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長い間、(幸せになるために
または生きるということが楽しいから
人は生きているんだ)と思っていました。

しかし本のタイトルは忘れてしまいましたが、
ある本のなかで
「幸せになるために生きるのだったら、
幸せじゃない人は死んでいいということになる。
「人は生きるために生きるのだ」
的なことが書いてありました。


生きるために生きる?
そんな感覚は全然理解できません。
わかりやすく哲学的に教えていただきたい。お願いします。

A 回答 (9件)

「生きる」と言うことが、目的なのか手段なのか、と言う話でしょう。

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人間は創造主の娘や息子として生まれました。

それで無限の進化の可能性があります。生まれた目的と義務とは何かを知る必要があります。それは人間的な進化に他なりません。我々はダイヤモンドの原石のような者ですから自身の荒いエゴ(貪欲、利己主義、怒り、支配欲、拝金主義)を心中の想念から取り除く必要があります。何故なら「人間は自分が思う通りの者になる」という宇宙の法則があるからです。そして慈しみ、奉仕、感謝、誠実、勇気、調和等の想念を持つ必要があります。毎日、食べ、飲み、嫁ぎ、娶りするだけの人生では単に生きているだけの人生ですね。人間は心と内部の宇宙の意識(叡智、命、魂、神、潜在意識)と一体化しなければ進化の大道には到達しません。貴方が真に生きたいのなら心のエゴを捨てて自身の内部の宇宙の意識と融合すべきです。真の幸せは永遠に転生して過去世の記憶を得る事です.そのとき死人が過去世の記憶が蘇り生き返った事になるでしょう。nakaotatsuya3
「生きるために生きる?」の回答画像9
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「生きるために生きる?」じゃあとんち問答ですね。



簡単にわかるように言い換えると、役者は舞台に上がると幕が下りるまで役者を演じないと舞台劇にはならないでしょ。
一度、おぎゃあと生まれると各々が各々の人生とという舞台劇の主役になるのですね。主役は幕が下りるまで、つまり死を迎えるまで主役を演じないと舞台劇にはならないですね。舞台劇には幸福なことも不幸なことも悲しいことも嬉しいこともあらゆることがありますよね。それを自身が演じているだけなんですね。気が付けば簡単なことですが、わからないと「生きるために生きる」などとのたまわるのですね。
そういうことですから人生という舞台の主役を楽しむことですね。
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単純に 生存欲求のことかと思います。



つまり、名誉も金も愛もそういった物理的なものや、他人が介在するものは
得られるかは不確か。

だが、人間は必ず訪れる、逃れられない「死」に向かっていることだけは確か。

何も求めずとも欲望せずとも、

原則全人間・全生物が持っているのが、生存欲求だと思います。

だから、生存するために生きる
=生きるために生きる ってことかな。
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当時がどうの、今がどうの、そんなことより、生きていくということはその都度必死だったはずです。


楽しかった時も、必死に楽しさを掴んでいたはずです。
悲しかった時も、辛かった時も、痛みを伴った時も、生きる勇気がくじけそうになった時も、後悔に苛しかった時も必死だったはずです。
そんな必死なことはなかったというなら死んでいたのです。
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 川の流れのようなもの。



 回答No.2、0by stさんが、言うように生命は生きようという意志があります。このエネルギーの在る事を「絶対」と言ってもいいのではないかと思っていますが。

 そして「生きるために生きるのだ」という表現は、生命の生きようという原動力のある事を見つめ、その事を「大切な事」と受け止めているからと、思われます。

 人間も、恵まれた人がいれば、恵まれない人もいます。でもそれは本人が選べる事ではありません。

 人間は、一人ひとりに与えられた性格や能力の範囲内で、精一杯生きるしかないのです。

 そう思えば、なぜ生きるかといった意味が見出せない人でも、生きる事の大切さを受け入れられるのではないでしょうか。
 
 

