人生のプチ美学を教えてください!!

清掃業者に依頼するのではなく、生徒に他人の汚物を磨かせる行為について



以下参照・・・・・・ 横浜市教育委員会が、特別支援学校を除く全市立学校計五百校で、 児童・生徒によるトイレ清掃をおよそ三十年ぶりに復活させることが分かった。対象は小学三年生以上の予定。一〇年四月から全校で本格実施する。教職員からは「身の回りのことを自らできるようになるのは重要」「感染症など衛生面に問題がある」など賛否両論が出ている。

市教委によると、県内の公立学校では、横浜市の児童・生徒だけが全くトイレ清掃をしていない。トイレという共有スペースを掃除することで、物を大切にする心や規範意識を養おうという狙い。「公共の精神」を育てる目的もあるという

※※※※※※※※※※

学校でたまに便所掃除しようがしなかろうが、公共精神なんか差異は生まれません。


では横浜とその他の便所掃除する街では小学生や中学生、はたまた大人の規範は違うのかい?



ああ、こいつ横浜育ちだな、とあきらかにわかるくらい傾向でているか?
横浜市内の公衆トイレは汚いか?
横浜市内の家庭での部屋やトイレは汚いか?
大人になってサービス業ついたとき掃除できないのは横浜出身が多数か?

教育効果はあるか?


教室掃除よりはるかに苦痛であるトイレ掃除にみあう得るものなんかあるのかな?
もし他地域と変化ないのであれば、私はトイレ掃除やってきてよかったわん、なんて感傷はただのマゾヒズム的発想。

教師トイレは業者に任す(=教師だって他人の汚物磨きは不愉快に思っている)のと同じく、生徒トイレも業者に任すべき。

家族以外の他人の汚物磨きは、金貰ってやるのが当たり前。
ただでやらすな。ただのイジメだ。

なぜ教師は観念上の想定しか出来ないものばかりいるのですか?




●他地域の人間は格別規範意識が高いわけではないのは反論がおそらくないことから明白。
新たな教育効果は無


●他地域も自分が用を済ませたらすぐに掃除するのでなく一日の終りに当番が他人の汚物を磨く。自分は小便器しか使用しなくとも。理不尽


●家族以外の他人の汚物を無料で磨く文化は日本には無。非科学的な精神主義であり拷問である。

●疑問に感じないのは奴隷根性が染み付いているからである。


*常識、とか子供は立場が低いからそれくらいやらせてもいいのだ、という逃げはしないように

A 回答 (14件中1~10件)

いい年した大人なのに便器壊すバカや、的外すバカが後を絶たない。


子供のうちに公共トイレはきれいに大事に使うって事を教えとくのは良いと思うぞ。

「どうせ俺のじゃねーし」みたいな不心得者が減る事はあっても増える事はないだろうしね。
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何だか偉そうなこと言ってるが、金払ってるのアンタじゃなくて親だろ?


親が、やらすなってんなら、まだ「モンペ」で済むが、払ってもいない奴に、そもそも言う権利ないでしょう。嫌なら親に相談しなさい。
ないしは自分が払う立場になってから、我が子のために言いなよそう言う文句は。
すねかじって、金出して貰ってる分際なんだから、拷問だ、奴隷だ、意義だと、ゴチャゴチャ言わず、便掃くらい黙ってやったら?

小さいよ。
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うちの学校は小中高すべて生徒がやっていましたね。


したほうが良いと思いますね。

ポイ捨てもトイレも、自然に綺麗になるものではなく、誰かが綺麗にしている事を理解できますし、実際やってその過酷さを知らないと、社会に出て、清掃する方への感謝が出来ないと思います。

「ふざけんな!OBしてんじゃねえよ!もっと綺麗に使え!」と良く叫んでましたが、私の場合は、「誰かがやるから汚してもいいや」と言う無責任な考えが改まりました。

社会に出てから役に立つ場面もあるかと思いますが、「役に立たないからやりたくない。」と言うなら、自分の行いも見直して下さい。行動全てに一切無駄はないのですか?無駄も人生には必要だと思いますが・・・。

