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 広くみなさんのご見解を あらためて おしえて欲しいと思いました。

 ▲ (ヰキぺ:ザビーヌ・ダルデンヌ) ~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%93% …
 ザビーヌは1996年5月28日、12歳のときに通学中に誘拐され、犯人の家の特製地下室(幅99cm・奥行き2m34cm)に80日間閉じ込められる。その間、小児性愛者である犯人から性的虐待を受け続けた。
 ▲ (2005年12月来日したときの会見) ~~~~~~~~~~~~
  http://www.sonymagazines.jp/new/sabine/report.html
 記者の質問 : 自分から一歩踏み出し、ハンデを打破していく強い意志はどこからくるのですか?

 Sabine :  もともと負けん気が強い子どもでした。“かわいそう”と同情されると反発したくなるんです。
 自分は一生懸命忘れようとしているのに、町を歩くと見知らぬ人から「かわいそうに」とか「辛かったでしょう」と腕をつかまれ、声をかけられることが、度々ありました(今でもあります)。

 でも、私はいつまでも『犠牲者』でいたくはありません。誰にでも不幸は訪れます。
 一度あった不幸に哀れみをかけられ、そこにどっぷりはまっていたくはありません。
 一生、犠牲者として生きていく必要はありませんし、そんな気もありません。
 いつまでも『犠牲者』として生きていたら、その先の人生を無駄にしてしまいます。
 事件のことを忘れることはできませんが、自分の中で区切りをつけることで、自分の過去にうち勝っていきます。

 この本を書くことによって、過去に起こった事実として、事件の形跡を残すことはできましたが、これから始まり続いていく未来に、この不幸な出来事は関係ありません。
 普通の女性として、幸せをつかむために前進していきたいです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 わたし質問者は 《蚊が刺しただけ》という見解をもって 全面的に かのじょの考え方に賛成です。みなさんは いかがでしょうか?

A 回答 (20件中1~10件)

どうなんでしょう。



列車で痴漢された被害者に対し「蚊が刺しただけ」って言えます?

被害者の餓死した子供の親に「子供が餓死させられた程度でしょ」って言えます?

10年間監禁されていた少女に「蚊が刺しただけ 忘れなさい」 って言えます?
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この回答へのお礼

 ご投稿をありがとうございます。
 主題の性質から言って お応えせざるを得ないようです。

 まづ ここでの問いは ザビーネさん〔の事件〕に関してどう見るかをおしえて欲しいというのが基本です。ですから
 ★ 列車で痴漢された被害者に対し「蚊が刺しただけ」って言えます?
 ☆ というように 事件の性質や内容を――この場合は それほど遠く離れるわけではないでしょうが―― ずらしたり別のものにしたりするのは 話が分散してしまいます。まづそのように問い自体に就いて欲しいと願っておきます。
 さて この問い返しに対しては 条件さえ合えば 《はい。言えます》と答えます。条件と言うのは 被害者が 加害者と同じようになってその事件をたのしんだのではないというものです。

 ★ 被害者の餓死した子供の親に「子供が餓死させられた程度でしょ」って言えます?
 ☆ これは《餓死》の情況の如何によるでしょう。原因究明そしてその対策のほうが 先決問題です。

 ★ 10年間監禁されていた少女に「蚊が刺しただけ 忘れなさい」 って言えます?
 ☆ はい。言えます。第一の事例と同じ条件のもとにです。ただし 《蚊が刺しただけ》という命題とその表明は 《蚊が刺した》という歴史事実のほかにはまったく何の事態も起きなかったに等しいという判断を表わしています。
 その意味は したがって わざわざ《忘れなさい》とは言いません。言う必要がありません。
 《監禁されていたというそういう事態がなかった(つまり いわゆる無効の行為事実があったのみ)》なのですから 《忘れる・忘れない》には関係ないのです。まったく《蚊が刺したという事態があったのみ》なのです。

お礼日時:2009/12/26 21:29

 かなり大雑把ではありますが、「蚊が刺しただけ」という貴方の直観は、あながち間違いではないと僕も思います。

実際、マルク・デュトルー事件とは、マルク・デュトルーという巨大で悪辣な蚊が、ザビーヌ・ダルデンヌたち罪のない少女を襲ったものとしてイメージできましょう。そして、確かに蚊というものは、いずれ柔肌から飛び立つのです(あるいは、巨大な手によって叩きつぶされるのです)。この際のイメージが、単なる肉体的開放だけでなく、ザビーヌ・ダルデンヌの志している精神的開放も含んでいることは言うまでもありません。
 ところが、残念ながら、デリカシーに著しく欠けていると言わざるをえません。客観的イメージと主観的イメージの間に、時折、考慮せねばならぬ障壁が存在するということをご確認ください。似たような経験をされた方にとって、貴方の直観は、とても残酷なものなのです。

この回答への補足

 ご回答は 分かりやすかったです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そして、確かに蚊というものは、いずれ柔肌から飛び立つのです(あるいは、巨大な手によって叩きつぶされるのです)。
 この際のイメージが、単なる肉体的開放だけでなく、ザビーヌ・ダルデンヌの志している精神的開放も含んでいることは言うまでもありません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ 《精神=身体的解放かつ開放》と言いましょうか つまり精神と身体とがつねに同時であるというこだわりが なぜか わたしにはありますが 分かりやすいご見解を寄せていただいたと思っています。ここまで賛同を寄せていただけるかどうかは こころもとなかったのです。それで 問うたのでもあります。