 
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本質的に「ため」=目的なんてありません‥‥でも、ないがゆえの必然性、というのもあるのです。



物質に「目的」はありません。
しかし、その「無目的=エントロピー増大」は淘汰となり、二次的に進化を導きます。
「いや違う!」と主張する事は可能ですが、厳しい生存競争の中で、生き残るために努力しない個体の遺伝子が次世代に伝わり、種の形質となる事はなく、進化は常に、「生きる事」を目的とするよう導くのです。

一方、そうした外的な価値がないならば、生きる事は自律的な意志の発露以外ではあり得ません。
どのような行動も、本質的には任意=意志の充足であり、「意志の充足じゃない」というのも一つの意志として、精神的充足の追及という方向性から逃れることはできません。
生きる事の本質的目的は、人生を通算した充足量の最大化(生理的拡大×欲求の強さ×それを「人生通算での最大」にコントロールする認識力×その達成度×それを把握する認識力)に収束します。

「精神的充足感のため」というのは、刹那的な快楽主義に帰結するのではなく、最大限の大きな目的、最大限の愛と、最大限の認識を兼ね備えたものになるのです(短絡的な快感の帰結は麻薬だが、それが最大充足でないのはご存知の通り)。

であるならば、人が生きるのは、物質的豊かさのためではなく、精神的充足感のためであり、人が働くのは、お金をもらうためではなく、助け合い=愛のためです。
生物として、「生きること」が唯一の目的であるが、社会生命=助け合うために集まっているものとしては、働くことが生きること。

しかし今、そうした「他人を助ける」=愛のために働いている人が、どれほどいるでしょう?
人がとらわれているのは、“お金(や、その源泉としての出世)”という虚構の価値であって。
原始共産制の助け合いから、組織が分業化&拡大する上で、人の意識の社会性を発達させずに、お金や権力といった“馬車馬の目の前のニンジン”で、他律的に社会行動をとらせる道をとったのです。

お金は、本来助け合うために集まったはずの社会において、自己チュー的な意識のまま社会行動をとらせるための“矯正具”として発達したものなので(社会生命として生きる事である労働(助け合い)を、お金をもらうために嫌々働く)、当然、自由意志を束縛する機能があります。
本来、社会的生命として助け合うために集まっている人々をして、弱肉強食のジャングルに変える、悪魔のツール。

本来それは、分業=助け合いに於ける“感謝のしるし”であるにもかかわらず、いつの間にか(助け合っているはずの人々と)それを奪い合い、お金をもらうために仕方なく働くようになってしまっているのだ。
(その錯覚の端的な例が、取引きに於いて、役に立つものをもらう=助けられている方ではなく、手あかで汚れた紙切れ(お札)をもらう方が、お礼を言う奇妙)
その結果としての“自己チュー”な意識において、死は絶対的な敗北となり、人生は必ず敗北に尽きるものになってしまう。
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理屈ではうまく答えられないのですが、


「生きるために」の「生きる」はあなたが言うとおり、楽しくHappyな生きるだと思います。
残念ながら人生はそんなに楽しくない…。
そんな時に今は辛いけれども、もう一度自分が楽しく生きる為に今は毎日生活しよう…という解釈が、私にとっての「生きるために生きる」です。

個人的にはそんな前向きな思いにはなれず、「死ぬまで生きる」って感じですけどね(笑)
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突き詰めたら、生きるために生きていることになるでしょうね。


明日も自分が生きていられるように、今を生きる。
ただそれだけのこと。

人間に限らず、植物も動物も虫も同じ。
"生きる"ことがDNAの根底にあるから、エサを食べ、自分の分身となる子孫を残し
死をもたらす危険から身を守ろうとする。
もしそういった遺伝子がなかったら、とっくの昔に生物は絶滅しています。
そもそも誕生すらなかったでしょう。

幸せになるため…というのは毎日の生活をより良くしたいという
人生の目標・願いであって、生きる理由とはまた別です。
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