通して人間以上の能力を持つ」という伝説には向かっていった、ただ一人の革命家であるというふうに理解しているのでございます」と評しています。私の解釈では、人が人以上の能力を持もつことでかっこよくなれるというのが宗教でありながら、その宗教に人は人でしかなくそのかっこ悪さを背負って生きることしかできないと立ち向かった革命家であるとするのです。
私自身はこのような親鸞聖人の考えに共感し「今生」に関しては、自分自身のかっこ悪さを背負って生きていこうと思っています。親鸞聖人の教えは誰の上に立つたまの教えではありません。この人のほうが信心深い、あの人は信心が浅いと、差をつけることはありません。親鸞聖人ご自身が「弟子一人も持たず」とおっしゃり、また全ての念仏者は「御同御同朋(上下などない、同じ念仏の行をする、同じ念仏仲間である。)」とおっしゃっています。それはただ皆が平等というだけのものではありません。有名なお坊さんですと良寛さんなんかも禅宗のお坊さんでありながら念仏の教えを大切にした方だといわれていますが、その人がこのような詩を読んでいます。「愚かなる身こそなかなか嬉けれ 弥陀の誓いにあうとおもえば」愚かな身であることが嬉しい、愚かであるからこそそこをおぎなってやろうと阿弥陀様は私をお救い下さるという意味ですが、この詩は自分自身が愚かであると気がついたからこそ、私をさせてくださる方に気が付けたということです。もし、自分が完璧な人間である、もしくは完璧な人間になれると思い込んでいたならば、自分ひとりで生きて行けると思い込んでいるということですから、周りの人に気がつくことは出来ません。しかし、自分には至らないところがあると知っていれば、そこを補ってくれている人がいることに気づくことができるということです。親鸞聖人が説く自分の弱さを知れというのは勝手なニヒリズムではなく、心と真摯に向かい合うことで周りの人に気がつきなさいということです。私は「俺は誰の手も借りずに一人で生きてきた」と独りよがりの生き方をせずにすんだことを嬉しくおもいます。しかし、凡夫ですからやっぱり独りよがりになってしまいますけどね。けれどもそんなときも、またやってしまったなと自分の愚かさを今一度反省し、上記にあげた「「御同御同朋」の言葉を思い出しそんな私と同じであると親鸞聖人が励ましてくださっているようにおもいます。

(4)
>>理論の上からでも、実体験の上からでも結構ですので、南無阿弥陀仏を批判してみてください。(極楽を求めるあまり、自殺する人が多い、五逆罪と誹謗正法の人は救われないなどの記述がある、浄土三部経よりも優れた経がある、など)
 私自身は実体験の上ではそういったことはありませんが、理論上でしたらいくつかありますよ。
●阿弥陀佛の十八願の中に称名念仏は説かれていない
あくまで十念とあるだけで、称名念仏という明記はありません。そもそも十念とは、仏、法、僧、戒、施、天、休息、安般、身、死を念じることです。ただ、十八願には「乃至十念(だいたい十念)」という表現なわけですから、上記のような十念であれば「乃至」がつくのはおかしいことになる。また総合的に見れば『観無量寿経』にも「具足十念」とあって、本経の末尾には「しっかりと心にとどめておきなさい。それは無量寿佛(阿弥陀佛)の名をとどめておけということです」ということも含めてみれば、ないし十念の解釈は阿弥陀仏の名前を呼ぶことになる。しかし、十念の解釈には多くの異説も存在しており『無量寿経』を単一で見たときは、十念を称名念仏とするのは難しいであろう。
●本願の中に極楽浄土への方法は念仏以外にも記されている
 それが書かれているのは十九願二十願です。わかりやすく訳文で載せます。
十九願「私が仏になるとき、すべての人々が悟りを求める心を起こして、さまざまな功徳を積み、心から私の国に生まれたいと願うなら、命を終えようとするとき、私が多くの聖者を連れてその前に現れましょう。そでなければ、私は決して悟りを開きません。」
十九願、菩提心を起こしさまざまな功徳を積むことで往生できることになっている。
二十願「私が仏になるとき、すべての人々が私の名を聞いて、この国に思いをめぐらし、さまざまな功徳を積んで、心からさまざまな功徳を積んで、心からその功徳をもって私の国に生まれたいと願うなら、その偈外をきっと果たしとげさせましょう。そうでなければ私はけっして悟りを開きません。」
二十願では、無量寿佛(阿弥陀佛)の名前を聞いて、さまざまな功徳を積んで、その功徳を極楽往生に廻向することで往生できることが説かれています。

今あげたものも浄土教批判の一部であるとおもいます。ただ、浄土教の祖師と呼ばれる方々は、それぞれにこういった問題点の答えはお持ちです。他宗からの批判ということに関しても、それなりの答えは用意されています。