 ただし 問題があるということのようですね。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ところが、残念ながら、デリカシーに著しく欠けていると言わざるをえません。客観的イメージと主観的イメージの間に、時折、考慮せねばならぬ障壁が存在するということをご確認ください。似たような経験をされた方にとって、貴方の直観は、とても残酷なものなのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ でしたら ずばりわたしの見解をなお述べたいと思います。
 もし《蚊が刺しただけ》という最終の判断を下すのならば それだけを述べるのが デリカシーに合った発言の仕方であり しかももしそうしないのならば 《蚊が刺した》という事実のほかにも 何らかの行為事実があったと 暗に認めた結果となる。それこそ 《残酷》であり しかも自己の発言内容に矛盾をきたしている 。こう考えるのですが そうではないでしょうか? どうでしょうか?
 つまり そのように単純に発言するのでないと けっきょくザビーヌさんに対して あなたは犠牲者である・たいへんな犠牲に遭いましたねと言っていることになります。発言の趣旨が違ってきます。
 もちろん違った趣旨の発言ないし見解をもおしえて欲しいということですので その理由や根拠を添えて投稿していただきたい。こう考えます。どうでしょう。

 * よく読みますと 次のように詳しく述べておられました。
 ★ 似たような経験をされた方にとって、貴方の直観は、とても残酷なものなのです。
 ☆ ですが この《似たような経験をされた方》というのは どういう意味になりましょうか? 回答No.1へのお応えにも書きましたが もしその種の経験をして その事件を加害者と同じようにたのしんでいたとすれば 条件がまったく違ってきます。《蚊が刺しただけ》とはとても言えません。
 ですから ここでは《似たような経験をされた方》は もしその方が《蚊が刺しただけ》という判断とその表明に対して 残酷な思いをするとすれば 別種の事件つまりその被害者の主観ないし心において別種の事件に遭ったと見ざるを得ないと考えるのです。どうでしょう?

補足日時:2009/12/26 21:55
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この回答へのお礼

 VIVIDNESS さん ご回答をありがとうございます。補足欄にお応えを述べます。

お礼日時:2009/12/26 21:55

ザビーヌの考え方に否定すべきことはありません。


《蚊が刺しただけ》という見解は、言うだけ余計ではないでしょうか。母親が裏腹の気持ちとともに特別に言うのでなければ滅多に口走れないこんな言葉を、欧米で陸軍大佐あがりといった人物がまさに、彼なりの好人物ぶりをもって言いそうです。するとたちまちbragelonneさんのいう「アマテラス語」臭を帯びてきます。どういう意味で言ったの?論争を招きかねないにもかかわらずそのままの意味で受け止めよと、そして認識のコペルニクス的転回を指導できると考える、そんな圧力を持った横暴な発語に成りかわりそうなのです。
精神医療の場ではしばしば、過去の出来事に解釈を加えるということを一切封じるスタンスを取ります。過去は変えられませんし、その影響による現在の状態ではあっても、その状態を良くする手段というのは、現状のコントロールとほんのちょっと未来のコントロールにしかないからです。わたしがメンタルヘルスのカテゴリでずっと答えてきた話は要するにこの点で同じでした。どんな療法でも、脳が持っていない習慣的な回路を新しく作り上げる助けをすること以外に働きはないといって過言ではなく、より効果的により短期間にそれが成し遂げられることが何よりも大事なのです。
出来事を事実として認識することは、解釈を加えることではありません。比喩を差し挟む必要もありません。事実としての出来事に向き合うという作業は、出来事について何かをわかるためにではなく、自分について焦点化ができるようにするという一点のためだけに行われます。あれは自分ではなかった、という認識を起こさないためにです。自分のこととして忘れられるか、他人のこととして矛盾を抱えるかという、最初の分かれ道になります。
この後に揺れる問題として、出来事の解釈を封じるのと新しい物語解釈を自らに与えるのとではどちらがよいかということがあって、これは実際わかりません。天使が試練を与えたとか、深い業が浄化されたとか、前世で犯人とどうだのとか、それで拘らずにうまくいくのならそれでよいとも言えます。こういうことは、現在の自分の像を結んでいくとともに、未来の自分を約束していく保全ですから、主観的に、直覚的に、本人がそう思うということを大事にするべきです。《蚊が刺しただけ》と本人が主観的に思うなら、つまりそういう事実であると解釈するなら、あっそうですかと言うだけですが、どちらかというとbragelonneさんの意図は、出来事の解釈を封じる方に重心があると思います。しかも、事実としての出来事にともに向き合うなどの赤の他人には到底できない過程をすっとばして、まさに他人言うところの、ほぼ、何もなかったに近い発言です。
すっとばして封じるとbragelonneさんは快速に感じるのかもしれませんし諧謔の精神もあるでしょうが、ザビーヌとしては快速と諧謔を欲しているわけではないのです。彼女としてはアイズ・ワイド・シャットです。「みんな、目を大きく開けて、知ってちょうだい、いちにのさんで一緒に忘れるのよ、テメエ同情するなッアタシの為に何ができるッてんだッ、ええ、わたくしは人生を無駄にしたくありません、犠牲者として生きるつもりはありません、、、」
ザビーヌの気持ちは絵に描いたようにひとつではありません。本を書くことで自己実現がはかられていますが、bragelonneさんがその一面に調子を合せても彼女は少しも満足しないでしょう。彼女に振り回されてしまうでしょう。彼女は、彼女が誰であり何があったかを知っている人に、彼女が誰であるかを知らないでいてほしいという、根源的な解決不能の難題を抱えていると思います。見知らぬ人が彼女を知らず事件を知らないのも、知り合いが事件を知らないのも、彼女にとってあんまり意味がありません。

