dポイントプレゼントキャンペーン実施中!

   
哲学では、意識とは何か?とか、

死んだ後、意識はどうなるか?

と、現在と未来については問われ、語られる事は多い。

しかしながら、私達の「意識」、これは幼心にいつ、どのように生じたかについて、問われ、語れる事が少ない様に思う。

けれども、現在、死後の意識を考える上で、その発生起源を考える事は重要なはずだ。

そこで、問いたい。

あなたの主体である意識は、いつ、どのように生じたか?

記憶をさかのぼる、自己観察、現在ある根拠と思われる物、現象から論理を展開し、この問いを考え、答えてみて欲しい。

ちなみに、意識、心、精神、は区別していない。
 

A 回答 (23件中11~20件)

こんばんは。


今考えてるのと重なるテーマなんでちょっと。
僕も何か有益な意見を得たいのですが・・

で、うまれる前がどうかまでは僕は分からないんですが、
おおざっぱに生まれてから以降の話でいいですよね。
以下は、僕の自己観察の結果です。


ーーー前提となる完全性の話

で、まだ全部はわからないですが、考えてる範囲でいうと、
基本形を、完全な状態、と思っています。まあ一応。

つまり、意識があるなどの自覚が生まれるまでは、意識と心人格現実などは、完全に一体化している、という仮定です。


ーーー矛盾による完全性の崩れと意識の発生

生まれ以降矛盾にさらされることで、これらの一体が崩れます。
心や人格などの主観が、世界に対応してるのは大体いいとします。
分離が起こるまでは、意識は強力なでも先天的な集中力で、内面の自分と外部の世界を一体化させている、とみます。

不条理や矛盾により、筋のとおらなさを感じ、不満が生じることで集中は低下、それによって、自分と世界との一体は崩れます。
(言換えると認識能力が上がるにつれて広がる世界の取り込みに失敗した、とも言えるかなー?、見方の違いですが)

この地点で、意識は本来の働きである一体化、という作業をできなくなりました。(例えば幼稚園でいじめられて三つ子の魂百まで的経験をするとかです)

この辺りが僕も考え中なんですが、たぶんこれ以前の完全なときには、意識は、遊離することなく、自分内面と世界を巡って、全体を一体化させる役目があると思います。役目、というかもともと脳がそうできてる、ということですが。

内面と外面の完全な対応が崩れたときに、有限で限定的な自己ができることはわかってもらえると思います。外面と内面の完全でない対応の、ギャップ部分がまさに自分です。外面ー内面=自分、です。

外面とは人格外の自分の無意識とそれに対応した世界の対。
内面とは、自分の持ってる主観とそれに対応した世界の対。とみます。(外内の定義がごちゃごちゃ・・)

その自分に対応して、意識が生じます。
つまり、自分の中で、心ー意識、人格ー意識、現実ー意識、などというペアを組むことで、いろんなタイプの自分が生じます。
意識は、全体の自分と、部分の自分の境界に存在するし、
全体の自分は、本当の世界に対応、部分の自分は思いこみの世界に対応しています。
意識の、ある種パーフェクトな完全さを保っているのに対して、矛盾を感じることで主観は分離した不完全なものになりました。
そのため、そこで初めて、主観と意識の間に優劣関係ができ、そのため意識が主観ー世界の対を把握する、という完全性から見ると不本意な事態が生まれます。小さいときにすでに。


ーーーループする意識

下で他の人が書いているように、(いきなり話飛びますが)
意識は循環しています。我思う故に我ありです。僕はループと呼んでいます。工学では再帰性とかなんとか言います。
というか、ループを描いているから、分裂した部分的な自我が、いつまでも存続できます。
それは5感と判断力を元にした、内面と外面のフィードバック、という名前のループです。ループの形で循環している、
ということは、そういう風に作っている、といえます。本質ではなく作り物です。
その作り物を維持するエネルギーは、本来上流から下流に水が流れるように流れるはずのものが、意味の矛盾という壁に阻まれ、よどんで渦を巻いている、という風な気もします。
ふーつかれ・・