「自分は使うが掃除はしたくない」では世の中通りません。
どうしてもと言うなら、「私は今まで一度も使用しておらず、今後も何があろうと学校のトイレは使わないので、清掃を免除して下さい。」と訴え出て見ては?これなら道理は通ります。

私も、会社の灰皿掃除を「喫煙者だけでやって下さい」と提案し、変更させた事があります。
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 ネットの中傷と同じで、実際に痛みも何も無い状態では人は平気で傷つけたりします。



 私は子供を持つ親です。そしてトイレ掃除はさせるべきだと思います。
 自分たちできれいにすることで、汚したら、掃除がどんなに大変かを理解出来ます。掃除することで汚れについて理解出来ます。相手を思いやる心があれば、きれいに使おうと考えます。
 食事でも、簡単に残したり捨てたりします。それは、そこに至までの苦労を理解していないからです。自分たちで野菜でも育て、料理すると食べ物のありがたみを感じさせることが出来ます。
 実体験を伴わない経験は、知っているつもりでしかありません。百聞は一見にしかずのことわざもあります。子供の頃に多くの経験をさせることも教育だと思いますよ。
 いま、苦労をしない状態でいろんなものが手に入る時代になっています。お金もマネーゲームになり、実感が無いから際限なく手に入れようとする。物の一つ一つにどれだけの時間があるのか、手間暇がかかているのか実感がなさ過ぎです。

 

この回答への補足

こんにちは。


(1)
>きれいにすることで、汚したら、掃除がどんなに大変かを理解出来ます。掃除することで汚れについて理解出来ます。相手を思いやる心があれば、きれいに使おうと考えます。

とありますが、これは他人の便器磨きという労苦でなければ達成できないのでしょうか?
ほかのゆるやかな手段では達成できないものでしょうか?
家庭でトイレ掃除行えばもはや十分であると思いますが・・。
家庭教育が頼りなくとも、教室掃除は学校で行いますからそれでもはや十分ではないでしょうか?


(2)
いや、十分ではない。家庭のトイレ掃除や教室掃除ではだめだ。学校のトイレ掃除でなければ意味がない。
とするならば
トイレ掃除でないと公共精神が身につかない人間と、教室掃除でもはや身につく人間は
どのくらいの割合なのでしょうか。そこまでいないのではないだろうか。

=もし教室掃除のみの向こう30年の横浜市民100万人とトイレ掃除も行った向こう30年の他地域の100万人を比較して
公共精神に差異がなければトイレ掃除にあらたな意義はなしとすべきではないのか

=大きなマスで見た場合は差異が発生しなくても、
たしかに一部の人間にはトイレ掃除は有効であったのかもしれないし
公共精神が足りない一部の横浜市民もトイレ掃除をやっておけば公共精神を身に付けることができたのかもしれません。
しかし、そんな一部の者のために残りの生徒が格別得ることのない無意味な労苦を味わされるのはまさに不条理であるとおもいますが、いかがでしょうか??

補足日時:2010/02/24 16:12
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>と生徒一人一人を「自分たち」とくくるのはなぜでしょうか?


そうすると、大便器を使わないものも尻拭いをさせられることになるのですがこのようなデリケートな話題の場合は、田中、鈴木、小林、と個人個人で捉えないで自分たちと纏めるのは他に取るべき手段がない、最後のやむをえないときに用いるべきであって今この段階で積極的に使用するべきではないのではありませんか?