ずっと自分である者としてあり、愛する、約束としての未来を共有する相手へ接する、ということが誰にでも得られるべき人間らしさです。性は統一的な自我を城にしている、生命のあるじです。性の蹂躙というのはこの城を壊し、生命を司る力を手からこぼれさせ、魂の存在の場所を荒らすものなのです。その感受性やダメージは、レイプ被害者のひとりひとり、被害後の段階の一歩一歩、違うもので、蚊が刺したというように一様に表現することはできません。
考えの公言ということについては、いつでも、ひとりひとりの受け取り手がばらばらなありようでそれぞれいるのだということを念頭に置く必要があるでしょう。だから沈黙も雄弁となります。

この回答への補足

 amaguappa さん なるほど よく読みましたが どうも根本が同じで枝葉が違うのではなくて そうではなく 根本のところでお互いに考えが違っている。まづはこのことに気づきました。
 ていねいに 被害者本人や関係者あるいはけっきょく第三者の人びとに対しても 配慮が為されてその意味で意を尽くされたご回答をありがとうございます。

 ですが ずばり根本での違いに入ります。
 わたしの考えを明らかにすることが それをはっきりさせることだと考えます。
 ○ この種の事件の被害者は 加害者とともに事件を いろんな意味あいでたのしんだのでなければ そうでなければ その事件は 歴史事実として《蚊が刺した》ということが起こっただけである。
 ☆ つまり早い話が 加害者は《蚊》であったということ。(《蜂》とかそういうたぐいのものであれば 別の物を持って来てもかまいません)。つまり人間ではなかったということです。これに尽きます。ほかに何もつけ加えることはないのです。
 つまり
 ★ 比喩
 ☆ ではなく まったくそうではなく 現実に蚊が刺したという事実があったし そう認識しておしまいである。こういう問題です。事実を認識するだけの話ですから
 ★ アマテラス語〔臭〕
 ☆ の問題からは自由です。
 ★ 過去の出来事に解釈を加える〔* あるいは その解釈を加える〕ということを一切封じる
 ☆ こととも筋がまるっきり違います。つまり
 ★ 現状のコントロールとほんのちょっと未来のコントロール
 ☆ というような意図も考えもまるっきりありません。
 ★ どんな療法でも、脳が持っていない習慣的な回路を新しく作り上げる助けをすること以外に働きはないといって過言ではなく
 ☆ ですから 《療法》ではないのです。過去にあった現実に向き合って その事実を認識したというに過ぎません。
 《忘れる》問題でないことは すでに回答No.2で述べました。
 ★ 新しい物語解釈を自らに与える
 ☆ という筋ではないのです。歴史事実の認識のみです。科学的に人間的に社会的に《人間のすがたをしたような蚊が刺した》 この事実のみなのです。《レイプ》ですらありません。《性の蹂躙》からはほど遠い蚊がいるなという問題のみなのです。
 あとは 多少とも周りの人びとがそれとは違う考えで ザビーヌを見たり接したりすることがあるというただこれだけのことです。見解の相違は 致し方ありません。それだけのことです。

 ★ その感受性やダメージは、レイプ被害者のひとりひとり、被害後の段階の一歩一歩、違うもので、蚊が刺したというように一様に表現することはできません。
 ☆ その事件を被害者がたのしんだかどうか これで二分されます。ザビーヌ類型は 《〈蚊が刺した〉と〔のみ つまりただその事実認識の一点のみとして〕一様に表現すること〔が〕できま》すし そうするだけの話なのです。これですべてがおしまいなのです。
 どうでしょう? 

補足日時:2009/12/27 10:31
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2012/04/22 11:27

いろいろ説明するより、見てどう感じてもらうか体験してもらった方がいいと思えました。





<悪から我々を救い給え(Deliver us from Evil ) 10/10>がニコ動にアップされています。

最初に出ている親子の娘の方は被害者。

ある日お母さんから「あの神父さんが子供をレイプしたと噂があるそうよ。あの私たちに親切だった神父さんがよ。 何かの間違いよね まったく」って言ったら、娘さんは途端に固まった。

「まさか あなたも」と気づいたわけです。


何故娘さんは恋もせず、独身でい続けたのか、何十年もたって知ったわけです。
人生をどうしてもやりなおせないでいる娘さん。過去のことだと忘れたふりをして、懸命に現実を受け止め生きようとしてきた娘さん。
でも どうしても どうしても忘れられない。


人生をやり直すためには、自分に起こった事件を直視するしかない。
裁判で神父を有罪にするだけでは駄目で、バチカンに事実起こったことだと認めさせ、神に謝罪してもらうしかない。
それでバチカンに被害者の男女が取り込んだのですが、神は門前払いを食らわしたわけです。



サビーヌさんと同じことを言っている人がこのビデオに出てきます。
「過去にいろいろ悪いことがあった。だけどどうだ、今私たちは生きているじゃないか。それが重要なんだよ!」

この人は自分が過去何十年間も自分が受け持つ教区の子供たちをレイプしてきた人です。
前向発言ですね。
神のご加護のおかげと喜んでいる。(アイルランドで年金で悠々自適な生活をエンジョイしている)