ーー分裂して初めて意識は意識が属する自己を把握可能

意識は意識に戻ってくるように見えますが、
意識は、意識を、直接は捉えられていないことはわかってもらえますか?
意識は、意識そのものを把握はできません。意識が意識を見る鏡みたいなものはありません。
意識が見ているのは、部分的自分です。
つまり、上に書いた、主観と意識が一緒にあるところの、部分的自分です。
勝手に、主観+意識=自分(部分的自分)、と定義させてもらってます。
もし分裂前であれば、自分がまだ全体と等しい幼いときなら、自分は全体であるので、把握はできません。
意識による把握は、「部分、有限、限定」のみが対象だからです。全体の把握とは、無限、全体の把握と同じようなもので、人の脳では無理です。限りがない、というもののダイレクトな把握は、脳はやってくれません。

なので極めて幼い満ち足りているときは、自分は宇宙全部とも(内面的外面的に)同じなので、その時独立した意識みたいなものがあっても、全体性そのもの(いや、正確には全体であり部分でありありとあらゆる物)である自分を把握できません。なので遊離した意識はないと思います。
それは正確には、無いのではなく、部分化していないため、独立して現れていない、と、今のところは見ています。(心理学で言う自我肥大とは逆の、心の広さというか、器の大きさ、と呼ばれる系統のもの)


ーーーループの大きさの変化

でも自分が、分裂によって部分的自分となって以降なら話は別です。
意識は、その部分となった自分を捉えられます。
その部分か、自分の断片化がもっともっと進むと、ゲシュタルト崩壊や、虚無、ニヒリズムの方に行くと思います。
最後、極限に於いて、意識が、意識だけを捉えるときは、たぶん・・生きることは難しいと思います。
意識がもし意識だけに戻る純粋さがあるなら、それはもう僕の意識ではなく、普遍的なもののはずです。つまり意識に名前は付けられないし個性もないからです。それはもう、ちょっとこの世のものではない感覚がするんですが・・
逆にいうと僕の意識、と言ってる限り、それが捉えるのは部分的自分だと思います。「僕の」という言葉が感じがある限り、つまり、普通「僕には意識がある」と言うときには、意識を持った自分を指している、と思うんですが。意識のみを単独で取り出せない、それは、我思う故に我ありのように、ひとつの象徴というか、極限に於いてはそうだよ、という表現になります。でも本当にそうなったときには、そのところに於いては「我」という単語は成り立たないのでは?そんな部分を占めす単語が出てくることは、意識だけの純粋な循環をしたのではない証拠かなと思います。

意識が純粋に意識に戻るとき、それは、ネガティブに、ニヒリズムに陥って、あらゆるものが意味を失うとき、つまり自分(=意識+主観)のなかで、主観と意識が乖離し、意識だけが単独になるときか、
逆に人生を十分に生きてあらゆることに満ち足りて思い残すことがないとき(意識と主観が完全に統合されるとき)などが考えらると思います。それはいい意味で、全体性からはじき出された意識がアローンで存在してない、という風な・・
前者は、「部分の極限」、後者は、「全体の極限」です。ミニマムかマックスか? の違いと見てます。
人の脳には、関係性を通じて自己の一体化をする、という機能があることが条件として考えられます。
こういう話は、極限の仕組みになります。物質は有限ですが、意味や感覚は、基本的に極限か無限だし、大まじめで僕は、極限の組み合わせとして扱ってます。と言っても数学強くないのでいい加減・・
あと、アーラヤ識みたいな、人格の階層のモデルとしても考えてます。
存在する階層としての人格と、その人格を、外部や他の人格と結ぶものとしての、意味や感覚、という役回りで、存在と関係の仕組み、と捉えます。存在を司る意識と、関係を司る主観(意味や感覚)、この2つが、赤ちゃんのころは、一体になって分離していなかった、完全状態だった、という一面があります。(完全じゃないですが)
あえてかなり宗教概念抜きで書いてみました・・。
おわりです。長文になりました。
ーーー


合ってるかどうか・・ そもそも自信満々ならここには書かないので、まあぼつぼつと言うことで。書いてて整理できました。
何かあったら意見ください。おもしろかったです!

追加、NO8の下のネズミくんの実験は、学者にネズミが協力する気持ちがあるから可能だと思います。ネズミは操られた、とも言えますが、操られさせてあげた、とも言えるからです。洗脳や麻薬も、被験者がそうなりたいからなるんだ、という一面は否定できませんし。
ちなみに質問文に正確には答えてないでしょうが・・意識の由来と在りようについて参考です。
NO2,NO9の人も、この循環ループに言い及んではります。似たような意見かも知れませんが。

不完全も甚だしいけど、かまいませんよね・・
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 
つっこみたい所は、多々ありますが、

長い文章で、苦労して書かれただろうと思います。

その苦労に、敬意を表して、つっこみを控えます。

丁寧な、回答ありがとうございます。

参考にさせていただきます。
 

お礼日時:2010/01/21 04:13

>生命以前から、「意識」があったと言う事ですか?