このへんじゃないですか。要するに自分たちが汚したものでなければ掃除をしなくもいい、という解釈となります。つまり、街にゴミが落ちていても自分が捨てたもんじゃないから拾わなくてもいい。そんなものは金で雇われた業者がやればいい。しかし現実に街に落ちているゴミを拾ってゴミ箱に入れる人もいる。さて、どちらが正しいのか。
どっちも正しいんですよ。でも、どっちの人間が多い世の中のほうが住みやすいのか。街のごみの話は突き詰めると街の「治安」というところにまで行き着きます。(犯罪機会論って言うんですけど)
つまり、社会に対する帰属意識をどれだけ持たせるか、ということなんじゃないですか。学校という集団生活の場で、「これはおれが汚したんじゃないから掃除しない」なんて言い出したら収集つかなくなりますからね。トイレ掃除の教育効果、というならこれもその一つでしょう。
それともひとつ、トイレ掃除に限らず学校での掃除を「苦役」と捉えておられるようですが、日本では昔から労働は美徳とされてきましたよね。ちょっと変わってきたかもしれませんが、奉仕や労働が美徳である、という日本人の精神的な伝統を守るため、というのはどうでしょう。戦後の復興はまさにこれが原動力となっています。

あと、教えてほしいのですが
>●家族以外の他人の汚物を無料で磨く文化は日本には無。非科学的な精神主義であり拷問である。

これは何か文献ありますか?「無」と言われると確かに「そんな文化あったっけ」とは思いますが・・・。あ、でもお寺なんかで病人や老人を無償で世話してきたなんで文化はありますよね。当然血膿や大小便の世話もしたでしょう。これは宗教的行為だから勘定に入れないんでしょうか。
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とりあえず「清掃業の職業体験」という教育効果はありそうですね。


精神的な苦痛著しい職種の対価が低賃金であるという社会的な矛盾まで教えることができれば、社会適応力の涵養という点で実に効果的と推察されます。
それ以外の効果について実証するのは極めて困難でしょう。
というか、そんなピンポイントの評価指標統計などありませんので、無い物ねだりもはなはだしいことです。
たかが便所掃除の教育効果を証明するために莫大な予算をかけて統計を取る必要もないでしょうし。

もっとも、個別の教育プログラムの効果について実証性を求めて「仕分け」したならば、大半の授業を取りやめる必要があるでしょうね。
教育などというものは、実はその大半が「大人の規範」のみを根拠として成り立っていますから。
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基本的に、トイレ掃除をしなければならない合理的理由がない、というのは同感です。


例えば、自分たちで使った教室を掃除する。
校庭などの掃除をする。
なんていうことでも、十分に目的とするものが達成出来るように思います。仰るように、衛生観念などからも、問題があるように感じます。

ちなみに、これを進めているのは教師ではありません。
教育委員会は、教育行政の一つで、市役所などが行っているものです。つまり、現場を知らない人たちが、頭の中だけで考えて政策にしてしまっている、という方が妥当だと思います。
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>*常識、とか子供は立場が低いからそれくらいやらせてもいいのだ、


  という逃げはしないように
この一文だけ読んでも議論目的は明白で、~であるという論調も街頭
演説の真似事か、他人の意見を伺う姿勢には到底見えない。
それを考えれば他の回答者の答えも妥当なものだと思うが・・・・・・。
一応補足に対しては答えておく。


>子供にトイレ掃除させることについて、苦痛に見合った意義はあるのか?
意義が見出せるかどうかは、掃除をさせられた生徒の捉え方次第。
好き好んで便所掃除するものはいないにしても、自らが掃除する(大変
な思いをする)事で公共のものに対する使用方法などを省みる事が出来る。
教育委員会の大儀かどうかは別として、トイレ掃除を通じて感じるものが
あればそれはその子の糧となる。
それが100分の20なのか、それとも100分の2なのかは前述した
通り、その子の感じ方次第。
その時は何も感じなくても、経験しておく事で後になって気付かされる
事もある。
私自身優等生と呼ぶには程遠い生き方をしてきたが、そのような私でも
得るものがあったのだから、一般的にある程度の効果が得られると確信
している。



ちなみに下の回答で不条理な事とあるが、トイレ掃除は不条理でも
何でもない。
自分たちが使うところを自分たちでキレイにする、
掃除を通しトイレの使用方法について改めて考え直す、という意味ある行為。
仮にこれを不条理なものとし、それを我慢する事で忍耐力を養うと
いう偽りの大儀なら、それこそ私は反対の立場に回るだろう。
不条理と感じないのは先にも述べた通り、“学べる”からの一言に尽きる。