この言葉は、罪を犯したものにも有効です。


彼は自分がレイプした人たちにお手紙を書くのだそうです。
同じことを言うんでしょうね。「過去にいろいろあったが、今生きているじゃないか。そこが重要なのさ。私のように前向きにさっさと立ち直りなさいね。ハレルヤ~ あなたにも私のように早く神の祝福があればいいね!」と。



サビーヌさんの発言は、自分自身へのメッセージだということは、十分わかる。
ただし、自分だけに送られたこのメッセージに問題はない。
だけど、それは心にとめておくだけにした方がよかったと思います。
世間に向けて発信してしまったら、それは他の立ち直れずにいる犯罪の被害者にも届き、刃物となりつきささってしまいますから。


神父も自分自身の幸福を喜ぶのは勝手ですが、それを公言しまうべきじゃなかった。
配慮に欠ける失言をサビーヌさんも神父もしたわけです。


ましてや第三者がその発言に対して良い評価をするってのは、ダブルレイプのようなものです。
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この回答へのお礼

 ★ あの私たちに親切だった神父さん / バチカン・・・神に謝罪してもらう / 神は門前払い / レイプ神父の発言 /
 ☆ これらは わたしやザビーヌさんの知ったことですか? 神などはここで何の関係もありません。変な論理を持って来ないようにしたまえ。

 ★ サビーヌさんの発言は・・・世間に向けて発信してしまったら、それは他の立ち直れずにいる犯罪の被害者にも届き、刃物となりつきささってしまいますから。
 ☆ そんなことは知ったことですか? 表現や言論の自由を封じ込めようというのですか? あなたは何さまですか。
 ★ 他の立ち直れずにいる犯罪の被害者
 ☆ それぞれ本人の問題です。何をあなたが息巻いて言うことがあるのですか? もしそれも発言の自由であるのならば ここにこうしてザビーヌさんもわたしも発言しても 何の問題もないと知らなければいけません。何を寝ぼけたことを言っているのですか。
 もしそれでも納得いかないとすれば 《立ち直れずにいる被害者》は それ相応の理由があると知らなければいけません。それを何も考えずに さも被害者の代弁をすれば あたかも良心に満ちた人間であるかのように見えるだろう きみたち というふうな発言は あほくさくてかまっていられません。
 どうでしょう?

お礼日時:2009/12/27 10:45

 まず初めに、「デリカシー」の部分に対して、明らかに分析不足であったことをご容赦ください。

貴方の言葉は、無配慮のもとになされたものではなく、一定の配慮のもとになされたものだったのですね。

 続いて、以下の僕の議論が、「ザビーヌ・ダルデンヌの心理とは」「精神的開放とは」「精神的開放が行われるには」などといった重要な思想的題目にかかわるものではなく、ひたすら「蚊が刺しただけ」という言葉の持ちうる残酷性について述べたものであるということもご容赦ください。

 さて、少し僕の見解を整理しておきますと、「残酷」な影響を与えうる、とした対象は、「精神的開放を志している(=蚊が飛び立ったことを認識している)」ザビーヌ・ダルデンヌではなく、「精神的開放に至っていない(=蚊の幻影にいまだ付きまとわれている)」性的な暴行を受けた被害者のことを意味しています。
 
 というのも、「蚊が刺しただけ」と言う言葉は、まさしく「被害者が(身体的な解放も含め)精神的開放を志している」ことを暗なる前提としているからです。実際、すでに僕が貴方へ提示し、そして貴方に同意を頂いたように、「蚊が刺しただけ」というイメージは、「単なる肉体的開放だけでなく、ザビーヌ・ダルデンヌの志している精神的開放も含んでいる」ものを意味しています。
 
 であるならば、「精神的開放に至っていない」人にとっては、まさしく残酷な言葉です。「精神的に解放される」ということは、ザビーヌ・ダルデンヌの言うとおり、「自分の中で区切りをつけることで、自分の過去にうち勝ってい」くことです。その区切りをなかなかつけられないでいて、苦しんでいる人にとって、その人がまだ獲得しえていない「精神的開放」を前提とした言葉を示すことは、やはり残酷なのではないかと思います。

>もし《蚊が刺しただけ》という最終の判断を下すのならば それだけを述べるのが デリカシーに合った発言の仕方であり しかももしそうしないのならば 《蚊が刺した》という事実のほかにも 何らかの行為事実があったと 暗に認めた結果となる。
>それこそ 《残酷》であり しかも自己の発言内容に矛盾をきたしている 。

 したがって、以上の部分に同意します。
 もし「発言する必要があるならば」、「精神的開放を志している」人にとって、「蚊が刺しただけ」という言葉は適切かと思います。

>ですから ここでは《似たような経験をされた方》は もしその方が《蚊が刺しただけ》という判断とその表明に対して 残酷な思いをするとすれば 別種の事件つまりその被害者の主観ないし心において別種の事件に遭ったと見ざるを得ないと考えるのです。

 ところが、この部分についての見解は違うようです。
 まず、この「もしその種の経験をして その事件を加害者と同じようにたのしんでいたとすれば 条件がまったく違ってきます。《蚊が刺しただけ》とはとても言えません」という部分の想定が、僕のものとは違うと思われます。「被害者が加害者同様に快楽を楽しんだ」という仮定から、「そもそも精神的開放をされる必要はない」ゆえに「蚊が刺しただけ、と言うのは不適切だ」と展開したのではありません。「被害者は精神的開放に至っていない」という仮想条件から、「精神的開放を前提として持っている言葉を浴びせるのは残酷である」という風に展開しました。