 はい、そう思います。

>つまり、無生物に意識があると言う事ですか?

  「生命・生物」を物質体を持つ意識体と規定するのであれば、

  物質体を持たない意識段階もあるでしょう。


>意識を生じさせたメカニズムの主体を何と考えますか?

 混沌としての宇宙(無、虚無)だろうか。


 いずれにせよ、頭で考えることのできる、限界まで既に来ているような気がします。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 
限界と言う事なので、これ以上の質問を控えます。

回答ありがとうございます。
 

お礼日時:2010/01/20 19:39

人間の脳は思春期頃に、完成に近くなると言われています。

すなわち、左脳と右脳の機能分化が完成に近くなるという意味になります。この頃から人間の意識は、分裂や、対立や、矛盾を意識し始めるという事です。

生まれたばかりの赤ん坊は、生まれる前から、生命活動を、自分の指をしゃぶったりして練習しています。生まれると直ぐに、泣いたり、乳を欲しがったり、安心したり、不安におびえたりしています。是は未だ動物と同じ生命活動とも言えます。

問題は思春期頃からになると思います。悩みが始まる頃と言えるからです。或いは精神疾患が始まる頃とも言えます。その訳は「意識をする」処から始まっています。中国のことわざに「ムカデがうまく歩く事を意識したら、足がこんがらがって、歩けなくなった」というのが在ります。

今の時代の精神性には、多分今言った諺が当てはまっています。話す事を意識したら話せなくなった=吃音。人に会う事を意識したら、人に会うのが怖くなって会えなくなった=対人恐怖。書く事を意識したら書けなくなった=書痙。心が何時も安定している事を意識したら安定しなくなった=躁鬱、或いは、感情障害。

死や生を意識したら、死や生そのものが不安や恐怖の対象になる=社会不安障害。という訳で、人間の障害は「意識」する事自体が障害になる場合が在ります。是は分かっている事をことさら意識する「意識性」に問題が生じている事になります。

死んだら意識はどうなるのか。無くなるに決まっている事を、どうなるのかと問題にしています。この陰には「死にたくない」という願望が隠されています。言い方を変えたなら「永遠の命を」求めている願望がみえかくれしています。はっきり言うならば是は、心の矛盾という事になります。

死にたくないのに、死は避けられないという現実。この心の矛盾を人間は「意識性」のせいで、古今より避けられない問題として抱えてきました。この問題こそが人間の営みを恐怖に陥れて、そうして又安らかな境涯へと導いてきました。

この恐怖感が「地獄」にもなるし、又他の見方からすると「天国」にもなるという事になります。今日は時間があまりないという事で、結論を書いてみます。

地獄とは「自我意識」が現実を認めたくないという事の現われです。言い方を変えたなら、自分が自分を受け入れられない事とも言えます。

天国とは「自我意識」が現実を受け入れた事の現われです。言い方を変えたなら、自分が自分を受け入れた事、或いは自分が自分を認めた事、とも言えます。

<<<しかしながら、私達の「意識」、これは幼心にいつ、どのように生じたかについて、問われ、語れる事が少ない様に思う。

この結論は>>意識が生じる時、言い方を変えるなら「父母未生以前、本来の面目」という事が分かる時に分かります。是は禅問答です。

「母親のお腹にいた時の気持ちは如何か?」という問題です。ヒントは毎日、毎日その気持ちを貴方は味わっています。処が貴方は知りません。それは人間は「意識界」と「無意識界や潜在意識界」と切り替わりながら正常な一日が過ぎている。という事になっています。

心が生じる時の事です。心が「無」から生じる瞬間の事です。無意識から「意識」が戻る瞬間です。雷よりも早いです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 
回答ありがとうございます。

>心が生じる時の事です。心が「無」から生じる瞬間の事です。無意識から「意識」が戻る瞬間です。雷よりも早いです。

これは、何の根拠による考えですか?

返答、宜しくお願いします。
 

お礼日時:2010/01/20 20:08

 存在は何から発生したのか?