この回答への補足

どうもこんにちは。

>*常識、とか子供は立場が低いからそれくらいやらせてもいいのだ、
  という逃げはしないように

この発言の趣旨は、
廊下にあるようなつまらない標語
=それだけとると否定しようがなくつかみどころない発言
(→こちらが何も言い返せないのをいいことにぐだぐだと垂れる反論できない正論)
を繰り返して口当たりの良い小さな正義の旗を振り回しながら、
手垢がついて使い古された一見もっともらしい理念やコトワザや
観念や道徳的説教を振りかざす、そんな行為が知的で進歩的だ
と勘違いしてるエリート知識人が振りかざすもっとらしい理念
でもって話を分析的に進めないで終わらそうとするのを防ぐためです。
議論目的では在りません。


さてさて・・・・


(1)
>自らが掃除する(大変な思いをする)事で公共のものに対する使用方法などを省みる事が出来る
掃除を通しトイレの使用方法について改めて考え直す

とありますが、これは他人の便器磨きという労苦でなければ達成できないのでしょうか?
ほかのゆるやかな手段では達成できないものでしょうか?
家庭で行えばもはや十分であると思いますが・・。
家庭教育が頼りなくとも、教室掃除は学校で行いますからそれでもはや十分ではないでしょうか?


(2)
いや、十分ではない。家庭のトイレ掃除や教室掃除ではだめだ。学校のトイレ掃除でなければ意味がない。
とするならば
トイレ掃除でないと公共精神が身につかない人間と、教室掃除でもはや身につく人間は
どのくらいの割合なのでしょうか。そこまでいないのではないだろうか。

=もし教室掃除のみの向こう30年の横浜市民100万人とトイレ掃除も行った向こう30年の他地域の100万人を比較して
公共精神に差異がなければトイレ掃除にあらたな意義はなしとすべきではないのか

=大きなマスで見た場合は差異が発生しなくても、
たしかに一部の人間にはトイレ掃除は有効であったのかもしれないし
公共精神が足りない一部の横浜市民もトイレ掃除をやっておけば公共精神を身に付けることができたのかもしれません。
しかし、そんな一部の者のために残りの生徒が格別得ることのない無意味な労苦を味わされるのはまさに不条理であるとおもいますが、いかがでしょうか??


(3)
本文でも触れていますが

>自分たちが使うところを自分たちでキレイにする

と生徒一人一人を「自分たち」とくくるのはなぜでしょうか?
そうすると、大便器を使わないものも尻拭いをさせられることになるのですが
このようなデリケートな話題の場合は、
田中、鈴木、小林、と個人個人で捉えないで自分たちと纏めるのは
他に取るべき手段がない、最後のやむをえないときに用いるべきであって
今この段階で積極的に使用するべきではないのではありませんか?

補足日時:2010/02/23 16:39
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自分のことは自分でしなくてはいけないことを学ばせる。



自分で稼いだ金で人を雇うのならまだしも、まだ自分で稼げてないのだから、自分たちが使う場所を自分たちが掃除させることは当たり前ですよ。

そういう自分が使うものを掃除したり大事にするという気持ちが「公共の精神」の一つです。
した人間が全員がそういう気持ちが育たなくても、一部の人間に育てば十分効果はあるでしょう。
そして、育った人間と育てようとしなかった人間ではその後の人生に大きな差が生まれてきますよ。

教師は生徒と違い職場ですから。
自分たちが仕事して儲けたお金の一部が清掃などに使われているんですから問題ないでしょう。
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>子供にトイレ掃除させることについて、苦痛に見合った意義はあるのか?



不条理なことでも、我慢してする。
といった我慢の心が育つのではないでしょうか?

将来、会社勤めした時に運悪く、不条理な上司に当たって、
言いがかり的な小言を言われても、我慢できる。
そういった強い忍耐力が育つと思います。

大体、3年生以上っといっても小学生にトイレを綺麗に
掃除できるとは思いません。
教室ですら、汚いですもの。(感じ方人それぞれですけど)

忍耐力の育成、これだと思いますね。私は。
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