(5)
>>理論の上からでも、実体験の上からでも結構ですので、南無阿弥陀仏を擁護してみてください。(たとえば、来世の幸福を約束されたことで、今世を安心して生きられる、来世以降、永遠の幸福を獲得できる、仏典の中に念仏が最高だとか、念仏以外は地獄に落ちるなどの表記があるなど)
先にも述べましたが、末法思想について考えなければなりません。末法という時代と相応した経典であるということです。それについては、「浄土三部経」を見て聞きたいとおもいます。
『無量寿経』
 念仏は法蔵菩薩(阿弥陀仏の仏になる前の姿)が二百十億の諸仏の浄土を見て、選択された極楽往生するための行であること。
 三輩往生(生前の行いによって起こる往生の区別)を説く文の中でお釈迦様は菩提心などの諸行を説いているにもかかわらず、ただ念仏のみを讃歎され無上功徳とおっしゃったこと。
 経中において多くの往生の行が説かれているのに、お釈迦様はその仏力をもって念仏の教えだけを、末法が終わって法滅を迎えても残すとおっしゃったこと。

『観無量寿経』
 往生の行として定善(雑念を切り捨て散動せず行う善)散善(平生の散動する心で行う善)の諸行がとかれるけれども、「阿弥陀仏の光明全ての人を照らすけれども、念仏する衆生のみを摂取してくださる」と説かれていること。
 下品上生(生前の行いで九段階往生の区別があり、その中で最下位の者)の往生の行として聞経と称名の二行が説かれるけれど、阿弥陀仏の化身である化仏は「なんじ、仏名を称するがゆえに諸罪消滅す。故に我来たりてなんじを迎う」と念仏一つを選んで讃歎していること。
 往生の行として定善散善の諸行が説かれているにもかかわらず、お釈迦様はただ念仏の一行のみを「なんじ、よくこの語を持せよ、この語を持せよとはすなわちこれ無量寿仏の名を持せよとなり」とおっしゃって弟子の阿難に誰に請われるでもなく付属していること。

『阿弥陀経』
 諸々の経典の中には往生浄土の行として種々の諸行が説かれているけれども、それを六方の諸仏は証誠(証明)していない。けれども『阿弥陀経』の中で念仏往生を説きたまうとき、ことごとく六方の全ての諸仏は舌をのばし三千世界を覆い隠し誠実の語を説いて証誠したまうこと。

などがあげられます。このように往生の行として仏たちは念仏を中心に説いておいでです。しかもそれは、『無量寿経』にあるように法滅を迎えて以降も残る教えとして説かれています。法滅まで残るのであれば、末法であっても正しく残っている教えということになります。その保障が、お釈迦様によってなされています。それの救いは『観無量寿経』に説かれるには下品下生の十悪五逆を犯し、もっと他の悪い行いをしたものでさえ、臨終の苦しみにさいなまれる中心から念仏を称えるものは極楽浄土に生まれることが出来るという一文があり、罪の深いものでも救っていただけることが説かれています。さらに、『阿弥陀経』においてはそういった事柄が全世界の諸仏によって証明されています。
 ただ、極楽に往生することについては念仏が最も優れているということであって、娑婆において自力悟ることにおいての物差しではありません。ここからは個人的な意見ですが、『観無量寿経』においては下品下生のものが極楽に生まれて初めて聞法するのは「諸法実相・除滅罪の法」であって、『妙法蓮華経』の中核をなすものであるといってもよいのではないでしょうか。そうであるならば、私は整った極楽という環境で仏教を学びたいようにもおもいます。

(6)
>>南無阿弥陀仏を信仰されている方に質問したいです。実際に南無阿弥陀仏を信仰されることで、どのようなプラス面(ご利益と言っていいのかな)を感じられますか。
 これはすでに(1)(2)(3)(5)で上記したとおりです。日蓮系の方々からは「極楽を求めるあまり、自殺する人が増える」などといわれますが、逆に私はお念仏することで自殺すら思いつきもしませんでした。もしくは自殺すら思いつかないほどわたしが、馬鹿なのかもしれませんね。けれどもそんな愚かな私でも、分け隔てなく阿弥陀仏は救ってくださることに感謝の心でいっぱいです。

>>みなさんのご意見を伺いながら、岩波文庫の浄土三部経を読んでみようと思っています。
 確かに何の先入観も持たずに経典を読み解くのは大切なことですが、なかなかそれは難しいことです。そういった場合、最初に何か入門書のようなものを読まれることもオススメします。入門書にもでき不出来はありますが、日本浄土教の立場を少し学んだ上で「浄土三部経」を読まれたほうが私個人的にはよいように思います。ひろさちやさんあたりが読みやすいかとおもいます。どうぞご配慮ください。