この回答への補足

 VIVIDNESS さん ご回答をありがとうございます。
 お名前のとおりに 事態の深層に迫って行かれますね。

 そうですね。同じような趣旨に互いに落ち着きつつあるとも見えるのですが ここは違いを明確にすることも vividness において 大事であると考え 違いを浮かび上がらせることをわざと旨として述べてまいります。

 細かいところでは なお
 ☆☆ (No.2補足欄) 《精神=身体的解放かつ開放》と言いましょうか つまり精神と身体とがつねに同時であるというこだわりが なぜか わたしにはありますが 
 ☆ というこだわりを持ちつづけていますが いまのところはっきりと言葉にして説明できるようではありません。これは保留とします。
 
 そうしますと あとは問題は 《似たような経験をされた方》(回答No.2)すなわちその中でも
 ★ 「精神的開放に至っていない(=蚊の幻影にいまだ付きまとわれている)」性的な暴行を受けた被害者
 ☆ についてであると思われます。すなわち
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (α) 「被害者が加害者同様に快楽を楽しんだ」という仮定から、「そもそも精神的開放をされる必要はない」ゆえに「蚊が刺しただけ、と言うのは不適切だ」と展開したのではありません。
 (β) 「被害者は精神的開放に至っていない」という仮想条件から、「精神的開放を前提として持っている言葉を浴びせるのは残酷である」という風に展開しました。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 1. まづ細かい点ですり合わせをおこないます。
 わたしの《〔被害者が〕その事件を加害者と同じようにたのしんでいた》という文章は 《「被害者が加害者同様に快楽を楽しんだ」》を含みますが 《快楽》は そのような非日常性としての事件そのものに遭うことから来るという場合もあります。

 2. ここでも《精神的開放》のみを取り上げるのは わたしにとって何故だか違和感があります。《蚊が刺した》ことによって《身体の解放》が出来ないというものではないからです。

 3. その上で (β)に移りますが まづ確認です。
 ★ 「被害者は精神的開放に至っていない」という仮想条件
 ☆ を立てるのならば それはすでに《蚊が刺しただけ》という事態の認定とは違ってきているということに わたしの場合には なります。

 4. 《何もなかった(つまり 無効の行為があっただけ)》という現実は その認定をした瞬間に 《からだも こころも やわらがしめられている》のです。すでに完全に癒やされています。露骨なことを敢えて言えば 処女膜が破られていたとしても 蚊が刺しただけなのです。それが 歴史事実であり現実であるのです。
 いいですか――と勇みこみますが―― それは蚊だったのですから。人間ではなかったのですから。

 5. ★ 「もしその種の経験をして その事件を加害者と同じようにたのしんでいたとすれば 条件がまったく違ってきます。《蚊が刺しただけ》とはとても言えません」(No.2補足欄)という部分の想定
 ☆ はその想定つまり ザビーヌさんとは飽くまで別種の事件についてのそういう想定をするまでのことなのです。そこで (3)の事項にも戻ります。

 6. でもそれが 別種の事件に遭った《被害者》には《残酷》であるということなのですね? 
 どうなんでしょう。ザビーヌさん類型の被害者にしてみれば 《蚊が刺しただけ》という歴史現実の認定をもししないとすれば それこそ《残酷》な仕打ちを与えることになるのではないでしょうか? 

 7. そうではなく別種の事件の被害者にしてみれば たとえ残酷にひびく言葉であったとしても その方たちは それはおのれの心の中で甘んじて受けて行きますと暗に言っているのではないでしょうか?
 それでこそ事件の反省やら清算やらに区切りをつけることができるというものではありませんか?

 ほかの回答者の方がたはまだ 見解の相違があるようですが わたしとあなたとでは ここらで
 ○ ザビーヌ・ダルデンヌさん 万歳!!
 ☆ と言うに到るわけにはまいりませんか? どうでしょう?

 * 長文の場合には お礼欄をいちいち使わないことにしていますので悪しからずご了承をいただくとありがたいです。

補足日時:2009/12/27 13:14
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2012/04/22 11:26

こんにちは。


しばし多忙でして、あちらこちらすっかりほったらかしです。汗

今回のご質問。。。
これ、ブラジュロンヌ様はどの立場でいらっしゃいますか?
*被害者
*加害者
*被害者を励ます立場。
*傍観者

「蚊が刺した」の表現は、それはそれとして、
それを「言葉にして発声」する事が真に可能なのは、被害者のみ。
そう考えます。
VIVIDNESS様ときぐるみ様のおっしゃる事が、現実として妥当と思います。

ザビーヌさんには心から「万歳」と思います。
でもそれは、そうだからと言って、他の事象に当てはめる訳にはいきません。

「蚊が刺した」と言う表現は、被害者がそれこそ生死の狭間でもがき苦しみ、己の生死の選択をも己に迫られながら、長い年月をかけてようやくつかみ取った小さな光です。
「蚊が刺した」は、他でもない被害者自身が、その精神と肉体を被害から
解放する事が可能になってやっと得られる「境地」です。

これを「表現として」捉える事が出来るのは、やはり「被害者以外の人間」に過ぎません。

勿論、言論/表現の自由はあります。
>世間に向けて発信してしまったら、それは他の立ち直れずにいる犯罪の被害者にも届き、刃物となりつきささってしま
う、その事を頭に止めておくべきです。