 まず混沌としての宇宙があり、そこから「 在ろう、在りたい 」という想い、意識が生じた。

 それが存在、意識。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 
回答ありがとうございます。
回答を読んで以下の2つの疑問が生じました。

(1)まず混沌としての宇宙があり、そこから「 在ろう、在りたい 」という想い、意識が生じた。

と言う事は、生命以前から、「意識」があったと言う事ですか?つまり、無生物に意識があると言う事ですか?

(2)「在ろう、在りたい」という想い、意識が生じた。
としていますが、意識を生じさせたメカニズムのの主体を何と考えますか?

以上、2点の回答お願いします。
 

お礼日時:2010/01/20 06:43

 人間は、自分で自分をモニターする存在です。

肉体の状態だけでなく、モニターしている意識も物理的には同じ脳がモニターしますが、モニターするモニターまでモニターして・・・、という無限連鎖が意識だと思います。

この回答への補足

 
回答へのお礼で、今回の問題の趣旨を記しましたが、考えてみると今後の意識を考える上で、回答者様の「無限連鎖が意識」と言う考えはとても参考になると思えます。

今回の質問の趣旨と離れるのですが、回答者様の回答の根拠、または、論理展開等を詳しく説明していただけないでしょうか?

宜しくお願いします。
 

補足日時:2010/01/20 19:41
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 
回答ありがとうございます。
その様な形態を自分も感じています。

ただ、今回は「意識」の存在形態については、問わない事にしています。
それは、それで大きいテーマになりえるので、次回以降のテーマとして保留しているのです。
(かなり、困難なテーマですが・・・)
その前段、関連として、一個人での意識の発生起源の状態を、出来るだけ輪郭をつかみたいと考えて、今回の問題を提示しています。

例えば、無意識、意識、言葉、記憶、これらが、どんな順序で発生したか、と言う様な問題提起です。
 

お礼日時:2010/01/19 22:46

ANo.3の者です。


ご質問に関して、私の考えを補足致します。

>生物と言う事は、植物も含むんですかね?

私は、よく以下のような話を聞きます。

植物に向かって、毎日やさしい声をかけたり、心地よい音楽を聴かせると元気に育つそうです。
不思議ですが、本当の話だそうです。


>小さい藻、ゾウリムシとかも意識があるという考えですかね?

私としては、ミクロンの世界の生物の域は分かりませんが、
「自我を持っている可能性はある」という考えです。

どんな小さな生物も、ロボットのように電子回路で動いて捕食しているわけではありません。
どんな小さな植物も、電池を入れて花を咲かせるわけではありません。

じゃあ、彼らはどうやってその行動をし、成長しているの?と私は考えました。

例えば人間だって、身体だけ与えられて自らの身体を動かせるわけではないと思いますよ。
そこに、「ご飯を食べよう」「運動をしよう」と意識を持って行動をしているからこそ、
心身ともに成長しています。

人間のそれと同じなのでは無いでしょうか?

勿論、私の個人的な考えです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 
回答ありがとうございます。
コメントしたい事は、山の様にありますが、まず以下の記事に目を通し「意識」とは何か?と言う事を考えて見ませんか?

ネズミの脳に電極を埋め込みリモコン操作する研究
http://wiredvision.jp/archives/200205/2002050801 …

その後、感想などを書いていただければ、議論が深まる気がします。
宜しくお願いします。
 

お礼日時:2010/01/19 23:10

「どこから来たのか」というご質問には沿わないかも知れませんが、


ご容赦ください。

仏教の考え方で、「唯識」という発想があります。
目の前に例えば水の入ったコップが一つあったとして、自分の目に
映っているそのコップと、隣に座っている人の目に映っているコップ
は別のものである、と言う考え方です。

つまり、自分の目に映っているコップは、この世に唯一つしかない。
もっと言えば、自分が今見ているそのコップですら、刻々と流れる
時間に従って変化している、ととらえることもできるかと思います。

で、この考え方の中に、「八識」という考え方が登場します。
詳しくお伝えすると長くなるので、私が昔作ったブログ記事をご参照
ください。
http://blog.goo.ne.jp/nonkinonki_001/e/1c75bafa6 …

この考え方の中で、「六識」をちょうど「意識」と呼んでいますが、
ご質問中の「意識」は「末那識(まなしき)」に近いものだと思いま
す。末那識は、言い換えれば「感情」に近いものだと思います。