 前の方より長くなってしまいました。申し訳ありません。前回にもまして支離滅裂な稚文、文意を読み取っていただきたくおもいます。
 合掌 南無阿弥陀佛

 何度も失礼します。あなたの質問はなかなか好きです。
(1)
>>いろいろ調べたところ、日蓮と法然が、一切経を読んだらしいのですが、それは本当でしょうか。
 法然上人は五回一切経を読み、大切だと思うところをそこから三度読み直したといわれています。この回数に関する真偽は私自身は、勉強不足のためこの場ですぐに答えることは出来ませんが、法然上人が一切経を読破したのは事実のようです。
 それは、法然上人が一切経を読破したという記述は『醍醐本』の中に載っています。まず、『醍醐本』は...続きを読む

Q過去帳と阿弥陀様をどうすればいいのでしょうか?

無知でお恥ずかしいのですが、質問させて下さい。

私の父母は亡くなっている為、結婚していない姉の自宅に
お仏壇を置いていましたが、ある事情で姉が
お仏壇の中の阿弥陀様(?)のお軸と過去帳だけを持って
引越しをしてしまい、現在はそれを私(既婚)が預かりました。
とりあえず預かっているのですが、ただ普通に置いていていいのか
悩んでいます。できれば、一番良い方法でこれからもずっと私の
自宅に置いておきたいと思っていますが、どうすれば良いのか
全く解かりません・・・。
粗末にせず、どのようにして大切にすれば良いのか
教えて頂きたいです。 宗派は浄土真宗です。
お墓参りはよくしていますが、仏壇は姉の家で放置された
状態でした。これからは大切にしたいのです。。
宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

こんにちは、HIROAYA3さん。

間違いがあるといけないので、宗派の確認の補足です。
http://www.hongwanji.or.jp/index.html
上記HPの左上、「浄土真宗本願寺派 本願寺」の左にある「下り藤紋」と同じ紋が、ご本尊の掛軸にあれば間違いなく「浄土真宗本願寺派」です。
ただし、ご本尊が本山から授与された掛軸かどうかは、僧侶に見ていただかないと確認できません。掛軸裏面に「方便法身尊形」と書かれているのですが、市販品にも同様の印などが施されている場合があるそうです。造りがしっかりしていれば、本山下付の掛軸の可能性が高いです。

(色付きの)仏具の参考例を挙げておきます。
略式の花立の例…http://image.www.rakuten.co.jp/butudan/img1000495426.jpeg
本願寺派の土香炉(紋が無いほうがより正式ですが…。)…http://image.www.rakuten.co.jp/butudan/img1000568455.jpeg
略式の火立の例…http://image.www.rakuten.co.jp/butudan/img1000657961.jpeg

参考URLは、本願寺派の仏事などに関して、教えて!gooで説明しきれない事柄が詳細に書かれています。参考にしてみてください。

参考URL:http://www7.ocn.ne.jp/~kokubo/index.html

こんにちは、HIROAYA3さん。

間違いがあるといけないので、宗派の確認の補足です。
http://www.hongwanji.or.jp/index.html
上記HPの左上、「浄土真宗本願寺派 本願寺」の左にある「下り藤紋」と同じ紋が、ご本尊の掛軸にあれば間違いなく「浄土真宗本願寺派」です。
ただし、ご本尊が本山から授与された掛軸かどうかは、僧侶に見ていただかないと確認できません。掛軸裏面に「方便法身尊形」と書かれているのですが、市販品にも同様の印などが施されている場合があるそうです。造りがしっかりしていれば、...続きを読む

Q南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経 どう違うのでしょう?両方について語れる方お願いします

南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経
どう違うのでしょう?両方について語れる方お願いします

Aベストアンサー

仏教の歴史を簡単におさらいしないと分からないので、簡単に説明します。

仏教は釈迦が修業して解脱し悟りを開いたことに始まります。初期の仏教は宗教と言うより哲学で「人間とはなにか」ということを釈迦や周辺の人が議論するものでした。しかし、悟りを開いた釈迦の言葉は説得力があったので、釈迦の入滅後、弟子たちがそれを伝えていきました。

で、最初は口伝だったのですが、文字が到来して経典を作るようになります。そして同じころ、釈迦の言葉の解釈を巡って対立があり、上座部仏教と大衆部仏教に分かれます。日本に来たのは大衆部の経典の一部で、大衆部というのは「人々が悟りを開くのは難しいので、悟りを開き仏となった人物が多くの大衆を救うことを教義とするもの」ということです。
 大衆部に分かれてからも仏教は分裂し続け、いろいろな経典が生まれていきます。中国に仏教が伝わったころには収集がつかないぐらい多種多量の経典があったのです。