それでも、ザビーヌさんが発声したのは、一つの可能性を示した、と言うに止まるのではないでしょうか。

「蚊が刺した」と言う表現の妥当性は、無い。
「蚊が刺した」と言う境地は、個別の被害者に委ねられる。

つまり、被害者以外に論じられる問題ではない。
また、被害者以外が論じる事は、傲慢であり、言葉足らずであり、ナイフである。

「思考停止」としての「手を引く」では無く、
被害者以外の人間には「想像/思考の不可能なもの」と考える謙虚さが必要と考えます。

「蚊が刺した」境地に辿り着くには、他者の力は助けとなりえないから。
辿り着けないからと言って、それが「間違っている事」では決してない。
辿り着く/辿り着かない、も、他者が手(口?)を出すべきでない。

うまく言えませんが、いかがでしょうか。。。

この回答への補足

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 そんなにむつかしい話ではないと――あっ この設問を挙げたときには いろいろ考えることがありはしないかと考えあぐねていたわけなのですが 反対意見を受け取ると わたしはがぜん元気が出てきたという事実経過も述べておきますが――思いますよ。

 1. たとえば仮りに映画に撮影していたとすると その動画に映し出される歴史事実は 《誘拐・監禁・性的虐待》という行為です。
 2. ところが 人間のこころの真実として起きたことは 蚊が刺したことだけである。
 3. これが 歴史現実そのものである。こういう主観は 生きる。
 4. このように言っています。そしてこれは 誰れであろうと自由に言えることです。
 5. もしこのような発言によって 居たたまれない思いをする人がいたとするなら それがなぜであるか この問題をそれとして考えるべきでしょう。
 6. それじたいが妥当な内容を持っている自由な発言で 表現の自由・言論の自由に抵触するような自由な発言などはないのであって もしあればその《抵触》の具体的な内容をじっくりと吟味しなければならないということでしょう。
 7. ひとつには 《蚊が刺しただけ》と言える被害者がうらやましいから こころに刺さるというところでしょう。そのときには その人じしんが自省するのがよいでしょう。
 8. そういう議論をないがしろにして ただ被害者を代弁することはよいことだという安易な姿勢に立つ発言では 答えにならないでしょう。



 ★ VIVIDNESS様ときぐるみ様のおっしゃる事が、現実として妥当と思います。
 ☆ これは完全に矛盾したご発言だと思います。両者の中味は まったく百八十度ちがっています。というより 一方の投稿者の回答内容は この質問に答えているものではありません。

 そういう問題についても述べておきます。
 ▲ (内田樹:日本辺境論) ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 質問に対して《いい質問ですね》と応じることは すでに質問者に対して上位を取ったことを意味します。《キミはどうしてそのような質問をするのか》と反問するのもそうです。問いを無視して 《いいから黙って私の話を聞きなさい》というのもそうです。

 これは別に特段有用な情報をこれから述べるという意味ではなく 単に 《あなたが私の話を黙って聞かなければならない理由を あなたは知らないが 私は知っている(だから 私が上位者である)》と言っているにすぎません。
 日本的コミュニケーションの特徴は メッセージのコンテンツの当否よりも 発信者受信者のどちらが《上位者》かの決定をあらゆる場合に優先させる(場合によってはそれだけで話が終わることさえある)点にあります。
 そして 私はこれが日本語という言語の特殊性に由来するものではないかと思っているのです。
  (IV 辺境人は日本語と共に  p.221)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ぴったりのようではないですか。

補足日時:2009/12/27 16:08
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2012/04/22 11:27

犯人たちははどうして子供ばかりを選んだのか。




ポルノビデオを撮影して販売するのであれば、大人でもよかったのに。
理由は、子供なら暴力で自分の思い通りに<なりやすい>からじゃないでしょうか。

ゆえに大人じゃなくて子供を選んだ。
しかも、それだけでは自信がなかったらしく、薬物を使用して無抵抗状態にして犯した。
動かなければ罪悪感も沸かない。



酒を飲ませて女性を集団でレイプした事件がありましたが、これもそうで、相手の目を見れないから眠らせたわけですよね。
犯す相手が目を開けていないので、見つめ返されずにすみ、罪悪感が生まれないですむ。



あなたは人を選んで、手篭めにできると思った相手には暴力をふるいますよね。 ここで。
自分の望む世界を実現させるために、相手を殴りますよね。
殴った私が見つめるとさらに殴り、見つめ返すな この野郎 とばかりに荒れますよね。
罪悪感でいっぱいになり、それを自分のせいじゃなくて私に責任転嫁して、自分の問題を解決したいようで、実は「これでいいんだ」と自分の暴力性を自分で容認しようとしているわけですよね。




俺だけの世界を実現してやる 気に入らない奴 俺の意見に逆らうやつは、殴り殺してやる と暴力を振るい続けますよね。

どうしてだと思います。


あなたがあまりにも <弱 い> からです。




こういったものが、まったく質問の趣旨とは関係が無い例です。
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この回答へのお礼

 ★ こういったものが、まったく質問の趣旨とは関係が無い例です。

お礼日時:2009/12/27 16:10

3です。



一言でいえば、黙んなさい、と申し上げていることは通じたかと思います。まさに例に出した陸軍大佐的な---思弁的な人物でしょうが道をこじあけて前進しようとなさる---様子を体現していませんか。