感情はでは何時作られるのか。これは、母親のおなかにいる頃から、
母親の心臓の音を聞き、外界から聞こえる音を聞き、じっくりと育まれ続けています。

ですから、母親がイライラしていたり、周囲にいる人が声を荒立てて
いたりすると、これは胎児にも伝わってしまうんでしょうね。

そして外海へ生まれ出でて、そして、感情を人に伝える方法(言葉)
を覚え、感情が感情であると気づき、やがてコミュニケーション能力
を身につけていく。

大人と子どもの決定的な差は、どの程度この「感情」が「感情」であ
ると気づけているかで分かれるのかもしれません。

そして「阿頼耶識(あらやしき)」。感情の生まれ出る「泉」。この
レベルで自身をコントロールできる(悟り)人って、・・・ある意味
恐ろしいです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 
回答ありがとうございます。
個人URLは、消される可能性があるので、まず、ブックマークしました。
(個人URL記載は、違反のはずです。他の方法を考えて下さい。)
これを、先に読みます。
後で、補足にコメント書かせていただきます。
 

お礼日時:2010/01/19 22:22

他の法則てのは「力学の三大則」「質量の保存則」あたりの


元初から在りそうなヤツで「熱死宇宙則」とかが近いのかな?

何だか「感じる」「考える」→「作用」「反作用」ぽい気がします

物理則が人類や他生物という環境で複雑化してるだけカナと
単なる入出力を人間が美化して「意識」と呼んでいるのでは?

でもきっと「事象~思考」→「文字~小説」より違いそうですが
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 
回答ありがとうございます。

最初の回答からuronlyさんとの議論に困難を感じ、その感じがさらに強まっています。
このまま、議論を重ねても、水掛け論の様な、むなしい議論に終わる事を心配しています。

そこで、論理的議論が出来るか確認したいのですが、
哲学の代表的な思考として
帰納法
演繹法
の二つがありますが、uronlyさんは、どの思考方法が好きですか?
これに、回答いただければ、その後の議論も有益になる可能性があると思っています。

申し訳ないですが、回答お願いします。
 

お礼日時:2010/01/19 23:21

哲学的な論考は他の回答者様に任せるとして・・。



私の今持っている最初の記憶は祖母と一緒に疎開で取り壊された家の跡を見ていた事です。今で言うなら4歳の時です。それ以前は記憶にありませんが、意識はあった事は確実です。
つまり私には意識がいつ始まったかはわかりません。

生まれる前の事は残念ですが何も覚えていません。従って最初の記憶以前の「意識」「心」「精神」はなかったとしか言いようはないのです。

死後も何も残らないでしょう。
私の希望としてはたとえ地獄に落ちても意識がある方がいいと思っているのですが、家内は何もなくなるからいいのだと言っています。

意識がなくなるのは本当に怖い事ですね。自分がなくなるのですから・・。

死後を問題にする宗教はこの怖れを和らげようとして(あるいは怖れを食い物にすることによって)出来たものだと思います。

幼稚な答えですみません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 
回答ありがとうございます。
この様な、意識の起源に関する回答を待っていました。
とても、嬉しいです。

すこし、考えたい事があります。
(無意識、意識、記憶、言葉の関係など)
ので、コメントは、補足の方に書かせていただきます。

嬉しい回答、ありがとうございます。
まずは、お礼と言う事で・・・
 

お礼日時:2010/01/19 23:14

種類を書いたつもりじゃないんですヨ→少し長く書き込むと~つまり


「他の法則と同時期に成立して 所有者の存在以前から在るベクトル」
てコトなんじゃなかろうかと→べつに確認したワケじゃありませんが

原理的には時間が過去から未来へ流れるのに似た「向き」なのではと
時間の使い道の自由さと同程度に「心」のカタチも自由かと思います

定義されているのは「感じろ」または「考えろ」だけダロて気がします
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 
回答ありがとうございます。
少し分かった気がします。
けれど、多少分からない点があるので教えて下さい。

>「他の法則と同時期に成立して 所有者の存在以前から在るベクトル」

の、他の法則とは、具体的にどんな法則を考えているのでしょうか?
また、所有者の存在以前からと言う事は、生まれ変わりを「有り」とする立場なのでしょうか?
そして、幼心のいつ、どのように意識が生じた。(意識された)と考えているのでしょうか?

補足回答、お願いします。
 

お礼日時:2010/01/19 03:03

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!