日本は国をまとめるための宗教として仏教を輸入していましたが、仏教が浸透するにつれ「仏となった人物が多くの大衆を救う」方法について様々な研究がなされるようになりました。平安末期から鎌倉初期までの庶民の暮らしはかなり苦しかったからですが、同時に当時の仏教は国教で人々を救うというものではなかったからです。

この時代に代表される仏教の最高学府は高野山ができるまでは比叡山でした。南無阿弥陀仏の浄土宗を開く法然も、南無妙法蓮華経の日蓮も比叡山で学んでおり、どちらも「仏となった人物が多くの大衆を救う」ことを念頭によい教え(経典)を探していました。

 法然は「阿弥陀如来」を「人々を救ってくれる仏」と考え、主に阿弥陀如来に帰依するように人々に説きました。「南無阿弥陀仏」とは「阿弥陀仏に南無(帰依)します」という宣言なのです。
 浄土真宗の開祖として知られている親鸞は法然の弟子の一人で、法然が入滅して以後、浄土宗の主流になった弟子たちと袂を分かち、阿弥陀仏を信仰する法然の教えを整理して広めています。
 浄土宗はそれまで修業などができず悟りを開くことなどできなかった庶民に「ただ南無阿弥陀仏と念じれば阿弥陀仏が救ってくださる」と教えたため、農村部などに一気に広まっていきました。

日蓮は法然の100年ほど後に生まれた人物で「浄土宗では人々を救済できない」と考えて、比叡山にある経典の中から法華経を見つけて、それを協議の中心とした宗教になります。法華経はかなり古い経典で、釈迦が残した言葉が含まれていると日蓮は解釈しました(実際には大衆部に分かれた後に成立したもの)
 また、仏教の基本は釈迦であり、釈迦を貴ばず阿弥陀仏などに帰依することを教える浄土宗などは「邪道である」と厳しく非難したため、鎌倉幕府からも迫害をうけ、いまでも浄土宗などとは折り合いが悪いとされています。

 日蓮は釈迦の教えである法華経をひたすら唱えることで庶民であっても救われる、と説きました。「南無妙法蓮華経」は「法華経に帰依する」という意味になるわけです。

ということで、どちらも「念仏を唱えれば救われる」という教えは同じなのですが、仏教が初期の頃に様々な経典を作ったために依存する経典が異なり、それによって信奉する仏も違いがあるのです。

仏教の歴史を簡単におさらいしないと分からないので、簡単に説明します。

仏教は釈迦が修業して解脱し悟りを開いたことに始まります。初期の仏教は宗教と言うより哲学で「人間とはなにか」ということを釈迦や周辺の人が議論するものでした。しかし、悟りを開いた釈迦の言葉は説得力があったので、釈迦の入滅後、弟子たちがそれを伝えていきました。

で、最初は口伝だったのですが、文字が到来して経典を作るようになります。そして同じころ、釈迦の言葉の解釈を巡って対立があり、上座部仏教と大衆部仏教に分か...続きを読む

Qお仏飯に塩をひとふり?

すみませんが教えてください。
友人のところへ遊びに行ったら
お昼、仏前に白ご飯を供えてました。それは普通ですが、
塩を一つまみ、少量ふってました。
私のとこは塩はかけないのですが
単なる習慣の違いでしょうか。(彼女いわく「味気ないと仏様が
なんか可哀想で」とのことです)
まあ、他人の事ですから口出しもよくないと思い、
その事は軽い世間話で終りました。(彼女はごく普通の人です。
特に変わってるとかはないです)
また、仏前に供えてはならないものも教えて下さい。(故人が好きだったにしても肉料理はダメですよね。魚も卵もだめなんでしょうか。)
無知で申し訳ないですが
どうかよろしくお願い致します。

Aベストアンサー

亡くなった身内に好きだったものを食べさせたいと思うのは人としてゴク当たり前のことですよね。
大好きだった家族が、死後に、悟りをひらくため難行苦行して苦しんでいるなんて思いながら仏壇に手を合わせますか?
三種浄肉は受取る側の理論ではなく、布施する側の尊い布施行を成り立たせるためなんです。あくまでも布施する側の六波羅蜜行なんです。
肉でも何でも、自分がいただく前に仏壇に少しでも供えることはたいへん尊いことですよ。気にすることはありません。

もっとも、当方が述べていることは一般的在家の仏壇についてであり、敬虔な在家信者や出家教団の中の作法は別です。
敬虔な在家信者は肉を供えないだけではなく、自身も食べません。

参考までに、仏飯を禅定に当てはめるのは大日経系の密教の解釈ですから、顕教の宗派には関係ありません(教相判釈、誤解無きように)。

ああ、サクラが美しい・・・

再 拝


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