一般化はできません。一般的言説に落とすことはできません。とにかく平たく言えばこれだけです。蜂でも蚊でも宇宙人でも、うまくいきません。

感情的にこじれた回答者も混じってきました。わたしはこれにてひきあげます。(被害者と、治療者と、第三者が、同列に場に参じてを話を前へすすめることは不可能です。)
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この回答へのお礼

 amaguappa さん 板垣死すとも・・・とお答えするよりほかにありません。

 ★ 陸軍大佐的な
 ☆ これでは 哲学の話にはほとんど入ってきてはいません。

 ★ 一般化はできません。一般的言説に落とすことはできません。
 ☆ 《事件をたのしんだ》場合には そうなるでしょう。そうでない場合――ザビーヌ類型――では 《蚊が刺しただけ》というひとことで 一様に 結論づけることができると考えます。まだ 論破されてはいません。

お礼日時:2009/12/27 20:16

いや~~お久しぶり。

ここの哲学欄は、文章の技を磨く大変好都合な場所であると心得ておりますので、勝手ながら、またそれを利用させて頂きます。板垣先生なら、どんな辛辣な意見でもそれを飲み込むだけの度量があると期待しつつ、投稿致します。

今回の質問の遣り取りに本質的に関わった事を述べます。今回の遣り取りを見ていると、病膏肓に入れりとの印象を拭えない方もいっぱい居られるかと思いますので、その印象を払拭出来れば良いのだが、と思っております。以下のことに思い当たる事がもしおありのようでしたら、何とかそれを解決するように行動する事をお勧めします。もし、何も思い当たらないようでしたら、私も含めて皆さん、取り越し苦労だったのか、良かったと胸を撫で下ろすと思いますので、そちらの方を心から期待致します。私自身、似たような症状があるような気がしていないわけでもないわけでもないので、同病相哀れむと言う事にならないようにと、端から気を揉んでおります。

補足要求としておきますが、出来ることなら、思い当たる事がある、あるいは、思い当たる事がない、のどちらかだけを簡潔にお答えして頂くと有り難いです。ですが、板垣先生らしからぬ言動をしたり、言論の自由云々と言ったり、そんな事お前には関係なかろうと言ったり、この場合はああだ、この場合はこうだ等のくどくどした説明をしたり、下の臨床像の例のように自分に向けられた非難や批判に対し、名誉毀損じゃ~と怒りや憎しみを表したり、お前何ぞ相手にはしないといったり、あるいは、この投稿は投稿規定に反していると判断して抹殺することを係の方に要求したり、等々、どのようなご返事でも、この事に関する診断という目的に対して役に立つかも知れませんので、どう反応なさるかはの判断は、質問者さんにお任せ致します。また、私の反応は、表現は違っていても、#8さんと本質的に同じ事を言っており、只、私の表現の方がえげつなくて#8さんの上品さや品格を持ち合わせていないだけなのだと反省して居るのですが、それが同じであるかどうかを見抜けるかどうかにも、興味があります。

臨床像:
・自分について素晴らしい理想的な自己像(誇大的自己)を抱き、自分は他人より優れた能力を持っているとか、自分は特別だと思い込んでいる。うぬぼれが強い。そして、誇大的な自己像を現実化しようと絶えず努力している。
・誇大的な自己像を思い描き、その空想的な思い込みの世界に浸っている。他者と関係を持つにしても、それは自分の自尊心を支えるために人を利用しているにすぎない。本当の意味で他者に共感したり、思いやりを持ったり、感謝したりすることができない(もっとも言語的表現力がしばしばあるので、うわべだけの思いやりを示すことに長けている)。表面的な適応はさておき、他者との現実的な信頼関係を持つことができない。
・自尊心を保つため、虚栄感から安易に嘘をつく。本人には嘘をついているという意識はない場合が多い。
・自己肯定感や自尊心が高まっているという感覚を、一定の期間維持することができる。この感覚が自分を支配しているとき、自分が傷ついたという、弱い一面を持っていることにほとんど気付かない。自分についてもある一つの体験についても、よい面もあれば悪い面もあるといったとらえ方ができない。
・自分に向けられた非難や批判に対し、怒りや憎しみを持つか、屈辱感や落胆を経験する。自分に言い聞かせて自分を慰めることができない。誰か他の人に慰め、認めてもらわないと、自分を維持できない。否定をされるとそれを受け入れられずに現実逃避し、嘘や詭弁で逃げようとする。そのため失敗について本当に反省したり、そのときのつらさや痛みを認識する能力に欠けている。失敗(あるいは批判)から新しく何かを学ぶことができない。しかし、能力のある自己愛者は、ほめられ認めてもらうために、自分を駆り立て休むことなく努力し、誇大自己を満足させようとする。
・他者についての評価が理想化と軽蔑との間を極端に揺れ動く。他者についても自分同様、長所と欠点を同時に認識してより深い統合的な理解を持つことができない。従って、対人関係は「相手から見た自分が理想的・搾取的・サディスティックで、自分から見た相手が無力・服従的・マゾキスティック」というパターンをとる。

診断基準:
・自己の重要性に関する誇大な感覚
・自分が"特別"であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達に(または施設で)しか理解されない、または関係があるべきだ、と信じている。
・共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気付こうとしない。
・しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。
・尊大で傲慢な行動、または態度。

   物言えば 唇寒し 師走かな

師走の木枯らしはこたえます。何か私の唇が寒くなって来ました。

この回答への補足

 どうもつらつら考えるにこの投稿は あまがっぱさんへのラブレターであるのではないか。
 ブラジュロンヌ理論などはお呼びでないと訴える仲好し倶楽部へのお誘いであるのではないか。

