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哲学では、意識とは何か?とか、

死んだ後、意識はどうなるか?

と、現在と未来については問われ、語られる事は多い。

しかしながら、私達の「意識」、これは幼心にいつ、どのように生じたかについて、問われ、語れる事が少ない様に思う。

けれども、現在、死後の意識を考える上で、その発生起源を考える事は重要なはずだ。

そこで、問いたい。

あなたの主体である意識は、いつ、どのように生じたか?

記憶をさかのぼる、自己観察、現在ある根拠と思われる物、現象から論理を展開し、この問いを考え、答えてみて欲しい。

ちなみに、意識、心、精神、は区別していない。
 

A 回答 (23件中21~23件)

私は哲学者や研究者では無く、


ご質問者様の聞きたいことではない、能書きばかりのお粗末な回答かもしれませんがお許し下さい。

私も、この問いと似たようなことをしばしば考えています。

心とは、この体の何処に存在しているのだろう?ということです。
ときめきや恐怖を感じるときは心臓がドキドキするから、心は心臓にあるのか?
だけど、相手を騙そうとしたり、相手の心を察するときには頭を使うから、
やっぱり心は脳にあるのか?など。

だけど、心や意識は目に見えるものではありません。
当たり前ですが、レントゲンで撮影しても「心」と呼ぶに相応しい物質らしきものは写りません。
その為、身体に「死」はあっても、心に「死」はないのでは?というのが私の考えです。

私の中で何となく出している私なりの答えは、
若干オカルト的な考えなのかもしれませんが、心・意識・精神=魂であることです。
つまり、意識(心)とは、生じるものでは無く、
生物が生まれながらに持ち合わせているものだと思っています。

人間の赤ちゃんは泣きながら生まれてきます。
あれは聞くところによると、お母さんのお腹の中から、
突然知らない外の世界へ押し出され、ビックリして恐怖を感じているからだそうです。
言うまでも無いでしょうが、それこそが既に精神が与えられている裏付けだと思います。

心と体というのは非常に密接な結びつきがあるようですが、
一説によると、魂と自分の体は、ヘソの緒のようなもので繋がっているとか。
(勿論、嘘か誠か分かりませんが。)
恐らく、自分の体を失う(死)と精神も行き場を失うことと思います。
その行き場を失った人間の精神が、
いわゆる一部の人にしか見えない霊と呼ばれるものだったりするのかもしれません。
なんせ、霊同士って普通に世間話をしてるらしいですから・・・
(これも私には確認出来ませんが、霊感が強い方には聞こえるらしいです。)

ちなみに、心とは生じるものでは無く、
生物が生まれながらに持ち合わせているものだと思っていますが、その根源は?
例えば母親が妊娠した状態で、生まれてくる赤ちゃんの精神は何処に用意されているのか?
と食い下がるように問われれば、
心(魂)は輪廻転生の原理で生まれてくるのでしょう、というのが私の半ば無理やりな結論です。


段々とオカルティズムになってしまいましたが、
それほど、形の無いものというのは不可思議であるということでしょうね。
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この回答へのお礼

 
回答ありがとうございます。
生物と言う事は、植物も含むんですかね?
小さい藻、ゾウリムシとかも意識があるという考えですかね?
 

お礼日時:2010/01/18 19:43

ソレがソレであろうとする方向性→つまり「慣性」の一種では?

この回答への補足

 
種類を聞いたつもりではないんですが・・・
 

補足日時:2010/01/18 19:40
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この回答へのお礼

 
そうですか・・・・・
 

お礼日時:2010/01/18 19:22

心を中心に考えると、「宇宙は心の中に生じた幻想」だと言え、


物質を中心に考えると、「心は実体のない亡霊」だと言えます。
“両雄並び立たず”とでも言いましょうか、あるいは折り紙の
「帆かけ舟」のように、相補的に変換すると言いましょうか、
歴史的に、「自己の意識の中の宇宙(心)」と「宇宙の部分と
しての自己(体)」の関係は問題になってきました。

しかし、最新の量子論的世界像において、有限な存在性は観測
される事によって生じており、これまでのように、「認識体とは
独立して外的存在がある」という“日常的感覚(=素朴唯物論)”的
世界観は否定されました。
全てのものは、あなたが存在するための(物理的根源にまで遡った)
補完なのであり、自我仮説に対する相補的な時空仮説における、
他我性こそが宇宙(無の無限の闇に対する自我の射影)。
真の自己とは、あなたの感じる「自分(感受表面)」の内側(肉体)
ではなく、外側(宇宙=意識)だと言えるのです。

全ての存在は、量子的な不確定性に基づいており、無限につめ込む
と存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。
この「絶対無=不確定性無限」において、その無限のゼリーの中に、
仮想的な認識体の断面を切ると、その認識可能性にとって、相補的
不確定性を伴う存在による宇宙が見えます。
無限不確定の闇に、認識体の仮定断面の運動(プランク定数の収束
の時系列化)を想定すれば、相対的に無の風は光になり、認識体は
その光の向うに、自我仮説の相補としての時空仮説=宇宙を認識します。

「相補」というのは、絶対時空を否定し認識体との相対においてしか
時空は計量できないとする相対性理論や、同じく認識体が現象表面的
に物事を捉え、本質的に決定しないことにより有限的存在性は生じる
とする不確定性原理といったものを伴う時空、ということです。

即ち「何か有るんじゃ?」という疑問(自我仮説)の相補として生じた
時空仮説に対して、「本当はないんだけどね」という無の射影として、
存在は生じていると言えます。
(認識体自身が、その仮説的空間に有限な大きさ(肉体)を
占めていることで先入的根拠の完全否定)
無いとは分からない事が有なのです。
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この回答へのお礼

 
回答ありがとうございます。
すみません。よく分からないです。
この説明は、意識とは何かを説明している様な印象を受けます。
幼い子供にいつ、どのように意識が発生したかを、説明しているんでしょうか?
・・・・・
 

お礼日時:2010/01/18 19:49

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