 ということのようだけれど k さんにも応じたのなら 特別に応答したほうがよいかも知れない。それはおそらく ほかの訪問者の方がたのためである。

 ★ 診断基準:・自己の重要性に関する誇大な感覚
 ☆ 自分がかわいいというのでない人間はいない。他人のあやまちは赦さないが 自分のはいともかんたんに赦している。《自己の重要性》は 普遍的な現象である。
 《誇大》であるかどうかは 程度問題だ。量が質に変わるという問題を出してくるのならば その質にかんする説明をおこなって初めて 自由な言論として成り立つ。ところが この質問にしても回答を寄せる気配などさらさらない。

 ★ ・自分が"特別"であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達に(または施設で)しか理解されない、または関係があるべきだ、と信じている。
 ☆ 《先の者があとになり あとの者が先になる》――こう信じている。《先の者》として《特別》ではないか?――おそらく見渡したところ そうであろう。だが その後半の命題は 成っていない。わたしには関係ない。

 ★ ・共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気付こうとしない。
 ☆ 分かっているから しかもそれは 人間の欠陥であるという認識を持つからには いくら人間であるからと言ってその欠陥を愛するわけにはいかない。存在を愛し その欠陥は徹底的に憎む。おのれの心の中で 徹底的に憎みこれを内的に棄てる。そういう作業をつねにおこなっている。
 そのわたしの物腰に気づかないだけのことである。自分の気持ちおよび欲求だけを認識し愛しているからである。だから独我論への共感にもとづけばそういう倶楽部が出来上がる。勧誘に余念がないようだ。
 あまがっぱさん こう言ったからと言って 別にわたしは その入会をやめなさいとかそうしたほうが良いとかとは言っていません。

 ★ ・しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。
 ☆ 特に資金に余裕があったりあるいは自然科学に通じていたりする場合には 最大限の嫉妬を感じますね。それだけのことですが。
 わたしは能天気であり 他人がどう思っていようと そのことに重要な公共的な問題があるのでない限り 全く意に介しない。先の《共感の欠如》と逆のことを ここで出して来ている。

 ★ ・尊大で傲慢な行動、または態度。
 ☆ たぶん当たっているであろう。
 と言うよりも ひとつにはわたし自身の反骨精神といった性格から ほとんど同じことだがもうひとつには そもそももっぱら人格の高い公民であろうとするアマアガリ症候群にかかったアマテラス公民が その成れの果てとして 無謬性の神話を帯びこのもとにおこなう《尊大で傲慢な態度と行動》にわたしが挑むという側面から――ということは ミラー・ニューロン現象のごとくして―― わたしは 人一倍も二倍もあたかも山師のごとく大法螺を吹きまくります。
 この法螺が ところがなぜか あなたのこころの窓をたたいてえも言われぬ旋律をかなで 現実をそのまま見させ得て 世界の行方をともに見守るようにさせ実際にもその行方におのがちからを発揮するようにみちびく。

 もの言えば ますますいよよ あたたかきかな

補足日時:2009/12/28 10:39
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この回答へのお礼

 補足欄のつぎの一文におぎないを入れます。

 ☆☆ 特に資金に余裕があったりあるいは自然科学に通じていたりする場合には 最大限の嫉妬を感じますね。それだけのことですが。
 ☆ わたしは いつも能天気です。そのことに例外はありません。
 嫉妬を感じるのは そのことがらを知ったその瞬間のできごとです。また その人物には関係ありません。学識があることと裕福だというその事柄について うら(裏=心)やましさを感じます。つまり悔しい もっと勉強しておけばよかった――所得の問題は ひとりの人間の努力でそう簡単にはうまく行くとも限らない――という感覚です。
 あとは 遅かれ早かれその感覚に能天気のぼけぼけが襲います。
 《それだけ》というのは そういう意味になります。

 かえっておかしくなったかな。

お礼日時:2010/01/04 17:07

サビーヌさんは勇気ある人だと思います。



しかし、彼女の内面の葛藤の悲しみの深さには想像をぜっするすさまじいものがあると思います。

ただ、絶句する、黙する他ないのです。

そこには誰も立ち入ることのできない崇高な孤独があるのみです。

何が言えるというのでしょうか、何も言えないではないですか。
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この回答へのお礼

 ハートマインドさん ご回答をありがとうございます。

 あぁ 何も言えませんか。
 ★ そこには誰も立ち入ることのできない崇高な孤独があるのみです。
 ☆ というふうに受け取られ見られることが いやなのではないでしょうか? かのじょは 自分がふつうの人間であり女性であると言っていませんか? そう見て欲しいと願っていませんか?

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 サビーヌさんは勇気ある人だと思います。

 しかし、彼女の内面の葛藤の悲しみの深さには想像をぜっするすさまじいものがあると思います。

 ただ、絶句する、黙する他ないのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ たぶんかのじょも 自分がそのように第三者としてながめるというときには そう感じたであろうと言うのではないですか。同じような感想をもったはずなのに 自分が当事者になったときには こんな勇気も元気も出て来ましたと報告しているのだと思います。
 ではそれは ザビーヌさんが特別のひとだったから そうなのだろうか? かのじょ自身は そうではないと言おうとしているのだと考えます。ふつうの人間であり女である にもかかわらず わたしにはこんな力があったのです――こう言おうとしているのではないでしょうか?

 そして ただこれだけのことであり これだけの話であるというに過ぎないと言おうとしていませんか?

 この孤独は 煮て食おうが焼いて食おうが とどのつまりは 孤独関係である。こう悟ったと言っているだけなのではないですか?
 蚊が刺しただけ なのです。どうでしょう?

お礼日時:2009/12/28 15:42

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